【私のルールブック】(45) 勝負の場には異性はご法度!

前回では頁内に収まり切らなかったので、ラスベガスの続編をお届けしたいと思います。「不眠不休で視界が黄色くなってからが本当の勝負!」と申し上げました。ベガスでは、“読み”よりも“勇気と潔さ”が必要なのだと…。ベガスでの私の主戦はバカラでございます。流れが悪くなるとルーレットで遊び、カードが馴染まないと感じるとポーカーで感触を確かめる。バカラはナチュラル9を筆頭に、9により近い数字の者が勝利を手中に収めるゲーム。ディーラーとのタイマン勝負となります。ベットするのはプレイヤーかバンカーで、タイ(引き分け)もありますが、基本はどちらが勝つかの丁半博打と思っていいでしょう。

当然、カードゲームですから確率論となりますが、麻雀のように捨て牌が晒された状態とはならず、我々素人が破棄された全てのカードを記憶するなどできる筈もない。難しく考えるよりも、流れを前提とした自身の勘に頼ったほうが賢明なのでは? っていうか、ぶっちゃけ勘でいいのよ。「流れが俺に来てるな!」と直感した時に、どれだけお金を積めるかなんだから。で、流れが来ていない時は、どこまで我慢がきくかな訳で…。20代の頃、こんな事がありました。当時、付き合っていた彼女と一緒にベガスに行ったんですけど、ま~ツイてたんですよ。基本、プレイヤーに張り続け、倍々に積んでいって12連勝したりね。瞬く間にとんでもない額を手にしちゃったりする訳ですよ。そこまでいくとディーラーも呆れるしかなく、フロアマネージャーは慌て始めます。すると突然、ディーラーがコロコロと代わる。私が少し負け始めると、そのディーラーは居座り続ける。しかし、私はベットする額を抑えながら、流れを自分に引き寄せる。「流れが来た」と思ったらドンッと張る。延々と、この繰り返しな訳です。そしてツキまくっていた私は、どんなディーラーが来ようと連勝街道を突っ走り、彼女の前で王様気分ですよ。気分はもう、どこぞの国の石油王並みに大きくなっておりました。「欲しい物は何でも買ってあげるよ!」的な。「何なら店ごと買っちゃう?」みたいな。買える訳ないんですけどね。すみません、 若かったもので…。

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テーマ : 俳優・男優
ジャンル : 映画

【変見自在】 日本を呑む

支那の史跡をよく歩いた。支那人はどうも、歴史とかを粘土細工みたいに考えている節がある。好きに捏ねて、気に入らなければ潰して捨てても構わない。武漢の一角、長江を望む丘に『黄鶴楼』が建つ。三国時代、呉の孫権が建てた三層の楼閣は、度々の戦火で焼かれ、それでもその度に再建されてきた悠久の史跡の1つだ。楼の名は、壁に描かれた鶴が酔客の手拍子で踊りだすという伝説に依る。、唐代には帰郷する孟浩然を李白がここから見送った。その時に詠った「故人、西の方、黄鶴楼を辞す」もまた、よく知られる。現在の楼閣は、日本人が撮った明治期の写真を基に再建されたが、三層は貧相だから六層にし、破風も付けて、昔の姿を一切留めない“復元”をした。旅順には、乃木大将が苦戦した二百三高地がある。日本人観光客を誘致できる。「では、商品価値をもっと高めるアルヨ」とコンクリート製の怪しげな断崖絶壁を彼方此方に拵えた。身一つ隠せない丸坊主の丘陵だから日本軍は攻めあぐね、屍を積んだ。何の為の史跡改竄か。

満州南部、支那に接するのが熱河だ。満州王朝はそこに承徳宮を建てて、モンゴル、ウイグル、チベットの王侯たちとの外交の場にしてきた。 チベットの為に、ラサのポタラ宮をそっくり真似た小ポタラ宮を造営し、モンゴル王の為に興安嶺の麓に広大な木蘭囲場を用意し、狩りを共に楽しんだ。支那人は、ここには出入りできなかった。支那人の身分は家奴、つまり国ごと奴隷の扱いだった。それが恥ずかしくて、支那人はこの史跡を“満州王朝の夏の避暑地”ということにして、北京の家奴取締本部だった紫禁城を本当の宮殿に仕立てた。史跡の機能を偽ることくらい、支那人には朝飯前の知恵だ。また、熱河は1931年の満州事変以降、日本軍と、アメリカに後押しされた蒋介石軍との鬩ぎ合いの仕上げの場ともなった。所謂“熱河作戦”は満州国建国、日本の国際連盟脱退という激動の時期に展開され、蒋の軍勢はリットン調査団の言う“支那の国境線、万里の長城”まで押し戻されて敗退した。その停戦交渉は天津の近く、塘沽の煉瓦建ての洋館で行われたが、2009年に行ってみたら建物はボロボロながら奇跡的に残っていた。しかし、ガイドの張宇は、近く鬼城団地を作るので「取り壊す」と言った。「支那敗戦の史跡は処分していいのか?」と問うと、張宇は「日本人は支那と言うな」と言い返した。“シナ”は、支那の石油会社もウェブサイトも使っている。でも日本人が使うと、「駄目な頃の支那を思い出させるから」駄目という。

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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

【お寺が足りない!】(中) 首都圏開教に挑んだ住職が痛感した寺が足りぬ最前線

立派な伽藍も広い境内も駐車場も無い。民家と見紛う建物だったり、マンションの一室が都市開教寺院の現実。だが、人もお金もどんな場所でも集まってくる。そこがまさにお寺である限り――。首都圏で開教に挑んだ住職たちの実践からわかったのは、やはりお寺が足りない現実だったのだ。

前回、首都圏にお寺の数が人口に比して極端に少ない実状を見た。その現実に対して、宗派の取り組みを取材したところ、2つに分かれたと言っていいだろう。1つは、どちらかと言えば既存寺院を拠点に布教をしていこうというもの。もう1つが、浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・日蓮宗のように、積極的に教団がバックアップしながら新寺建立していく動きだ。但し、後者にしても、人口増のスピードには追いついていない。何故、追いついていないのか。人材や資金面の課題もあるだろう。宗教法人格の取得も今の時代、容易なことではない。また、近くに新しいお寺ができることで、「檀家を取られる」と既存のお寺が嫌がるという声も常に聞く。だが、そんなことがあり得るのだろうか。寧ろ、そのような声はお寺が足りない現実、いやそれに伴う危機から目を背けているだけではないのだろうか。首都圏開教に挑んだ住職たちを取材すると、はっきりとその事実が見えてきた。

①手を合わせる場を求めている  埼玉県・日蓮宗源妙寺越谷布教所(※閉鎖済)
※Currently, this temple is closed and we have been informed that it is a general house, so we deleted only this item in consideration of the privacy of each party concerned.

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テーマ : 社会ニュース
ジャンル : ニュース

【日本人の死生観が急変しつつある現象を読み解く】(中) 何故に亡き人を忘却してはならないのか

中世から近世への転換期に、死後の世界観も大きく変わったと言われる。死者は最早遠い世界に旅立つことは無く、この世に留まり続ける。そのケアは、生きてある人々の重要な務めとなった。それは何故なのか? (東北大学大学院教授 佐藤弘夫)

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私は前回、日本列島では、死後も長期間に亘って生者と死者が交渉を継続する伝統があったこと、その典型が墓参りの習俗であり、それは墓の在り方と深く関わるものであったことを述べました。こうした伝統は屡々、太古以来の日本人固有の死生観に根差したものという説明がなされます。しかし実は、江戸時代に定着した比較的新しい習慣でした。中世と言われる室町時代・鎌倉時代まで遡れば、墓参りの習慣は無かったのです。それは、中世人が死者に対して冷淡であったからではありません。中世は、人々を救い取ってくれる救済者=仏に対する強い信頼が社会に共有されていた時代でした。極楽浄土の阿弥陀仏はその代表でした。人々の理想は、死後速やかにこの世を離れて浄土に生まれ変わることであり、いつまでもこの世にグズグズしている死者は不幸な存在だったのです。中世から近世への転換期、14世紀から16世紀にかけての時期に、こうした世界観は大きく転換します。遠い世界に実在する絶対的な救済者に対するリアリティーを、人々が次第に維持できなくなっていくのです。より具体的に言えば、「どこかに目には見えないけれども尊い仏さまがいて、信じれば死んだ後に救い取ってくれる」という説明を、大方の人が受け入れられない時代になってしまうのです。近代まで継続する、識別できるもの、計測できるものだけを実在と認める世俗的な世界観が、広く社会を覆う時代の到来です。最早、遠い浄土へと旅立たない死者は、いつまでもこの世に留まって、墓の中で子孫の行く末を眺めながら、穏やかに第二の人生を過ごすことが望ましい姿と考えられるようになりました。宗教的な覚醒を最終目標とする中世の“仏”から、墓の中で心地よい微睡みを楽しむ近世の“ホトケ”へと、死者のイメージは決定的に変化していくのです。

他界浄土の仏の救済能力に対する信頼が失われてしまった近世において、死者が最終的な安らぎの境地に到達する為の最も大切な条件となったのは、縁者との長期間に亘る交流でした。死者は生前に持っていた欲望と怨念を少しずつ浄化し、長い時間をかけて穏やかで無害な“ご先祖”の領域まで上り詰めることが理想とされました。その為、近世社会では、縁者や子孫との長期に亘る交流を経て、死者を祖先神にまで上昇させる為のシステム整備が進められました。死去直後から77日を経て、33回忌・50回忌に至る様々な儀式と供養が考案され、宗派を超えた地域共通の儀式として在地に定着していくのです。縁者は、こうしたプロセスが首尾よく成就するように、盆や彼岸等、折々に死者の許を訪れ、或いは死者を家に招いて、故人が寂しい思いをしないで済むように配慮することが求められました。これらの死者供養の儀礼は、地域毎に様々なバリエーションを生み出しながら、今日まで継承されてくるのです。こうして江戸時代以降、日本列島上では生者と死者との親密な交際の光景が展開することになりました。季節毎に繰り返される死者との対話と交流は、供養する側にも「自分が死後に縁者との関係を継続できる」という思いを植え付けていきました。盆側に祖先を迎えて甲斐甲斐しく供物を捧げる人々は、その祖霊に、何十年か後にそこに祀られて奉仕を受ける自分の姿を重ねていたのです。先祖に依って見守られているという認識は、何れは自分も“ご先祖様”になって子孫を見守るようになるという確信を支える根拠となりました。故人の安らかな後生は、生者にとっては取りも直さず、自分たちの死後の安心を保証するものでした。こうした感覚を共有する社会においては、生と死は重なり合い、連続していました。死者の世界は未知の暗黒世界ではなく、再びこの世に蘇るまでの休息の地でした。死は一切の終焉ではなく、生者との新たな関係の始まりだったのです。近世社会においても、圧倒的に多くの地域において、仏教は相変わらず死者供養に不可欠の要素であり続けました。けれども、そこで主役となる“仏”は、極楽浄土の阿弥陀仏のような他界の救済主(あの世の仏)ではなく、寺院に安置された仏像(この世の仏)でした。その役割も、人を聖なる世界に送り出し、成仏させるという宗教的な意味での救済ではありませんでした。死者供養との関わりで近世の仏教に期待された機能は、墓地での穏やかな眠りを継続できるよう、故人を見守り続けることでした。或いは、悪道で苦しんでいる先祖を救い出し、来世に人間として復活する為の正常なルートに乗せることだったのです。

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テーマ : 仏教の教えと世界観
ジャンル : 心と身体

現在でも亡命者は毎年数百人、ヒマラヤを越える命のリスク――中国に抑圧されたチベット亡命社会の中心地・ダラムサラの知られざる現実

これまで140人もの僧侶が焼身抗議している中国のチベット人。僧侶のみならず、命懸けの亡命者も絶えない。彼らを待つのは、インド北部のダラムサラにある亡命政府だ。だが、その現実は殆ど知られていない。ダラムサラは今、どうなっているのか?

20160329 05
「思ったより都会だな」――。ダラムサラを訪れたのは2003年の夏。12年以上前のことだが、街の第一印象はよく覚えている。インドの貧しい農村を巡った後に訪れたからかもしれない。或いは、「ダラムサラは亡命者の集う悲劇の街だ」と思い込み過ぎていたからかもしれない。外国人向けのゲストハウスは雨期にも拘らず満室で、管理の行き届いた良質なレストランが何軒か。抑々、このような施設があること自体、インドの周辺の街と比べれば洗練されていた。とりわけ、ここは確かにインドなのに、買い物に「値段交渉が必要ない」ことに驚いた。とは言え、メイン道路の一部を除けば道は未整備。外出すれば泥だらけになったが、交差点の角にはそれ以上に泥だらけで物乞いをする亡命者がいた。彼らの殆どが凍傷で、手足の指が無かった。チベット人が経営するゲストハウスのドミトリーでは、不良イスラエル人の男女3人と相部屋になった。彼らは夜な夜な音楽をかけ、騒いでいた。ホテルの人は、「1990年代中頃までは物好きかトレッキング客しか来なかったが、最近は欧米人バックパッカーが増えた」と話す。併設のレストランのメニューはチベット語と英語の表記で、ウェイターの女の子も英語を話せた。ピザやパスタを出す店もあり、旅行者の多さを物語っていた。「1週間後にダライ・ラマ法王のティーチングがある」と聞き、申し込んだ。その当日は、外国人ということで最前列に座らせてもらった。法王は身振り手振りを交えながら英語で優しく語っておられたが、こちらの語学力のせいで話の細かなニュアンスは理解できなかった。それでも慈悲と愛、平和の心は伝わってきた。法王は、よく笑った。何より、それまで会った誰よりもオーラを纏っており、正視できなかった。チベット人と同様、恭しく下から仰ぐことしかできなかった。前年、チベット本土のギャンツェを訪れた時、白居寺の釈迦牟尼像の前で五体投地をする巡礼者が、金色の像を一瞥もせず、只々真言を唱え続けていた姿が脳裡に過った。会う人会う人、亡命者はあまりにいい人ばかりで、寧ろ「いい人でい続けなければならない」宿命を背負っているようにも見えた。街外れに「チベット仏教を修めた」というドイツ人が瞑想教室を開いており、何やら盛況そうだった。「ダラムサラは、中国の迫害を逃れたチベット人ばかりが住む街だ」と思っていたが、どうやらそのイメージとは違っていた。

先ずは街の基本情報を紹介しよう。ダラムサラはインド北部のヒマーチャル・プラデーシュ州に位置し、パキスタン国境が近い避暑地。人口は、インド政府の国勢調査に依ると、2001年時点で凡そ2万人。一方で6万人とするデータもあり、亡命者の流動性の高さや避暑地という立地から、人口推移の激しさが見て取れる。地元のインド人を始め、出稼ぎのインド人やネパール人も住んでいる。中長期的に滞在する欧米人も多い。高所に拓かれた地を“アッパーダラムサラ(マクロードガンジ)”、稍低い地は“ロウワーダラムサラ”という。標高は1300~2000m。アッパーダラムサラは1700~1800m付近が中心地で、街は500m四方のエリアに集中する。マーケットや主要機関はメイン道路沿いだが、居住地は山腹に築かれている。気温は夏季でも30℃を超えることは少ないが、冬季は氷点下まで下がる。ダライ・ラマの公邸や政府関係施設があり、亡命者の多くが住んでいる為、一般にダラムサラとして知られるのはアッパーダラムサラ(以下、ダラムサラ)だ。ロウワーダラムサラにはインド人が集住する。尚、国家ではないので、特別な許可証やビザは不要。インドに入国さえすれば、気軽に行ける。アクセスは、デリーからは1日数本の直行バスがあり、片道10時間から12時間。電車ならデリーからパタンコットまで10時間ほどで、そこからバスかタクシーを利用すれば2~3時間で着く。何れのルートを利用しても半日ほどかかる。観光シーズンはチベット暦の旧正月に当たる2月から4月、雨期前の5月から6月、雨期後の10月から11月。統計データは無いが、年間2万人以上の観光客が訪れると言われ、旅行誌では北インドエリアの観光地の1つとして紹介される。では何故、この街に亡命政府が設立されたのか。その歴史や亡命の経緯は、亡命政府の宗教文化省にも勤めていたイギリス人のジェレミー・ラッセル著『Dharam-sala: Tibetan Refuge』やダライ・ラマ著『ダライ・ラマ自伝』に詳しい。以下、簡潔に紹介する。ダラムサラはイギリス領インド時代に、植民地行政官が過ごす避暑地として拓かれた。1905年に、北インドを襲った地震で壊滅的被害を受け、行政官が土地を離れた為、街は急速に衰退した。加えて1947年、インドとパキスタンが分離独立。残っていたイスラム教徒がパキスタンに移民した為、ダラムサラは地元のインド人が住むばかりの山村になっていった。

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テーマ : 中国のニュース
ジャンル : ニュース

TPPに打ち勝つ日本農業の道――小泉進次郎氏インタビュー

来月から始まる『環太平洋経済連携協定(TPP)』国会承認を前に、日本農業の“伸びしろ”を強調する小泉進次郎氏。昨年10月に自民党農林部会長に就任し、父親譲りの歯切れのいい物言いで注目を集める。自民党のホープが語った“日本農業が今後、世界と互角に渡り合う条件”とは――。 (聞き手/編集委員 安藤毅・清水崇史・鵜飼秀徳・西雄大・須永太一朗)

20160329 04
──来月からTPPの承認案と関連法案が国会審議入りする予定です。関係者との意見交換や現場の視察を精力的に熟していますが、日本農業の現状をどのように見ていますか?
「物凄く伸びしろがある産業だと見ています。農業が持っている力を最大限に発揮させる為には、やらなければならないことが一杯ある。課題を1つひとつクリアしていければ、必ず日本の農林水産業は最も伸びしろがある産業として将来、評価頂ける世界にできる筈です」
「但し、そうなるには条件がある。『今までの政策の延長線上に未来は無い』という認識を皆で共有することです。農林部会長になって今、拘っているのは、先ず事実をしっかり認識することです。この重要な政策分野で、方向性を見誤ることがない形にしていくには、何よりもファクトが大事です。一部の実態だけを見て、一部の人たちの声だけを聴いて対策や政策を考えたら、方向性を誤りかねない」
「関税貿易一般協定(GATT)ウルグアイ・ラウンド合意後の1994年から20年間で、農業総産出額は約11兆3000億円から約8兆3600億円に減り、生産農業所得は約5兆円から3兆円弱になり、高齢化率は34%から63%へ、そして耕作放棄地は約56万haも増えました。この間、政府がいくら農業分野に予算を投入してきたかと言えば、補正予算も含め71兆6000億円余りになります。今まで自民党が担ってきた農政に関して、反省がしっかりなされなければ未来は無い」

──昨年11月に小泉部会長中心で纏めたTPP対策は、“農政新時代”を掲げました。
「TPPは、日本の農業にとっては恐らくビッグバンに近い。既に、新たに4ヵ国ほどが『参加したい』と言っています。つまり、TPP自体が形を変え、広がっていく、深化していく。それだけでなく、日本とヨーロッパ連合(EU)の経済連携協定(EPA)交渉も進んでいます。アジア太平洋地域全体を包むような、より大きな経済圏の議論も出ている」
「日本農業の将来にとって必要なのは、目の前のTPP対策ではなく、環境変化に強い持続可能性のある強い農業を作っていくことです。それが農業の成長産業化であり、農政新時代に込めたメッセージです」

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テーマ : 農政
ジャンル : 政治・経済

【昭和史大論争】(09) 侍従武官未発表日記が明かす“昭和天皇の戦争”

20160328 13
昨年9月に公開された『昭和天皇実録』(以下『実録』)には、その記述の元となった多くの資料が列挙されている。そこには、昭和史を検証する者ならば誰もが知る有名なものから、一般には公開されていない日記・手記に至るまで様々だ。今回、紹介する『吉橋戒三日記』(以下『吉橋日記』)は、そうした未発表資料の1つである。吉橋戒三は、昭和天皇に仕えた最後の陸軍侍従武官の1人だった。陸海軍将校から選ばれた侍従武官は、大元帥である天皇に仕え、戦果や軍資料の報告等を行うのが、その主な役どころだった。私は昭和天皇崩御の折に吉橋を取材したが、その時、ノートに横書きで記された日記の写しの提供を受けた。侍従武官を拝命した昭和19年12月21日から、陸海軍省が廃止され、その任を解かれた昭和20年12月まで、吉橋自身の見聞や観察が簡潔に記されたもので、『実録』にも採用されたように、貴重な資料であることは間違いない。平成元年11月17日、吉橋は83歳で亡くなり、この日記は未刊のまま現在に至っている。『吉橋日記』の読みどころは、まさに敗戦を迎えようとする宮中にあって、その内部にいた人間が、偏りの少ない筆致で、その見聞を率直に記してある点だ。私も軍人の手記・日記の類をかなり読んできたが、自らの言い訳や自慢話に傾いたり、自分の体験と伝聞とが混濁し、独断憶測に走り過ぎたりする書も(特に後年書かれたものには)散見される。また、上層部に近い者ほど、様々な思惑が記述の中に隠されてもいる。その点、『吉橋日記』はどうだろうか。当時、4人いた陸軍の侍従武官の中で、拝命当時、38歳の中佐だった吉橋は最も若手だった。謂わば最末端の位置から見た天皇像が、そこにはあると言えるだろう。立場上、高度の機密に属するような場面には立ち会っていないが、幾つかの印象的な場面で、自分が見た素顔の天皇を記している。

先ず注目されるのは、戦争末期の天皇と軍部との緊張関係である。『吉橋日記』の冒頭近くで吉橋は、上官の坪島文雄少将から侍従武官としての心構えを聞く。そこで坪島は、「陸軍に対する御不信感を十分考え、陸軍を代表したつもりで立派に勤務せよ」(昭和19年12月29日。原文の片仮名を平仮名にし、仮名遣いを改め、句読点等を補った。以下同)と述べるのだ。つまり、これは陸軍には「自分たちは天皇から信用されていない」との自覚があったことを意味する。陸海軍が天皇に偽りの報告を行ったり、不利な戦況を隠したりしたことはよく知られている。一例を挙げれば、昭和17年4月18日、ドーリットル隊に依る東京空襲。東部軍司令部は「敵機墜落数は9機」と発表し、杉山元参謀総長も同様の奏上を行った。ところが、東部防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王は、天皇から「真相を報告せよ」と詰め寄られ、「敵機は1機も撃墜できませんでした」と明かしたのである。こうした事例が積み上がり、天皇は相当の不信感を抱いていた。身近で仕える侍従武官たちとしては極めて深刻な事態だった。更に、坪島は念を押す。「(天皇には)間違ったことを申上げられぬ。戦略戦術が分ったなどと思うたら大間違い、陛下の前にはかたなしだぞ」(同日付)。つまり、「作戦等に対する天皇の指摘・追及は中々厳しいぞ」という忠告なのだ。後に、吉橋はそれを身を以て実感する。それは昭和20年7月、北陸で行われた陸軍大学校の参謀演習を視察した折のことだ。これは国土防衛作戦を想定したものだったが、東京に戻り、天皇に報告した吉橋は、予期していなかった冷や汗を流すことになる。『日記』には、「朝、陸軍大学校参謀演習に関する復命を了す。努力不十分なりしを思い恐懼に堪えず」(昭和20年7月27日)とのみあるが、戦後の回想に依ると、「陸大で研究していたままを説明すると、(天皇は)地図を指されながら、いろいろ御たづねになる。それが一つ一つ痛い所、痛い所と突込んで来られる」(『侍従武官としてみた終戦の年の記録』…『軍事史学』1965年8月号。以下『回想』)。吉橋は陸大で兵学の教官を務めた経験もあったが、「未だかつて今日程、手剛く、鋭い追及を受けたことはなかった」(同前)と述懐している。稍前後するが、吉橋は同年6月にも東金から片貝へ出張している。「片貝に車行し水際陣地の研究を実視」(6月4日)。これも、九十九里での本土防衛の進捗を視察したものだろう。吉橋は国土防衛作戦の進捗状況を探り、軍備が整っていないことを正直に天皇へ報告した。実は、この終戦直前の時期、吉橋だけでなく侍従武官たちが日本各地に派遣され、本土決戦が可能かどうか実視を重ねている。昭和天皇の“聖断”は、こうした侍従武官たちの活躍にも支えられていたのである。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

【どの面さげて】(03) 育休は浮気の為か、宮崎謙介の“議員活動”

20160328 11
「“育児休暇宣言”は売名行為だ」とばかり思っていたが、どうやら違ったようである。こうなってみれば、「愛人との逢瀬の為の時間を確保する為だった」と考える他はない。2月10日発売の週刊文春で、34歳の女性タレント・宮沢磨由との密会が報じられた自民党衆議院議員の宮崎謙介(35・京都3区当選2回)。自宅に招き入れたという逢瀬は1月30~31日のことで、妻である自民党衆議院議員・金子恵美(37・新潟4区当選2回)が出産する6日前だった。2人は予てから不倫関係にあったという。妻の妊娠中に不倫はよくある話だが、彼がやっては洒落にならない。宮崎は昨年12月、「休暇を取ることに依って職場で冷遇されるのではないかということが障壁になっている中、国会議員が先例となって率先して育児に参加したい」と、国会会期中に1ヵ月程度の育児休暇を取ることを宣言した。この発言は、自民党内で「国会議員はサラリーマンとは違う」「育休を利用した売名行為」等と集中砲火を浴びたものの、宮崎は意に介さず、「男性議員の育児休暇について、衆議院規則の改正を求めていく」として勉強会すら発足させたのだった。そして、勉強会の内容を直接、衆議院議長の大島理森に申し入れようとして国対委員長の佐藤勉から注意されると、同僚議員らにFAXを送って、「本勉強会は国会議員の育児休業制度に向けての勉強ではなく、勉強会の名前の通り“男性の育児参加”を推進させるための勉強会です。(マスコミでは、国会議員の育休取得に向けた勉強会との報道も見られますが、この点については主旨を十分御理解いただけるよう説明・訂正して参ります)」と看板を付け替え、「女性の社会進出を応援し、出生率の向上を目指すことを主眼に置き、様々な角度から議論を深めていき“男性の育児参加の意義”を確認したいと思います」とのご高説。随分と立派な意気込みだが、今となってみれば笑止千万である。

国会議員として民間の男性の育児参加を支援することは、大いに結構なことだろう。しかし、民間と国会議員は根本的に違っている。民間の場合は、出産休暇・育児休暇は雇用者と被雇用者の間で取り決められる。一方、議員は“出産の為”等の理由で、党国会対策委員会の了承を得て、議員連営委員会を通じ、欠席届を提出すればいい。尤も、国会議員が国会に出なくていいのなら、そんな国会議員はいなくて済むということでもある。宮崎は自身の存在意義を否定している。いや、宮崎は国会のことなどどうでもいいのかもしれない。思えば、最初の妻は加藤紘一氏の三女で、今は自民党衆議院議員の加藤鮎子(36・山形3区当選1回)、次が金子である。2度も国会で相手を見つけ、今回の不倫も議員になってからの付き合いだから、彼にとって国会議員とは、女を口説く際の肩書きほどの意味しかないのでないか――。「政治家が小粒になった」と言われて久しい。政治家としての自覚に乏しく、見識も胆力も無く、人間関係すらも巧く築けない。そんな人間たちが政治家になっている。勿論、若手に多い。閣僚経験者の自民党議員は、こう嘆息する。「『選挙で選ばれた』という重みがわかっていない。先ず、彼らは選挙区を回っていない。また、礼儀を弁えておらず、当然のように先輩議員に委員会の差し替えを頼んでくる。宮崎のように、党内手続き・党内政策決定システム・国会手続きを知らない者もいる。風が吹いて当選したような連中は、地元選挙区の有権者との関係が希薄で、後援会も弱い」。何故、政治家はこうも劣化したのか? その最大の要因は、選挙制度が変わったことだろう。衆議院議員の場合、小選挙区比例代表並立制の導入(平成8年)が大きく影響していると思われる。中選挙区の時代に比べ、どの政党に所属しているかが選挙を左右する。つまり、政治家個人の資質よりも政党の比重が高くなったのだ。単純小選挙区制のイギリスでは、国会議員のことを“エージェント”と呼んでいる。政党のエージェントであるから、“志”など無い訳だ。中選挙区時代の議員はオーナー事業主か個人商店主で、目玉商品(高い志と政策理念)と確固たる顧客(後援会を軸とした地盤)を持っていた。しかし、小選挙区比例代表並立制の下では、政党というメーカー本社の代理店でしかない。当然、地元との関係は薄くなり、後援会等の運営や維持に手間がかかる組織も等閑になる。これでは、市民の声を聞き、理想を掲げる政治家は育たないだろう。更に、そうした小選挙区比例代表並立制の弊害に拍車をかけているのが、公募制と落下傘候補だ。どちらも党本部との関係は密だが、地元を軽視する。

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テーマ : 政治家
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【偽善の逆襲】(05) “民主主義”と『黄昏流星群』と高橋源一郎

20160328 10
年の暮れの金曜日の夜、久しぶりに官邸前を覗いてみた。いっそのこと「誰も来るな」と念じていたが、先ず太鼓を叩きながら法華経を唱えている反原発行者2人組がいた。抗議行動が始まるのは6時を過ぎてからのようで、夜がとっぷり暮れた頃、国会議事堂前で「私は、ベトナム戦争で沢山人を殺しました」とか絶叫を続ける反戦一人芝居をやっていた。観客は10人ほど。官邸前で「今日は少ないけど、歌います!」と謎の反原発替え歌をメガホンでがなり始めるおばさん集団や、基地反対の沖縄舞踏を踊る4人組にも遭遇し、つまりは素人演芸大会の会場と化していることが判明した。抗議行動をしていたのは数十人で、警察官の数が圧倒的に多い。「忘年会シーズン酣の寒空の下、未だ“民主主義”をやっている訳か」と半ば呆然としつつ、官邸や国会の前が“民主主義”活動のタイムカードを捺す場という状況になっているのは、どうにも納得いかない。年の頃は、定年間近から年金生活直前の“黄昏流星群”的な方々が中心だが、若い人もちらほら混じっており、顔つきは思い詰め派とエンジョイ派に二分できた。勿論、デモが未だ盛り上がる日もあるのは知っている。アイドル扱いの『SEALDs』等が呼びかければ、今でもかなりの人数が集結する。デモは、日本の風物詩として定着してしまったのかもしれない。そして、その守り本尊が、3.11の翌月から朝日新聞の看板『論壇時評』を書き続けている“民主主義者”高橋源一郎であることは、衆目の一致するところだろう。高橋は1951年生まれ。目分量だが、デモの中心の面子と粗同世代。その中にイケメンとキレイどころの男女学生群が入り、見栄えがよくなっている訳である。別に「デモをしてはいけない」と言うつもりはない。最近のデモは警察公認でエコなゴミ持ち帰りだから、ハロウィーンのバカ騒ぎのほうが余程危険だろう。瀬戸内寂聴を筆頭に、「政治的無関心よりは学生が声を上げるほうが宜しい」という声もあることだし、好き好きとしておく。でも、SEALDsの主力メンバー・奥田愛基君が高橋の明治学院大学の教え子で、牛田悦正君も同大学の学生、つまり“拠点校”化していることを知ると、何だかキナ臭くなってくる。

「奥田君は異彩を放っていた。惚れ惚れするような、変な、文章を書いてくるんだ。どこに向かっているのかわからない、無鉄砲なところもよかった」(高橋源一郎×SEALDs『民主主義ってなんだ?』・河出書房新社)。小説家のスター教授にここまで褒められれば、学生は確実に舞い上がるだろう。「ぼくは、高校生の頃、小さな組織を作り、政治活動を始めた。すべてが手作りだった。いちばん力になったのは、友人のM君だったけど、このM君というのが、すごく変わったやつだった。難しい本を読むのが好きで、しかも音楽好きだったんだ! 牛田君はラップという音楽(とことば)をやるけど、M君は、ピアノを弾きながら、シューベルトの歌曲をドイツ語で歌っていた。牛田君は、ルジャンドルとブランショという思想家の話をしてくれたけど、M君はフロイトとハイデッガーという人たちの話をよくしていた。実は、フロイトはルジャンドルの“先生”で、ハイデッガーはブランショの“先生”なんだ。びっくりするよね!」(同前掲書)。引用がちょっと長くなったが、高橋が学生達に“活動家”だった自身の学生時代を重ね合わせているのがよくわかる。座談会では灘高時代にどう運動したかを被露しており、「2人とも学校にあまり出て来ないようだから、教授が教えているのはデモのやり方だけか」と心配になる。ここで少し脇道に入って、世代論をしておきたい。高橋が属する1950年・1951年早生まれは、1968年から全共闘が安田講堂を占拠し、翌1969年に東大入試が行われなかった世代に当たる。同年生まれの知識人は、1年遅れで東大に入った内田樹に中沢新一。皆さん、無党派だけれども政治的な発言を続けており、ノンポリが多い近頃の知識人の中では突出している。その理由は何なのか。格好の補助線となる小説がある。実は、日本の“The Catcher in the Rye.”『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主人公“薫クン”も、同年生まれの設定なのだ。作者の庄司薫は東大の丸山眞男ゼミ出身の俊秀で、日比谷高校出。1958年、21歳で本名の福田章二名義の『喪失』に依り中央公論新人賞を受賞し、計4作発表した後10年間沈黙。1969年、13歳年下の主人公の名前で発表した『赤頭巾ちゃん』が芥川賞を受賞し、ミリオンセラーとなり、1977年までに“赤”“白”“黒”“青”の“薫クン”4部作を発表した。中村紘子の夫である。愚生も恥ずかしながら数十年前に熱中し、“由美ちゃん”に心を熱くしたクチだが、久々に引っ張り出すと強かな風俗小説で、当時の若者心理がヴィヴィッドに描かれていた。そして、やっぱり出てきました“民主主義”。「日比谷の卒業生っていうのはみんなどっちかというと(と言うより確実に)ゲバルトよりもおしゃべりが好きないやったらしい民主主義人間」(庄司董『さよなら快傑黒頭巾』)。高橋・中沢・内田のうち、日比谷出身は内田だけだが、当時のエリート高校生の気分は皆、似ていたような気がする。小説家・庄司薫は4部作の中で、“薫クン”世代に丸山直伝の近代的“市民”への成長という理想を託したが、学生運動の退潮と共にその期待は雲散霧消し、1980年以降はまた沈黙を続ける。

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【儲かる農業】(06) 熟成肉ブームで赤身に光明…製法無視の腐敗肉にご用心!

赤身の熟成肉が大ブームだ。背景には、消費者の嗜好の変化と、牛肉価格上昇に悩む飲食店の事情があった。一方、“霜降り偏重”だった国内の畜産農家にも大きな影響を与えている。

20160328 08
レアに焼かれた分厚いステーキを噛み締めると、じゅわっと肉汁が溢れ出す――。今、暫く寝かせて旨味を増した“熟成肉”が大人気となっている。“熟成肉ブームの仕掛け人”と呼ばれる『さの萬』の佐野住治社長は、老舗食肉販売店の3代目。きっかけは10年ほど前、アメリカの人気ステーキ店で赤身の“ドライエイジングビーフ”を食べたことだった。肉本来の旨味やその柔らかさ、特有の風味は、日本の霧降り肉とは一線を画し、「これぞ本当の肉だ!」と衝撃を受けたという。折しも、日本の顧客から「霜降りの脂はしつこくて、沢山は食べられない。さっぱりした赤身で、もっと美味しい肉はないのか?」という声を聞いていた。以来、独自に研究を重ね、国産牛のドライエイジングビーフ化に成功。毎月セミナーを開催する等して、その手法を広めている。実は、熟成肉がブームになった背景には、「飲食店にとって都合が良かったから」という事情もある。

近年、牛肉が値上がりしており、小売価格はこの3年で2~4割も上昇した。理由は、需要に対して供給量が減ったから。2010年、宮崎県で口蹄疫が発生。翌年には東日本大震災が起こり、多くの農家が廃業した。そして、国内牛肉生産の1割を担っていた『安愚楽牧場』が経営破綻。これらのトリプルパンチで、国産牛肉の生産が減少している。加えて、オーストラリアやアメリカ産の輸入牛肉は、中国を筆頭にアジア各国の購買力が強くなっている為、日本は買い負けている状況だ。牛肉の調達費用が上がった飲食店は、メニュー価格に転嫁できなければ、「肉の質を一段落とし、安い商品で代替している」(食肉関係者)。この切り替えに際して、比較的安価な赤身肉・熟成肉がぴったりと嵌まったという訳だ。また、熟成肉ブームは、これまで日の目を見なかった牛の畜産農家を救ってもいる。熟成に適したホルスタイン・短角和種・褐毛和種等の品種が脚光を浴びているのだ。ホルスタインと聞くと乳牛のイメージが強いが、雄牛は昔から肉用として飼育されていた。ところが、“霜降り偏重”の国産牛肉市場においては、ホルスタイン雄肉は赤身が多い為に評価が低く、採算が取れずに廃業する農家が後を絶たなかった。しかし、風向きは大きく変わった。赤身肉の需要が高まったことで価格は3~4倍になり、息を吹き返す農家が増えている。ところで、熟成肉を作るのには、大別すると3つの製法がある(上段右図参照)。佐野氏が広めるドライエイジングは、肉に強い風を当て、微生物を付着させて熟成させる本場のニューヨークスタイルだ。厳格な温度・湿度・時間管理が必要で、大変な手間暇がかかる。一方、現在の日本で熟成肉として流通しているものの多くは“ウェットエイジング”と呼ばれ、これは真空パックにした肉を、水分を飛ばさずに熟成させる方法だ。コストも掛からず簡単にできる。佐野氏は、「ウェットの場合、熟成肉の美味しさを引き出しているとは言えない」と強調する。因みに、本誌取材では、大手スーパーや外食チェーンの熟成肉の殆どがウェット製法だった。将又、飲食店の中には、これらの製法に従うことなく、ただ単に寝かせた肉を出している場合もある。熟成ではなく腐敗している可能性もあり、食べるのは非常に危険だ。熟成肉ブームに便乗した怪しい肉には用心したい。


キャプチャ  2016年2月6日号掲載


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