【大世界史2015】(04) 西ローマ帝国滅亡(476年)――ローマ帝国滅亡の真犯人

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紀元前146年、ローマ軍を率いる統領・スキピオ(小)の前で海洋帝国『カルタゴ』の都が燃え盛っていた。それを眺めながら、スキピオの目には涙が溢れるのだった。トロイヤ王国の滅亡を詠った詩聖・ホメロスの悲歌と共に、「我がローマにも、いつかその日が来るに違いない…兵どもも滅び去る日が」という思いが胸に去来する。それから600年後に、ローマ帝国(西ローマ帝国)は滅亡する。そこには、スキピオが予見したようなドラマティックな情景はなかった。476年夏、ゲルマン人の傭兵隊長に依って若い皇帝が退位を迫られる。密やかで音も無い幕切れだった。ローマ帝国の没落には、トロイヤ落城・ニネヴェ陥落・ペルセポリス炎上・カルタゴ壊滅に漂うような派手さは全く無い。形あるものはいつか壊れるのであり、かの空前絶後の世界帝国も軈て姿を消した。永遠なるものは何も無い。わかっていても、その謎はやはり残る。だからこそ、また、史上稀な世界帝国の終焉は“衰亡史”として人の目を惹く題材にもなる。抑々、ローマ帝国の時代は空前のグローバル化が進んでいる。アレクサンドロス大王の東征以後のへレニズム期に、東地中海世界を超える規模で交流が盛んになり、この地域で“コイネー”と呼ばれる共通ギリシア語が拡がっていた。軈て、西地中海の覇権を握ったローマは地中海世界全体を呑み込む世界帝国となった。舗装道路が整備され、各地の港が結ばれ、“全ての道はローマに通じる”ネットワークが生まれる。山賊や海賊も出没しなくなり、人や物の往来が益々盛んになった。地中海を“我らが海”とする広大な世界に、長期に亘る平和と繁栄が訪れる。この紀元前1世紀後半から数世紀の期間は“パックスロマーナ(ローマの平和)”と呼ばれ、名著『ローマ帝国衰亡史』を著した18世紀の啓蒙史家であるギボンは、「人類史のなかの至福の時代」と讃えた。ところで、ギボンの名著は衰亡の歴史を書き出すに当たって、この平和と繁栄の絶頂期から筆を起こしている。勃興から成長と発展を続け、栄華を極めながら、軈てそこに翳りが見え始める。偉大な世界帝国であっても、死滅の運命を免れなかったのである。ローマ帝国の死因は一体どこにあったのか? そう問いかけることは、専門家に限らず歴史を振り返ることの好きな人々にやはり、気になるところであるだろう。古来、多くの人々がそれについて語ってきた。そのシナリオは多種多様であり、詳細に分類すれば、その数たるや210種にもなるという。主なものだけでも、衰退の原因にはゲルマン民族・キリスト教徒・人口減少・気候変動・インフラ劣化・鉛中毒等が挙げられ、数え切れない。しかも、何れもそれなりの根拠を持つから、目移りするばかり。流石に、大帝国の衰退となると数多の旋律が底に流れる。それらを参考にしながら、現代世界から見たローマ帝国の衰退の歴史に思いを巡らしてみよう。

古くから様々な議論がなされる中でも、最もわかり易いのがゲルマン人の侵入である。ローマ帝国は天寿を全うしたのではなく、殺されたという。これは“ローマ帝国他殺説”とも言えるが、その犯人としてゲルマン民族が浮かび上がる。ゲルマン人は、大挙してローマ帝国領土内に侵入したり移住したりしている。それが没落の原因だったと考えるのである。この他殺説の中でも死に至る経過については、1つの診断書がある訳ではない。先ずは、広く知られる見解を挙げておこう。4世紀末のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂した。中でも西ローマ帝国は5世紀半ば、最早風前の灯だった。前世紀後半以来、ゲルマン人の侵入や移住に悩まされながら、東方から恐ろしく不気味なフン族の脅威が迫っていた。嘗ての大帝国も、勢いのあるゲルマン人に頼るより他に道は無かったのである。正しく、“毒を以て毒を制す”である。しかし、それは西ローマ帝国の落日の輝きに過ぎなかった。455年には、北アフリカに渡って王国を築いていたヴァンダル族のゲルマン人がローマを略奪する。この時の被害は大きく、皇帝権力は辛うじて形をなすに過ぎなかった。しかも、皇帝を支えるローマ軍の中枢部はゲルマン人傭兵だらけだった。476年夏、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが国家転覆を企て、少年のロムルス帝を退位させてしまう。失意の少年はナポリ湾沿岸に退き、ひっそりと暮らすしかなかった。だが、彼がいつ亡くなったのか、それすら記録されていない。確かなのは、西ローマ帝国から“皇帝”という地位が永遠に失われたことであった。斯くして、ローマ帝国他殺劇は呆気無く幕を閉じる。また、それよりも早い時期に注目する見方もある。パックスロマーナに危機が訪れた3世紀。その混乱も収拾され、4世紀になるとコンスタンティヌス帝が登場する。だが、この大帝と呼ばれた改革者の時代に、既に衰退の影が潜んでいたという。何よりも、帝国領内に移住した外部族出身者を特に軍人として公然と登用したことである。だが、それらの参入者は“ゲルマン人”と一括りにされ、敵意を持って見られていた訳ではない。更に、強力な機動軍の創設の為に辺境の兵力が削減されると、国境地帯は曖昧になり、人の往来がし易く流動的になる。大帝の死後、帝位を巡る争いが繰り返されたが、それでも帝国には衰退の兆しは殆ど無い。だが、半世紀を経ると、帝国は完全な崩壊状態に陥る。というのも、4世紀後半には帝国西半の防備が手薄になっている。その隙に在地の有力者が強勢になり、軍団中枢部にはゲルマン人の登用が目についてくる。その背景には、ゲルマン人の帝国内移住の荒波が打ち寄せていた。だが、必ずしも“大侵入”ではなかったという。寧ろ、ゲルマン人を差別・排除する“排他的ローマ主義”の芽生えが注目される。「ローマ人である」というアイデンティティーが危機に瀕し、変化したのだ。それは、410年のゲルマン人に依るローマ略奪に至る、僅か30年間に起こった。帝国内の他者を排除する意識が強まったとすれば、寧ろ自壊したと診断してもよい。

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【“貧困”無間地獄の現場】(06) 2015年『愛媛乳児死体遺棄事件』の深層――子殺しを生み出す“見捨てられた街”

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「昭和の時代かよ…」。そう感じた人も多いのではないか。今年7月、愛媛県八幡浜市で5人の乳児を死体遺棄するという痛ましい事件が起こった。5人の乳児の遺棄容疑で逮捕されたのは、同市在住の無職・若林映美容疑者(34)。彼女はこの数年、何度もお腹が大きくなって妊娠していた筈なのに、いつの間にかお腹がへっこむことを繰り返していた。子供が生まれた様子もなければ、流産したという話も出てこない。不審に思った近所の人の通報で、市の職員が自宅を訪ねたところ、「生まれたばかりの子供を捨てた」と自供。更に、捜査を進めていた愛媛県警は、自宅から新たに乳児4人の遺体を発見。7月21日、死体遺棄容疑で逮捕となった。年老いた父、やはり無職の弟、そして別れた夫との長男の4人で、彼女は定職に就くことなく、ボロボロのアパートで生活していた。インターネット上では「父親や弟との近親相姦だった為に、自宅で産み捨てていたのでは?」という情報が駆け巡ったが、実態は違っていた。「若林映美をこの何年か、数度に亘って買った」という同県松山市在住の男性から話を聞くことができた。彼女は、八幡浜でウリ(売春)をして生活していたのだ。「ニュースになった時、最初は彼女と気付かなかった。写真も、高校の卒業アルバムだったしね。数日経って、金髪で派手なミニスカートの写真が出回るようになって、あと左目の下に黒子があったから、『あ、コイツ映美だ』と。八幡浜でウリをしていたのは、この女ぐらいだったからね」。男性は松山市界隈の風俗に飽きて、出会い系サイトでウリ情報を探すようになった。愛媛県内には『ハートマーケット』という県内専門の出会い系サイトがあり、そこの『秘密の出会い』という援助交際用の掲示板を若林映美は利用していたという。「相場で言えば、松山市内で若い子の場合、大体2万円前後。若林映美は八幡浜限定だけど、1発1万円と格安だった。それで、『面白そうだな』と買ったんだよ」

松山市から八幡浜まで車で約1時間。現地のパチンコ店で待ち合わせをして、そのまま車に乗せて、人気の無い海岸でカーセックスをするのがパターンだったという。「別に美人でもないし、あっちが特別よかった訳じゃない。値段が安いのと、生で中出しできたんで、『1万円なら悪くないかな』と。それに、八幡浜でエンコーしていたのは彼女だけでね。さっきのサイトでも、本名の映美に捩った名前を使って『八幡浜に来てほしい』と。いつも同じ条件で募集していたから、『あの女だな』と直ぐわかるんだよ」。彼女が「ゴムを付けて」と頼むこともなければ、行為後に文句も言わなかった。「誰とでも中出しさせていた筈だ」と男性は証言する。つまり、捨てられた乳児はこうしたエンコー相手が父親だというのだ。「一時期、活動していなかった時期があって、その後に復活したからまた買ったんだけど、お腹はぺったんこだったよ。俺の子? いやいや、その可能性は無くはないけど、多分、原発の作業員だろう」。八幡浜から更に佐田岬方面に車で30分ぐらい進むと、四国唯一の原発である伊方原発がある。「八幡浜近辺で女遊びをするカネを持っているのは、原発関係者ぐらい。この界隈で風俗と言えば松山や宇和島になるが、どっちに行くにせよ片道で2時間近くかかる。臨時雇いとかが『手っ取り早く女を買いたい』となれば、八幡浜になるだろ? でも、この街に風俗は無いし、体を売っているのは彼女だけ。まあ、そうなるわな」。八幡浜市は人口約3万5000人。周囲の山々には蜜柑の段々畑が広がり、豊富な海産物の取れる漁港もある。双葉山を破った前田山(横綱)等を輩出。戦後から1970年代までは、トロール船の基地として発展してきた。今でも、瀬戸内海の美しさを多分に残した風光明媚な観光地で、こんな痛ましい事件の舞台になるとは思えない。しかし、地元の愛媛県民にすれば、「あそこなら仕方ない」と思われているのも事実なのだ。

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【大世界史2015】(03) イエス誕生(紀元前4年頃)――考古学でわかったイエスの正体

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十字架上の死――それは紛れもない刑死である。そこで息絶えた男に民族解放の旗手、約束の“メシア”像を重ね合わせていたユダヤ人たちは、その死に深い絶望を味わったに相違ない。では、この男にそれほどまでの期待が寄せられていたのは何故だったのか? 男の名はイエスといった。出身は、死地であるエルサレムから北に100km離れたガリラヤ地方のナザレという田舎町である。ユダヤ教の壮麗な神殿が聳え、豪華な邸宅が犇めくエルサレムとは極めて対照的な鄙びた町であった。そんな陬遠の地からやって来たイエスという男が、何故そこで死を以て罰せられねばならなかったのか。そして、この男が死してのち3日目に復活したと信ずる者たちが次第にその数を増し、その信仰が軈て、今日数億の信者を擁する『キリスト教』なる宗教に発展していったのである。この男が一体何を言い、何を行ったのか。いや、抑々イエスというのは実在の人物なのか。イエスが生まれた紀元前1世紀末、今日のパレスチナ一帯は事実上、ローマ帝国の支配下にあった。『新約聖書』の2つの福音書は、イエス生誕の地をベツレへムとする。しかし、多くの研究者はこれを否定する。「イエス生誕を物語る新約聖書のエピソードは、基本的に創作である」というのである。このエピソードが創作であるとするならば、それを生み出した背景とは一体どのようなものだったのだろう。『マタイによる福音書』2章は、イエスが生まれた時代のユダヤの王・へロデが、将来ユダヤ人の王となる“メシア”と呼ばれる人物がどこで生まれることになっているのか、学者を集めて問い質す場面を描いている。その時、彼らはそれが「ベツレへムである」と明言する。その根拠として彼らが引用したのが、『旧約聖書』の一節であった。

『旧約聖書』でメシアについて予告されていたことが成就する為には、メシアたるイエスはベツレヘムで生まれていなければならなかったのである。従って、これらのエピソードは、「イエスこそが予告されたメシアである」と周囲のユダヤ人を説得する為に、イエス死後、その信奉者たちが創作して付け加えた部分であると見做してよい。事実、『ヨハネによる福音書』7章は、イエスがガリラヤ地方出身の人物である故に、メシアではないと考える人がいたことを記している。こうした意見に対抗する為に、イエスのベツレへム誕生エピソードが創作されたのだろう。事実に反してまでこうしたエピソ ードを創作せねばならなかったことは、とりもなおさず、イエスと初期の弟子たちが、『旧約聖書』を奉ずるユダヤ教的背景の只中にいたことを指示しているのである。イエスの言動を詳細に記す文献は『新約聖書』、とりわけ福音書である。今日の我々が抱くイエスのイメージは多く、この記述に依っている。しかし、福音書が描くイエス像が実在の人物としてのイエスの姿をどれだけ正確に伝えているのか、前述した生誕の地に関する記述内容に照らして考えても、甚だ疑問である。そこに描かれているのは、“メシア=キリスト”として崇められる対象となった、神格化され理想化されたイエス像なのである。その為、仮令イエス自身の言動にまで遡り得る情報が含まれているにせよ、そこには多くの脚色・誇張といったフィクション性や著者の解釈・主張が認められる。しかしながら、イエスが実在したことに疑念を差し挟む研究者は今日、殆どいない。最大の理由は、『新約聖書』以外の文献史料がイエスについて記していることにある。古代ローマの著名な歴史家の1人であるタキトゥスは、2世紀の初めに著した『年代記』の中で“クリストゥス”なる人物に言及している。彼に依れば、この人物は皇帝ティベリウスの治世下、ポンティウス・ピラトゥス(ピラト)に依って処刑されたという。ここで“クリストゥス”という固有名詞で言及されているのは、文脈から判断すればイエスのことと考えられる。“メシア”に相当する“クリストス”というギリシア語が人名と誤解されているのである。処刑の時と処刑者が『新約聖書』の記述と合致する故に、イエスが実在したことの有力な傍証の1つとされる。

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【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に

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「貧しい昭和がこびり付いたような街」――『最貧困女子』(幻冬舎新書)で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。彼女もやはり、市営住宅出身者だった。彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。

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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(30) 妻の存在、人生を支える…高速鉄道海外へ、今後も疾走

振り返れば、私の鉄道人生は常に新幹線と共にあったと言える。1995年から社長を、2004年からは会長を務めたが、東海道新幹線が開業50周年を迎えた2014年に名誉会長となり、国内の事業は後輩たちに委ねた。現在は、培ってきたヒューマンネットワークや経験を生かし、高速鉄道の海外展開に取り組んでいる。日本型高速鉄道システムの特色は、平面交差を排除した専用軌道と、自動列車制御装置(ATC)が作り出す“クラッシュアボイダンス(衝突回避)原則”にある。海外展開に依り、このシステムが国際標準になれば、関連の製造業の市場が広がり、その足腰が強くなる。結果として、高品質の資機材を安定的に調達でき、東海道新幹線の安全・安定性が確保される。JR東海は、高速鉄道システムの技術とノウハウを提供し、運行・保守の指導を担う。この過程で、技術者の国際性や自信が養われる。海外でのプレゼンスの向上は、優秀な人材を将来に亘り確保する意味でも有効である。現在、アメリカのダラス-ヒューストン間(約400km)においては、東海道新幹線N700系の導入が検討されている。民間主導の計画で、その事業主体が2015年7月に当面必要な資金を調達する等、着実に前進しつつある。同じくアメリカでは、東海岸のワシントンD.C.-ニューヨーク間への超電導リニアの導入を働きかけている。アメリカの大地をニッポンの高速鉄道が疾走するのも、夢ではないように思う。

私の鉄道人生は変化の連続で、その都度「この時しか無かった」という天の時と、「この人無しには」という人の縁に助けられて、ここまで来た。その中で終始一貫して家を守り、後顧の憂いを除いてくれたのが妻である。子供たちのこと、家事家計は勿論、両親への孝養も全て妻に任せきりだった。職場での閉塞感や切迫感を、家では一切口にしたことがない。話せば気力が抜ける。だから日々、詳細なメモを書き続けて闘志を温めたのである。一度だけ、「国鉄を辞めたら、塾の先生にでもなるか」と冗談めかして言ったことがあった。その後、妻は子供たちが通っていた近所の学習塾に行き、創立者で塾長の永瀬昭幸氏に「主人が国鉄を辞めたら塾の先生に雇ってくれますか?」と尋ね、「いいですよ」という返事を貰ったそうである。妻は空気を感じ取り、何かせずにはいられなかったのだ。「その時には『校長先生をお願いしよう』と思っていました」。後に、永瀬氏ご本人から伺った。校長先生にはならなかったが、永瀬氏には現在、海陽学園を随分応援して頂いている。これまで、妻には全て“以心伝心”で済ませて来た。しかし、今回私の履歴を語る以上、その殆どの期間を共に歩いて来た妻の支えに触れずに終える訳にはいかない。そう思い、“妻への感謝”を表明して稿を終えることにした次第である。2人が出会い、育んできた家族は、子供たち夫婦6人と孫5人の合わせて13人になった。ありがとう。心から感謝している。 =おわり


≡日本経済新聞 2015年10月31日付掲載≡


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【“貧困”無間地獄の現場】(04) 生活保護以下の収入で暮らす最貧困事情――AV業界の最底辺、“汁男優”の最底辺賃金

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AV業界における最下層カーストである“汁男優”は、僅かなギャラで仕出しのように現場に集められ、女優とカラむこともなく、“ぶっかけ”等の場面で精液を提供するだけの存在だ。この汁男業界で、あまりにも特殊な風貌を見い出され、キモメン男優として活躍したのがダイナマイト幸男だ。見た目のインパクトは今でも語り草だが、数年前に男優業を引退。現在は公営住宅で、生活保護を貰う両親とひっそりと暮らしている。「汁男優を引退したのは…お金が全く稼げないし、このままずっと続けていたらよくないことが起こりそうな感じというか…虫の知らせがあったんだ」。ダイナマイト幸男は現在49歳。嘗て自衛隊にいたこともあるという。「自衛隊は、訓練が嫌で脱走して辞めた。その後、別の駐屯地でもう1回自衛隊に入ったんだけど、それも逃げた。2回も自衛隊を逃げているのは珍しいでしょ?(笑) 他は、飲食店のバイトとか、そういう仕事をずっとしていた。コンサートの整理スタッフをやっていた頃は、月に20万円ぐらいは稼いでいたね。“光GENJI”とか“チェッカーズ”の解散コンサートとかをやったのを覚えている」。断続的なアルバイト生活の果てに辿り着いたのが、汁男優業界だった。「最初にやったのが1999年くらいかな。凄く興味があって応募して、初めは汁として射精するだけだったけど、声をかけてくれる監督さんがいて、女優さんと絡むような仕事を偶に貰っていた。ギャラは、1本で1万円くらい貰っていたかな」。まだAV業界がギリギリ景気が良かった頃で、キモい風体の男優が可愛い女優を犯すような作品も作られていた。しかし、飽く迄も特殊なジャンルだけに、特別、本数が多い訳ではなかった。「汁の仕事は、一番多くても月に10本くらい。ギャラも1本5000円とか、どんどん下がっていったね。交通費も出ない撮影もあったから、現場まで歩いて行ったことも多かったね。家は荒川区なんだけど、カネが無いから撮影場所の大泉学園まで一晩かけて歩いたこともあるよ」。男優を引退した現在、収入はゼロ。貯金も勿論ゼロ。実家暮らしの為、食べることと寝る場所だけは何とかなっているが、最近は体調を崩し、杖や車椅子が無いと移動もできないという。「2週間に1度、病院に行く時に弟が2000円だけお小遣いをくれるんですよ。自由になるお金はそれだけ。毎日、何もすることが無いので、携帯電話で昔絡んだことのある女優さんのブログを読んだりしているよ」

伝説のキモメン男優の後継者と目されているのが小ダナマイトだ。汁男優として参加した現場で見い出され、キモ男優として活動している。「僕はずっとアメリカに住んでいたんですよ。留学という名目でアラバマ州に行って、そのまま11年間ぐらい暮らしていました。最後のほうはビザが切れていたんで、不法滞在という形ですけど。家賃は仕送りで賄えていたんで、後は日本食レストランで偶にアルバイトをするぐらいで、殆ど家にいました」。アメリカにいながら、誰とも会わずに引きこもりのような生活をしていたという。そして帰国後、今度は実家で引きこもる毎日だったが、性的な興味から汁男優に応募した。「汁男優って言っても、ちゃんと監督の言うことを聞かなきゃいけないし、周りとも上手くやらなきゃだし、本当に大変だなって。でも、生で女優さんを見れるのは嬉しかったですね」。汁男優からキモメン男優になった今も、現場では怒られることばかりだという。「幸男さんがやっていた時代よりも景気が悪くなって、ギャラは1本2000円というのも当たり前ですね。半日以上拘束されて、弁当は牛丼の並だけ。交通費が出ないのはもう当たり前ですよ。撮影の終わる時間が深夜0時を回っても、そこで解散ですから、駅まで歩いて野宿することも多いです。あと、女優さんと絡む為には性病検査を受けなくちゃいけないんですが、これも昔は別で払ってくれていたんですけど、今は自己負担。価格は1万800円で、有効期限も1ヵ月しかない。何本も現場があるほうならまだしも、僕みたいに月数本しか仕事が無いと、確実に赤字です」。彼も今は実家住まいなので、何とか生き延びているだけ。将来的な計画等は全く無い。「この世界でしか生きていけないので、いつか自分が好きな女優さんを沢山集めてAVを作ってみたいですね」。汁男優だけで生活などできない。アルバイトを兼業したり、年金や生活保護を貰いながらやっている者が殆どだ。汁男優はAV業界だけでなく、現実社会においても最底辺という立場に固定されている。親というセーフティーネットに守られている2人は、展望の無い人生をウロウロし続けている。 (取材・文/大谷弦)

■あの極貧セックス教団『リトル・ベブル同宿会』の今
2007年、“正しいセックス”を行う儀式として行う奇異な教団として、世間を騒がせた『リトル・ベブル同宿会』。全員が定職に就いておらず、当時の収入は、神父の全盲の養女に支給される月額8万円の障害者年金のみ。まさに火の車だった台所事情。あれから8年、このセックス教団の現在はどうなっているのか、神父に聞いてみた。「養女の容態が重くなったので、障害者年金が10万円、それに精神障害者年金4万円。あと、2階で下宿屋をやっているんですけど、そこに新たに信者になった女性が住んでいまして、彼女から下宿代6万円を貰って、月20万円の収入です」(ジャン・マリー神父こと杉浦洋氏)。下宿している信者も含め、5人で生活している彼ら。やはり、生活は困窮を極めている。「毎日、朝昼晩、同じ食事です。ミューズリーと板海苔1枚。最近は食べ物が値上がりしているんで、量を減らしています。クララがよくブログにラーメンとかアップロードしているんで、それを見た人は『いいもん食べている』とか思っているかもしれないけど、彼女は拒食症で骨と皮の状態。外食は治療の一環なんです。光熱費の値上げも辛い。平均すると月3万5000円ぐらいですが、冬は豪雪地帯(秋田県)なんで灯油代がかかる。部屋でも厚着して、10℃以下になったらストーブをつけるようにしています。今年の夏は暑いけど、クーラーなんてつけません」(同前)。全員、何らかの障害を持つ彼らは年々症状が悪化しており、『ミトコンドリア脳筋症』という難病持ちの神父は最早、散歩もままならないという。

●正しいセックス…マリア様のお告げで始めたという儀式。「クンニリングスの時はヨーグルトを陰部に塗る」「挿入しないで素股で果てる」「射精した精子は瓶に入れておく」等が特徴。
●ミューズリー…加工穀物・ナッツ・干し葡萄等が入ったシリアルの一種。
●クララ…クララ・ヨゼファ・メネンデスこと阿部由美さん。“正しいセックス”での神父のパートナー。


キャプチャ  2015年10月号掲載


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【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(29) 理想の学校、設立に尽力…参画90社、全寮制で人間力育む

2000年に小渕恵三内閣が教育改革を打ち出したのに合わせ、経済界のシンクタンクが教育のあり方について提言を出した。私も1年半に亘って、提言の議論に加わった。痛感したのは、誰もが教育の被験者且つ関係者であるが故に、「100人いれば100通りの考えがある」ということだった。実践しかない。予て危機感を抱いていた教育分野で現実的な貢献ができるとすれば、自らが理想とする学校を作り、実績を示すことだ。支持を得られれば、自ずと輪が広がっていくであろう。同じ思いの『トヨタ自動車』名誉会長の豊田章一郎さん、『中部電力』会長(当時)の太田宏次さんと3人で、学校作りに向けた勉強会を始めた。現代は両親が共働きで、1人っ子という家庭が多い。先ずは、豊かな“人間体験”ができる環境を作りたい。また、塾に通う必要が無いように、国語・英語・数学の基礎を効率的・徹底的に教え、空いた時間は友達と議論をし、スポーツをし、本を読む。学校であると同時に家庭であり、社会でもある――。答えは“全寮制の中高一貫校”。3人の意見は一致した。課題は、寮での生活が規律正しく、目の行き届いたものになるかどうかだ。モデルの1つとなるイギリスのパブリックスクール『イートン校』を訪ね、校長(当時)のトニー・リトル先生からも話を聞いた。イートン校では、寮(ハウス)にハウスマスターと呼ばれる先生が家族と共に住み、高学年の学生を自分の補佐役にして生徒の面倒を見ていた。経験の無い私たちは、600年の歴史を持つイートンのようにはいかない。

「企業が作る学校だから、企業ならではの仕組みを導入しよう」――。考え出したのが、“フロアマスター制度”だ。1棟に60人の生徒がいるハウスを、専任教員でもある1人のハウスマスターと3人のフロアマスターで運営する。フロアマスターは、私たちの学校に賛同する企業の独身男性社員。毎年、交代で派遣してもらい、各フロアの生徒20人と起居を共にし、生活指導や人間力の育成に当たる。設立に当たり、約90社から200億円を超える寄付が集まり、2006年春、愛知県蒲郡市に『海陽学園・海陽中等教育学校』が開校した。初代校長は、『開成中学・高校』の校長を長く務めた伊豆山健夫氏である。現在、13歳から18歳までの約700人が共同生活をしながら学んでいる。最初は心細い様子の新入生も、9月頃にはすっかり逞しくなる。今春、4回目の卒業生を送り出した。有名校への合格自体が目的ではないが、進学実績も着実に出ている。フロアマスターは25社から28人。この制度は、企業の側にも大きなメリットがある。20人の子供たちを1年間に亘って面倒見続けた社員は、人間的に大きく成長して会社に戻ってくる。この間に得たヒューマンネットワークは、本人にとっても大きな財産だ。以前、この欄でも紹介したように、葛西家は代々、佐渡島の漢学者で、私塾を開いて子供たちに学問を教えていた。父も長年、東京都立高校の教壇に立った。一方、私は国鉄に入り、企業経営の道を歩んできた訳だが、今こうして学校教育に関わっている。縁と言うべきかもしれない。


≡日本経済新聞 2015年10月30日付掲載≡


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<画像3枚> イベントで「彼氏はいない」と宣言したその夜に…おのののか、イケメン会社員と手つなぎ麻布十番の夜

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夜10時過ぎ。居酒屋を出て、寄り添って歩く2人。身長169cmで小顔のおのが街を歩くと、スタイルの良さが際立つ。

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明るい商店街から暗い路地に入った途端、2人は身体を密着させた。おのが少し年上のカレに甘えている雰囲気だった。

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ジャンル : アイドル・芸能

【私のルールブック】(24) 最悪を想定して“終活”と早めに向き合う

皆様のご存知の通り、北斗晶さんが乳癌を告白し、川島なお美さんが若くして他界された。因みに、北斗さんと私は同じ歳で、なお美さんは若干先輩ではあるが、同年代である。やはり、色々考えてしまいますよね。所謂“アラフィフ”…。働き盛りと言われながらも、人生の折り返しはとうに過ぎている訳で、まだ無理が利く一方、あちこちに不具合が出てきているのも実感している年齢。とのことから、否が応でも“死”というものを意識せざるを得ないと言いますか、早いと言われる方もいるかもしれませんが、既に私はかなり具体的に逆算しているんです。例えばワンちゃん。長男を迎え入れたのは今から約6年前。犬種はチワワ。チワワは結構長生きとされています。とはいえ、15年生きてくれたら御の字、18年天寿を全うしてくれたら万々歳。その場合、私は還暦を迎えていることになります。そうなんです。基本、私は還暦合わせで逆算しているんです。

「還暦なんて早過ぎるよ~!」って声が聞こえてきそうですが、現実として、なお美さんは54歳の若さで逝ってしまわれた訳で、確率の問題とかではなく、最悪の場面を想定して事前に手を打っておいて、何がいけないのか? 6年半前に子役スクールを立ち上げたのも、似たような想いからでした。若い時分、生意気を通り越してやりたい放題だった私。40を過ぎて、かなり遅ればせながら「このまま自分の為だけに仕事をしていたら、申し訳なさ過ぎる」と思い、“自分”ではなく“他人に残す”作業を模索した結果、子役の指導に行き着いたのです。勿論、経営面もしっかり逆算しました。立ち上げから3年は赤字でいい。しかし、5年以内でチャラベースに持っていきましょう。5年間で子供たちは勿論、同様に社員さんを育てましょう。仕事というものは最終的に“人”ですから、人件費削減ではなく、可能な範囲で人材育成に先行投資しましょう。何故ならば、人を育てなくては“私”が消えることができないから。だって、いつまでも私程度の名前を売りにしていては、健全経営とは言えないでしょ? よって、私の名前を1日でも早く消す為に、日々子供たちと社員さんたちと向き合っている訳です。まあ、粗々“終活”ですよね。早い遅いのご意見はさて置き、早めに動き出しておけば、それだけじっくり時間をかけて根回しできますから。

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【嘗て天皇は仏教に帰依していた】(01) 皇室の宗教信仰を改めて知る為に

今年は“戦後70年”の歴史の節目で、昭和史を巡る“反省”“謝罪”に内外の注目が集まっている。折しも、今上陛下は年頭所感で、「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び」と述べられた。春に公刊が開始された『昭和天皇実録』は、予想を上回る大きな反響を呼んでいる。第124代昭和天皇(在位1926-1989)は、戦前は“現人神”と神聖視され、“国家神道”の時代に君臨された。それが戦後は、“信教の自由”“政教分離”の時代の“象徴”となられたが、ご自身はどのような信仰をお持ちだったのだろうか? また、皇室の宗教観とは如何なるものなのか? 歴代天皇にとって、仏教とは何だったのか? 今回より3回に亘り考えてみたい。先ずは、江戸時代までを振り返る。70年前の昭和20年元旦、警戒警報のサイレンが闇を引き裂き、サーチライトが幾筋も空を射る非常事態の中、昭和天皇は御文庫の庭に急造された祭場で四方拝をお務めになった(藤田尚徳『侍従長の回想』)。日本にとっても皇室にとっても、大波乱を予感せざるを得ない1年の幕開けであった。当時は一般に国家神道の時代とされるが、国家的な仏事も同時に行われている。真言宗総本山教王護国寺(東寺)では、この1週間後、天皇と国家の守護を目的に、真言宗最高の秘儀とされる“後七日御修法”が執行された。同年1月15日付の『朝日新聞』に数行の記事が載っている。「真言宗最高の厳儀、京都東寺の宮中後七日御修法は14日結願となり、日下大僧正は御衣を捧持して随員一行とともに同日午後8時52分京都発列車で上京した(京都)」。だが、これと相並ぶ、天台宗総本山比叡山延暦寺の御修法(御衣加持御修法)についての記事は、僅か2面しかない当時の紙面には見当たらない。

延暦寺では古来、毎年4月4日から7日間、御修法と呼ばれる大法要が営まれてきた。根本中堂の内陣に天皇の御衣を案置し、国家安泰・玉体安穏・万民豊楽等を、天台座主他高僧たちが1週間籠もり切りで加持祈禱する。天台密教最高の秘法とされる。その始まりは、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山(日枝山)に伝教大師最澄が堂塔を建て、天台宗を開いてから35年後の弘仁14(823)年と言われる。第50代恒武天皇(在位781-806)の招請に依り、宮中の紫宸殿で最澄の弟子・円澄が五仏頂法を修念したのが起源とされる(渡邉守順ら『比叡山』)。宮中では承和元(834)年、元日から7日まで神事として行われる宮中前七日節会に対応して、8日から14日まで後七日御修法が勤修された。これは、第54代仁明天皇(在位833-850)の勅を奉じて、弘法大師空海が大内裏で勤めたのが最初とされ、翌年には空海の奏請に依って宮中に真言院が造立され、大極殿で護国経典の金光明最勝王経を転読講讃する宮中御斎会と並行し、顕密相対して営まれることとなった。導師は東寺の長者が勤めた。世尊は『金光明最勝王経』の“王法正論品第二十”で、「先の善業の力によって天に生まれ、王となった」「諸天の護持によって天子と名づけられた」とし、「国を治むるに正法をもってすべし」と教えている。「悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎える」と警告している。皇祖天照大神からこの国の統治を委任され、公正且つ無私なるお立場で「国中平らかに安らけく」と只管祈り、「国と民の統合を第一のお勤めとする祭祀王が天皇である」という考えと共通するものがある。天皇自ら宮中で神道儀式を斎行される一方で、皇室所縁の名刹では勅命に依って国家的な大法要が営まれる。皇室或いは天皇の信仰・宗教観は、国民の多様なる価値観を同等に認める、日本古来の価値多元主義に支えられていることがわかる。歴史を振り返れば、歴代天皇の宗教的お立場は更に明らかになる。

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テーマ : 歴史
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