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【異論のススメ】(59) 資本主義の臨界点

“資本主義”が近年の論壇を賑わしている。若きマルクス研究者の斎藤幸平氏の『人新世の“資本論”』がベストセラーになったこともあろう。遂に、と言うべきか、はてさて、と言うべきか、岸田文雄首相の所信表明演説にまで“資本主義”が堂々と登場することとなった。自民党選出の首相が国会の場で“資本主義”の語を連発するという事態を、誰が想像しただろうか。未来社会を切り拓く“新しい資本主義”を模索するという。半世紀程前の1970年前後、マルクス主義の影響もあり、資本主義は徹底してマイナス価値を付与された言葉であった。殆ど悪の象徴のようなものである。当時、社会主義へのシンパシーを公言するマルクス主義者は、資本主義の語を否定的な意味で喜々として使用していた。私も、大学の経済学部を選択した理由は、果たして資本主義は安泰かどうかを知りたかったからである。マルクスの予言の妥当性に見通しをつけたかったのである。私自身は比較的早くマルクスから離れた。その経済理論は全く間違ったものだとしか思えなかったし、その歴史観もあまりに独断的に思われたからである。しかし、かといって資本主義体制を万全だと考えたわけではない。資本主義が、その内に大きな矛盾をはらんだ不安定な体制である、というマルクスの直観まで否定する気にはならなかった。いや、この経済構造の不安定性は、別にマルクス主義の知的特産物というわけではなく、市場経済の理論分析からも論じることはできた。とはいえ、アメリカを聖地とする大方の市場擁護派は、冷戦の最中、社会主義へと直結するマルクス主義を強力な論敵と見做していた。したがって、オーソドックスな経済学では“資本主義”の語は先ず使われない。専ら“市場経済”の用語が使われる。“資本主義”の語が肯定的な意味を帯びるようになったのは、1990年前後の冷戦終結あたりからである。

だが、そもそも資本主義とは一体何なのか。首相の言う成長を可能とする“新しい資本主義”というものがあり得るのだろうか。資本、つまりキャピタルとは頭金である。それは“キャップ(帽子)”や“キャプテン(首長)”という類似語が暗示するように、“先導するもの”である。未知の領域を切り開き、新たな世界を生み出す先導者であり、その為に投下されるのが頭金としての資本である。資本は、未知の領域の開拓によって利益を生み出し、自らを増殖させる。したがって、さしあたり資本主義とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということになろう。ただ、この場合に重要なことだが、資本が利潤を上げる為には資本は一旦商品となり、その商品が売れなければならない。言い換えれば、そこに新たな市場が形成され、新たな商品を求める者がいなければならない。こうして、資本主義が成り立つ為には常に新商品が提供され、新たな市場ができ、新たな需要が生み出されなければならない。人々が絶えず新奇なものへと欲望を膨らませなければならない。端的に言えば、経済活動のフロンティアの拡大が必要となるのであり、この時に経済成長が齎される。この点で、資本主義は市場経済とは違っていることに注意しておきたい。市場経済はいくら競争条件を整備しても、それだけでは経済成長を齎さない。経済成長を生み出すものは資本主義であり、経済活動の新たなフロンティアの開拓なのである。そして、市場経済分析を中心とする通常の経済学は、基本的に“資本主義の無限拡張運動”には全く関心を払わない。その意味でいえば、岸田首相の資本主義論は興味深いもので、経済成長を強く意識していることになろう。従来、日本では構造改革にせよ、新自由主義にせよ、市場原理主義にせよ、あくまで市場経済を問題にしてきたのであり、岸田氏の資本主義論はそれとは次元を異にしているのだ。大雑把に歴史を振り返ってみよう。資本主義がヨーロッパで急激に活性化した発端には、15世紀の地理上の発見があった。一気に地球的規模で空間のフロンティアが拡張した。新大陸やアジアを包摂する新たな空間の拡張は、歴史上最初のグローバリズムであり、ヨーロッパに巨大な富を齎した。この富によって19世紀に開花するイギリスの産業革命は、驚くべき勢いで技術のフロンティアを開拓し、帝国主義時代を経て20世紀ともなると、アメリカにおいてあらゆる商品の大量生産方式へとゆきついた。そして、この大量生産を支えたものは、膨大な中間層を担う大衆の旺盛な消費であった。つまり、外へ向けた空間的フロンティアの開拓(※西部開拓のアメリカや帝国主義のヨーロッパ)の次に、20世紀の大衆の欲望フロンティアの時代がやってきた。戦後の先進国の高い経済成長を可能としたものは、技術革新や広告産業が大衆の欲望を刺激し続けることで、工業製品の大量生産・大量消費を生み出した点にある。ところが、高度な工業化による大量生産・大量消費による経済成長は、先進国では1970年代には頂点に達する。そこで、その後に出現した成長戦略は何かといえば、1980年代以降のグローバル化、金融経済への移行、それに1990年代の情報化(※IT革命)であった。先進国は、グローバル化で発展途上国に新たな市場を求め、新たな金融商品や金融取引に利潤機会を求め、ITという新技術にフロンティアを求めた。そして、その結果はどうなったのか。それらは殆ど先進国に富も利益も齎さなくなりつつある。グローバル化は中国を急成長させたが、米欧日等の先進国は、成長率の鈍化、格差の拡大、中間層の没落等に悩まされる。モノの生産から金融経済への移行は、金融市場の不安定化と資産の格差を生み出した。情報革命は一握りの情報関連企業に巨額の利益を集中させた。いわゆるGAFA問題である。明らかに新たなフロンティアは限界に達しつつある。

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【異論のススメ】(58) “国民主権”の危うさ

嘗て、福沢諭吉は『文明論之概略』の中で次のようなことを書いていた。近年の日本政府は十分な成果を挙げていない。政府の役人も行政府の中心人物も極めて優秀なのに、政府は成果を挙げられない。その原因はどこにあるのか。その理由は、政府は“多勢”の“衆論”、つまり大衆世論に従う他ないからだ。ある政策が拙いとわかっていても、世論に従う他ない。役人も直ぐに衆論に追従してしまう。衆論がどのように形成されるのかはよくわからないが、衆論の向かうところ天下に敵なしであり、それは一国の政策を左右する力を持っている。だから、行政が上手くいかないのは、政府の役人の罪というより衆論の罪であり、先ず衆論の非を正すことこそが天下の急務である――と。更に次のようにも言っている。衆論の非を多少なりとも正すことのできるのは学者であるが、今日の学者はその本分を忘れて世間を走り回り、役人に利用されて目前の利害にばかり関心を寄せ、品格を失っている者もいる。学者たるもの、目前の問題よりも、将来を見通せる大きな文明論にたって、衆論の方向を改めさせるべきである。政府を批判するよりも、衆論の非を改めるほうが大事である――。書かれたのは明治8(1875)年だが、このような一節を読むと、150年程の年月を一気に飛び越してしまうような気にもなる。ここで福沢の言う“学者”を広い意味での知識人層、つまりマスメディア、ジャーナリズム、評論家まで含めて理解すれば、今日の知識人層にも耳の痛い話であろう。未だ民主主義等というものが明確な姿を現していない近代日本の端緒にあって、福沢は、多数を恃んで政治に影響を与える大衆世論の持つ力とその危険を、十分に察知していたわけである。

扨て、現下の日本に目を向ければ、自民党の党首選の真っ最中である。一政党の党首選ではあるものの、ここでも世論が重要な役割を果たしている。候補者の国民的な支持率や人気度が間断なくメディアで報じられ、暗黙のうちに世論が選挙へ影響を及ぼしている。少なくとも総選挙後の国会召集時までは、自民党の党首は日本国首相となるのだから、確かに、国民世論が一政党の党首選に影響を与えることにも一理はあろう。また、候補者たちも自民党党員たちも明らかに世論を気にし、メディアの報道に関心を払っている。しかしそうであれば、ここにはある前提が暗黙裡に存在することになろう。「一国の首相は、国民世論の大きな支持を受けて選出されるべきだ」という想定がそれだ。そのことを正面から批判する者は先ずいない。何故なら、一国の最高責任者は主権者である国民によって選出されるべきであり、それこそが民主主義の基本原理だと見做されているからだ。私は、“民主主義の根本原理は国民主権にあり”というこの疑い得ない命題に対して、ずっとある疑いの念を持ってきた。いや、もう少し正確に述べれば、この根本原則の解釈の仕方についてである。極めて単純な事実から述べれば、今日の多くの国で採用されている議院内閣制は、既にこの民主主義の原則から逸脱している。国民が選出するのは議会の議員と政党である。議会では多数政党の党首が通常は首相となる。これは大統領のような、直接選挙による選出とは一線を画している。代表を選ぶにせよ、政策を決定するにせよ、議会(※したがって議員)が決定的な役割を担うのである。念の為に言っておけば、この面倒な間接的方式は、元々“民主主義の原則からの逸脱”というよりも、“民主主義の暴走への歯止め”と見做されてきた。この場合の“民主主義の暴走”とは、国民世論にしばしば見られる情緒的な動揺や、過度に短期的で短絡的な反応によって政治が翻弄されることである。端的に言えば、世論は、安定した常識に支えられたパブリックオピニオンであることは稀で、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(※つまり“空気”)に左右されるマスセンティメントへと流されるのである。そして、この不安定な世論が国民の意志、つまり民意と見做され、その結果、民主主義は世論による政治ということになる。議院内閣制とは、まさにこの意味での国民主権の民主主義を部分的に抑制しようとするものであった。例えば、イギリス人にとってイギリスの政治体制は何かと問えば、「主権者は王であり、政治体制は議会主義だ」と答えるであろう。議会での討論こそが決定的な意味を持っており、民主主義は精々選挙制度のうちに組み込まれている。

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【異論のススメ】(57) 対コロナ戦争

新型コロナウイルス騒動も漸く先が見えてきたようである。変異株が気になるところだが、ワクチンが行き渡れば状況がかなり改善されることは間違いなさそうだ。この1年半、私の印象に残ったことのひとつは、この事態に対する日本と欧米の反応の相違であった。都市のロックダウンや違反者への制裁等も含む強力な措置をとった欧米に対して、日本の“自粛要請”はかなり際立った対照を示していた。専門家の見解を聞き、世論に配慮し、経済界の意向を確かめ、国会で野党と論議をし、その上で緊急事態宣言を出す、というのが日本政府の対応である。しかも、ほぼ強制力を伴わない自粛の要請である。欧米の強力な措置からすれば、何とも中途半端で煮え切らない対応である。したがって、いくらでも政府批判は出てくる。一方では、「政府はもっと強力な措置をとるべきだ」という批判が出る。他方では、「政府は過剰な対応で経済を潰すのか」という批判もでてくる。通常の場合には、政府の強権を批判し、個人の権利を強く唱える野党や多くのメディアが、今回のような“緊急の状態”を前にして、政府の“中途半端さ”を批判し、「断固たる態度を取れ」と訴える。では、欧米のような強力な私権制限の権力を政府に与えるべきだというのかと思えば、そうではない。有効な対案は出てこない。私はあまり政治的な色分けは好まないが、便宜的に言えば、所謂リベラル系の政府批判に、この傾向を強く感じた。

言うまでもなく、自粛要請という何とも中途半端な対応こそが日本の特質であり、日本の場合、法的にもそれ以上は先ずできない。欧米とは違うのである。どちらがよいというのではない。欧米が上手くいっているというわけでもない。ただ、何が違うのかが気にはなる。私は、国家への意識の違いをそこに感じた。それを市民と国家の関係と言ってもよいが、その視点から日本と欧米の相違を少し論じてみたい。欧米では、このコロナショックに関して、しばしば“新型コロナウイルスとの戦い”、或いは“対コロナ戦争”という言い方がなされた。感染症は、彼らの生命や財産を脅かす悪であり、新型コロナウイルス対策とは悪との戦争であった。これは幾分かはレトリックであるとしても、この言い方を延長すれば、コロナ禍の状況とは一種の戦争状態ということになる。新型コロナウイルス対策等という生易しいものではない。この戦争における欧米の対応は2つであった。ひとつは、先にも述べたように、都市封鎖等政府による強力な私権制限であり、大多数の国はこの方式を採用した。これは、確かに個人の生命を守る為であるが、ただそれだけではない。ひとつの共同体としての国家を守るという意味もあった。戦争とは、個人の生命・財産を巡る問題ではなく、第一義的に、ひとつの共同体の存立に関わる危機だからである。もう少し正確にいえば、個人の生命・財産といえども、それをひとつの社会において共同で防御するのが国家なのである。だから、国家の基本的な役割は、個人の生命・財産の安全確保にあるが、あくまでそれを“共同のもの”として守る、つまり“社会の安全確保”にある。こうした意識が欧米には強い。

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【異論のススメ】(56) “魂”はそこにある

東日本大震災から10年。一方で、現実の生活の上に目線をやれば、“復興”の2文字がその先に浮かび上がる。“復興”の現状については、まだしも議論できよう。しかし他方では、“復興”等という言葉では到底表現し得ない体験の記憶が、決して脱色されることもなく、被災者の心の内に巣くっているのであろう。10年という時間の経過など全く意味を持たない惨事のリアリティーが、“時”の“間”という時間の経過を消滅させる。あの体験は、常に今という時にそのまま刺さり続けているであろう。そこに時の間というものが果たしてあるだろうか。身内や知人の命を一瞬にして奪われた当事者の心の傷は、被災者ではない者の安易な想像を受け付けるものではないとしても、それでも、他者のこころをも深く揺さぶる。津波によって子供が行方不明になった父親が、60歳近くで潜水士の資格を取り、海中に潜るという映像をテレビでやっていたが、この父親の心境は共感してあまりあるものがあろう。父親は、少しでも水に飲まれた娘の近くにゆきたいと思い、また、その最後の気持ちにどこか寄り添いたいという思いがあるのだろう。そして、その心境に多くの人が共感するのは、何かある普遍的な心の動きをそこにみるからであろう。近親者や親しい知人の突然で理不尽な死に直面した時、確かに人はその「最後の気持ちに寄り添いたい」と思う。想像上とはいえ、その最後の状態に自らを運び、その気持ちに少しでも近付きたいと思うのであろう。洋上の遥か彼方、南方の戦地で命を落とした者の為に、戦後何十年経っても遺骨収集や追悼の為に出かける。海中に沈んだ者に向けては、その水面に向かって花束を投じる。勿論、戦争でなくとも、こころならずも命を失った者に対して、我々はその終焉の場に出向き、静かに合掌する。何れも「最後の気持ちに寄り添いたい」という思いが、生き残った者の側にはある。「死者の気持ちに寄り添いたい」というのは、無論、生者の“心”の働きである。死者がそれに応えるわけではない。だから、冷たく言い放てば、「寄り添いたい」と言っても、それは生者の身勝手な気分であって、エゴといえばエゴではないか、ということにもなろう。近代人の合理的な眼差しでみれば、それは、生き残ったという事実に纏わる自責を軽減する為の生者の方便のように見えなくもない。楽観的な未来志向からすれば、“死者に寄り添う”より“復興に邁進する”ほうが重要だという事情もあり得るだろう。しかし、例えば我が子を失い、愛する人を失った者の、死者の「気持ちに寄り添いたい」という殆ど理屈を超えた思いは、ただ生き残る為の方便等というものでない。そこにはもっと切実な心的なリアリティーがあるように思われる。

死者と生者は勿論、対等の立場にいるわけではなく、死者は発言できない。死者は姿も見えず、ただ沈黙を守るだけである。だから、死者と生者の交感は、生者による死者への一方的な問いかけであり、一方通行の心的な同化作用である他ない。にも拘わらず、自らの気持ちを死者に同化させ、寄り添うことを可能とする“何か”がそこにあるとつい考えたくなるし、現に人々はそう考えてきた。それを人は“魂”と呼んだのだ。姿も形も見えず、声も聞こえず、触れることもできず、普通の意味では存在するとは言えないもの、しかし、その姿も声も未だ生者の目や耳に焼き付いており、その感触も消え去らないものとの同化は、魂の交感という他なかったのだろう。東日本大震災の後に、被災地で多くの不可思議な霊的現象が経験されたことをジャーナリストの奥野修司氏が報告しているが、その本のタイトルは『魂でもいいから、そばにいて』となっている。そして、魂を近くに感じることで、死者との霊的体験をした多くの人が、何らかの安堵をおぼえたようである。今、ここで私は魂の有無や、死後世界等ということを論じているのではない。ただ、魂という言葉や観念を生み出すことで死者と生者の交感の装置を編み出した、我が国の文化の一断面について論じてみたいのである。

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【異論のススメ】(55) コロナ禍で見えたものは…

新型コロナウイルスに始まったこの1年も、軈て暮れようとしている。今年は、あまり季節感がなかった。とはいえ、自然のほうは着実に時を刻んでいるようで、少し前には紅や黄に染まっていた木々は、すっかり葉を落としている。コロナ禍(※若しくは騒動)については、この欄でも2回程書いたし、また別の媒体にも何度か書いた。おおよそ書き尽くした筈なのに、それでも未だ論じてみたいことは出てくる。この騒動の中で様々な言葉が飛び交ったが、気になったひとつは“不要不急”の4文字であった。“不要不急の外出自粛”である。ところが、“不要不急”を自粛すると、今度は経済が回らない。そこで、「旅行に出よ」「食事に出よ」と“不要不急の外出”を奨励する政府に即座に反応して、この秋には、都市の中心部や観光地に人々は押し寄せた。一方、コロナ禍の中で事業の継続が困難となり、失職して明日の生活にも苦労する困窮者たちが出現する。賑やかな旅行者の群れと生活困窮者が同時に現れる。この何とも奇妙な光景を、どう理解すればよいのだろうか。私には、狂気じみた笑劇のように映る。勿論、生活困窮者にとっては笑劇どころではないだろうが、少し突き放してみれば、我々は何とも奇妙な社会にいる。コロナ禍のおかげで、“命”が2つに分裂したのだ。感染症による生物的な意味での命の消失と、経済的破綻からくる命の消失である。この2つが矛盾することになった。だがそれは、新型コロナウイルスという未知のウイルスに襲撃された一時的な歪みなのだろうか。それとも、新型コロナウイルスが暴き出した現代社会の抱える異常性なのだろうか。政府も経済界も投資家も、今日の状況は「未知のウイルスによる一時的な変調だ」と見ようとしている。ワクチンが行き渡り、治療法が確立すれば問題は解決し、そこへ“デジタル化”や“グリーン社会化”を推進すれば、直ぐに経済は成長軌道に戻るだろう。恰もパソコン上で1ページ消去するかのように、この1年を消去すればよい。“アフターコロナ”とは、新たなイノベーションを巡る、米中を軸にしたグローバル競争の時代だという。こういう見方は確かにあり得るだろう。だが、それでは何の為のコロナショックであったのだろうか。一体、何を学んだのであろうか。この1年が、ワクチンができるまでの小休止程度であるとしても、私は、この1年の“狂気じみた笑劇”から透けて見えたものを、可能な限り深刻に受け止めたいと思う。それを“不要不急”から考えてみたいのである。

言うまでもなく“不要不急”の反対は、謂わば“必要火急”である。“必要火急”は、それがなければ人間の生存が脅かされる絶対的必要だとすれば、“不要不急”は生命の維持には直接に関わらない。“生命の維持”からすれば、それは無駄なもの、過剰なものであろう。ところが、この無駄を止めた途端に、“必要火急”が切迫し、“生命の維持”さえも危機に陥ることとなった。となれば、現代社会において、我々の生命や生存は“不要不急”なもの、無駄なもの、過剰なものによって支えられているということになる。どうしてそうなるのか。さしあたり答えは簡単だ。現代社会では、あらゆる活動が市場化され、人は、日々の食料から刺激的なエンターテインメントに至るまで、殆どの物やサービスが市場によって提供されるからだ。簡単に言えば、最早市場に依存しなければ我々は生きてゆけないのである。それだけならまだしも、今日、われわれは、不要不急の拡大にこそ多大なエネルギーを注ぎ、不要不急によって経済を維持しようとしている。この数年、日本の経済を支えているものは、インバウンド政策や観光業、各種のエンターテインメント、グルメ等であった。“不要不急”の代名詞のようになって名を馳せた、ある種の“夜の街関連”への流れがとまっただけで、我々の生活も命も大打撃を受けることとなった。スロベニアの哲学者であるジジェクは、今回のコロナ騒動でひとつよかったことがあると述べている。それは、あの豪華客船のような猥雑な船とはおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことだ、と言っている。これほど物騒なことを言う気は私にはないし、“不要不急”が不必要だとは思わないが、彼の言い分を忖度すれば、“不要不急”にも様々あるということだろう。万事を市場の力に委ねて、利潤原理と経済成長への寄与でのみ評価してはならない、ということだ。ここには、本来、価値の選択が絡んでくる、と言いたいのであろう。人はただ生存の為だけに生きるものではない。古代ローマ人は“パンとサーカス”と言った。この社会にはパンのみならず、サーカスも必要なのである。生存に関わる生だけではなく、精神や身体の愉楽や刺激が必要であり、人々が集まって騒ぐことも必要なのだ。時には禍々しいものも人は求める。謹厳実直・清廉潔白に生きるだけが人の生ではない。古代ローマ人は、巨大な闘技場を造って剣闘士と猛獣の戦いを見物していたのである。サーカスは生存にとっては無駄なもの、過剰なものである。必要なものではない。だが、この過剰性こそが文化を生み出した。パンという必要が経済の基礎だとすれば、サーカスは文化の基礎であった。古代ローマ人はサーカスだけではなく、巨大都市を、建築を、美術を、文芸を、それに風呂や道路や水路等の公共建造物も生み出したのである。ここにその国に特有の価値観や文化が形成された。人を動物から区別するのは、ただ生存の為の食料の確保ではなく、文化という無駄なものを生み出し、その為に過剰なエネルギーを投入する点にこそある。だからこそ、過剰なエネルギーをどう使うかは、その国の文化にとって極めて重要な事項となる。にも拘わらず、今日、芸術も、科学も、エンターテインメントも全て同じ経済原理の下に置かれてしまった。“不要不急”と“必要”は地続きになってしまい、あらゆる種類の文化が経済に従属することになった。

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【異論のススメ】(54) この7年8ヵ月の意味

安倍晋三前首相の突然の辞任により、7年8ヵ月に及んだ長期政権は幕を下ろした。ここでは、安倍政権の成果についての具体的評価ではなく、この政権が携わった8年近くの時代的状況や文明的状況との関連において、この政権の持った意味について書いてみたい。疑いもなく、近年、これほど“仕事”をした政権はなかった。健康不安を抱えながら、驚くべき活動量であった。特に経済と外交、安全保障においてはそうである。アベノミクスは、あらゆる経済政策を総動員した。また、“地球儀を俯瞰する”外交は世界中を飛びまわった。アメリカのドナルド・トランプ大統領との親密な関係だけではなく、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領ともそれなりの信頼関係を築き、主要国首脳会議においても存在感を示した。安全保障に関して言えば、集団的自衛権の行使を一定限度内で明文化する安全保障関連法の成立や、とりわけ東アジアの情勢を鑑みた上での緊密な日米同盟の強化がある。これらは、賛否はあるものの、安倍政権でなければ成し得なかった“仕事”である。だが、それでどうなったのだろうか。アベノミクスは、確かに一定の成果は齎した。経済状況は明らかに上向いた。だが、これほどの規模の金融緩和と財政政策、それに多様な成長戦略を考えれば、とても十分に成果を上げたとは言えない。世界中を股にかけた外交によって、日本の国際的な評価は高まった。だが、それにも拘わらず、それが日本や世界に対して何を齎したのかと問えば、答えに窮する。トランプ大統領との親密な関係及び日米同盟の強化は、一定の現実的成果と言えようが、何せ相手がトランプ氏であれば、この関係を無条件で肯定できるかといえば疑問も出るだろう。集団的自衛権の行使を一定限度内で明文化したことは、確かに現実的で重要な“仕事”であったが、集団的自衛権の明文化によって、逆に、安倍氏の悲願であった憲法改正の必要性を弱めてしまった。皮肉な結果である。間違いなく安倍氏は、次々と出現する問題に現実的に対処し、行政府の長として、近年にない指導力を発揮したと言ってよい。浮気性の世論を相手に、8年近くもそれなりに高い支持率を維持すること自体が驚くべきことである。にも拘わらず、それが成し遂げたものとは何かと問えば、明瞭な答えは出てこない。全てが、何か中途半端であり、その成果はというと確定し難く、評価も難しいのである。一体どうしたことであろうか。

私には、その理由は、この10年程の世界状況と、その中における日本の立場そのものに由来するように思われる。しばしば安倍政権には遺産(※レガシー)がないと言われるが、それこそがまさに、今日の時代を映し出している。戦後の長期政権を眺めてみれば、其々の政権に与えられた課題はかなり明確であった。安倍氏の祖父である岸信介政権にとっては、戦後の不平等な日米安保体制を少しでも対等化し、日本の安全保障を確実なものとするという課題があった。それを引き継いだ池田勇人政権にとっては、“所得倍増”という経済成長が課題となる。続く佐藤栄作政権にとっては、戦後日本の対米従属を象徴する沖縄の返還は“悲願”であった。続く長期政権といえば1980年代の中曽根康弘政権であるが、この政権にとっては、冷戦の最終局面において、日米関係の緊密化と新自由主義路線による自由主義陣営の勝利が陰に陽に目指されていた。また、その後の小泉純一郎政権にとっての課題が専ら構造改革であったことは言うまでもない。こう見てくると、戦後から冷戦終結辺りまで、日本の各政権にとっては大きな課題設定が比較的容易であった。その理由は簡単である。戦後日本の国家体制の基軸は、“平和憲法”と“アメリカによる日本の安全保障”と、その下での“経済成長”の3点セットだったからである。所謂“吉田ドクトリン”である。それを前提にしつつ、日本の国家的自立を少しでも高めるというのが、岸にせよ佐藤にせよ中曽根にせよ、戦後の日本の政治的課題であった。また、池田のように、その枠組みの下で経済成長を追求すればよかった。それが可能だったのは、あくまで日本もまた、自由主義陣営の中で冷戦体制に組み込まれていたからである。これが日本の“戦後体制”である。だが、世界状況は、冷戦後、先ず一つの歴史的屈折点を迎える。冷戦体制の崩壊は、自由主義陣営の勝利を意味し、それはアメリカ流の価値観の世界的拡大を意味していた。グローバリズム、市場中心主義、リベラルな民主主義、といった価値観の世界化である。勿論、その中心に座るのはアメリカである。では日本は、冷戦後の世界状況にどのように対処したのか。皮肉なことに、冷戦の勝者であった筈の日本は、バブル崩壊後、長期の経済低迷に陥っていった。そこで、平成日本の課題は、経済再建となり、そこに、グローバリズムと市場中心主義を唱える構造改革が出現する。だがこれはまた、アメリカ流の価値観による日本社会の大変革であり、その最終段階が小泉改革であった。ところが、この“冷戦後”の時代は、20年ももたずに上手くいかなくなる。2001年の『アルカイダ』によるアメリカ中枢部へのテロは、アメリカ流の世界秩序への攻撃であり、イスラム主義と欧米的価値観の対立であった。2008年のリーマンショックから2009年以降のギリシャ財政危機へ、そしてその後のEUの危機は、リベラルな民主主義や市場中心主義を決定的に揺さぶるものであった。更に、あろうことか、冷戦の敗者であった筈の共産主義の中国が、アメリカの地位を脅かす大国となったのだ。先進国は軒並み、大規模な金融緩和と財政政策にも拘わらず、低成長に喘ぎ、また経済格差の拡大に苦しむ。その結果がトランプ大統領を生み出したのである。

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【異論のススメ】(53) 死生観への郷愁

誰もが自分が死ぬことはわかっている。しかし、自死を別にすれば、いつどのように死ぬのかはわからない。そこに何とも言えぬ嫌な感じがでてくる。たとえ死そのものについての覚悟を決めたとしても、それがどのようにやってくるのかわからないからだ。だから、人は日常の中では、できるだけ死を頭から遠ざけるのも当然であろう。ところが、こちらは決して歓迎もしていないのに、死が向こうから近付いてくる時がある。大病に罹ったり、巨大災害に遭遇したりすることもあるが、今回の新型コロナウイルスの大流行もそうだ。統計数字的に言えば、それほど恐れる程のものではない。国や地域によって違いがあるが、こと日本に関する限り、例えば東京の感染者数は、無症状者も考慮して多く見積もって約6000人としよう。一方、人口は約1400万人。感染確率は0.05%にもならない。死者数は300人強であるから、致死率は大変に低い。日本全体でみても、感染確率は高く見積もっても0.02%以下である。一方、インフルエンザによる直接、間接の死者数は年間約1万人とも推定され、2018~2019年の感染者数は何と約1200万人を超えている。これだけ見れば、インフルエンザのほうが遥かに怖い感染症である。普通の生活をしておれば、新型コロナウイルスなど滅多に感染することもないという確率である。確かに、過剰に危機を煽るのは不適切であろう。しかし、これはあくまで統計数字の話に過ぎない。今回の新型コロナウイルスの怖さは、その病状がわかり難い点にあった。朝には元気だった人が、夜には急に重篤になる。肺炎のみならず、全身の臓器に症状が表れる。血管の中で血栓を作る。しかも、それを引き起こすのがサイトカインストームと呼ばれる過剰免疫だそうだ。まさに“未知との遭遇”なのである。しかも、濃厚接触には身に覚えがない、という人でも感染している。こうなると、誰もが感染の危機に晒されており、感染すれば命に関わることもある。いくら確率0.02%といっても、一人ひとりの実存の感覚からすれば、罹るか罹らないか、生きるか死ぬかのどちらかなのである。しかも、新型コロナウイルスはどこに潜んでいるかわからない。見えない敵によっていつ死に直面するかわからない、という不安に我々は襲われたのだ。本当のことを言えば、我々は常に、生か死かという実存的状況に晒されている。明日には巨大地震が襲うかもしれない。交通事故に遭うかもしれない。いつ心臓発作に見舞われるかもしれない。『ダモクレスの剣』のように、いつ頭上から剣が落ちてきて命を落とすかもしれないのだ。しかし、誰もそんなことは意識していないし、一々気にしていれば生活も成り立たない。かといって、次の瞬間に命果てればそれもよし、という覚悟を決めているわけでもない。何となく意識から遠ざけているだけなのである。そうした日常に、今回の新型コロナウイルスは死の剣を突き付けた。少し感染者数が増加すれば、萎縮したかのように自粛に入り、解除されれば一気に外へ飛び出す。自粛の中、命がけでパチンコ屋に出向いた面々にも、確たる死生観があったとも思えない。如何なる対策をどのように打とうと、感染症は必ず人に襲いかかる。その時、人はどうしても不条理な死に直面せざるを得ない。生と死について思いを巡らさざるを得ない。我々は、この不条理な死を納得できなくとも、それを受け止める他ない。その時、我々は何らかの死生観を求めているのではなかろうか。

ところで、今年の京都の『祇園祭』のハイライトである山鉾巡行が中止となった。大変に皮肉なことである。何故なら、元々、祇園祭は863年に神泉苑で行なわれた『御霊会』に起源を持ち、それは都で流行した疫病対策だったからである。疫病は思いを残して死んだ人の怨霊が引き起こすものと考えられており、この年の疫病も牛頭天王(※スサノオノミコト)の祟りだとされたのである。しかも、次の年には富士山が噴火し、869年には貞観大地震が起きる。災害続きであった。ここに祇園祭が誕生する。それは元々、悪霊の鎮魂の祭りだったのである。昔の日本人にとっては、疫病にせよ災害にせよ、悪霊の祟りであった。その時、人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行ない、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願に与るべく、一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を“世の定め”として受け入れる他なかった。人知は限られており、人力も限界がある。人は自然や天の前に頭を垂れ、神や仏に縋る他なかった。そして、この世の不条理な定めを、昔の人は“無常”と言った。「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし」(※鴨長明『方丈記』)というわけである。日本にはユダヤ・キリスト教ほど強い教義を持った宗教はない。だが、神と結びついた死後の魂の観念や、浄土教のような極楽信仰や、或いは仏教の生死一如といったような死生観は、未だ古人の心をそれなりに捉えていたのであろう。それらは、到底受け入れ難い不条理な死をも受け止め、死という必然のほうから逆に生を映しだそうとした。何れ、生死共に“無常”という仏教的観念が日本人の精神の底を流れていたことは疑い得まい。常に死と隣り合わせの生を送った武士にとって、“諸行無常”が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。西洋では、ペストに襲われた中世人は、常に“メメント・モリ(死を想え)”を戒めにしたという。勿論、今日の我々は、感染症が悪霊の祟りだ等とは思わない。スサノオノミコトの仕業だ等と新聞に書けばボツにされるだけだ。薬師如来にお参りにいきたくとも、お寺の門も閉ざされている。地上の現象の説明を非理性的な超自然界に求めることは、今日ではタブーと言ってもよい。

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【異論のススメ】(52) 現代文明、斯くも脆弱

新型コロナウイルスの流行が終息しない。アメリカやヨーロッパに続き、東京でも感染拡大が続いている。私にはこのウイルスの脅威の程度を判断することはできないし、政府の様々な措置についても論評することはできない。ただ、ここで論じてみたいのは、現代社会若しくは現代文明に対して、このウイルスが持っている意味である。今日の事態を少し突き放してみた場合、この新型コロナウイルス騒動は、見事に現代文明の脆弱さを露わにしてしまったように見える。現代文明は、次の3つの柱をもっている。第一にグローバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。それらは人々の幸福を増進し、人類の未来を約束すると見做されてきた。だが、今回の新型コロナウイルス騒動は、この楽観的な将来像に冷水を浴びせかけた。グローバリズムとは、人、モノ、カネの国境を超えた移動であるが、今回、我々はそこにウイルスや細菌を付け加えなければならなくなった。ほんの2ヵ月程の間に、ウイルスのグローバル化が生じたのである。勿論、嘗て16世紀に欧州から新大陸に持ち込まれた天然痘の大流行も、第一次大戦末期のスペイン風邪も、謂わば当時のグローバリズムの中で生じたものだし、近年の『重症急性呼吸器症候群(SARS)』や『中東呼吸器症候群(MERS)』も世界へと飛び火した。だが、それにしても、今回のウイルスのグローバル化は驚くほど急速であり、広範なものであった。このパンデミックを引き起こしたものは、冷戦以降のグローバリズムである。世界的な市場競争が企業の海外進出を促し、またEUのように、自由と民主主義の理念によって移民を受け入れ、広範な人口移動を齎した。そこへ世界的な観光ブームである。そして、グローバル経済のひとつの中心が中国であった。中国が世界の工場になり、各国は中国の市場をあてにして自国経済を成長させようとした。世界中が中国頼みになったのであり、この各国の戦略が、中国発のウイルスによって逆襲されたわけである。ところでパンデミックとは、ギリシャ語の“パン(遍く)”と“デモス(大衆、人々)”の合成語である。パンデミックとは遍く人々の上に関わってくる、というわけで、これはデモスによる政治であるデモクラシーをも揺るがしている。今回の新型コロナウイルスの場合、統計数字の示すところでは、致死率は通常のインフルエンザより多少高いものの、然して深刻なレベルではない。感染力は多少高いと言われるが、極端なものではなく、また、感染者の8割は軽症で治癒するという。

では政府は何もする必要はないかといえば、無論そうではない。インフルエンザは最早感染を封じ込めることはできないが、新型コロナウイルスの場合には、感染ルートが特定できればある程度、感染速度を落とすことはできる。逆にパンデミックになれば、極めて深刻な事態になる。したがって、感染爆発状態に至る前に強力な対策を取ることは必要であり、休校措置、イベントの中止、渡航制限等は止むを得まい。それは常識的な判断であって、だからといって、今回の新型コロナウイルスがとんでもない毒性を持っているということではない。にも拘わらず、殆ど日本中がパニックになった。一時、街からは人が姿を消し、店からはトイレットペーパーが姿を消し、株式市場はパニック売りとなった。結果的にパニックを助長したのはテレビの報道番組でもあり、その大半は、私にはドタバタ劇としか思えなかった。たとえば、ある報道番組では、ある識者が安倍晋三首相の休校措置を批判し、「ちゃんとした根拠を示すべきだ」「唐突な決定では現場が混乱するだけだ」という。ところがその直ぐ後で、中国、韓国からの渡航制限の決定に対しては「遅過ぎる」「もっと事態を深刻に受け止めてリーダーシップを発揮すべきだ」という。また別の識者は「これが排外主義に繋がることを危惧している」というわけで、万事、全くちぐはぐなのである。また連日、恒例の“今日の感染者数”の報告がなされ、事態の深刻さを訴えるかと思えば、専門家の「感染者数よりも死者数が問題だ」という見解を報道する。「ここ2週間が目途だ」と首相がいった。で、2週間が過ぎたが目途が立たないとなると、それは恰も政府の責任であるかのような口ぶりである。「政府の対応は場当たり的で、その場凌ぎだ」と批判するが、私には、政府を批判する報道番組も相当に場当たり的であるように見えた。政府批判をしつつ政府に依存し、問題の解決を政府に委ね、できなければ政府の責任を問うというこの構造は、今日の情報化社会のデモクラシーの姿そのものである。こうなると、政府の説明不足も含め、情報化とデモクラシーがパニックを増幅しているということも可能だろう。問題は、新型コロナウイルスが全く以て未知のウイルスだという点にある。何が事実かが、本当のところわからないのだ。どれだけの脅威かもわからないのである。これは、ある程度、経験的に確率的な予測ができる“リスク”ではなく、経験値が殆どなく、確率的予測も不可能な“不確実性(アンサーテンティー)”の状態である。リスクならまだしも政府によるリスク管理の可能性もあるが、不確実性にあっては誰も予測も管理もできない。

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【異論のススメ】(51) 社会が失う国語力

関西のある研究機関が、毎年2回、関西圏の高校生を集めたセミナーを主催している。講師は理系、文系の大学教師で、20人程の高校生たちと2泊3日の合宿を行ない、講義をし、語り合ったりする。私も2回程講師を務めたが、高校生たちの意欲や能力や更には自己表現力にはしばしば驚かされた。西田幾多郎の『善の研究』等も取り上げたが、高校生たちはこの難解な本を兎も角も読んできて、何やかやと議論している。しかも、将来についての展望をかなり明確に持っている者も結構いる。「日本の大学はつまらないから米英の大学へ行きたい」等と言う者もいる。学力の低下や若者の内向き志向が指摘される中、これは大したものだと思った。しかし、そう思いつつも、少し複雑な気持ちにもなる。私自身のことをつい振り返ってしまうからだ。私は高校生の頃、とてもではないが、彼らのような強い意欲も能力も表現力も持っていなかった。こんなセミナーがあっても参加しただろうか、と思う。将来の明確な展望もなく、他人に対して自己を主張する程の表現力も表現内容もなかった。ただあれこれ小説を読んだり、鬱々と迷ったりしていただけであった。そもそも文章を書くことは大嫌いだったし、現代文、古典、漢文といった国語教科は全く好きにはなれなかった。心の支えは、ロマン・ロランのジャン・クリストフや、ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフや、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』のジャックや、小林秀雄の描くゴッホたちであった。えらく暗い青春前期だったと思う。ところが、似たような仲間がそれなりにいて、いつもボソボソ、グダグダと喋っていた。

人は何かを語る時、どうしても自分の経験を参照する。だから、私の場合、昨今の高校における学習指導要領の改変、大学入試の改革等も、この私のような高校生がいるとして、その目線から論じてみたくなるのだが、ここで書いてみたいのは、国語教育改革についてだ。しばしば論じられるのが、『現代の国語』を『論理国語』と『文学国語』に分割するという“改革”だ。どこからこのような発想が出てきたのか理解に苦しむが、多くの人が指摘しているように、文学的な感性や想像力を持たない論理はないし、また、それなりの内的な論理を持たない文学もない。この原則の一事に立つだけでも、これが殆ど無意味な“改革”であることは論を俟たないであろう。この30年、我々は一体どれだけの“改革”を見てきたのだろう。そして、その殆どが“改悪”であった。しかし、ここで気になるのは、その背景的な事情である。それは、世界の15歳の生徒を対象にした『経済協力開発機構(OECD)』の『国際学習到達度調査(PISA)』における日本の地位の低下だ。2003年に読解力低下のPISAショックが生じた後、多少の紆余曲折の後に、この12月に公表された読解力において日本の地位は再び15位と過去最低になった。この事情が国語能力への危機感を高めたことは想像に難くない。とりわけ実用文の読み取り能力が低下している、という。したがって、論理国語を重視し、実用主義の方向で学力を向上させる、という。もっと有り体にいえば、PISAで恥ずかしくないように学力を向上させる、ということだ。PISAを指標とした名誉挽回とばかりの読解力の向上など無意味だとしか思えないが、それは別としても、確かに、若者の読解力や表現力が著しく低下しているという印象は拭えない。いや、若者だけではない。大人も大差ない。居酒屋で近辺から聞こえてくる大人の会話の、概略、内容と表現力の欠如を大声やカラオケでカバーするという、もうお馴染みになった光景を敢えて論じるまでもなかろう。電車やバスに乗れば、大人も若者も、ひたすらスマホに見入っている。子供のうちからスマホとゲーム漬けになり、降り注ぐような情報に晒され、万事を情報処理として受け止める若者たちから読解力も表現力も失われてゆくのは、当然のことであろう。大人とて同じことである。我々は、この20年程で、まさにそういう種類の社会を意図して作り出してきたのだ。過度な情報化と競争社会が、社交というものの作法を失わせたのである。

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【異論のススメ】(50) “○○ごっこ”する世界

戦後の保守派を代表する評論家、江藤淳の自死が1999年、丁度20年前になる。平山周吉氏による伝記が最近刊行され、また、先頃逝去された評論家の加藤典洋氏の仕事も、江藤淳から強い刺激を受けたものであった。江藤さんの評論の軸は、殆どアメリカの属国と言ってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった。その起点になるのはGHQ(※連合国軍総司令部)による占領政策であり、占領下にあって“押し付けられた”戦後憲法とGHQによる言論検閲であった。それ以降、日本人はアメリカ製憲法を抱き、アメリカからの要求を殆ど受け入れ、アメリカ流の価値や言説を積極的に受容してきた。これでは、国家としての日本の自立は達成されない、というのである。その江藤さんの数ある評論の中でもよく知られているのが、1970年に発表された『“ごっこ”の世界が終ったとき』である。世界中でアメリカのベトナム戦争への批判が噴出し、日本でも全共闘運動なる反政府運動が全盛の時代であり、三島由紀夫の自決の少し前である。また少し後には、佐藤栄作政権による沖縄返還が実現する。世情騒然たる時代であった。江藤さんは、この評論の中で凡そ次のようなことを論じていた。日本では、全共闘による暴力的な反政府運動があり、また他方では三島由紀夫が結成した『楯の会』による自主防衛や、新たなナショナリズムの動きに揺れていた。しかし、このどれもが“革命ごっこ”・“自主防衛ごっこ”・“ナショナリズムごっこ”に過ぎない。“ごっこ”とは、真の現実に直面しない虚構の中の遊びである。鬼ごっこは虚構の鬼を巡る遊戯であって、本物の鬼が出てくれば成りたたない。日本で政治運動や思想運動が“ごっこ”にしかならないのは、戦後日本が専らアメリカ軍とその核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきたからであり、その決定的な現実に右も左も目を瞑っているからだ。反戦平和を訴える左翼運動は、実際には日米安保体制によって平和が維持されているという現実を見ようとせず、右派のナショナリズムも日米同盟体制を真に問題としようとしない。これらの運動や思想が本当のリアリティーを持ち得ないのは、全て対米従属という戦後日本の基本構造を真に問わないからである。

ところが、今や情勢は変化しつつある。アメリカは経済的に疲弊し、アジアからの軍事力の撤退を検討しており、日米関係の再編、再構築の可能性もでてきた。戦後日本の課題は、一方では平和と繁栄の維持にあるが、他方では対米従属を脱して、謂わば失われたアイデンティティーを取り戻す点にあった。ところが、戦後日本は、アメリカへの従属国家としてアイデンティティーを失うことで、平和と繁栄(※江藤さんは“生存の維持”と言っている)を手にしてきた。しかし、と江藤さんは言う。遅かれ早かれ、日米関係は変化せざるを得ない。日本はアメリカの弱体化した経済を支える代わりにアメリカ軍基地の返還を求め、自主防衛の方向に向かうだろう。その時に初めて、日本は自立した国家として“世界”というリアリティーに直面するだろう。そして日本人は改めて、“あの戦争”における敗戦の意味と、300万に及ぶ死者達を真に想起することになるだろう。我々が現在ここにいる自分達のことだけを考えるのではなく、死者達の霊を共同体のものとして受けとめた時に初めて、我々は自らに自信を持つことができるようになるだろう――。江藤さんがこう主張してから、ほぼ50年が過ぎようとしている。果たして江藤さんの見通しはどうなったのだろうか。この半世紀で世界情勢も国内の雰囲気も大きく変わった。しかし、日米関係の強化だけは揺るがない。1980年代にはロナルド・レーガンと中曽根康弘氏の親密な日米関係が築かれ、1990年代にはアメリカ主導のグローバリズムに日本は巻き込まれ、2000年代になると中国の台頭と北朝鮮の脅威に対して一層の日米同盟の強化が唱えられる。今日、安倍晋三首相とドナルド・トランプ大統領は極めて強い信頼関係を構築したと宣伝されている。斯くて、国内外の状況は大きく変化したものの、江藤さんが述べた日本の自主独立、或いは日本人のアイデンティティーの回復へ向かっているとはとても思われない。ここでいうアイデンティティーとは、福沢諭吉の言うところの“一身独立、一国独立の精神”、或いは“自主独立の気風”といったぐらいの意味である。

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