北海道新幹線という“壮大な無駄”――地元駅の閑散とした光景や「今更」と冷めた道民、そもそも飛行機に勝てるのか?

2016年3月、東京都新函館北斗を結ぶ『北海道新幹線』が開業する。最短4時間だが、東京からの直通運転は1日10往復。航空運賃と比べても安い訳ではない。一体、誰が乗るの? (取材・文/ノンフィクションライター 菊地正憲)

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人の姿がどこまでも見えない里山。車も通らない。稲刈りを間近に控えた水田の傍らには、“JR新函館北斗駅”の表示が掲げられた真新しい巨大な駅舎が立っているが、周囲からは完全に浮いている。ここがローカル線ではなく、超高速電車が疾駆する新幹線鉄道の駅なのだと思うと、尚更違和感を拭えない。勿論、“田舎の新幹線駅”は全国に数多い。平成22(2010)年に東北新幹線が新青森駅まで全線開業した際には、雑誌の取材で同駅を訪れ、辺りの鄙びた風景に驚いた記憶がある。だが、正直言ってここはもっと辺境だ。昨年9月中旬、15年ほど前に地元新聞の記者として赴任もしていた函館市界隈と札幌市を久しぶりに訪れた。今年3月、新幹線が愈々北海道に初上陸するのを期に、様子を取材したかったからだ。残念ながら、現地は益々衰退の度を深めていた。私も道内出身者であり、子供の頃は好きだった鉄道の写真を撮る為に、氷点下の真冬でも安物のカメラを手に通ったほどだったから、新幹線が来るというのに何とも寂しい限りではある。だが、「現実をきちんと見なければならない」と痛感したのだ。北海道新幹線は、新青森駅から更に北へ約150km延伸し、青函トンネルを通って新函館北斗駅に到達する。東京駅からの所要時間は最短約4時間となる。ただ、実際に新幹線駅が作られたのは、地形上の問題等から、函館市内ではなく、隣接する北斗市だ。何と、新幹線は函館市内には来ない。だからこそ、北斗市側の強い要望もあって、地元以外の人からすればわかり易い“新函館”ではなく、“新函館北斗”という名称になった経緯がある。鉄道で観光都市の函館の市街地を訪れるには、在来線のJR函館本線を利用しなければならない。北斗市は、農・漁業が盛んな人口4万8000人の小都市だ。新函館北斗駅も、未だ開業前の今はJR函館本線の無人駅・渡島大野駅で、18km離れた函館駅までの列車の本数も1日8往復程度。片道25分ほどかかる。開業時には接続列車『はこだてライナー』を1日16往復運行し、17分に短縮する予定だが、乗り換え時間を含めれば、30分程度は余計に見ておく必要がある。今、東京から新幹線を使って函館駅まで行こうとすると、『はやぶさ』で新青森まで行き、在来線特急の『白鳥』か『スーパー白鳥』に乗り換えて函館に向かうことになる。所要時間は5時間半前後。とすると、折角新幹線ができたのに、1時間程度の短縮にしかならない。思ったほどの時間短縮にならなかった理由の1つは、昭和63(1988)年に開通した青函トンネルにある。現在の1日当たりの運行数は、旅客列車が30本、北海道-本州間の物流の柱でもある貨物列車は51本にもなる。新幹線開業後、トンネルとその前後の約82km区間は、在来線の旅客列車は人気の寝台特急を含めて全て廃止されるものの、貨物列車とは共用になる。在来線と新幹線とでは線路幅が異なるので、この区間では共用・貨物線用・新幹線用の計3本のレールが使われる。安全の為、新幹線の最高速度は現在の特急と同じ140kmに抑えられてしまうのだ。

更に、運行頻度の間題もある。JR北海道・東日本は昨年9月16日、新青森-新函館北斗間の開業日を2016年3月26日に決めたことを発表した。同時に、運行は10両編成で1日13往復とし、うち10往復を東京からの直通運転にすることを明らかにしたのだ。10往復と言えば、朝から夕方までに1時間に1本程度の頻度で、今の『白鳥』『スーパー白鳥』と同じだ。朝夕には数分置きに運行されている東北新幹線の東京-仙台間は言うに及ばず、東京-新青森間を直通運転する『はやぶさ』でさえ17往復ある。昨年3月に開業したばかりで、他の新幹線と比べて本数が少ないと不満も出た北陸新幹線の東京-金沢間の直通列車でも、24往復ある。しかも所要時間は、新幹線と在来線を利用していた頃よりも80分短い2時間半だ。こうして見ていくと、「抑々、飛行機に勝てるのか?」との疑問が湧く。羽田-函館間は、運航頻度こそ1日10往復程度と同じだが、何しろ所要時間が1時間20分しかない。出発時の空港までの移動距離・搭乗手続き・保安検査の煩わしい時間を含めても、東京都心からは2時間半ほどで函館に着く。しかも、函館空港は市街地に近い為、バスに乗れば20分ほどで函館駅や主な観光地に着いてしまう。行程そのものを楽しむゆとりのある旅人や鉄道マニアなら兎も角、乗客の大半を占める首都圏からの観光客やビジネス客は、「飛行機に乗って少しでも早く目的地に着きたい」と思う筈だ。料金を見ると、新幹線の東京-新函館北斗間は、普通車指定席で運賃・特急料金合わせて片道2万3000円弱だ。東京発函館行きの航空運賃は、繁忙期には3万円以上になることもあるものの、昔と違って今は格安航空会社(LCC)も運航しているし、事前購入等の航空券の割引制度が格段に充実している為、1万円そこそこで買えてしまうこともある。遠距離移動の際に飛行機ではなく新幹線を選ぶ基準は、所要時間で“4時間以下”だとよく言われる。函館の場合は“最短約4時間”だから微妙だが、運賃があまり変わらないのであれば、現実に「4時間だから新幹線に乗ろう!」となるのかどうか。前述した乗り換え時間も考えると、少なくとも、飛行機に対して有利になることはないだろう。函館市内に住む嘗ての取材相手や、北海道に出張することもある東京在勤の知人たちにも聞いてみたが、大概は「最初は好奇心があるので乗ってみたいが、通常は飛行機に乗る」といった答えだった。“4時間”は、東京発の東海道・山陽新幹線で最も速い『のぞみ』で見ると、岡山駅・広島駅辺りが分岐点になる。料金は新幹線・飛行機共に通常期で概ね2万円弱とあまり変わらないが、利便性の点で両都市共に新幹線に分があるとされている。これには、どちらも函館と違い、新幹線と在来線の駅が同じなので乗り換えがスムーズで、一方で空港と市街地の間の距離が遠くて飛行機だと余計な時間・費用がかかるという事情がある。整備新幹線の北海道新幹線は、今年春に函館まで開業した後、小樽市を経由して札幌まで延伸し、開業して全線開通となる。完成は平成42(2030)年度末を予定しており、東京-札幌間の所要時間は今のところ最速5時間くらいになりそうだ。現在、地元自治体は最大1時間程度の大幅な時間短縮を目指して国やJR側に働きかけているものの、飛行機の優位性は揺るがないだろう。

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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(30) 妻の存在、人生を支える…高速鉄道海外へ、今後も疾走

振り返れば、私の鉄道人生は常に新幹線と共にあったと言える。1995年から社長を、2004年からは会長を務めたが、東海道新幹線が開業50周年を迎えた2014年に名誉会長となり、国内の事業は後輩たちに委ねた。現在は、培ってきたヒューマンネットワークや経験を生かし、高速鉄道の海外展開に取り組んでいる。日本型高速鉄道システムの特色は、平面交差を排除した専用軌道と、自動列車制御装置(ATC)が作り出す“クラッシュアボイダンス(衝突回避)原則”にある。海外展開に依り、このシステムが国際標準になれば、関連の製造業の市場が広がり、その足腰が強くなる。結果として、高品質の資機材を安定的に調達でき、東海道新幹線の安全・安定性が確保される。JR東海は、高速鉄道システムの技術とノウハウを提供し、運行・保守の指導を担う。この過程で、技術者の国際性や自信が養われる。海外でのプレゼンスの向上は、優秀な人材を将来に亘り確保する意味でも有効である。現在、アメリカのダラス-ヒューストン間(約400km)においては、東海道新幹線N700系の導入が検討されている。民間主導の計画で、その事業主体が2015年7月に当面必要な資金を調達する等、着実に前進しつつある。同じくアメリカでは、東海岸のワシントンD.C.-ニューヨーク間への超電導リニアの導入を働きかけている。アメリカの大地をニッポンの高速鉄道が疾走するのも、夢ではないように思う。

私の鉄道人生は変化の連続で、その都度「この時しか無かった」という天の時と、「この人無しには」という人の縁に助けられて、ここまで来た。その中で終始一貫して家を守り、後顧の憂いを除いてくれたのが妻である。子供たちのこと、家事家計は勿論、両親への孝養も全て妻に任せきりだった。職場での閉塞感や切迫感を、家では一切口にしたことがない。話せば気力が抜ける。だから日々、詳細なメモを書き続けて闘志を温めたのである。一度だけ、「国鉄を辞めたら、塾の先生にでもなるか」と冗談めかして言ったことがあった。その後、妻は子供たちが通っていた近所の学習塾に行き、創立者で塾長の永瀬昭幸氏に「主人が国鉄を辞めたら塾の先生に雇ってくれますか?」と尋ね、「いいですよ」という返事を貰ったそうである。妻は空気を感じ取り、何かせずにはいられなかったのだ。「その時には『校長先生をお願いしよう』と思っていました」。後に、永瀬氏ご本人から伺った。校長先生にはならなかったが、永瀬氏には現在、海陽学園を随分応援して頂いている。これまで、妻には全て“以心伝心”で済ませて来た。しかし、今回私の履歴を語る以上、その殆どの期間を共に歩いて来た妻の支えに触れずに終える訳にはいかない。そう思い、“妻への感謝”を表明して稿を終えることにした次第である。2人が出会い、育んできた家族は、子供たち夫婦6人と孫5人の合わせて13人になった。ありがとう。心から感謝している。 =おわり


≡日本経済新聞 2015年10月31日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(28) リニア、自社負担を決断…健全経営と安定配当も堅持

1987年7月、“リニア対策本部”を立ち上げたことが最初の一歩であった。『中央新幹線』は『全国新幹線鉄道整備法(全幹法)』に基本計画路線と位置付けられており、名古屋を経由して東京と大阪を結ぶという経路からして、まさに“第2東海道新幹線”である。一方、超電導磁気浮上方式(超電導リニア)は、東京-大阪を1時間で結ぶ第2東海道新幹線での実用化を期して、1962年に開発が始まったもので、他に活用する路線は無い。その土木構造物(インフラ)は新幹線と大差ないが、走行システムは全く異質で未知未踏の世界である。国鉄の開発成果を結集した宮崎リニア実験線7kmを『鉄道総合技術研究所』が引き継いだが、それは模型実験レベルで、実用化への視界はゼロだった。「東海道新幹線の輸送力が限界に近づく中で、第2東海道新幹線のインフラ建設は政府に委ねるにしても、リニアシステムの開発は将来運行に携わる我々で」と考えた。そこで、当社が自己負担1000億円で実用線の一部20kmを先行建設し、技術開発を主導することを発想、運輸省に提起した。1000億円の政府予算化は、バブル期でも不可能だ。この呼び水が閉塞を破り、山梨リニア実験線の建設計画は1990年6月、運輸大臣の承認を受けた。リニアシステム実用化へのエポックだった。当社の技術者が高速鉄道の運行経験に基づき設計を主導した結果、リニアの実験線は山梨県においてそのまま実用モデルとなり得るものに一新された。その結果、宮崎実験線では頻発した超電導状態喪失現象は、1997年4月の運行開始以降一度も発生せず、2009年7月に国土交通省の実用技術評価委員会から実用技術完成のお墨付きを得た。

この間に当社の財務状況は大幅に改善し、1987年に僅か700億円だった年間可処分資金は、今や5000億円にまで達している。最大の経営リスクだった5兆5000億円の債務は2兆円まで縮減され、それにゼロ金利政策の効果も加わって、支払利息は3500億円から700億円まで減少した。列車間隔4分・毎時15本(回送含む)が上限とされた東海道新幹線の運行列車本数も、車両の加減速性能向上等に依って、其々3分15秒・18本となっている。1日の営業列車本数は当社発足当初の231本から350本に増え、収入も1.6倍である。今や、東海道新幹線はその限界を究めたと言える。2006年4月には完全民営化が達成され、経営の自由度も高まった。東海道新幹線の旅客から得た収入は、リニア中央新幹線を通じて将来の旅客に還元されるべきだ。これが、2007年に中央新幹線の東京-名古屋間を自己負担で建設する決断をした大義である。全幹法の手続きや環境影響評価を経て、2014年10月、東海道新幹線が50年を迎えたその時に、国土交通大臣から工事実施計画の認可を受け、次なる50年の飛躍へ発進した。国鉄改革で背負った過去債務は制御不能の経営リスクであり、その克服は“捨て身の積極的経営”と“デフレ・ゼロ金利の天祐”が織りなした奇跡だった。一方、リニア中央新幹線建設のリスクは未然のものであり、回避可能である。経済状況の変化・工事の進捗等に柔軟に対応し、健全経営と安定配当を堅持しつつ建設を進める方針である。


≡日本経済新聞 2015年10月29日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(27) 名古屋再開発、世界最大の駅ビル完成…在来線強化と相乗、商圏拡大

国鉄時代の名古屋駅ビルは、建設された1937年当時、東洋一の威容を誇ったという。しかし、JR東海発足の時点では既に陳腐化が著しく、その建て替えが最初の大規模開発案件となった。新たな駅ビル『JRセントラルタワーズ』は、JR東海の本社と名古屋駅舎に加えて、オフィス・百貨店・ホテル等が一体化した駅上の複合立体都市というコンセプトで、国鉄時代には思いも及ばぬ挑戦であった。東京・大阪地区に開発用地の無い当社にとって、名古屋駅は唯一の大都市型の開発案件であり、「極力大規模なものを」という方針で案が練られた。1992年に高さ270m・床面積45万㎡という規模が定まり、百貨店は「是非に」と言う『松坂屋』との共同出資、ホテルは『全日空』の杉浦喬也会長(元国鉄総裁)の要請もあり、『全日空ホテルズ』と提携ということになった。そして、残るは建築確認申請のみという段階でバブルが弾けた。バブル崩壊に伴い、高さ245m・床面積42万㎡に縮小する決断をした。「床面積を10%削減すれば建設費が15%減少する」という施工会社の提案を容れたのだ。好意的に応援してくれていた地元に多少の失望感を与えたが、それでもギネスブックには「世界最大の駅ビル」と記載された。また、百貨店については、松坂屋からの提携解消の申し入れを受け、新たに名古屋初進出となる『髙島屋』と提携した。ホテルも、最終局面で『マリオットホテル』とのフランチャイズ契約に変更となった。振り返ってみれば、何れも幸運であった。

着工が1994年に延びたことも、思わぬ幸運を齎した。上昇の一途だった建築費がバブル崩壊で下落し、加えて、2000年の全面開業までの6年間に金利が大幅に低下したのだ。この結果、総事業費は3300億円の予定が40%近くも少ない2000億円で済み、当初計画では、オフィス・百貨店・ホテルが単年度黒字となるのに5~10年かかると想定していたが、全て開業初年度から黒字となった。JRセントラルタワーズ成功の秘密は、規模の大きさと複合機能性である。加えて、民営化後の在来線のサービス増強も駅ビルの賑わいに貢献した。国鉄時代には専ら経費節減の対象でしかなかった在来線を、当社では“東海道新幹線のアクセスネットワーク”と位置付け、新車投入の上に列車頻度を約2倍に増やしたのである。その結果、名古屋駅ビルの商圏は三重・岐阜・長野・静岡県にまで拡大した。また、『のぞみ』の導入は東京・大阪と名古屋の繋がりを強め、名古屋駅地区のオフィス立地は優位性を増した。駅前には『トヨタ自動車』のビルが建設された他、『三菱地所』や『日本郵政』のビルが完成間近である。当社の第2の駅ビルである『JRゲートタワー』も、リニア中央新幹線の名古屋駅空間を地下に抱いて、建設が終盤を迎えている。鉄道には旅客の利便だけでなく、地域の潜在力を高める効果もある。東海道新幹線と在来線のサービスアップが名古屋駅の賑わいを呼び、その賑わいが更なる駅周辺の賑わいを呼ぶという相乗効果を齎した。名古屋駅周辺の様相はJR東海発足時とは一変し、今や広域名古屋市圏の中心であり、東京・大阪等への名古屋の表玄関となっている。


≡日本経済新聞 2015年10月28日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(26) 品川駅新設、増発へ態勢…全工費1000億円、2年で回収

『新幹線鉄道保有機構(保有機構)』の解体・時速270km運転と並ぶ、新幹線強化の為のもう1つの離れ業が、『品川駅』の開設である。それは、国鉄時代からの懸案でもあった。東海道新幹線の列車本数は、東京駅のプラットホームと本線を結ぶ分岐路を列車が何分で通過できるかに制約される。当時、それは4分――即ち、1時間に片道15本が上限であった。田町駅付近から大井車両基地に分岐する回送列車の為に毎時4本を確保すると、営業列車は11本まで。既に『ひかり』6本・『こだま』4本が運行されており、増発余力はあと1本だった。品川駅を開設し、そこで4本を発着させれば、品川以西では毎時片道15本の営業列車を確保できると共に、積雪等の自然災害時の列車遅延も早期に収束する。また、品川で乗降可能になれば、多くの旅客にとって新幹線へのアクセス時間が20~30分は短縮される。輸送力増強と利便向上の切り札であった。しかし、実現の最大の困難は用地の取得であった。JR各社への用地分割を担当した国鉄経営計画室は、保有機構に奪取された東海道新幹線には寸土の余裕も持たせず、その上、JR東日本の“薄皮一枚”の用地で包囲するよう密かに処理していた。東海道新幹線の品川車両基地は国鉄清算事業団の債務返済用に差し出し、23haに及ぶ在来線品川ヤード用地は、簿価7億5000万円でJR東日本に引き継がれた。当社は開業早々に『東京参与会』を発足させ、経団連の平岩外四副会長・瀬島龍三行革審委員・日経連の亀井正夫副会長・国鉄の杉浦喬也元総裁・鉄道建設公団の岡田宏総裁らを含む10人の有識者に基本問題を説明し、理解と助言を頂いてきた。国鉄改革に深く関わったこれらの人々は、「品川駅設置には大賛成。是非、実現すべきだ」という意見だった。

「用地問題については、株式上場までのJRは“国有民営”であり、その資産は全て国家・国民の財産である。故に、品川ヤード用地の活用方法は、政府が国家・公共の為にどう使うべきかを大所高所に立って判断し、“民有民営化”される前に処理すべきだ」という見解であった。「JR東海は、品川駅構想を天下に周知した上で、全てを政府に委ねて静観すればよい」と助言された。まさに正論だった。東海道新幹線品川駅計画は、公表と同時に世論の強い期待と要望を喚起し、実現は必須の流れとなったが、JR東日本首脳の強硬な反対で用地の協議は難航した。しかし、日本経済の大動脈機能を維持・増強するという大義は動かし難く、結局は株式上場を前にして、国鉄清算事業団及びJR貨物用地と例の“薄皮一枚”の買収で、何とか品川駅の開設は決着した。2003年10月1日、品川駅完成と全列車270km運転化を踏まえた白紙ダイヤ改正が行われ、1時間に『のぞみ』7本・『ひかり』2本・『こだま』3本体制がスタートした。東京・品川両駅合わせての利用増は1日2万人、年間収入増は500億円に上る。品川駅の建設費は、用地も含めて1000億円弱、全工事費を2年で回収した勘定だった。荒涼たる空閑地であった品川駅港南口には、完工までの5年間に巨大なオフィス街が出現した。その延べ床面積は、東京ドームのグラウンド約100個分に当たるという。新幹線品川駅は、極めて大きな外部経済効果を齎したのである。


≡日本経済新聞 2015年10月27日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(25) 初の全面刷新、時速270km…車両を軽量化、命名は一苦労

1987年の12月上旬、リヨン-パリ間でフランスの誇る高速鉄道『TGV』に乗車する機会があった。時速270kmは、当時の世界最速である。しかし、その印象は重そうな客車の先頭と末尾に強力な機関車を配して、田園の中を大きな音を立てながら走行する長閑な高速列車という感じだった。同行のエンジニアが言う。「人口稠密地帯を走る東海道新幹線の場合は、騒音・振動対策や耐震性強化が必要な上に、カーブもTGVよりきつい。それでも、時速220kmから270kmには上げられると思いますよ」。帰国早々の1988年1月、『新幹線速度向上プロジェクト委員会』を立ち上げた。新幹線運行本部長の副島廣海さんをリーダーに、各分野の技術者が寝食を忘れて検討した結果、半年後の9月には成案を得た。その骨幹は、

(1)時速270km運転の為に新型車両(300系)を開発する。
(2)アルミ車体・交流モーター・軽量台車を採用して車両を25~30%軽量化し、沿線の振動を現状以下に抑える。
(3)車体の流線型化・表面の平滑化・パンタグラフ数の削減等に依り、沿線の騒音を現状以下に抑える。
(4)電力回生ブレーキの採用等も併用して、消費電力を節約する。
(5)空調機器を床下に置く等して車体の重心を下げ、半径2500mの曲線を時速255kmで通過する。
(6)地震の早期警戒装置を導入する。

等々、東海道新幹線開業以来初のフルモデルチェンジであり、あらゆる技術的挑戦を盛り込んだ画期的な計画であった。直ちに経営会議で決定し、12月に300系1編成を発注。2年間の実証運転を経て、1992年3月に『のぞみ』がデビュー。東京-大阪2.5時間時代の幕が開き、高頻度輸送の利便性と相俟って、対航空サービス優位が強化された。

『のぞみ』の命名には一苦労した。1000を超える候補を20に絞り、最終決定の場が設けられた。外部の有識者として齋藤茂太・牧野昇・阿川佐和子の3氏を招聘し、部内からは須田寬社長と私を含めて5人が出席した。『ひかり』『こだま』より速い列車を何と呼ぶか、悩ましいところである。阿川佐和子さんが、「日本を代表する列車だから、“やまと言葉”でなければいけない。父は、『“つばめ”が良い』と言っていました」と発言、これが基調となった。他に『すばる』『あすか』等もあったが、リストにあった『希望』を『のぞみ』に読み替えることで意見の一致を見た。馴染んでみると、良い命名だったと思う。300系車両の軽量化は土木構造物への負担を軽減し、高架橋や鉄橋等の寿命を延ばすという波及効果を齎した。発足当初は、「20年後には取り換えが発生する可能性あり」と言われていた土木構造物は、今日では適切な保全さえすれば幾らでも持つことが解明されている。300系システムの導入を契機に、国鉄時代には抑えられていた新技術導入への衝動が解放され、恰も堰を切ったかのように700系・N700系、そしてN700Aが粗7年置きに開発投入された。N700系・N700Aのエネルギー消費は、時速220kmの0系と比較すると半分程度である。構造物の耐震化・長寿命化・地震時の車両脱線逸脱防止・架線の軽量高性能化等、全ての面目をも一新しつつある。


≡日本経済新聞 2015年10月26日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(24) 保有機構の重荷と対峙…東証が“援軍”、3年半で解体へ

『新幹線鉄道保有機構(保有機構)』は国鉄再建監理委員会の最終局面で、元運輸次官の住田正二委員から唐突に提起され、同じ運輸省出身の林淳司事務局次長の強い反対を押し切って、答申案に盛られた。保有機構は東海道・山陽・東北・上越新幹線の地上設備(車両以外の全て)と、その時価評価額に相当する国鉄債務8兆5000億円を国鉄から引き継ぎ、地上設備をJR本州3社にリースして債務を返済する。その際に、「“各新幹線の収益力”を反映したリース料を設定することに依り、“本州3社の収益力”を平準化するのだ」と説明された。償還期限は30年間、2年毎の輸送実績に依り、各社の負担を見直すことになっていた。この制度には本質的な欠陥があった。先ず、保有機構が受け取るリース料は全額債務償還に充て、地上設備の維持更新は借り手が行うことになっていた。ところが、借り物の地上設備については減価償却費を計上できない。だから、借り手が借金して維持更新をやるか、やらずに資産を食い潰しつつ問題を先送りするかの二者択一だった。更に問題なのは、「“新幹線”のリース料負担割合で“会社全体”の収益力を調整する」という詭弁である。JR東海の場合は文字通り東海道新幹線会社であり、会社の営業収益の約85%は新幹線である。ところが、JR東日本の東北・上越新幹線は会社全体の営業収益の約20%に過ぎず、収益の大部分は首都圏の都市鉄道網から来る。それを除外して、新幹線だけで会社全体の収益調整をやることは妥当だろうか? 答えは明らかに否である。結局、東海道新幹線が東北・上越新幹線の建設費2兆円余りを肩代わりしただけだった。保有機構提案者の本音は、国鉄債務の返済と本州3社の収益力調整を口実に、東海道新幹線の収益力を運輸省の手中に収め、将来は整備新幹線建設の財源等に充当することだったのだろう。

東海道新幹線は鉄道の精華である。一部官僚の思惑の為に、これを劣化させてはいけない。そして、鉄は熱いうちに打たなければならない。私は会社発足後直ちに、借金をしてでも東海道新幹線の改善・強化投資を続ける一方、保有機構を解体し、過重な債務負担を適正化する対策に着手した。合理性と大義名分を背にし、刺し違える覚悟でいたが、全ては手探りだった。しかし、2つの天祐が重なって、1990年秋には保有機構の解体が決まった。1つは、バブル経済のブームで本州3社の業績が思いの外好調に推移し、誰もが10年以内には無理だと思っていた上場基準を3社ともクリアする見通しとなったことである。そして、上場を審査する東京証券取引所が、「保有機構の下では、会社の資産・債務状態が不確定である。故に、これを解散しない限り、株主利益保護の観点から上場は認められない」という見解を示したのである。もう1つは、保有機構に反対した林淳司さんが、この時期に運輸次官という要のポストにいたことである。30年間機能し続ける前提で設計された特殊法人が、僅か3年半で解体と決まった類例は無い。奇跡的に欠陥制度は消滅したが、過重な債務負担はそのまま残された。JR東海の実質的民営化は、ここが出発点だった。


≡日本経済新聞 2015年10月25日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(23) JR東海へ高揚感なく…疲弊した新幹線、維持強化へ

1987年4月1日。国鉄は分割民営化され、JR7社が誕生した。私は6時発『ひかり』の初列車で、東京からJR東海本社のある名古屋に向かった。私の胸にあるのは、決死の任務を終え、また次なる任務に向かう者の冷たい緊張感のみ。新しい7つの本社が習熟し機能するまでの数ヵ月間が、一番脆弱な時期だ。「事故が起こらないでほしい」。高揚感は無く、祈るような気持ちだった。取締役総合企画本部長に着任して先ず実感したのは、東海道新幹線の“疲弊”“陳腐化”だ。東海道新幹線は1964年の開業以来23年間に亘って酷使され、技術的にも殆ど進化していなかった。1985年に投入され始めた100系車両が7編成、後の91編成は開業時以来の0系で、車齢も古かった。トンネル・橋梁等の土木構造物も、あと10年は保証するが、20年後には取替えが発生するかもしれないと言われていた。「JR東海にはドル箱の東海道新幹線がある。だから、JRの中で最も恵まれた会社としてスタートした」――そう思っている人が多いが、現実は全く違う。東海道新幹線には大きな足枷が嵌められていたのだ。分割民営化に当たっては東北・上越・山陽新幹線の工事費の約2分の1を肩代わりし、運輸収入の6年分を超える5兆円もの国鉄債務を背負っての出発だった。会社発足当時の年間可処分資金は、僅かに700億円。バランスの取れた経営戦略の立て様は無かった。この与えられた条件を金科玉条とし、その範囲内で設備投資もやり、借金の返済もやるということになれば、両方が不十分・不徹底で東海道新幹線はジリ貧になる。大動脈が機能不全になった上に、経営も破綻した時には胸を張ることは勿論、弁解の余地すらない。

私は決心した。「創業の使命、即ち東海道新幹線の大動脈機能を守ることを最優先の課題にしよう。それは日本経済にとって死活的に必要であり、代替不能である。東海道新幹線の維持強化に必要な投資は、着実に進める。それでも借金が増えていく。その事実を背にして経営者が政府と刺し違えて、欠陥制度を改めればよい」。そう割り切ったのだ。基本方針をこのように定めた上で、日々の現象にも対処していくこととした。5月に入ると、収入が想定よりも大幅に上回ることが明らかになってきた。日本経済がバブルの膨張期に入ったのである。東海道新幹線も、「“ひかり”の座席が取り辛い」との声が高まってきた。そこで、当面唯一の選択肢である100系を大量発注して即効的に内部留保増加を図ると共に、老朽化した0系を更新することにした。民営化に依って発注が減ると考えていた車両メーカーは、製造設備を縮小していた。その製造能力を買い占めるつもりで早急に発注し、その後、5年間で50編成を投入した。この機会に『こだま』の16両化を行い、食堂車を廃止した。食堂車廃止には「旅情が無くなる」と反対する声が多かった。しかし、新幹線に求められるのは旅情ではなく、安全・正確・安定・高速・高頻度・大量輸送である。当初は反対していたJR他社も、暫くして食堂車を廃止した。しかしながら、どうしても避けて通れない抜本策が残っていた。欠陥制度『新幹線鉄道保有機構』の解体である。


≡日本経済新聞 2015年10月24日付掲載≡


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(22) 民営化前日まで激務…僚友の顔見渡し、誇らしく

1986年7月の衆参同日選挙で、自民党は圧勝。この選挙の争点は“国鉄分割民営化”であり、選挙の結果は、国鉄分割民営化が国民の圧倒的な支持を得たことを意味した。9月の臨時国会で、『国鉄改革関連法案』の審議が始まった。法案の作成段階で難題となったのが、職員をJR各社と国鉄清算事業団へ振り分けるやり方について、どう書くかである。「総裁の命令に依って振り分ける」と書けば、憲法の職業選択の自由に抵触する。この難題を解決してくれたのが、法務課の法律専門家であった。「国鉄は法人格としては国鉄清算事業団と一体であり、職員は全員自動的に国鉄清算事業団に引き継がれる。分割に依り生まれる新会社は、必要な要員を採用して事業を行うのだから、これに応募して採用試験を通って採用された職員のみが、新会社の社員となる」。彼は、この問題の唯一の現実的な解決策を示してくれた。「ああ、そういうことなのだ」と目から鱗が落ちる思いだった。運輸省は、「この職員の配置に関する条文が、国会審議において問題になるのでは」と心配していたが、野党の関心事項は『国鉄労働組合(国労)』の存亡が殆ど全てであり、審議は順調に進捗し、11月に『国鉄改革関連法』は成立した。一方、分割民営化に反対する国労の内部は大きく揺れていた。主流派は民営化賛成に舵を切ろうとするが、反対派の抵抗が強く、組織内を纏められない。社会党や総評も仲介に入るが、その努力も空しく、10月に静岡県の修善寺で開いた大会をきっかけに、国労は遂に分裂した。こうして、分割民営化に反対する勢力は力を失っていく。

しかし、希望退職の募集や余剰人員の雇用対策は続き、新生JRに採用される候補者名簿の準備もある。私が局次長として率いていた職員局は、民営化前日の1987年3月31日まで臨戦態勢だった。その激務の合間を縫って、前日に部下たちと細やかな慰労の会を催した。慌ただしく杯を上げ、共に戦ってきた面々を見渡し、私は誇らしかった。改めて思うのは、信頼して任せ切ることができる“僚友”の存在である。私は、何人もの良き僚友に助けられてここまで来た。その不可欠な1人が山田佳臣君(現在の『JR東海』会長)である。1981年4月に経営計画室に赴任した時、そこに同日付で新幹線総局から異動となった彼がいた。第2臨調の瀬島龍三委員に国鉄の分割民営化を説き、自民党交通部の三塚博会長に労使関係是正の必要性を説明するところから、表裏一体でやってきた。それから分割民営化の労務・要員対策を成し遂げ、JR東海の創業に取り組んで今日に至るまでの34年間、彼とはいつも相棒であった。私心がなく、揺らがず、大胆にして細心な彼に実務を任せ切って、私は外向きに注力したのである。もう1人、分割民営化の実現に不可欠の存在だったのが、当時の職員局労働課長の南谷昌二郎君(『JR西日本』元会長)である。彼もまた、無私の人だった。分割民営化は、「まさにこの時しかない」という絶妙なタイミングだったからこそ可能だった。「もう一度やってみろ」と言われても二度とはできない。時の運・人の縁、そして僚友たちがいて、JRは誕生した。


≡日本経済新聞 2015年10月23日付掲載≡
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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(21) 再雇用、主導権握り達成…協力拒んだ国労は力を失う

国鉄改革の主戦場である労務・要員対策を担うのは、私が職員課長(後に局次長)を務める職員局である。「誰1人として、改革に依り路頭に迷わせない」。国鉄の分割民営化に向け、政府は公約を掲げた。政府が公的部門で採用すると約束していたのは3万人。霞が関では分割民営化に未だ懐疑的で、余剰人員対策についても様子見だったが、中曽根康弘首相と後藤田正晴総務庁(当時)長官が自らの退路を断つような強い決意を示す。後藤田さんの古巣の警察庁が、「国鉄の鉄道公安官3000人を警察官として採用する」と決定したのだ。一方、職員局は1985年10月、過去に例を見ない“10万人合理化計画”を各労組に提案した。最大労組の『国鉄労働組合(国労)』は断固反対だが、新規採用停止を契機に『国鉄動力車労働組合(動労)』は賛成に回っていた。合理化施策を推進する際の鍵は、大義名分と不動の意志である。労働法の原則に立ち返り、誠心誠意交渉はやるが、施策の内容や実施のタイミングは経営責任を取る者が決断することにした。それでも、国労と動労が束になって反対したら立ち往生しただろう。合理化提案に続いて全職員を対象に、どの会社に勤めたいかを聞くアンケートを実施した。分割民営化の法案さえ提出されていない段階での、異例のフライングだった。更に次の一手として、『労使共同宣言』の締結を申し入れた。「合理化に協力する」「職場規律を保つ」「ストライキはやらない」「お客様に不快感を与えない」――。共同宣言の内容は、1年前ならとても口に出せなかっただろう。

1986年1月、先ず国労を総裁室に招じ入れ、共同宣言を提案した。「これは何だね?」。部屋に入って来た国労の委員長以下は座ろうともしない。ポケットに手を突っ込んだまま、テーブルの上の共同宣言をじっと見つめている。そこには、これまでやってきたことを「もうやりません」、やってこなかったことを「これからやります」と書いてあるのだ。「こんなもの受け取れるか!」と言って、出て行った。一方、他の主要労組は民営化を容認し、共同宣言を結んだ。続いて3月、北海道・九州の大勢の余剰人員を東京・大阪・名古屋の大都市圏に異動させる“広域異動”を募った。これにも国労は反対したが、他の主要労組は賛成し、約3800人が異動した。5月には『希望退職法』が成立し、速やかに募集に入った。2万人の計画に対し4万人近くが応募する結果となった。再雇用については、最終的に国や地方公共団体に2万2000人、民間に1万2000人、国鉄関連企業に1万2000人が就職した。不可能と言われた雇用対策は大成功を収めた。そのような中、国労の組合員の間には不安が高まっていく。国労を脱退する者も多数現れた。彼らの意表を衝く課題を投げかけ、それを受けて反撃に出ようとする頃には、更に次の課題が提起される――。経営側は終始、主導権を取り続けたのである。「労組の合意を得なければ施策の実施ができない」という従来の姿勢で臨んでいたら、事は全く進まず、改革は頓挫していただろう。あのやり方しかなかったと思っている。


≡日本経済新聞 2015年10月22日付掲載≡


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