【宮崎哲弥の時々砲弾】 リベラル再装填のために part.8

「マクロ経済に関するドイツの考え方はなぜかくも奇妙なのか」――。『フィナンシャルタイムズ』の経済論説主幹であるマーティン・ウルフは、率直に危疑の念を呈している(『ユーロ圏はドイツのものか』・同紙5月11日付。『日本経済新聞』5月15日付朝刊の訳による)。ドイツの理屈は、「金融緩和や財政出動などの総需要刺戟政策は構造改革を阻害する」という日本銀行や朝日新聞に代表される経済右翼メディアが繰り返し唱えてきたお題目と全く同じだ。アンゲラ・メルケル首相やヴォルフガング・ショイブレ財務大臣は、この怪しげな信念を手を替え品を替えて説き続け、『ヨーロッパ中央銀行(ECB)』が進めようとしている国債購入プログラムやマイナス金利等の積極策、各国に協調的な財政出動を求めるG7における日本のイニシアティヴの足を引っ張ってきた。最もインフルエンシャルな経済ジャーナリストと目されているウルフは、「2015年第4四半期のユーロ圏の実質需要は2008年第1四半期より2%少なかった」ことを指摘し、「この深刻な需要不足という視点がドイツによる批判からは抜け落ちている」という。

ドイツは、2000年代の初めに“人件費と労働者の収入を削る”労働市場改革を断行した。それ以前、ドイツの企業は内部留保を上回る投資を行っていたが、今はその逆。超低金利にも拘らず、国内貯蓄の3分の1も投資に回っていない。家計も貯蓄過剰。政府も財政均衡維持している為、日本型デフレ突入の軌道を“勇往”している。ウルフ曰く、労働市場改革以後の「ドイツ経済は構造改革が今の問題解決にはならないことを示している」。因みに、日本の総需要不足状況はもっと極端で、民間企業に実に366兆円もの内部留保が貯まっている。企業収益を伸ばしたのは確かにアベノミクスの功績と言えるが、需要不足が解消していない為、膨大な資金が企業内に滞留してしまっているのだ。設備投資にも従業員の給与にも中々お金を回そうとしない。譬えるならば、実を撓に稔らせたところまでは成功だったが、熟す前に全部落果してしまった形。こういう時に、消費税増税・財政支出の削減・金融引き締め・サプライサイドの構造改革等を実行したら、一体どうなるか。高校生にも十分わかる話ではないか。ドイツは対外黒字を不適切に溜め込んでいる。ここでいう黒字とは、ドイツ経済の良好や安定を示すものではなく、国内の総需要不足の反映に過ぎない。

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【働きかたNext】第10部・世界が問う(01) スウェーデンの挑戦――“1日8時間”常識じゃない

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“1日8時間”は本当に最適な労働時間なのか。働き方の常識を問い直す取り組みがスウェーデンで広がっている。「じゃ、後は頼むよ」。『トヨタ自動車』系の販売会社『トヨタセンターイエーテボリ』(右写真)で働くマグヌス・ビクストラーム(40)は正午になると、出勤してきた社員と交代した。「午後は運動で汗を流すか」。ここのエンジニアは午前・午後の2交代制。皆、1日6時間だけ働く。8時間勤務の時は大変だった。車の修理で従業員たちは疲れ、納車は最大1ヵ月待ち。顧客の不満も募った。そこで労使で話し合い、営業時間を延ばす一方、1人当たりの労働時間を6時間に減らした。給料は減らさず、人員を2割増やしたのだ。改革の成果は直ぐ出た。「6時間なら集中力が続く」と現場が活気づき、納期は最短で4分の1に短縮。顧客の評判も高まり、人件費が増えても売上高と利益は5割超増えた。「働き方の“カイゼン”の結果だ」。経営者のマルティン・バンク(48)は胸を張る。「トヨタに学べ」――。同国では、一部のベンチャーも6時間勤務を導入。イエーテボリ市も昨年、介護施設に6時間勤務を入れた。同国で広がる6時間勤務には、世界中から視察や問い合わせが相次ぐ。8時間労働が定着したのは20世紀初めだ。大量生産による長時間勤務で健康を損なうと、1919年に『国際労働機関(ILO)』が1日8時間・週48時間を労働基準に定めた。

それから1世紀。「単純作業から付加価値の創造。女性の参加等、働く環境は一変した」(『日本総合研究所』調査部長の山田久)。硬直的な労働時間に縛られず、如何に成果を上げるか。日本でも模索が広がる。段ボールを使った造形加工の『アキ工作社』(大分県国東市)は2013年、週休3日制を導入した。その分、残り4日は1日10時間働く。効率的な働き方を徹底し、「会議が皆で悩む場から結論を出す場に変わった」(森山長英)。総労働時間は2割減り、業績も右肩上がり。メリハリをつけた働き方に賛同者も広がる。『味の素』は来年度に労働時間を20分短くし、7時間15分にする。基本給は据え置き。実質的な賃上げだが、真の狙いは違う。外国人や女性等が活躍できるよう働き方改革を促す為だ。「時間当たり生産性を高めないと世界で勝てない」。社長の西井孝明(56)は話す。長時間労働が蔓延る日本。『リクルートワークス研究所』の石原直子が日本企業約600社を調べると、「長時間労働と業績に何の相関も無かった」。寧ろ、残業職場では士気低下が目立つという。業種や世代により様々、最適の労働時間に正解は無い。ただ、多様な働き手が増える中、働き易さと成果を両立させる解を導かなければ立ちゆかなくなる。世界で真っ先に人口減が進む日本の宿命だ。 《敬称略》

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【タブー全開!政界斬鉄剣】(38) 国会の最終日、何故議員会館は官僚たちで埋め尽くされるのか?

池田「遂に通常国会が閉会しました。政界用語で“常会”と呼ばれる通常国会は、1月から始まって150日間ほど開催されます。今週は、毎年この時期に永田町で繰り広げられる、ある風物詩的な光景を紹介しましょう。その裏に、ある重大な真実が隠されているからです」

――風物詩的な光景?
池田「閉会した当日の衆議院と参議院の議員会館内は、縦横無尽に歩き回る大量の霞が関官僚たちで埋め尽くされています。彼らは国会議員に“お礼”をする為に、与党議員全員に対して挨拶回りをしているのです」

――何に対するお礼なの?
池田「各省が作成した法案を、通常国会で成立させてくれたことに対するお礼です。例えば、こんな感じです。『あ! △△先生! □□省でございます。○○法では大変お世話になりました。誠に有難うございました』と。この一見、何でもないように見える光景に、非常に重大な意味が隠されている。役人たちは徹底して低姿勢ですが、実は腹の奥底で国会議員をバカにして高笑いをしているのです」

――どういうこと!?
池田「これを理解するには、先ず永田町と霞が関に与えられた権限と役割を再確認する必要がある。この国のルール、つまり法律を作る“立法”という強力な権限を持っているのは国会です。ビジネスでもスポーツでもどんな世界でも、ルールを作る側が一番強いに決まっている。だから、この国で最も強い権力を持っているのは国会なのです。その構成員である国会議員を選挙で選べるから、民主主義が成り立つ訳です」

――その一方で、霞が関の役割は?
池田「国会が立法したルールに基づき、内閣と国会が決めた政策を“執行”するのが霞が関の役割です。でも、現実を見て下さい。殆ど全ての法案は、霞が関の役人たちが作成しています。その法案を内閣に上げ、閣議決定されたものが国会審議を経て採決される。本来、この国で最強の権力を持っている筈の国会議員は、何もせずに採決を行うだけのマシーンに成り下がっているのです」

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【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(66) モーリーがオバマの“広島スピーチ”に涙した理由

“そこ”に入ったのは約40年ぶりのことでした。ローズウッド製の重いドアに薄暗い廊下、そして部屋のレイアウトまで、あの頃と同じです。『原爆傷害調査委員会(ABCC)』。戦後、広島市に『アメリカ科学アカデミー』が設立した被爆者の調査研究機関です。医師だった僕の父は、1968年にここへ研究員として赴任し、日本人の母、そして5歳の僕と共に、一家は広島で暮らし始めた。オバマ大統領が広島を訪れる数日前、僕は40年ぶりにその建物(現在の名称は『放射線影響研究所』)を訪れました。僕はABCCの廊下のベンチに座り、マンガをよく読んでいた。『はだしのゲン』を読んだこともあります。ページを捲りつつ、子供心にある種の違和感を抱きました。「何故、アメリカ人はこんなにも一面的で、憎むべき対象として描かれるのか」――。当時、多くの市民やメディアはABCCに対して「調査ばかりで被爆者の治療をしない」と批判的でした。確かに終戦直後、設立された当初のABCCは、来るべきソビエト連邦との核戦争に向けた軍事的な調査機関としての意味合いが強かった。それは事実です。ただ、僕が広島にいた1960年代末から1970年代、そこで働くアメリカ人研究員たちは日本人に敬意を払い、純粋に医療面で日本に貢献する為に調査に従事していた。「発展途上だった日本の医療を進歩させる」という志もありました。若い日本人医師が、父の知識や技術を必死に学ぼうとしていたのも知っています。後の助手の1人だった児玉和紀さんは、今も主席研究員として放射線影響研究所に勤務しています。児玉さんは2011年の福島第1原発事故の後、原子力災害専門家グループの一員として、半世紀以上に亘る同研究所の調査データを基に、「幸いにして、低線量被曝での健康被害の可能性は考え難い」と訴えました。しかし、一部の反原発派の人々は、児玉さんに“御用学者”と心ない罵倒を浴びせました。同じ時期に、ジャーナリストとして風説の真偽を追った結果、同じような人たちから同じような罵声を浴びていた僕としては、浅からぬ因縁を感じてしまいます。原爆・ABCC・アメリカ・日本・はだしのゲン・ヒロシマ・フクシマ・放射能…。変わらない光景、40年ぶりの児玉さんとの再会は、僕に多くのことを思い出させました。広島にやって来た僕は当初、インターナショナルスクールに通いつつ、家に帰ると近所の日本人の友達とよく遊び、自然と広島弁をマスターしました。スクールには僕のような日米ハーフの広島弁を話せる生徒が多く、日本語のわからないアメリカ人の先生に対して、広島弁で小馬鹿にするという悪ふざけが流行ったこともありました。

ある時、学校側は校内で日本語使用を禁じ、日本語の授業も初級編を除いてほぼ廃止されました。「何で日本語で喋っちゃいけんのじゃ!」。僕たちは反発しましたが、恐らく悪ふざけへの対抗措置だったのでしょう。日米ハーフが多かったスクールに、両親共にアメリカ人で、アメリカのライフスタイルのまま暮らす生徒が増え始めたのもその頃です。彼らは日本にシンパシーが無く、広島弁を話さず、日本のテレビも一切見ない。日本人に対して人種差別的な発言をすることもあった。そういう“白人優位ネタ”に卑屈に同乗する裏切り者のハーフを、僕は心の中で殴りつけました。そんな中での学校側からの一方的な“日本語禁止措置”。僕は自分の尊厳を守る為に、日本の小学校に通うことにしたのです。僕が5年生の2学期に転入したのは、五日市のマンモス公立校。僕にしてみれば、自分の“日本人性”を守る為に来たのに、当初はベランダから身を乗り出した何学年もの大勢の生徒から一斉に「帰れ」コールを受けたこともありました。しかし、校長先生が朝礼で「仲良くしなさい」と言ってくれた後は状況が変わり、最終的には周りの推薦で生徒会長になりました。私立の男子中学校に進学した後は、被爆者の祖父を持つ同級生と校庭で取っ組み合いの喧嘩をしたこともありました。彼はこう叫びます。「わしのじいちゃんはアメリカのせいで死んだ!」「白人! 白豚! ピカの責任を取れ!」。中学生ですから、こちらも売り言葉に買い言葉です。「それがどうした! ざまぁみいや!」「お前も親父もお袋も皆、ピカで死ねばえぇんじゃ!」。彼は突然、大きな声で泣き始めました。全く泣き止まない彼に、僕は只々謝るしかありませんでした。原爆の爆風で壁の下敷きになり、無数のガラス片が腕に刺さったという書道の先生も忘れられません。彼は最初の授業で、「よぅ見い!」と僕に傷痕だらけの腕を差し出してきました。その後も彼は、左利きで書道が苦手な僕の字を見て「ミミズの這ったような字じゃ」と揶揄う等、事ある毎に絡んできます。それは僕にとっては悔しいというより、何というか、苦々しいものでした。彼の言葉や表情には、「何で原爆を落とした国の子供を学校に入れるんじゃ」という憤りと、「でも、子供に罪は無い」という葛藤が滲み出ていたのです。その後、僕が右手で書くことを練習し、書道が上達すると、先生は一転して誰よりも褒めてくれ、「わしの代わりに、ピカドンのことをアメリカで広めてくれ」と思いを託されるまでになりました。

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テーマ : 国際政治
ジャンル : 政治・経済

【私のルールブック】(54) プライベートな会話がないからこその“恩人”

誰にでも恩人という存在がいる。その多くは、自分の成長を手助けしてくれた方だったり、教えを請うた人物のことを指すのだと思う。勿論、私にも恩人は存在する。そして、私の中での恩人は大きく2種類に分類される。1つは、直接的に手を差し伸べて下さった方。もう1つは、私が勝手に恩人と思っている方々である。上沼恵美子さん…言わずと知れた上方のドン的存在の方。お付き合いは、彼此15年近くになるのか。始まりは、私が離婚した直後のことでした。上沼さんの番組にゲストで呼んで頂き、予想通り、離婚のことを根掘り葉掘り訊かれました。未だバラエティーへの免疫も無い頃で、兎に角、上沼さんからの質問に正直に答えることしか考えておりませんでした。役目を果たせたとは到底思えない出来上がり。

ところが…。以来、事ある毎に声を掛けて頂き、何やかんやで15年近くでございます。そして何故、上沼さんが私が勝手に思い込んでいる恩人に分類されるかと言いますと、プライベートな会話を交わしたことが一切無いからです。ですから、何故声を掛けて頂いているかの答えを、私は未だに知りません。要するに、上沼さんとの関係において、私は“何故”だらけなのです。もう1人、私が勝手に思い込んでいる恩人。謂わば、“何故の方”がいます。それは、明石家さんまさん。さんまさんとは、30年ほどになるんでしょうか。芸人さんの中では、恐らく一番長いお付き合いと思われます。ですが、上沼さん同様“何故の方”ですから、付き合いといってもプライベートは一切含まれておりません。以前、収録中にさんまさんにこんなことを言った記憶があります。「どうしてご飯に連れて行ってくれないんですか? 後輩の芸人さんを行きつけの焼肉屋さんによく連れて行くそうじゃないですか。僕は未だにさんまさんの電話番号すら教えてもらっていませんよ!」と…。するとさんまさんは、「だって、忍ちゃんはそういうの苦手やろ?」と…。

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【宮崎哲弥の時々砲弾】 リベラル再装填のために part.7

前回は、昨年度第4四半期の実質GDP(国内総生産)成長率の第1次速報値、及び昨年度の同成長率を踏まえて議論した。今回は名目GDP成長率を見てみよう。名目GDP成長率とは、実質成長率に物価変動率を加えたものを言う。ざっくり言えば、実質値が物量べースの成長率、名目値が金額べースの成長率だ。一般に、名目のほうが私たちの生活実感に近いとされている。昨年度は2.2%だった。決して悪い数字ではない。1996年以来、実に20年ぶりの高い水準だ。例えば、名目成長率目標を3%に設定した旧民主党政権時代の年度毎の“成績”は、2010年が1.4%、2011年がマイナス1.3%、2012年が0%だった。それに対し、アべノミクス時代は2013年が7%、2014年が1.5%、そして2.2%である。民進党は参議院選挙に向けて“アベノミクスの破綻”を喧伝していくつもりらしいが、政権担当時と然して変わらぬマクロ政策の欠落した経済政策を採り続ける限り、自ら掲げた数値目標に全く近付けなかった過去の失政と引き比べられるのがオチだろう。

因みに、実質GDPのほうも、リーマンショック後の極端な昇降が齎した“成長率マジック”の分を補正すれば、アベノミクス時代の圧勝。「アベノミクス時代よりも旧民主党政権下のほうが実質成長率平均は高かった」という民進党お得意の“自賛”は、単なる錯誤なのである。これについては、既に実質GDP実額を示して論証した。民進党への不安は、リベラル経済体制には欠かせぬ筈のマクロ政策を軽視する姿勢を根本的に改めていない点にある。いくら名目成長率3%という適切な目標を掲げても、そこに導く為の手段が欠けていれば空証文に過ぎない。「では、アベノミクスは成功したのか?」と反問されるならば、「所期の目的には未だ達していない」と答える。 第2次安倍普三政権の成長率目標も、旧民主党と同じく名目年率3%だった。先述の通り、昨年の数値は近年では最高だが、到達にはまだまだ遠い。内在的な原因は、何度も述べているように“第2の矢”の不発である。安倍政権は、2014年4月の消費税増税を含めて、財政政策にしくじったのだ。野党は単純に「アベノミクスの失敗だ」と非難するのではなく、“機動的な財政出動”の不履行をこそ突くべきだろう。そして、ワールドスタンダードのリベラル経済政策に準拠して“第3の矢”の、サプライサイドの構造改革の破棄を求める。代わりに、所得や資産への課税強化を含む広範な格差是正措置・再分配策を、リベラル版“第3の矢”として主張するのだ。

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【異論のススメ】(15) 西田幾多郎の哲学…西洋と異なる思想、今こそ

この6月7日は西田幾多郎の命日である。彼は戦争が終結する年、1945年に亡くなった。京都大学にやって来る若い学生でさえ、「名前は聞いたことあるなぁ」といった程度の人が結構いる。平成の時間は確実に、過去を置き去りにしているように見える。という訳で、今回は少し、西田幾多郎について書きたい。西田は、言うまでもなく、戦前の日本を代表する哲学者であるだけではなく、屡々、唯一の“日本の哲学者”と言われる。この“日本の”という形容詞は結構大事で、そこに彼の哲学の本質が見える。明治以来の日本の学問は凡そ、西洋思想や西洋科学の輸入・紹介に終始していた。それは、日本の近代化が、西洋化こそ即ち文明化であると信じていたからである。日本の学問は、兎も角も西洋に学び、西洋の水準に迫ることを課題とした。その中にあって西田は、西洋哲学を古代ギリシャから現代まで、彼なりの独特のやり方で咀嚼し、その上でそれと対抗できるだけの“日本の”哲学を生み出そうとした。それは、日本の思想や感覚を前提とした哲学である。西田が“日本で唯一の哲学者”と言われる所以である。

西田は1870年の生まれで、文字通り、近代日本をそのまま歩んだ人である。夏目漱石は3歳上だが、漱石は1916年に亡くなっている。だから西田は、漱石が知らなかった近代日本の帰結――つまり、あの大戦争という悲劇への道行きを凡そ目撃したことになる。そして、英米との戦争へと転げ落ちてゆく近代日本の歴史は、西田哲学と無関係ではなかった。元々西田は、西洋との対決や対抗を意図して哲学を始めた訳ではない。ただ、「西洋哲学は限界に突き当たっている」と感じていたであろう。その限界を突破する為に書かれたのが、1911年の『善の研究』である。それは西田が、40歳にして漸く、京都帝国大学に職を得て安定した生活に入った翌年のことであった。同じ年に漱石は、和歌山で有名な講演『現代日本の開化』を行っている。この講演の中で漱石は、「近代日本は、即席の文明化を達成する為に西洋を模倣し、無理やり西洋に追いつこうとしている。これは、内発的な真の開化ではない。その結果、日本人は常に西洋の文物を追いかけて自分を見失い、上滑りの近代化の果てに神経衰弱に陥る」と言う。この同じ年に西田は、“純粋経験”という独自の考えを打ち出すことで、西洋哲学の底を突き抜けようとする。斯くて、西田独自の、というより、日本独自の哲学へと向かってゆく。“日本独自の”というのは、「ここには、人は“私”を“無”にし、“私”を空しくすることで初めて、本当のもの(西田の言う真実在)へ接近できる」という考えがあるからだ。しかも、その“真”なるものは、言葉で把握できるものではなく、言葉以前のところにある。「美しい花を見たその刹那、我々は我を忘れている。言葉にならない。美しいという感動だけに捉われている。その一瞬の感動こそが本当のものだ」というような考えは、確かに我々に馴染み深いものであろう。この一瞬の刹那を愛で、言葉にならない感動に人生の思いを託する。ただ、その為には、“自我”や“私”に捉われては駄目で、“無私”でなければならないだろう。これは、兎も角も“私”や“我”という確固たる“主体”を前提にし、その“主体”が世界や自然を客観的に記述し、更にそれを操作し変化させようという西洋の思想とは対極にある。「全て、この世の出来事は夢まぼろし、私も含め、あらゆるものは“無”から出て“無”へ帰する」という思考は、我々には馴染み深い。西田は『善の研究』の後、初期の考えを発展させ、“無”という観念を中心に据える独特の哲学を構築していった。そして、西洋の論理を“有の論理”、対して日本の論理を“無の論理”と呼んだりもした。ここには、若い時から参禅するほどの仏教への傾倒もあったであろう。しかし、忘れられないのは、8人の子供のうち5人までも亡くし、病気の妻を5年も看護した挙げ句に失うといった果てしない人生の苦難であった。「哲学は人生の深い悲哀に始まる」と彼は言う。そのことと、「自我を無化し滅却する」という西田哲学の基本的な性格は、無関係ではなかろう。

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【タブー全開!政界斬鉄剣】(37) 安倍首相はオバマ大統領の広島訪問を断わるべきだった!

池田「今週は、オバマ大統領の広島訪問についてお話ししたいと思います。この原稿を作っているのは伊勢志摩サミットの開催前ですが、恐らく、日本のマスコミはサミットよりもオバマさんの広島訪問を大きく取り上げることでしょう」

――しかし今回の件、オバマ大統領とアメリカ政府の思惑は一致していないんだって?
池田「アメリカの報道官や副報道官は、今回の広島訪問について『オバマ大統領の個人的な希望だ』と何度も強調しています。これは、議会や官僚組織等を含むアメリカ政府が、大統領の広島訪問を支持していないことを示唆する発言です。何故なら、アメリカ国民の99%は原爆投下を正しかったと思っているからです。アメリカの国民感情は、大統領の広島訪問を決して歓迎しません」

――では、オバマ大統領は何で広島を訪問したかったの?
池田「オバマさんは、世界の非核化をテーマにした演説でノーベル平和賞を受賞しました。アメリカの大統領として初めてとなる広島訪問は、“核繋がり”で自身の名を歴史に刻む絶好の機会だったのです」

――オバマ大統領の個人的な政治パフォーマンスに広島が利用されたってこと?
池田「それだけではありません。アメリカのライス報道官は公式会見で、『“奇妙なことに”、日本はオバマ大統領の謝罪を要求しないと言ってきている』とコメントしました。これは、日本の外務省が国益に反する行動を取った証拠とも言えます」

――どういう意味?
池田「外務省はオバマ大統領個人の希望を叶える為、広島訪問を実現させた。同時に、アメリカの国内世論にまで配慮し、『原爆投下についての謝罪を求めるべきではない』と安倍首相や菅官房長官に吹き込んだのでしょう。しかし、彼らはこれまで、政治家が中国・韓国・北朝鮮に対して謝罪を繰り返すことは放置し続けてきた。なのに逆の立場になると、『アメリカからの謝罪は必要無い』という。そんな弱気で一貫性の無い外交方針では、世界の笑いものになってしまう。勿論、日本の国益も損なわれます。このように外務省とは、他国の事情には必要以上に気を使うのに日本の国益は考えない、怠慢で売国的な組織なのです」

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【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(65) 際ど過ぎるジョークに深遠なるメッセージを込めた“オバマショー”

「CPTで来てしまいました。すみません」――。4月末に開催された、毎年恒例のホワイトハウス記者晩餐会。今年が最後となるオバマ大統領は、開始時刻からやや遅れて登場すると、のっけから冒頭のフレーズで場内を沸かせました。CPTとは「Colored People's Time」の略で、「黒人は時間にルーズだ」という偏見に基づいた人種差別的な表現。黒人同士の会話で自虐ジョークとして使うのはアリですが、白人が黒人に対して使うのは“アウト”というスレスレの言葉です。折しもその約2週間前には、この言葉をニューヨーク市長(本人は白人だが妻は黒人)が口にして物議を醸したばかり。オバマはタイムリーな際どいジョークを、いきなりぶちかましてきた訳です。その瞬間、会場では先ず、黒人たちにバカ受けでした。一方、白人は一瞬フリーズし、「笑ってもいいんだよな?」と様子を窺いながら、恐る恐る笑っていました。

あの笑いには、黒人たちにとって、ある種の“解放感”が含まれています。嘗ては給仕や雑用係としてしか入れなかった場所に、今や大統領・報道デスク、或いはセレブとして“出席”している…。そのしみじみとした雰囲気を白人たちも感じ取ることで、二重三重にも生まれる感動。実に見事な“つかみ”です。そこからオバマは、あらゆる人物を弄り倒します。先ずは、“身内”である民主党の“大統領候補”バーニー・サンダースを「若手のホープ」と紹介(本当は74歳)。更に、欠席したヒラリー・クリントンにも、必死で若い有権者にアピールしている様子を「まるでフェイスブックに登録したばかりの親戚のおばさんみたい」と、ユーモアたっぷりに言及して笑いを取りました。自分(黒人ジョーク)・身内ときたら、次の標的は共和党です。オバマの支持率はここにきて上昇しているのですが、それについて「自分はずっと同じことしかやってないのに、何故支持率が上がるのかわからない」と話している最中に、会場のスクリーンには共和党大統領候補のドナルド・トランプとテッド・クルーズの顔写真を映し出す(「共和党の“質”が酷いから自分の支持率が上がった」という皮肉)。彼らを含む共和党候補たちが予備選で互いを貶し合っていることについても、「私は8年前、『政治議論のレベルを変えるべきだ』と言った。今思えば、どう変えるべきかまで具体的に言っておくべきだった」とバッサリです。

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【思想としての朝鮮籍】第4部・朴正恵(下) この子らに民族の心を

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1972年10月、大阪市西成区にあった朴正恵の自宅に、父の盟友で、『朝鮮奨学会』(所属団体や思想信条を問わず、在日学生への奨学支援を行う中立団体)の理事だった李殷直が訪ねてきた。「今度、長橋小学校に民族学級を作るから、関わってみないか?」。“民族学級”の起源は1948年、朝鮮学校閉鎖令にある。抗議運動の結果、民族団体と文部省・自治体との間で“覚書”が交わされ、公立学校でも課外で週数時間なら、朝鮮語・歴史・文化の学習が可能になった。当時、朴は産休中だった。「正直、ピンとこなかった。それなら民族学校に転校して、1日中学んだほうが効果はある。何故、民族学級を作るのかと」。個々の教員が努力しても、公教育は本質的に“国民育成”の手段である。当時は日教組等も、朝鮮人の子供には民族学校への転校を勧めていた。李は語った。「日本の学校に通う子は、先ず出自を隠す。知られている子は酷い差別を受けるけど、声も出せずに我慢する子も多い。そういう子は軈て、アボジやオモニを否定するようになる」。朝鮮学校とは対極の現実だった。朴の表情に困惑を読み取ったのか、李はこう結んだ。「朝鮮学校に通う子だけが胸張って生きていくんじゃなくて、地域の子、皆が堂々とできなアカンやろ? この子らにこそ民族教育が必要なんじゃないか?」。キメ技だった。「そう言われたら断れないでしょ。後でえらい目に遭いましたわ(笑)」。

「私を根本的に変えた」と朴が言う長橋小学校(西成区)の民族学級は、複数の思い・事件・僥倖が交錯した地点に生まれた。直接の契機は同和対策事業だった。長橋小の校区は“同和”地区だった。運動の結果として1969年、一定額の学用品費支給と学力補充学級の開設が決まったが、対象は国民たる部落民で、在校生の2割を占める在日朝鮮人は排除された。被差別者間に生まれた“格差”に、朝鮮人児童から怒りの声が上がった。当時の教員だった太田利信は語る。「最初の不満は学力保障じゃなく、“おやつ”でした。午後3時に始まるので、補充学級ではコッペパンや白い牛乳じゃなくて、フルーツ牛乳と菓子パンの間食が出たんです」。保護者からの不満も相次いだ。「“私ら”の子にも学力保障して下さい!」「長橋は『差別を無くす』と言うのに、これは差別やろ!」「『補充に入りたい』って子が泣きつくんです」。太田の思いは複雑だった。「学力保障は大事だけど、現場の課題は、ほぼ全員が通名で通う民族性の抑圧でした。基本方針は、できれば民族学校へ通う。公立学校ならなるべく本名を使い、可能な限り家庭で言葉や文化を教えてほしい。でも、家庭訪問でそれを言えば、『朝鮮学校閉鎖令で日本の学校に行かせながら、今度は追い出すのか!』『本名を名乗らせて差別された時に責任を取れるのか!』『綺麗事を言うな!』とか怒鳴られてね」。1971年春、事態が動いた。児童会選挙に、5年の在日生徒である南仁が立候補した。「長橋では部落差別のことはよく言われるけど、朝鮮人差別は忘れられている。僕は、朝鮮人差別を無くす為に立候補しました」。補充学級の間食を運ぶワゴンを“襲撃”し、おやつを奪っていたヤンチャな南は、持ち前の行動力で各学年を回り、2位当選を果たした。同時期、大阪市立中学校長会の冊子に、朝鮮人生徒への差別偏見が記されていた問題が表面化した。校長会や教委を批判する教員たちは『公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会』を結成、解放教育を謳いつつ、朝鮮人を放置していた欺瞞を批判的に検証し始めた。翌年の児童会選挙には、南に触発された複数の朝鮮人児童が本名で立候補し、当選した。彼らは朝鮮問題研究部を結成し、活動の中で自然に「朝鮮人の先生から学びたい」との声が上がった。そこに、ある偶然が重なった。南ら6年の“国語”教科書に、A・ドーデの『最後の授業』が載っていた。「教員間で話し合い、朝鮮人の歴史と絡めて教え、最後は朝鮮人講師を招き、講演会を行うと決めました」(太田)。普仏戦争でフランスが敗れ、プロイセン領となる直前のアルザスで、最後のフランス語授業をする教師と生徒の物語だ(アルザス語というドイツ語の一方言を母語とする子供たちに、フランス語が“国語”とされていることを自明とする同作の問題性は夙に指摘されているが)。子供たちが受けたインパクトは強烈だった。「(生徒たちは)祖国の勉強が明日からできなくなるので、国語つまり“ろうごくのかぎ”をにぎろうと、ことばをおぼえようとしていたのだ。今のぼくらはそれと同じだ。でも今のぼくらは、“ろうごくのかぎ”を持たないで、ろうやをあけなくてはならない」(感想文より)。そして決定打は、朝鮮奨学会の理事である曹基亨の講演会だった。

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