【思想としての朝鮮籍】第5部・金石範(下) 文学は政治を凌駕する

20160807 01
国家の裏付けを持たぬ記号“朝鮮籍”で、“統一”を希求する。それは、“虚構を以て現実を否定する”金石範文学そのものだ。その思想の成り立ちを手繰ろうと、昨年9月、金に会った。上野のカフェで落ち合うと、嬉しそうに切り出した。「いや、このタイトルいいよ。“思想としての朝鮮籍”って。まさに、私の朝鮮籍は1つの抽象化された“思想”なのよ。思想の表出として使ってるんです。“思想としての朝鮮籍”は統一を求める、南北分断を否定するんです! 植民地時代でさえ1つだったのに、何で独立して分断なんだと。現実にそうでなくても、そうと思うのが思想ですよ。実態が無くても構わないんだから。思想観念で政治とぶつかるんです」――。政治との関係は、少なくとも1980年代まで在日作家が避けて通れぬ問題だった。南北双方から“従属”を迫られるばかりか、時に双方から“敵”とされる。記号としての朝鮮籍に拘り、分断の現実を否定する金石範にあっては尚更だ。“鋼鉄の臭いのする悍ましい政治の網”の中にあって、権力との一切の取引を拒む。この間断無き闘いを、彼は創作力に転化してきた。小説という形式を選ぶ大きな理由も、金はそこに、権力と対決する上での“優位性”を見るからだ。「観念は言葉で表明されるから、小説はあらゆる芸術の中で最もイデオロギーを反映し易い。権力と真っ向からぶつかるのに一番適しているのは小説です。同じ言葉でも、ある意味で詩は誤魔化しが効くんです。これ言うと『詩がわかってない!』って、(金)時鐘が怒って、何度も喧嘩したけどね(笑)」。思想に揺るぎはない。筆名の“金石範”は、まさに体を表している。その由来を訊くと即座に「忘れた」と躱し、「私はそんな堅物じゃないんだけどね、でも、この字体がまた田村義也(編集者・装丁家)の装丁に映えるんだよ」と笑った。

“思想としての朝鮮籍”を武器にして金が希求する統一祖国とは、単なる政体の実現ではない。アメリカ軍政と親日派が“4.3”を経て建国した『大韓民国』の歴史を再審し、奪われた“解放空間”を取り戻すことである。そのイメージは、『火山島』の主人公で、筆者の分身の1人である李芳根の一言に凝縮されている。ブルジョワの息子でニヒリスティックな放蕩者、謂わば“英雄”とは対極の李が口にした譲れぬ一線、即ち思想が“支配せず、支配されない”なのだ。自身の自由が他人の自由を侵害しない。それが、李芳根の求める“自由”である。相互不干渉の“断絶”ではない。関わりの中で生きる人間の実存を前提とした上で、互いを尊重する。その前提は徹底した平等だ。「人間は、純粋な個ではあり得ない。社会無くして人間は存在しない」。私小説批判にも繋がる金石範の人間観である。他者との関係で人間は存在している以上、個人の目指す自由とは全体の自由の下で可能となる。“自由と平等”――。それら普遍的価値を求めつつ、それとは程遠い現実(常に“外部”を生み出す統治形態“国民国家”はその典型だ)を造り出してしまう人間という“問題”に照らせば、それは見果てぬ夢なのかもしれない。だが、夢だけが人間を人間たらしめ、今を超える契機になり得る。今ある現実を否定し、あるべき姿を想うとは、全てを奪われても尚残る人間の最後の自由であり、瓦礫の中から掴み出された理想は、もう1つの世界を希求する思想となり、現実を否定する意志は、行動として表出される。その意味において、まさに文学は政治を凌駕し得るのである。ただ想像する力のみが、人を“順応”という底無しの闇から救い出す。例えば、『万徳幽霊奇譚』。主人公は“うすのろ”と蔑まれ、理不尽な打擲に晒される寺男の万徳である。“ゲリラの親”として捕まった老人と共に警察へ連行された万徳は、息子の射殺を命じられた老人が進退窮まり、自らを撃ち果てる姿を目の当たりにする。代わりに息子の処刑を命じられた万徳の頭に、徴用された北海道の鉱山での記憶が過る。脱走に失敗した若者への懲罰として、日本人監督の命令に従い、同胞たちが列をなして次々と根棒を全力で打ち下ろす。軈て万徳の順番が来るのだが、愚鈍な彼の心だけが、目前に吊るされた血塗れの球体を人間と認識し、打擲を拒んだのだ。「殺せ! あれはアカだ。アカは人間じゃねぇんだぞ!」。逃げ場の無い血塗れの室で、全能感に酔う人殺しの怒号に気圧されながらも、万徳は「わっしの目には人間に見える」と抵抗し、自らが処刑場に送られていく。考えること・良心を持つことが死に繋がる状況下で、無学な“うすのろ”が、その想像力を基に示した拒絶こそ、人間にとっての“究極の自由”であり、“夢”だった。だからこそ、彼は“幽霊”となる。合理的思考ではあり得ないが、この世に真実を告げに来る“幽霊”に。

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【思想としての朝鮮籍】第5部・金石範(上) “4.3”という“思想の戦場”

20160707 01
「私たちは、死者に正義を還さなければならない」(パトリック・シャモワゾー)――。成蹊大学に着いたのは、シンポジウム開始の20分前だった。雨にも拘らず、大講義室は既にほぼ満席で、競り上がるような空気で満ちていた。長らく絶版だった金石範著『火山島』全7巻がオンデマンド(注文印刷)で復刊の運びとなり、それを記念して昨年10月8日、シンポジウム『戦後日本文学と金石範“火山島”』が開かれるのだ。『済州島4.3事件』。アメリカ軍政下で抑圧された島民らが、南朝鮮単独選挙に反対して武装蜂起した。これに対し、アメリカ軍指揮の下で大弾圧がなされた。“殲滅”は朝鮮戦争後も続き、少なくとも島民の1割を超える約3万人が殺された。アメリカの世界戦略を担う“反共国家・韓国”成立の過程で、“アカの島”とされた済州島の人々が殺戮されたのだ。彼らは、国家アイデンティティー確立の人柱だった。建国の正統性に直結する故、“4.3”は長く韓国社会でタブーとされ、遺族や生き残りは、蜂起者に関係するとわかれば公務員になれない等、様々な社会的差別を受けることとなった。この現代史上の悲劇を背景にした1万1000枚の大長編小説が、満を持して復活するのだ。その直前には、遂に韓国でも『火山島』全巻が刊行された。これは正しく、東アジア文学史上の事件である。加えれば、その1ヵ月前の10月2日、金は90歳の誕生日を迎えていた。だが教室内には、単なる“お祝い”とは異質な緊張感が漂っていた。それは、恐らく“政治”である。

東国大学(ソウル)で10月16日に開かれる刊行記念シンポジウムに参加する為、金が申請していた入国許可が韓国当局から拒否されたのだ。分断国家の一方の“韓国籍”を拒否し、国家による裏付けの無い“朝鮮籍”を堅持したままで、金は計13回の故国行を勝ち取ってきた。観念としての“朝鮮”籍で、権力と対峙してきた金の思想的闘争の軌跡だった。面談や電話、時には近しい者を通じて、韓国側から“許可”の条件が提示されてくる。「韓国籍への変更」「政権に対する批判言動の自粛」――。一切の“取引”を拒否すれば、出発寸前まで入国の可否が出ない。実際、出発予定当日に入国許可が下りたこともあった。執筆に不可欠な冷静な思考を乱され、不眠症に苦しみながら、金は権力との神経戦に挑み、朝鮮籍のままで入国し、憚ることなく「4.3は“暴動”でも“暴徒”でもない。外勢の支配に対する民衆蜂起であり、義挙」と語り、「4.3の究明・解放なくして韓国の民主化はない」と繰り返してきた。入国する度に「これが最後かも…」との思いで刻み付けてきた紀行文の数々は、奪われた故郷を取り戻す営為の積み重ねでもあった。その金が、年齢的にもこれが最後と位置付けていた今回の故国行は許されなかった。『火山島』第1部3巻が、当局の妨害を掻い潜って、韓国で翻訳・刊行された1988年春にも、出版記念行事に出席する為に入国申請したが拒まれている。その時の理由は、朝鮮総連の機関紙記者等の経歴と朝鮮籍であったことだ。今回の入国拒否の理由は明かされていないが、金はこの年の4月、済州島で開催された『第1回済州4.3平和賞』授賞式で、「李承晩政権は、親日派・民族反逆者を基盤にした政権」であり、「3.1独立運動で出来た臨時政府の流れを汲むものではない」等と演説している。これに起因することは想像に難くなかった。“国家権力との緊張関係”という金石範文学の本質が、入国拒否問題を通じて前景にせり出してきていた。金石範を読むとは、この緊張関係の最前線に自らの躰を置くこと。シンポジウム会場の教室には、「今、金石範を読むとは自分自身にとって如何なる営為なのか」を問う者たちの覚悟が、強い緊張感を醸し出していた。シンポジウムの1ヵ月前、筆者は金に電話をした。韓国への入国不許可が金に通知される前日のことだ。既に入国許可が出ていると見越して、本連載の補足取材をお願いしたのだが、宙吊りの金は苛立ちを隠さなかった。「(許可は)大丈夫と思うけど、待たされると不安なのよ。“不安”というより“心配”なの。仕事に直結するのよ!」。シンポジウムの後に済州島に飛び、何日か故郷に滞在した跡、60年以上前、事件の避難民と出会った対馬を巡って日本に戻る。金石範文学誕生の場への再訪は、新たな創作へのステップになる筈だった。

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【思想としての朝鮮籍】第4部・朴正恵(下) この子らに民族の心を

20160605 03
1972年10月、大阪市西成区にあった朴正恵の自宅に、父の盟友で、『朝鮮奨学会』(所属団体や思想信条を問わず、在日学生への奨学支援を行う中立団体)の理事だった李殷直が訪ねてきた。「今度、長橋小学校に民族学級を作るから、関わってみないか?」。“民族学級”の起源は1948年、朝鮮学校閉鎖令にある。抗議運動の結果、民族団体と文部省・自治体との間で“覚書”が交わされ、公立学校でも課外で週数時間なら、朝鮮語・歴史・文化の学習が可能になった。当時、朴は産休中だった。「正直、ピンとこなかった。それなら民族学校に転校して、1日中学んだほうが効果はある。何故、民族学級を作るのかと」。個々の教員が努力しても、公教育は本質的に“国民育成”の手段である。当時は日教組等も、朝鮮人の子供には民族学校への転校を勧めていた。李は語った。「日本の学校に通う子は、先ず出自を隠す。知られている子は酷い差別を受けるけど、声も出せずに我慢する子も多い。そういう子は軈て、アボジやオモニを否定するようになる」。朝鮮学校とは対極の現実だった。朴の表情に困惑を読み取ったのか、李はこう結んだ。「朝鮮学校に通う子だけが胸張って生きていくんじゃなくて、地域の子、皆が堂々とできなアカンやろ? この子らにこそ民族教育が必要なんじゃないか?」。キメ技だった。「そう言われたら断れないでしょ。後でえらい目に遭いましたわ(笑)」。

「私を根本的に変えた」と朴が言う長橋小学校(西成区)の民族学級は、複数の思い・事件・僥倖が交錯した地点に生まれた。直接の契機は同和対策事業だった。長橋小の校区は“同和”地区だった。運動の結果として1969年、一定額の学用品費支給と学力補充学級の開設が決まったが、対象は国民たる部落民で、在校生の2割を占める在日朝鮮人は排除された。被差別者間に生まれた“格差”に、朝鮮人児童から怒りの声が上がった。当時の教員だった太田利信は語る。「最初の不満は学力保障じゃなく、“おやつ”でした。午後3時に始まるので、補充学級ではコッペパンや白い牛乳じゃなくて、フルーツ牛乳と菓子パンの間食が出たんです」。保護者からの不満も相次いだ。「“私ら”の子にも学力保障して下さい!」「長橋は『差別を無くす』と言うのに、これは差別やろ!」「『補充に入りたい』って子が泣きつくんです」。太田の思いは複雑だった。「学力保障は大事だけど、現場の課題は、ほぼ全員が通名で通う民族性の抑圧でした。基本方針は、できれば民族学校へ通う。公立学校ならなるべく本名を使い、可能な限り家庭で言葉や文化を教えてほしい。でも、家庭訪問でそれを言えば、『朝鮮学校閉鎖令で日本の学校に行かせながら、今度は追い出すのか!』『本名を名乗らせて差別された時に責任を取れるのか!』『綺麗事を言うな!』とか怒鳴られてね」。1971年春、事態が動いた。児童会選挙に、5年の在日生徒である南仁が立候補した。「長橋では部落差別のことはよく言われるけど、朝鮮人差別は忘れられている。僕は、朝鮮人差別を無くす為に立候補しました」。補充学級の間食を運ぶワゴンを“襲撃”し、おやつを奪っていたヤンチャな南は、持ち前の行動力で各学年を回り、2位当選を果たした。同時期、大阪市立中学校長会の冊子に、朝鮮人生徒への差別偏見が記されていた問題が表面化した。校長会や教委を批判する教員たちは『公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会』を結成、解放教育を謳いつつ、朝鮮人を放置していた欺瞞を批判的に検証し始めた。翌年の児童会選挙には、南に触発された複数の朝鮮人児童が本名で立候補し、当選した。彼らは朝鮮問題研究部を結成し、活動の中で自然に「朝鮮人の先生から学びたい」との声が上がった。そこに、ある偶然が重なった。南ら6年の“国語”教科書に、A・ドーデの『最後の授業』が載っていた。「教員間で話し合い、朝鮮人の歴史と絡めて教え、最後は朝鮮人講師を招き、講演会を行うと決めました」(太田)。普仏戦争でフランスが敗れ、プロイセン領となる直前のアルザスで、最後のフランス語授業をする教師と生徒の物語だ(アルザス語というドイツ語の一方言を母語とする子供たちに、フランス語が“国語”とされていることを自明とする同作の問題性は夙に指摘されているが)。子供たちが受けたインパクトは強烈だった。「(生徒たちは)祖国の勉強が明日からできなくなるので、国語つまり“ろうごくのかぎ”をにぎろうと、ことばをおぼえようとしていたのだ。今のぼくらはそれと同じだ。でも今のぼくらは、“ろうごくのかぎ”を持たないで、ろうやをあけなくてはならない」(感想文より)。そして決定打は、朝鮮奨学会の理事である曹基亨の講演会だった。

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靖国神社と大らかな昭和――適当で自由で詰めが甘い、その本質は昭和を守るテーマパークだった

20160502 24
初めて靖国神社を訪れたのは、今から丁度10年前だった。大学生だった僕は、友人と連れ立って『みたままつり』に行ったのだ。メディアでの報道を通じて、何となく靖国神社という存在は知っていた。明治以来の戦死者を祀ってきた神社。A級戦犯が合祀されている為、政治家の参拝が歴史問題になる。歴史観は“右”で、日本の伝統を大切にする神社――。漠然とそれくらいのイメージを抱いていた。しかし、実際に訪れた靖国神社は、僕の想像を超える場所だった。先ず、大村益次郎の銅像の周りで盆踊りが行われていたことに面食らった。大日本帝国陸軍の創始者であり、“軍神”とも崇められた人物だ。その軍神の銅像が派手にライトアップされ、妙齢の女性たちによる楽しげな盆踊りが繰り広げられている。靖国神社を勝手に神聖で厳かな場所だと思っていたから、「軍神をこんなにポップに扱っていいのか?」とびっくりした。しかし、靖国神社の本領発揮はそこからだった。特設の見世物小屋では蛇を飲む“蛇女”や、おじさんが剣を飲み込むといったチープなパフォーマンスを堪能することができる。“見世物小屋”や“蛇女”が21世紀に存在するのも凄いが、まさかそれが場末の神社ではなく、あの靖国神社で見られるとは思っていなかった。更に、安っぽいお化け屋敷があったり、窪塚洋介と小林よしのりの献納した献灯が隣同士に並んでいたり、見所は沢山だった。「何だ、この適当で自由な場所は」。死者を厳かに祀る、伝統を大切にする静謐な神社――。そういった僕のイメージは、靖国神社には当て嵌まらないことがわかった。

今年もみたままつりに行ってきた。しかし、10年前とは大分状況が変わっていた。毎年200を超える露店がみたままつりに出店していたが、今年は靖国神社側がそれを規制したのだ。新聞報道によれば、みたままつりの来場者が大騒ぎをしたり、道端にゴミを捨てたりと、近隣住民からの苦情が増えていたという。実は、一部でみたままつりは“ナンパ祭り”と揶揄されるまでになっていた。靖国神社の傍には大学が集中していて、若者の来場者が多い。また、開催期間が7月中旬と、他の夏祭りに比べて“先取り”感がある。その為、恰好のナンパスポットとなっていたというのだ。あるブログでは、靖国神社でのナンパの成功を“英霊の導き”と表現していた。露店が規制された今年のみたままつり。例年のような活気は無いが、献灯が静かに輝く美しい空間だったと思う。“靖国神社の夏祭り”という言葉から連想するのに相応しい空間になっていたと思う。しかし、靖国神社が“適当で自由”なのは、何もみたままつりに限った話ではない。寧ろ、みたままつりに露店が並び、ナンパが横行する光景のほうが、靖国にとっては自然な状態だとさえも言える。それは、遊就館に行ってみればわかる。遊就館とは、靖国神社が運営する戦争博物館である。1882年の西南戦争における新政府軍側の戦没者の遺品や、古来の武具を展示する為に開館した。終戦後に一度は閉館を余儀無くされたものの、1961年に一部、1986年に全面再開にこぎ着けた。その後、リニューアル工事が行われ、2002年に現在の形になった。屡々、遊就館は「戦争を肯定する危険な博物館」と批判される。確かに、日本各地にある平和博物館と違い、そこまで戦争が否定的に描かれる訳ではない。「大東亜戦争における“日本軍による植民地権力の打倒”により、戦後アジア各国が独立できた」とも書いてある。しかし、一部のネット右翼ほど過激で下品な主張をするような博物館ではない。韓国併合や満州国、更には大東亜戦争が「全面的に正しかった」と強弁する訳でもない。主張としては、ネット右翼のほうが余程過激だ。何よりも、2002年にリニューアルしただけあって、全体的に小綺麗で、そこそこスタイリッシュな博物館だ。実は、遊説館を設計・施工したのは『乃村工藝社』。大手ディスプレイデザイン会社だ。『東京スカイツリー』『渋谷ヒカリエ』『ダイバーシティ東京』等、話題になった施設の多くに、何らかの形で乃村工藝社は関わっている。また、日本各地の博物館の施工も担当していて、『沖縄平和祈念資料館』や傷痍軍人の歴史を伝える国立の『しょうけい館』、更に阿見町の『予科練平和記念館』等も乃村工藝社の仕事だ。そう、靖国神社と主義主張が大きく違う沖縄平和祈念資料館も、乃村が空間プロデュースに関わっているのだ。だから、少なくとも第一印象においては、遊説館と沖縄平和祈念資料館に大きな違いはない。勿論、歴史に詳しい人が行けば、その歴史観について何らかの感情を持ちたくなるだろう。しかし、僕が何よりも気になったのは、歴史認識以前の遊就館の“詰めの甘さ”である。

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ラバウル戦を率いて戦犯とされた父と技術将校だった長男――“名将”今村均の長男(97)が語る“父と戦争”

人格・見識等で、敵・味方を問わず高い評価を受けた旧日本陸軍の今村均大将。殊に、ジャワにおける現地住民に対する人道的対応や、多くの餓死者を出した南方戦線にあって、司令官として赴任したラバウルで自ら率先して農地を耕し、自給態勢を築いて多くの兵士の命を救ったことから、“聖将”と称されることもあった。更には戦後、南方での禁錮刑に服した後も、自宅の敷地内に3畳の小さな離れを建て、終生、自ら謹慎生活を送ったことでも知られる。その今村均の長男である和男氏は、今年97歳。昭和16年に陸軍に入り、航空担当の技術将校として戦争を体験した。父と子にとって、昭和の戦争とは何だったのか。戦後70年の時を経て、改めて振り返ってもらった――。 (聞き手/フリージャーナリスト 森健)

20160502 18
戦後、父・今村均に再会したのは、昭和25(1950)年1月22日のことでした。父は戦時中もずっと南方に行っていましたから、7年3ヵ月ぶりということになります。オーストラリア軍の軍事裁判で司令官としての責任を負い、禁錮10年という判決を受けた父は、巣鴨拘置所で刑に服することとなり、日本に帰国した訳です。やはり、戦犯とされた凡そ700人と共に帰ってきましたが、病身の方も多い中、父は元気そうでした。ラバウルにいる間、長く百姓生活をしていたからでしょうか。ところが、巣鴨に訪ねて行った母・久子と長男の私に会うなり、父はこう言ったのです。「もういっペん南方に行く。南方には未だ苦労している仲間がいる。同じ服役するなら、日本ではなく、豪州刑務所のあるマヌス島(パプアニューギニア)であるべきだ。直ぐ手続きを取りなさい」。予想もしない言葉だったので驚きました。特に、漸く生きて帰ってきた夫からそんなことを言われた母の気持ちはどんなものだったのでしょう。今、思っても胸が詰まりますが、父の言葉ですからどうにもなりません。母と私は、直ぐに連合軍司令部に出向き、父をマヌス島に送るように願い出ました。GHQとしても、折角日本に帰って来られたのに、日本人にとっては過酷な環境下にある南方の獄に態々戻りたい等と言う者がいようとは想定していなかったのでしょう。三度かけあって、マッカーサー司令部に話をさせてもらったところ、漸く許可が出ました。その際、マッカーサー元師が「部下たちと共にマヌス島での服役を希望する陸軍大将がいるとは感銘した。私は、日本に来て初めて武士道に触れた思いだ」と感概を漏らしたそうです。実際、3月4日にオーストラリアの船でマヌス島に到着すると、現地では400人の受刑者が父を大歓迎したといいます。母の心中を思うと複雑でしたが、私としてはそんな父の思いもわからないではありませんでした。私自身、戦時中は陸軍航空技術研究所に勤める陸軍軍人の1人であり、日本の敗戦に強い責任を感じてもいたからです。勿論、一介の技術将校だった私とは比較にならないほど、父の感じていた責任は重いものだったと思います。日支事変でも激戦地帯で指揮を執り、太平洋戦争が始まると蘭印作戦、ラバウルと転戦。数万人の部下を率いて、少なからぬ犠牲を出し、遂には敗戦に至った…。父は口には出しませんでしたが、マヌス島行きへの固い決意から、それは十分に伝わってきました。マヌス島での刑期を終え、日本に戻ってからも、父が選んだのは蟄居謹慎でした。世田谷の自宅の敷地内に3畳間の離れを作り、82歳で他界するまで、そこで起居しました。尤も、父本人は「自分の手が届く範囲で用が足せる刑務所での暮らしが思いの外快適だったから」と説明していましたが。何れにせよ食事と風呂、それから来客のある時以外は母屋に顔を出すことも無く、ずっと離れで過ごしていたことは事実です。だから、戦後も父と2人でじっくりと話をした記憶はあまりありません。その離れで、父は回想録や頼まれた書き物等もしていたようです。

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フィリピンBC級戦犯“最後の証言者”――天皇・皇后両陛下ご訪問の地で起きた“戦後の悲劇”

20160426 03
天皇・皇后両陛下がフィリピンに行幸啓された。昨年のパラオに続く“慰霊の旅”である。先の大戦時、激戦地となったフィリピンには、日本人が忘れてはいけない史実が多く横たわる。マニラから南へ30kmほど、モンテンルパの丘に広がるその建物は、正式名称を『ニュービリビッド刑務所』という。しかし、日本の近代史においては“モンテンルパ刑務所”の名で語り継がれる。現在も国立の刑務所として機能を果たしているその施設から、『トライシクル』と呼ばれるバイクタクシーに乗って、近隣の日本人墓地へと向かった。嘗て“BC級戦犯”として裁かれた殉難者たちが埋葬された場所である。粛然とした雰囲気に包まれる敷地内には、平和観音像や平和記念塔の他、日比両国戦没英霊供養塔等が立ち並んでいた。観音像の仏前には折り鶴や生花が手向けられており、その脇には“友よ安らかにお眠り下さい”と彫られた墓石も見える。だが、刑務所の所員の話では、日本からの来訪者は減少の一途を辿っているという。薄れゆく戦犯裁判の記憶。しかし、私は今回、「モンテンルパからの帰還者が京都に生存している」という情報を得て、お話を伺うことができた。「モンテンルパの仲間で今も存命の方を1人だけ知っていますが、充分に会話ができるような身体の状態ではないと聞いています。ですから、恐らく私が最後の証言者になると思います」。宮本正二さん(94)は1921年5月22日、京都府与謝郡の加悦町(現在の与謝野町)にて農家の次男として生を受けた。加悦尋常高等小学校を卒業した後、宮本さんは京都市内の繊維関係の店に丁稚奉公に出た。宮本さんの故郷である加悦町は、古くから『丹後ちりめん』で有名な地である。1942年1月10日に入営。無事に初年兵生活を終えると、第16師団歩兵第20連隊の一兵卒として、フィリピンへの出征を命じられた。5月3日、リンガエン湾から上陸。その後、マニラ等を経て、連隊本部のあるルセナという街まで移動した。ルセナに駐屯中、宮本さんは憲兵試験を受けることになった。志願ではなく、上官からの勧めで受験した。「当時の憲兵試験と言えば、凄く人気がありました。志願者は、試験対策の本を何冊も読んで勉強していました。しかし、私は志願した訳でもなかったので、大した準備もしないまま受験しました。確か、『フィリピンにある島の名前を知っているだけ書け』といった問題が出たように記憶しています」。宮本さんは「受かる訳がない」と思っていたが、試験から1週間ほど経ったある日、上官から合格を告げられた。

合格者はマニラの憲兵学校に入校。憲法・刑法・民法といった法律の他、英語やスペイン語等の語学の授業も行われた。宮本さんは、現地のタガログ語を専攻した。憲兵隊の本部は、スペイン統治時代の城壁に囲まれたイントラムロスという地域内に建つサンチャゴ要塞に設けられていた。同校卒業後、宮本さんはマニラ南憲兵分隊に配属された。「私は学校を出たての下っ端でしたが、軍服ではなく私服を着てマニラの街を歩き、フィリピン人の反日ゲリラや、米比軍等に関する情報を集めました。その他、通貨の安定を図る為、民間人の“ドル売買”の取り締まり等も行いました」。だが、宮本さんは程無くして、語学を改めて学び直す“語学専修生”に選ばれた。宮本さんはマニラ南憲兵分隊から離れ、憲兵学校へと戻った。この時期に、宮本さんは1つの驚くべき噂を耳にした。戦友から「お前のところ、大変なことをやったらしいな」と言われたのである。「何の話だ?」「200人ほど殺したらしいじゃないか」「そんなことないだろう」。宮本さんは苦笑を以て、そう答えたという。数日後、宮本さんは憲兵隊本部へ行った際、事情を訊ねた。聞けば、地下牢に想定以上のフィリピン人を収容していたが、そこで大量の餓死者が発生したのだという。食糧は鉄格子付近にいる者に手渡していたが、それが奥にいる収監者たちにまで届かなかったという話だった。サンチャゴ要塞では厳しい拷問等も行われ、多数のフィリピン人が犠牲になったとされる。サンチャゴ要塞は、フィリピン人にとって“怨み”の対象地となった。1944年の年末、宮本さんは語学専修生の課程を了し、マニラ南憲兵分隊に復帰したが、直ぐさまルソン島の北方へ部隊ごと移動することとなった。1945年1月、アメリカ軍の反攻が始まった。2月にはマニラで激しい市街戦が勃発。民間人を含む多くの死傷者が出た。その頃、宮本さんの所属部隊は未だ行軍中だった。アメリカ軍機からの襲撃も頻繁にあったが、部隊はマニラから250kmほど離れたバギオまで逃避行を続けた。その後、更に北の密林の中に落ち延びた。食糧も尽きた為、住民が逃げた後の芋畑で命を繋いだ。新たな芋畑を見つける為に山中を歩き回ったが、前進し過ぎるとアメリカ軍の猛攻に晒された。そんなある日、芋細に多くのビラが撤かれていた。「戦争は終わった」という意味のことが記されていた。「最初は信じなかったんですがね。その内に、上官から正式に敗戦という事実を知らされました」

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幻の『月刊毎日』発掘の衝撃――戦時中・日本占領下の北京で刊行されていた驚くべき日本語総合雑誌の全容

昭和19年から20年にかけて、毎日新聞北京支局が発行していた日本語総合誌『月刊毎日』が、この度発掘された。国内資料機関に一切所蔵されず、その存在の事実すら継承されなかった幻の雑誌を通して、戦時下の言論活動を徹底検証する。 (取材・文/立教大学教授 石川巧)

20160411 01
2015年8月上旬、熊本での資料調査を終えた後、市内の古書店に立ち寄った。遠方に出かけた際は、その土地の古書店を目指すのが習慣になっている筆者にとって、それは日常的な光景だった。インターネットでの検索に依る図書の購入が当たり前になっている現在では、自分の足で古書店を巡っても成果が得られず、もう長いこと動いていないのだろうと思える書架を眺めただけで店を出ることが多いのだが、その日、古書店の棚に茶色い雑誌が束になって置かれているのを見つけた時は、胸がときめいた。今回発見した『月刊毎日』の第2巻第1号(1945年1月号)は、その中の1冊である。最初に、この雑誌を手に取った時、筆者は今まで見たことのないそのタイトルに驚き、「どこかの如何わしい出版社が“毎日新聞社”の名前を騙って発行したのだろう」と思った。「“月刊毎日”という汎用性の高い名前を付けて、読者を誑かそうとしているのだろう」と類推した。ところが、その雑誌の奥付には“月刊毎日 第二巻第一号 一月号 定価一部金五円 昭和十九年/民国三十三年十二月二十日発行 編輯兼発行人・伊東重任、印刷人・田中荘太郎 北京東城東単三條胡同廿六 発行所・毎日新聞北京支局内 月刊毎日社 北京阜成門外北禮士路 配給元・新民印書館 電話(二)二一三〇-三三”とある。同誌は、戦争末期の1944年に毎日新聞社北京支局が発行した正統な総合雑誌だったのである。改めて同誌の目次を見ると、斎藤茂吉・佐藤春夫・山口靑邨・壺井栄・尾崎士郎らの著名作家が寄稿している。論説についても、2.26事件で反乱軍を援助した陸軍の要人である斎藤瀏や、岸信介・佐藤栄作兄弟の長兄に当たる佐藤市郎(海軍中将を務めた後、病気の為に1940年退役。1944年当時は大東亜戦争調査会委員だった)、慶應義塾の塾長(1933-1947年)で皇太子明仁親王の教育責任者も務めた小泉信三等が名を連ねている。分量も100頁あり、紙質も極めて良い。同じ時期に国内で発行されていた時局雑誌とは比較にならないほど、贅沢な雑誌だと言える。詳細は後述するが、どう考えても1945年1月号の雑誌とは思えないというのが率直な印象だった。そこで、先ずは発行元の毎日新聞社に問い合わせて、同社が『月刊毎日』という雑誌に関してどのような情報を持っているのかを確認すると共に、国立国会図書館・大学機関・公共図書館等の検索システムで同名のタイトルを探索した。社史編纂委員会編『毎日新聞七十年』(1952年・毎日新聞社)や、1872年からの毎日新聞をキーワードと日付でデータべース化した『毎索』等も調べた。だが、何れも該当する項目は無く、毎日新聞社もこのような雑誌が出版されていた事実を把握していなかった。唯一、1941年に毎日新聞社(当時は東京日日新聞社)に入り、戦中・戦後における同社の内情に通じていた野村尚吾の『サンデー毎日の歩み 週刊誌五十年』(1973年・毎日新聞社)に、「昭和20年には、実動部員は柴田四郎、杉本士朗、松田ふみ子となり、さらにその年の六月には、柴田も北京で発行していた“月刊毎日”の岸哲男と交代すべく、東京を去るという状態になった」という記載があるものの、同誌に関するそれ以上の言及は無かった。つまり、月刊毎日という雑誌は、日本国内の資料機関において1冊も所有されていないどころか、このような雑誌が存在したという事実すら継承されないまま、現在に至っていたのである。

続いて、月刊毎日に発表された文芸作品がその後、どのような形で全集や単行本に所収されているかを調査することにした。同誌の寄稿者には著名な作家も多い為、「全集等で書誌情報を確認し、作品に関する自解を見つけることができるかもしれない」と考えた訳である。だが、手許の第2巻第1号に掲載された斎藤茂吉『新年述志』(短歌5首)・佐藤春夫『異郷の新春』(詩)・壺井栄『村の運動会』(小説)に関しては、何れも全集未収録・未刊行の新資料であり、研究書や評伝にもそれらの作品に関する言及は無かった。こうして、月刊毎日が戦争末期から今日に至るまでの日本で殆ど認知されることのなかった幻の雑誌であることは判明したが、同誌が北京で発行されている以上、主たる読者は当時の中国大陸で暮していた日本人、及び日本語の識字能力を有する在住者である。そこで、戦争末期に北京周辺で発行されていた日本語雑誌に関する資料として『大東亜地域新聞雜誌総攬』(1945年3月・興亜総本部調査部編)の“雑誌之部 北支之部”に当たったが、月刊毎日に関する記述は無かった。日本を代表する新聞社の1つである毎日新聞社から発行され、戦争末期の総合雑誌としては驚くほど充実した執筆陣と内容を誇っているにも拘らず、日本国内に出版の記録が残っていないことに愕然とした筆者は、「中国の資料保存機関にこの雑誌が所蔵されているかどうかを調査するしかない」と考え、中国国内にある大学図書館のデータべースに当たった。その結果、創刊号以降の月刊毎日(1944年11月の創刊号から終戦を迎えた1945年8月の第2巻第8号まで、全10冊のうち8冊)が北京大学に所蔵されていることがわかった。中国国内でも他には保存されておらず、それだけが唯一の現物資料であることも明らかになった。また、北京大学で見つかった雑誌の目次を確認したところ、第2巻第2号に大佛次郎が『遅桜』という短編小説を書いており、自身が残した『敗戦日記』(1995年4月・草思社)の中で、「夜になってから月刊毎日の仕事にかかる。花頃の昭堂を書く(八枚)。十二時過ぎる。酉子を相手に白鹿を飲んでいるとまた警報。三時近くなりその後の警報は構わず酔って寝て了う」(1944年12月6日)、「遅桜を続け深夜になりて筆を置く。また警報出で静岡県下に投弾と情報を放送。白鹿二本目に手をつけて寝る」(同7日)、「“遅桜”に手を入れ送り新聞一回」(同8日)と記していることを確認した。同じ時期、朝日新聞に『乞食大将』を連載していた大佛次郎にとって、月刊毎日からの原稿依頼はそれほど大きな意味を持たなかったらしく、雑誌に関する記述は特に無かったが、翌年2月号に掲載される小説は、約2ヵ月前に3日間で書き上げていたことがわかった。以上の経緯を踏まえて、本稿では北京大学が所蔵する8号分(うち1冊は執筆者の個人蔵と重複)を原紙として、特に文学作品を中心に月刊毎日の特性と資料的価値を明らかにしていく。また、戦争末期の北京において、何故これほど充実した内容の雑誌を発行し続けることができたのか、この雑誌が何故歴史に埋もれたのかを考察し、所在が確認できていない号(今、現物確認できるのは、全10号分のうち第2巻第5号・第6号を除く8号分である。同誌は、日本が敗戦・撤退を迫られた1945年8月を以て終刊した可能性が高い為、この2号分が未見ということになる)の発見、及び復刻出版等に繋げていく為の基礎作業を行う。

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【思想としての朝鮮籍】第4部・朴正恵(上) 日本国籍から朝鮮籍へ

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3時間近くなったインタビューに区切りを付け、レコーダーを止めた。筆記用具を鞄にしまって顔を上げると、見たことのないほどリラックスした表情の朴がいた。「こんな率直にありのまま話すことができて幸せです。こんなことできないと思っていたもん。朝鮮籍も、朝鮮大学校卒も、民族学校の教師をしていたことも、母が日本人なことも…。これも民族学級との出会い、子供たちとの出会いがあったおかげ。人は人との出会いで変わることができる。私が子供たちに伝えたいことは、それなんです」。朴正恵。朝鮮にルーツを持ち、日本の公立学校に通う子供が、朝鮮の言葉や文化を学ぶ場『民族学級』で、30年以上も教壇に立ち続け、今も『大阪市民族講師会』の相談役を務める後進たちの拠り所だ。1942年、平安南道(現在の朝鮮民主主義人民共和国=DPRK)出身で在日1世の父と、富山県生まれで日本人の母との間に京都で生まれた。両親とも実家に勘当されての結婚だったが、法律婚ではなく、生まれた朴も未認知で、母の日本国籍を受け継いだ。朝鮮大学校生だった20歳の時、意を決して日本国籍を離脱し、朝鮮籍で外国人登録をした。卒業後は6年間、朝鮮学校の教師をした後、大阪で民族学級の講師となった。実は、これらの経歴について、朴は積極的に口にはしてこなかった。リスク回避の“知恵”である。総連系・民団系の民族学校の場合、大半は「言葉や文化、同胞の繋がりを得てほしい」との思いで、親が子供を送っているが、民族学級は、教師が朝鮮ルーツの子供を発見し、通級を勧め、保護者の了解を得るケースが殆どだ。家計の事情や思想信条、更には居住国社会における将来の展望等、日本の公立学校に子供を通わせる保護者の理由は様々で、“民族”への意識も多種多様、民族学校のように前提が分かち持てない。「日本で朝鮮の言葉や文化を学ぶことなど無意味」と見做す者や、「日本社会で“朝鮮性”に拘るなどリスクでしかない」と考える者もいる。朝鮮人として受けた差別を内面化したような者もいるし、所謂“北朝鮮嫌悪”の感情が強い者も少なくない。自己紹介で「朝鮮大学校出身」と言えば、それだけで保護者が民族学級を拒む恐れもある。況してや朝鮮籍だ。朴は長らく、国籍を訊かれれば「民族籍です」と答え、故郷の話題になると「夫は済州島です」と語ってきた。何度も会って対話を重ね、経歴や国籍以前に、先ずは自らの人格を知ってもらう形を採ってきた。本質的に日本国民育成の場であり、朝鮮人にとっては同化装置に他ならない公立学校において、マイノリティーの場を設け、維持・発展させていく。そのシビアな闘いが身に付けさせた“慎重さ”である。だから、自らの想像範囲を超えて流布する書籍で経歴を明らかにすることは避けてきた。学歴と職歴を初めて公にしたのは、公立学校での民族教育運動の記録である初の著書『この子らに民族の心を』(新幹社)でのこと。つい数年前までは、幾つか依頼のあったライフヒストリーの聴き取りも断ってきた。それが転じた契機は、2015年来の入退院だった。「いや、病気してからね、『人に迷惑かけない範囲で色んなことを残さないと』と思うようになったんです。人との出会いで学んできたことは、人に返して伝えていきたいと思うんです。やっぱり私、子供たちに伝えたいことがありますから」――。

朴の記憶は5歳、横須賀・三笠の朝鮮人部落で始まる。「海沿いにあるバラックで、向こうに軍艦が見えていました。元々はアメリカ軍の武器倉庫でね、7~8棟あった中をベニヤで間仕切りして住んでいました。板1枚ですから、同居生活みたいなもん。板に穴空けて隣の子と突き合いして遊んだりね。台風や大雨が来ると直ぐボロボロになるんです」。幼い彼女の目に映ったのは貧困と、それを補う同胞の紐帯である。「皆で海に行って貝を集めてね、冷蔵庫なんて無いから炊いて乾物にしたり、集落の直ぐ前に青果市場があるから手伝いしてね、汚くて売れ残った白菜とかキャベツとか大根とか貰って皆でキムチにしたりね。市場を手伝ってスイカ貰って、持って帰って皆で食べたこと覚えてますねん。それから、漁に出た小舟が戻って来る時間に皆でバケツ持って岸壁に行って、荷揚の時に落ちた魚を集めて帰ってきて皆で甘辛く煮付けたりね。食べられる時は皆食べて、食べられない時も皆一緒、そんな生活でした」。近接するアメリカ軍基地は、部落の朝鮮人にとっては“宝の山”だった。女性たちは日が沈むと敷地内に忍び込み、再利用可能な“ゴミ”を持ち帰った。重宝したのは物資運搬用の木箱である。「潰して釘とか金具は売って、残りは家の修緒に使うんです。“家”それ自体を建てた人もいました」。横流しされた物資の売買も、重要な生計手段だった。「秋葉原にそれを買い取る店があるんですわ。闇市です。私も遠足みたいにナップサック背負ってね。その中にウィスキーやらチーズやら入れてね。オモニに『若し捕まったら、知らんおばちゃんに渡されたって言うんやで』って言われて(笑)。取り締まりが厳しくなって止めたけど、仕事が無いからそんなんせんと食べられへんのが、子供心ながら複雑な思いでね…」。アメリカ軍基地には歓楽街が隣接し、日本人女性を連れたアメリカ兵が闊歩していた。「“白人通り”と“黒人通り”があって、間違って入ったのか、白人通りで黒人が血だらけになってたの憶えています。靴磨きをしている子供が居て、アメリカ兵が横柄な態度で台に『ダンッ』て足乗っけてね。それが皆、チューインガム噛んでんの。だから私、今もガム噛んでいる人が駄目ですねん。こんな言葉アカンけど、私、アメリカ兵が通り過ぎると『美奴がっ』とか言っていた」。祖国を奪い、名前や文化を踏み躙り、戦争にまで動員した旧宗主国の者たちを倭の国の奴ら、即ち倭奴と呼んだことを、“新たな支配者”美国(アメリカ)に当て嵌めたのだ。「キャバレーで働いているのは貧しい地域の日本人女性で、アメリカ兵に体を売って家族を養っているんですけど、蔑む目があるん。私は子供心に、『あの人たちも懸命に生きているんだ』って寧ろ応援していた。だって、ウチらの集落でも女の人、必死やったもん。パチンコの景品買いで捕まったりね。日本人でも朝鮮人でも、連れ合いを悪し様に言ったり暴力振るう男の人がいてね。『この社会は女の人が尊重されないんだ』って思いましたよ」。アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた子供たちもいた。「ダブルの子への差別は日本人・朝鮮人問わず激しかった。さっきの靴磨きの子もそうなんだけど、道を通ると地元のゴンタ(腕白)たちが『合いの子』とか言って石を投げたり、無茶苦茶に苛め倒す。私自身がそうじゃないですか、腹立ってね。同じダブルの子でも、黒人との間に生まれた子供を“クロンボ”とか言って苛めるんです」。彼・彼女らを通して、朴は自らの出自を自覚していった。

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【昭和史大論争】(10) 戦前エリートは何故劣化したのか

20160406 06
自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は誰も前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしている。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っていない――。満州事変から敗戦に至る日本は、運転手が余所見をして、ハンドルから手を放していたた為に崖から海に転落していった車に見えます。運転手として国のハンドルを切り、ブレーキを踏まなければならなかったのは誰か? それは、戦前のエリー トに他なりません。政治家・官僚・軍人たちです。何故、彼らは国の舵取りを誤ったのか? いや、それどころか、何故それを放棄してしまったのか? それは、戦前日本の失敗を考える時、最も重要な問いの1つです。それを考える為に、明治維新まで時間を遡り、この国のエリートを大きく3期に分けて考えてみましょう。第1期は、明治維新の志士で明治政府の創設に参画したエリートです。西郷隆盛(1827年生まれ)・大久保利通(1830年生まれ)・伊藤博文(1841年生まれ)・山県有朋(1838年生まれ)・西郷従道(1843年生まれ)といった人々です。第2期は、慶応年間(1865-1868)から明治初め頃に生まれ、江戸時代の生き残りに育てられたエリートです。秋山好古(1859年生まれ)・秋山真之(1868年生まれ)・正岡子規(1867年生まれ)・夏目漱石(1867年生まれ)ら、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちの世代です。第3期は、明治の半ばから終わり頃に生まれたエリートです。彼らは明治の終わりから昭和初期に大人になり、エリートの地位を手にいれていきました。東條英機(1884年生まれ)・近衛文麿(1891年生まれ)・広田弘毅(1878年生まれ)・重光葵(1887年)生まれ・米内光政(1880年生まれ)らの名前が挙がるでしょう。ハンドルから手を放してしまったのは、この世代でした。

第1期のエリートの特徴は、非常に数が少ないことです。未だ日本の所帯が小さかったので、政治的な指導者が大勢いる必要が無かったのです。また、その殆どが武士でした。彼らと後のエリートとの最大の違いは、「試験で選ばれた人材ではない」ということです。彼らは志士ですから、選抜試験は戦場から殺されずに生きて帰ってくることでした。生き残る能力を試されながら、「あいつは学もあるし、人柄もいい」と地域の仲間内での声望を得ることで、選抜されていきました。その過程では、故郷を共にするものが信頼できる仲間を選んでいく“郷党の論理”が働いていました。この論理は、明治政府の藩閥政治を形成していったので、「閉鎖的で身内贔屓だ」と評判が悪いのですが、人物を能力だけでなく、家族構成・性格・性癖まで総合的に見られる利点を持っています。一定の声望を得た人物は、藩や志士集団の中で何らかのポストや役割を与えられました。そこで、藩の軍艦購入に大いに貢献したとか、藩の外交を担って活躍したといった具体的な成果を上げた者が、更に上の地位に上っていきました。今の言葉で言えば、幕末維新のエリートは徹底した成果主義で選抜されていたのです。第1期エリートの特徴は、物事を一から構想し、それを完成させる能力の鍛錬を受けていたことです。江戸期は、分業が今ほど進んでおらず、使える人やモノも限られていましたから、上に立つ人間は一から十まで段取りを整えなければ、物事を成し遂げられませんでした。第1期エリートになるような人間は、様々な現場経験を積み、スペシャリストが持つ専門知ではなく、ジェネラリストに必要な総合知を自然と備えるようになっていました。これこそ、国を統べるエリートに求められるものです。例えば、薩摩藩の城下である下加治屋町に住んでいた西郷隆盛・大久保利通ら下級武士は、楠木正成への尊敬の念を厚くすると、大工でもないのに自分たちで材木を調達して、楠公を祀る神社を建ててしまいました。西郷や大久保たちは、この神社を建てるように新しい国づくりをしたに違いありません。また、私が書いた『武士の家計簿』(新潮新書)の中でも紹介しましたが、幕末維新の時代を生きた猪山成之(1844年生まれ)は、明治政府の大村益次郎(1825年生まれ)に会計官として取り立てられたのですが、一度もやったことのない政府の軍艦の修繕を命じられました。猪山は、軍艦が停泊するドックを造ることから始めて、何とかこの無理難題をやり遂げます。高い総合知を身に付けていたのです。

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【昭和史大論争】(09) 侍従武官未発表日記が明かす“昭和天皇の戦争”

20160328 13
昨年9月に公開された『昭和天皇実録』(以下『実録』)には、その記述の元となった多くの資料が列挙されている。そこには、昭和史を検証する者ならば誰もが知る有名なものから、一般には公開されていない日記・手記に至るまで様々だ。今回、紹介する『吉橋戒三日記』(以下『吉橋日記』)は、そうした未発表資料の1つである。吉橋戒三は、昭和天皇に仕えた最後の陸軍侍従武官の1人だった。陸海軍将校から選ばれた侍従武官は、大元帥である天皇に仕え、戦果や軍資料の報告等を行うのが、その主な役どころだった。私は昭和天皇崩御の折に吉橋を取材したが、その時、ノートに横書きで記された日記の写しの提供を受けた。侍従武官を拝命した昭和19年12月21日から、陸海軍省が廃止され、その任を解かれた昭和20年12月まで、吉橋自身の見聞や観察が簡潔に記されたもので、『実録』にも採用されたように、貴重な資料であることは間違いない。平成元年11月17日、吉橋は83歳で亡くなり、この日記は未刊のまま現在に至っている。『吉橋日記』の読みどころは、まさに敗戦を迎えようとする宮中にあって、その内部にいた人間が、偏りの少ない筆致で、その見聞を率直に記してある点だ。私も軍人の手記・日記の類をかなり読んできたが、自らの言い訳や自慢話に傾いたり、自分の体験と伝聞とが混濁し、独断憶測に走り過ぎたりする書も(特に後年書かれたものには)散見される。また、上層部に近い者ほど、様々な思惑が記述の中に隠されてもいる。その点、『吉橋日記』はどうだろうか。当時、4人いた陸軍の侍従武官の中で、拝命当時、38歳の中佐だった吉橋は最も若手だった。謂わば最末端の位置から見た天皇像が、そこにはあると言えるだろう。立場上、高度の機密に属するような場面には立ち会っていないが、幾つかの印象的な場面で、自分が見た素顔の天皇を記している。

先ず注目されるのは、戦争末期の天皇と軍部との緊張関係である。『吉橋日記』の冒頭近くで吉橋は、上官の坪島文雄少将から侍従武官としての心構えを聞く。そこで坪島は、「陸軍に対する御不信感を十分考え、陸軍を代表したつもりで立派に勤務せよ」(昭和19年12月29日。原文の片仮名を平仮名にし、仮名遣いを改め、句読点等を補った。以下同)と述べるのだ。つまり、これは陸軍には「自分たちは天皇から信用されていない」との自覚があったことを意味する。陸海軍が天皇に偽りの報告を行ったり、不利な戦況を隠したりしたことはよく知られている。一例を挙げれば、昭和17年4月18日、ドーリットル隊に依る東京空襲。東部軍司令部は「敵機墜落数は9機」と発表し、杉山元参謀総長も同様の奏上を行った。ところが、東部防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王は、天皇から「真相を報告せよ」と詰め寄られ、「敵機は1機も撃墜できませんでした」と明かしたのである。こうした事例が積み上がり、天皇は相当の不信感を抱いていた。身近で仕える侍従武官たちとしては極めて深刻な事態だった。更に、坪島は念を押す。「(天皇には)間違ったことを申上げられぬ。戦略戦術が分ったなどと思うたら大間違い、陛下の前にはかたなしだぞ」(同日付)。つまり、「作戦等に対する天皇の指摘・追及は中々厳しいぞ」という忠告なのだ。後に、吉橋はそれを身を以て実感する。それは昭和20年7月、北陸で行われた陸軍大学校の参謀演習を視察した折のことだ。これは国土防衛作戦を想定したものだったが、東京に戻り、天皇に報告した吉橋は、予期していなかった冷や汗を流すことになる。『日記』には、「朝、陸軍大学校参謀演習に関する復命を了す。努力不十分なりしを思い恐懼に堪えず」(昭和20年7月27日)とのみあるが、戦後の回想に依ると、「陸大で研究していたままを説明すると、(天皇は)地図を指されながら、いろいろ御たづねになる。それが一つ一つ痛い所、痛い所と突込んで来られる」(『侍従武官としてみた終戦の年の記録』…『軍事史学』1965年8月号。以下『回想』)。吉橋は陸大で兵学の教官を務めた経験もあったが、「未だかつて今日程、手剛く、鋭い追及を受けたことはなかった」(同前)と述懐している。稍前後するが、吉橋は同年6月にも東金から片貝へ出張している。「片貝に車行し水際陣地の研究を実視」(6月4日)。これも、九十九里での本土防衛の進捗を視察したものだろう。吉橋は国土防衛作戦の進捗状況を探り、軍備が整っていないことを正直に天皇へ報告した。実は、この終戦直前の時期、吉橋だけでなく侍従武官たちが日本各地に派遣され、本土決戦が可能かどうか実視を重ねている。昭和天皇の“聖断”は、こうした侍従武官たちの活躍にも支えられていたのである。

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