【思想としての朝鮮籍】第5部・金石範(下) 文学は政治を凌駕する

20160807 01
国家の裏付けを持たぬ記号“朝鮮籍”で、“統一”を希求する。それは、“虚構を以て現実を否定する”金石範文学そのものだ。その思想の成り立ちを手繰ろうと、昨年9月、金に会った。上野のカフェで落ち合うと、嬉しそうに切り出した。「いや、このタイトルいいよ。“思想としての朝鮮籍”って。まさに、私の朝鮮籍は1つの抽象化された“思想”なのよ。思想の表出として使ってるんです。“思想としての朝鮮籍”は統一を求める、南北分断を否定するんです! 植民地時代でさえ1つだったのに、何で独立して分断なんだと。現実にそうでなくても、そうと思うのが思想ですよ。実態が無くても構わないんだから。思想観念で政治とぶつかるんです」――。政治との関係は、少なくとも1980年代まで在日作家が避けて通れぬ問題だった。南北双方から“従属”を迫られるばかりか、時に双方から“敵”とされる。記号としての朝鮮籍に拘り、分断の現実を否定する金石範にあっては尚更だ。“鋼鉄の臭いのする悍ましい政治の網”の中にあって、権力との一切の取引を拒む。この間断無き闘いを、彼は創作力に転化してきた。小説という形式を選ぶ大きな理由も、金はそこに、権力と対決する上での“優位性”を見るからだ。「観念は言葉で表明されるから、小説はあらゆる芸術の中で最もイデオロギーを反映し易い。権力と真っ向からぶつかるのに一番適しているのは小説です。同じ言葉でも、ある意味で詩は誤魔化しが効くんです。これ言うと『詩がわかってない!』って、(金)時鐘が怒って、何度も喧嘩したけどね(笑)」。思想に揺るぎはない。筆名の“金石範”は、まさに体を表している。その由来を訊くと即座に「忘れた」と躱し、「私はそんな堅物じゃないんだけどね、でも、この字体がまた田村義也(編集者・装丁家)の装丁に映えるんだよ」と笑った。

“思想としての朝鮮籍”を武器にして金が希求する統一祖国とは、単なる政体の実現ではない。アメリカ軍政と親日派が“4.3”を経て建国した『大韓民国』の歴史を再審し、奪われた“解放空間”を取り戻すことである。そのイメージは、『火山島』の主人公で、筆者の分身の1人である李芳根の一言に凝縮されている。ブルジョワの息子でニヒリスティックな放蕩者、謂わば“英雄”とは対極の李が口にした譲れぬ一線、即ち思想が“支配せず、支配されない”なのだ。自身の自由が他人の自由を侵害しない。それが、李芳根の求める“自由”である。相互不干渉の“断絶”ではない。関わりの中で生きる人間の実存を前提とした上で、互いを尊重する。その前提は徹底した平等だ。「人間は、純粋な個ではあり得ない。社会無くして人間は存在しない」。私小説批判にも繋がる金石範の人間観である。他者との関係で人間は存在している以上、個人の目指す自由とは全体の自由の下で可能となる。“自由と平等”――。それら普遍的価値を求めつつ、それとは程遠い現実(常に“外部”を生み出す統治形態“国民国家”はその典型だ)を造り出してしまう人間という“問題”に照らせば、それは見果てぬ夢なのかもしれない。だが、夢だけが人間を人間たらしめ、今を超える契機になり得る。今ある現実を否定し、あるべき姿を想うとは、全てを奪われても尚残る人間の最後の自由であり、瓦礫の中から掴み出された理想は、もう1つの世界を希求する思想となり、現実を否定する意志は、行動として表出される。その意味において、まさに文学は政治を凌駕し得るのである。ただ想像する力のみが、人を“順応”という底無しの闇から救い出す。例えば、『万徳幽霊奇譚』。主人公は“うすのろ”と蔑まれ、理不尽な打擲に晒される寺男の万徳である。“ゲリラの親”として捕まった老人と共に警察へ連行された万徳は、息子の射殺を命じられた老人が進退窮まり、自らを撃ち果てる姿を目の当たりにする。代わりに息子の処刑を命じられた万徳の頭に、徴用された北海道の鉱山での記憶が過る。脱走に失敗した若者への懲罰として、日本人監督の命令に従い、同胞たちが列をなして次々と根棒を全力で打ち下ろす。軈て万徳の順番が来るのだが、愚鈍な彼の心だけが、目前に吊るされた血塗れの球体を人間と認識し、打擲を拒んだのだ。「殺せ! あれはアカだ。アカは人間じゃねぇんだぞ!」。逃げ場の無い血塗れの室で、全能感に酔う人殺しの怒号に気圧されながらも、万徳は「わっしの目には人間に見える」と抵抗し、自らが処刑場に送られていく。考えること・良心を持つことが死に繋がる状況下で、無学な“うすのろ”が、その想像力を基に示した拒絶こそ、人間にとっての“究極の自由”であり、“夢”だった。だからこそ、彼は“幽霊”となる。合理的思考ではあり得ないが、この世に真実を告げに来る“幽霊”に。

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テーマ : 中朝韓ニュース
ジャンル : ニュース

【異論のススメ】(17) スポーツと民主主義…“停泊地”失った現代世界

昔、ある人から「君、スポーツの語源を知っているかい。これは相当に酷い意味だよ」と言われたことがある。実際、スポーツとは“ディス・ポルト”から出た言葉である。“ポルト”とは“停泊する港”、或いは“船を横づけにする左舷”という意味だ。“ディス”はその否定であるから、“ディス・ポルト”とは停泊できない状態、つまり秩序を保てない状態であり、“破目を外した状態”ということになる。“ポルト”にはまた“態度”という意味もあるから、“真面な態度を保てない状態”と言ってもよい。どうみても、あまり褒められた意味ではなさそうである。事実、英語の“スポート”にも“気晴らし”や“悪ふざけ”といった意味があり、これなどまさしく語源を留めている。その“スポーツ”の祭典が、6日からリオで始まる。ロシア選手の組織的なドーピング問題や、大会会期中、不測の事態に要注意等と言われる今回のオリンピックを見ていると、ついその語源を思い起こしてしまう。ロシアのドーピング等、破目が外れたのか箍が外れたのか、確かに停泊すべき港から外れてしまった。ところで、スペインの哲学者であるオルテガが『国家のスポーツ的起源』という評論の中で、国家の起源を獲物や褒美を獲得する若者集団の争いに求めている。その様式化されたものが争い合う競技としてのスポーツであるとすれば、確かに、ここにもスポーツの起源と語源の重なりを想像することは容易であろう。

言うまでもなく、オリンピックは古代ギリシャ起源であり、ギリシャ人はスポーツを重んじた。争いを様式化し、競技を美的なものにまで高めようとした。そして、ギリシャでは“競技”が賛美される一方で、ポリスでは“民主政治”が興隆した。民主主義とは、言論を通じる“競技”だったのである。肉体を使う競技と言語を使う競技が、ポリスの舞台を飾ることになる。古代のギリシャ人を特徴付ける特質の1つは、この“競技的精神”なのである。「スポーツと政治は切り離すべきだ」等と我々は言うが、元々の精神においては両者は重なりあっていたのであろう。ということは、その起源(語源)に立ち返れば、両者とも一歩間違えば“破目を外した不作法な行動”へと崩れかねない。競技で得られる報酬が大きければ大きいほど、ルールなど無視して羽目を外す誘惑は強まるだろう。それを制御するものは自己抑制であり、克己心しかなかろう。その為にギリシャでは、体育は徳育・知育と並んで教育に組み込まれ、若者を鍛える重要な教科と見做された。その三者を組み合わすことで、体育はただ肉体の鍛錬のみならず、精神の鍛錬でもあり、また、自律心や克己心の獲得の手段とも見做されたのであろう。その上で、運動する肉体を人間存在の“美”として彫像に刻印しようとした。問題は言論競技としての民主主義のほうで、寧ろこちらのほうが成功したのかどうか怪しい。“民主主義の精神を鍛える”等ということは不可能に近いからである。ただ、我々が垣間見ることができるのは、ポリスのソフィストたちの“言論競技”の中からソクラテスのような人物が現れ、“哲学”を生み出したことである。しかしその為には、ソクラテスは“言論競技”を切り捨て、それを“言論問答”に置き換えねばならなかった。彼は、政治よりも真の知識(哲学)を優位に置き、それを教育の根本にしようとした。そうでもしなければ、スポーツも政治も只々“破目を外す”ことになりかねなかったからであろう。

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【私のルールブック】(62) 困難な人生もいつか笑い話にできればよし

この4月から『バイキング』(フジテレビ系)がリニューアルされ、トーク中心の構成となった。その中で、著休めではないが唯一のVTRコーナーがあり、全てのロケを私が担当させて頂いている。正直、体力的にはしんどいっす。だって、生放送が終わって速攻着替えて、そのままロケへって日々ですから。ですが、メインの立場の者こそ誰よりも労力を払わなければならないというのが、私のスジ論。しんどいなんて言ってちゃダメな訳ですよ。とはいえ、抑々私はロケが好きなタイプで、何より様々な方にお会いできるというのが、疲れを忘れさせてくれると言いますか…。やはり、スタジオで会うのとは明らかに違うんですよね。スタジオだと、ほぼ仕事モードになる訳です。仕事モードということは、CMの間に雑談こそすれ、飽く迄もゲストの方々にリラックスして頂く為の会話となります。

ですが、ロケの場合は若干空気が緩む訳です。生放送でもありませんから、よりリラックスした状態でお話ができる。ということは、より相手の人柄を感じることができる環境に繋がるということ。だって、折角お会いすることができた訳ですから、その人を感じたいし、知りたいですしね。1つの仕事として割り切って熟すことは容易ですが、それでは視聴者の皆さんも面白味に欠けるかもしれませんし、私だってつまらない。ほんと、面白いんですよ。そして、時に考えさせられる。旬の方から、これから売り出そうとしている若手から、元旬の方まで…。その中で、私が特に共鳴するのは元旬の方々ですかね。暫く画面から遠ざかっていたような方々が、知らぬ間に結婚・再婚していて、芸能活動と並行して飲食店をやっていたりする。お話を聴くと、充実感を持っている方もいれば、「充実してますよ」と笑顔で言いながら、どこか納得し切れていないような方もいたりして…。

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テーマ : 俳優・男優
ジャンル : 映画

【タブー全開!政界斬鉄剣】(45) 東京都知事選を費用対効果抜群の広告だと考える泡沫候補者たち

池田「皆さん、東京都知事選の立候補者数が異常に多いと感じたことはありませんか? 所謂“泡沫候補”と言われる人たちです。彼らの狙いは何なのか? 今週は、そんな疑問を解消したいと思います」

――確かに、最初から当選を狙っていない感じだもんなぁ。
池田「今回の都知事選では、主要3候補を含め、実に21人もの立候補者が出馬しています。泡沫候補者たちは、勝つ筈もない選挙にメリットを感じている。それは、特定の人たちに向けた広告効果なのです」

――“特定の人”って?
池田「候補者によって、特定の人は変わります。先ずは、色々な選挙に立候補することで有名なマック赤坂氏を例にとってみましょう。彼は企業経営者で、それなりに有能で商才もあり、会社をそこそこの規模にまで押し上げた人です。でも、東京にはもっと大成功した企業家が無数にいるので、彼の企業家としての“格”は低いまま。“財界人”と呼ばれることも無い。彼の狙いは、彼が手がける事業の顧客に対して『自分は都知事選に出るくらいの大物だよ』とアピールすることなのです。知名度が上がれば商売相手からも興味を持たれるので、商談に持ち込み易い。話のツカミも選挙ネタで鉄板です」

――他の泡沫候補も同じような目的なの?
池田「政治ジャーナリストなら、自らが運営するメールマガジンの有料会員を増やせるでしょう。年老いた元大臣は、『自分はまだまだ健在だ』と支援者にアピールして、自分の価値を高めたい。謎の団体の代表者なら、街中で堂々と持論を訴える姿が存在価値を高め、構成員の結束力も増し、新規メンバー獲得にも繋がる」

――でも、選挙ってお金がかかるから、コストパフォーマンス的にはどうなの?
池田「都知事選の費用対効果は抜群です。若し東京のテレビ局でCMを流そうとすれば、安価なスポット料金でも15秒で30万円から70万円くらいは必要です。しかし都知事選の場合、全国ネットの報道で連日取り上げてくれるんです。朝・昼・タ・夜のニュースで、必ず一度ずつは名前や写真が放送される。全国版の新聞にも名前が掲載される。全て無料です。仮に、選挙期間中の18日間、主要テレビ局5局で1日3回、自分の名前が読み上げられたとします。仮に1回当たりの広告料を50万円で計算すると、何と1億3500万円にもなるのです」

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テーマ : 選挙
ジャンル : 政治・経済

【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(73) “白人vs黒人”は対岸の火事に非ず! 絶望の準備はあるか?

アメリカで黒人と白人の“人種間対立”が深刻さを増しています。今月5日にルイジアナ州、6日にはミネソタ州で白人警察官が黒人男性を射殺する事件が起き、全米で黒人差別に対する抗議活動“Black Lives Matter”が過熱。一方で、そうした集会の最中に、現場を警備していた複数の白人警察官が黒人スナイパーに射殺される悲劇も相次ぎました。今回の警察官射殺事件と関係しているかどうかはわかりませんが、近年、アメリカ南部を中心に“黒人国家”の樹立を目指す『ニューブラックパンサーズ』等の黒人過激派グループの活動も活発化しています。そのメンバーの中には退役軍人もおり、軍事的な力を持った“革命予備軍”が生まれ始めている訳です。こうした潮流の背景にあるのは、分断と格差、そしてそこからくる“絶望”。これは、何もアメリカの人種間対立に限った話ではなく、世界中の様々なテロや紛争も、同様に“絶望”が一因になっていることは認めざるを得ない事実でしょう。

貧困が更なる貧困を生み出す構造。それに伴い加速する暴力の連鎖。教育機会・雇用・所得、そして“暴力に晒されるリスク”の格差…。国家や資本主義という枠組みが限界に近付くにつれ、先進国・後進国を問わずあらゆる場所でハレーションが起きる。イスラム原理主義がどうの、黒人と白人の歴史がどうの…という個別の事情は勿論あるにせよ、そこに通底しているのは“絶望”という感情なのです。多くの日本人は、そんな世界の混乱を他人事のように眺めているでしょうが、既にこの“平和と安心のガラパゴス”にも、“絶望”というグローバルスタンダードの波は目の前まで押し寄せています。無理に危機感を煽ろうという気は更々ないけれど、客観的に見て、確度の高い予言をしようと思えばこういう表現にならざるを得ません。はっきり言います。日本は何れ、移民の大規模受け入れ・大増税・大幅な社会保障のカットを“絶対にやらなければいけない”。しかし、メディアも政治家も不都合な未来について多くを語らない。「格差は解消しなければいけません」等と、寧ろ危標感を鈍らせる麻酔のような言葉を発し続けている。「余計なパニックを起こすまい」という優しさなのかもしれませんが。

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テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

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