【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(89) クラブミュージックに“突然変異”を生んだ資本主義の魔力

突然ですが、クラブミュージック専門のストリーミングサービス『Beatport』をご存知でしょうか? 世界中のDJやミュージシャンが次々と楽曲をアップロードする音楽配信サイトです(勿論、曲も購入できます)。アーティスト側は自分の考える最高の新しい音を提供し、リスナーは感性だけで“勝者”を選ぶ。その為、セールスランキングは完全なる自由読争の世界。このサービスに、僕は“正しい資本主義”の姿を見ました。当然、そこには“業界のお偉いさんの思惑”なんてものが入り込む余地はありません。面白いのが、ここが何でもありの弱肉強食の世界で、“パクりパクられ”も当たり前なことです。折角新しい音を作っても直ぐにコモディティー化してしまうので、常に新しい音を提供しないと“過去の人”扱いされ、ランク外に追いやられる。この容赦なき切磋琢磨によって、作品そのものの変異と進化が物凄く早くなり、結果、本当にイノベーションを起こせるような(謂わばスティーブ・ジョブス級の)アーティストだけがランク上位に食い込み続け、それ以外はニシンが餌に群がるように浮動票を奪い合っている状態なのです。

現在、この世界で最強と言われる中の1人に、skrillexというアメリカのミュージシャンがいます。彼は自分の楽曲が売れれば売れるほど、更に危ないチャレンジをする。放っておいても自分の音が模倣されることをわかっているから、敢えて積み上げてきた“自分らしさ”を放棄し、スタイルもスピードもその都度、全部変えてしまう。だから、常にシーンの真ん中にいる。一方、数年前まで絶大な人気を誇ったポーランド出身のXilentというDJは、成功を手放したくないが為に自分のスタイルに固執し、“Xilent節”とも言うべきお馴染みの音作りに終始してしまった。最近では新しく刺激的な音を生み出すことができず、既に“懐メロ”扱いされてしまっています。DJであり、ジャーナリストでもあるという僕の立場からこの世界を見ると、色々な発見があります。考えてみれば、この構造は、ノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンが生きていたら大喜びしたであろう、勝者と敗者のくっきり分かれる新自由主義の世界なのです。

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【異論のススメ】(21) エリート・漱石の苦悩…西洋的理論がもたらす分断

この12月9日は、夏目漱石の100回目の命日である。小説も悪くないが、私は随想や小品が特に好きだ。『硝子戸の中』や『思い出す事など』の晩年の随想の味わい等、こちらが年を経るにつれて、しみじみとした感慨を与えてくれる。尤も、漱石は49歳で死去しているから、晩年といっても決して年を取っていたという訳ではない。その漱石が、明治の末に行ったある講演の中で、次のようなことを述べている。「ドイツにオイケンという学者がいて、こういうことを言っている。『近頃、人々は一方で自由や開放を望み、他方では秩序や組織を要求している。しかし、この矛盾するものを両方とも実現することは無理で、どちらかに片付けなければならない』と。これは、一見したところ尤もらしく聞こえるが、実は、こんなことは、この世界を傍観している学者の形式論に過ぎない。実際には、我々は日常生活の中で、この背馳する2つのことを両方行っているではないか」。学者というものは、普通の人より頭もよく、しっかりとものを考えているのだから、「間違う筈はない」と思いがちだが、学者の態度は、対象から身を引き離して、それを観察し、形式論を立てるに過ぎない。しかし、日常の世界の中で活動しているものにとっては、こんな傍観者的な観察はあまり意味は無い。「矛盾に満ちたこの世界を、自分のこととして体験する他ない」というのである。尤もだと思う。だから、漱石は東京帝国大学の学者の地位を捨てて、日常の“普通の人”の心理や人間関係の、それこそ矛盾に満ちた微細を描く小説家に転身したのであった。オイケンを取り上げながら、漱石は、学者の形式主義が、不完全な人間である“普通の人”――つまり、市井の庶民の心理や経験から乖離していくことに不満を漏らしていた。今日的に言えば、人間や社会を対象とした実証的科学が、その対象とする人間や社会の実際とはかけ離れていってしまう。それにも関わらず、社会を指導し、動かすものは、この学者の形式論なのである。各種の専門的な知識人が、傍観者的に、理想的な社会を描き、そちらへ社会を引っ張っていこうとしても、“普通の人”は動かないという訳である。つまり、エリート層と庶民の間に大きな懸隔が出来てしまう。

ここにもう1つ、大事な問題が絡んでくる。それは、「日本の指導的な学者や知識人等のエリート層は、多くの場合、西洋の学問を身に着けた人たちだ」という点である。西洋の近代科学の方法は、正しく対象から距離を取り、それを観察して、論理的で形式的な帰結を得ようとする。そして、その多くは、西洋社会を対象として得られた“理論”である。それを日本社会に適用すればどうなるか。学者やエリート知識人たちの“理論”は、全く庶民の現実からはかけ離れてしまうだろう。それにも関わらず、この方向で社会が動くなら、“理論”とは違う“現実”を生きている“普通の人々”は、益々神経をすり減らしていくだろう。ところが、漱石の生きた明治の時代は、「エリート層による欧化政策こそが進歩だ」と見做され、近代化とされた。当時、一級の英文学者でありながら、イギリス留学で散々な目にあった漱石は、エリート知識人たちが拠り所にする西洋の思考方法は、とてもではないが、そのまま日本に当てはまるものではないことを十二分にわかっていた。とはいえ、漱石もまた1人の知識人である。そこに彼の苦悩があった。こうしたことは、グローバル化や国際化が叫ばれる今日の我々にも無縁ではないと思う。大学で教えていたころ、私は1~2回生向けの少人数講義で屡々、『現代日本の開化』や『私の個人主義』といった漱石のよく知られた文明批評を取り上げたが、大半の学生は、ここでの漱石の問題に共感を示していた。それは、今日の“我々”の問題でもあるという訳だ。

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【私のルールブック】(78) 悩みや迷いが他人に透けて見える人ほど、応援したくなる

どこの世界でもそうだが、良い人もいれば悪い人もいて、面白い人もいればつまらない人もいて、ちゃんとしている人もいれば礼儀の1つも知らない輩がいたりするもの。それは芸能界も然りである。先日、彦摩呂さんのご自宅でロケをさせて頂いた。言わずと知れた「宝石箱や~!」のおじさんである。といっても、私と1つしか違わないのだが…。で、彦摩呂さんは汗をかきながらも、いつものように軽妙なトークで場を盛り上げて下さり、ロケも恙無く終了したところ、「しーちゃん、アレ取り寄せといたから、アレ持ってって」と言うのだ。「“アレ”と言われても何のことやら…」と戸惑っていると、以前、一緒にお仕事させて頂いた際、彦摩呂さんが「死ぬ前にこれだけは食べたい!」というテーマで紹介して下さった卵かけご飯があり、どうやら、その卵を態々取り寄せて下さっていたらしいのだ。

参りますよね。正直、私は忘れていましたから。それをちゃ~んと覚えていて、「今度、共演した時にプレゼントしてあげよう」と考えていて下さった。その記憶力と実行力は見習わなければいけません。彦摩呂さん、ありがとう。でも、それ以上体重は増やさないでね。記憶力と実行力と言えば、三田寛子ちゃんも流石の方でございます。旦那様の件で色々あったようですが、妻としての対応振りは称賛に値し、流石のマスコミの皆さんも「これ以上は…」と、早々に沈静化に持ち込みました。やはり、人間力ってマイナスな時にこそ試され、真価が問われるといいますかね。調子がいい時は、何を言おうがやろうが上手く転がって行くものですから。でも、寛子ちゃんの場合は、ちゃんとした努力の裏打ちがあってのものだと思うのです。だって、気遣いが半端ないんですから。例えば、旦那さんの件で私が生放送で何かを発言したとします。放送を終えて楽屋に戻ると、既に寛子ちゃんからのお礼メールが届いているのです。勿論、“早ければいい”というものではございません。ですが、それだけ四方八方にアンテナが立っているからこそできることですよね。アンテナすら設置していない若造とは訳が違うんです。

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