【日日是薩婆訶】(16) 現代に活かすべきは幻住の思想ではないかと思う
前回の原稿の最後で、確か正岡子規と永源寺の寂室元光禅師のことに触れた。正岡子規に纏わるロバート・キャンベル先生との対談は無事に終わったのだが、予想したほど子規の話にはならなかった。キャンベル先生は、「日本人の物語の作り方が、デッドエンド、つまり結論の出そうな日を先に指定することが多い」という話をされた。その象徴的な存在として、脊椎カリエスで残り少ない余命を創作に生きた正岡子規の晩年を例に採ったのである。これまで、日本人の文芸についてそんな風に考えたことはなかっただけに、“期間限定の物語”についてのご指摘はとても面白かった。しかし、如何せん子規の必死な表現欲求は中々に息苦しく、ここではあまりご紹介する気になれない。ただ、俳句という表現法を文学として認知させた功績、及び芭蕉と共に蕪村にスポットライトを当てた功績は大いに賞讃されるべきだろう。扨て、ここでは今年650年遠諱を迎える滋賀県永源寺の寂室元光禅師(1290-1367)の話に絞ろう。寂室禅師には特別な興味がある。それは、禅師が中国の寧波に渡り、杭州北西部にある天目山の中峰明本禅師の許で修行したからだが、実は、同じ天目山でうち(福聚寺)の開山様(復庵宗己禅師)も先輩として修行していたのである。鎌倉時代後期に当たるその頃、元との行き来は非常に盛んである。貿易も盛んだったが、それにつれて人の往来も多くなる。来朝僧としては、既に南宋から蘭渓道隆、元初の無学祖元等が、鎌倉を中心に本場の禅を鼓吹し、また南宋に渡っていた南浦紹明は虚堂智愚の法を伝えていた。『永源開山円応禅師紀年録』によれば、元からの来朝備であった一山一寧禅師に接していた寂室は、「天目の中峰の道が中国と周辺国で盛んだと聞いて(聞天目中修道振華夷)」、中峰への参禅を望んだらしい。これが延祐6(1319)年で、実際の渡航は翌年のことになる。一説によれば、当時、中国への渡航僧は、合計すれば75人にも上るという。既に、寂室より14年も前に天目山に登り、印可を得て帰国していた遠渓祖雄を始め、後に印可を得て戻る無隠元晦・明叟斉哲・業海本浄・古先印元等と共に、我が開山禅師の復庵宗己(1280-1358)も中峰明本の膝下にいた。復庵が中峰に参じたのは、寂室より10年早い1310年。生年も10年早いから、31歳だった寂室禅師は、41歳の復庵禅師に会ったことになる。因みにその時、師匠の中峰禅師は58歳。寂室禅師が謁見する4年前に発病した“渇疾”が悪化し、遍歴の旅を止めて西天目山の幻住庵に住んでいた。渇疾は喉・気管支・肺等が渇く病気で、中薬辞典等には「枇杷の葉の煮汁が効く」とあるが、詳しいことはわからない。ともあれ、入門を許された寂室禅師は、日本で約翁徳倹禅師から嗣法した禅を、そこで更に長養した。
中峰明本の禅の特徴は、幾つかある。これは私の印象とも言うべきかもしれないが、挙げてみよう。1つは、お節介とも思えるほど“言葉を尽くして説く”ということ。換言すれば、それは詩文に優れているのだが、多言とも受け取られ易い側面を持つ。大蔵経に入った『中峰広録』30巻を見れば明らかだろう。2つ目は、彼方此方を遍歴し、決して権力に近寄らないこと。これは“不住持”という言い方もされるが、彼方此方の庵を巡るだけでなく、時には船中での禅定も楽しみ、“船居禅”とも言われる。これらの生き方は、確実に寂室禅師や復庵禅師の生き方に繋がっている。寂室は帰国後、足利将軍家から鎌倉長勝寺住持への要請があったのを断り、更に豊後の万寿寺への入寺も断る。六角氏頼との出逢いにより、永源寺に落ち着いてからも、天龍寺や建長寺への入寺を断り、主に備後・備前・美作・摂津・近江・美濃、更には甲斐まで彼方此方遍歴し続ける人生だったと言えよう。我が復庵禅師も同様で、故郷に近い常陸の国に庵を築き(揚阜庵)、小田氏建立になる法雲寺を中心に、常陸・上総・磐城・岩代、そして武蔵等に庇護者を得て8ヵ所道場を開き、そこを経巡っている。寂室禅師同樣、足利尊氏や後光厳帝から上洛を促す拝請を再三受け取るが、これも悉く断っている。3つ目の特徴は、中峰明本が常々“未悟”を標榜していたことの影響である。今回の遠諱を前に、思文閣出版から児玉修氏の労作『死して厳根にあらば骨も也た清からん 寂室元光の生涯』が刊行されているが、その小説中の言葉がわかり易いからお借りして、ここに示そう。寂室が中国から帰朝した後、両親の法要の為、久しぶりに美作の故郷に戻った場面である。寂室は兄の頼兼に向かって、こう言う。「修行は一生です。私も、まだ修行中の身です」。或いは、こんな台詞もある。「長い修行の果てに辿り着いたのは、悟りなどという境地はないということでした。ただひたすら、歩み続けているだけです」。これは、中峰明本の“未悟の禅”にまっすぐ繋がっている。中峰は「余は固より実悟する者にあらず」(『山房夜話』中)、或いは「余は仏祖の道に於て悟証を欠く」(『山房夜話』下)等と繰り返し述べている。当時の中国禅界では大慧宗杲の看話禅が隆盛であった訳だが、そうした流れの中で、未証を以て“証せり”とする輩が続出したとも言われる。それは、仏陀の生存中から最大の罪とされた。恐らく中峰は、こうした風潮に一石を投ずべく、自ら“未悟”を標傍したのではないか。“未悟”を標傍する師匠の許でいくら修行しても、“悟り”を表明できる筈がない。そういえば、私が入門した当時、天龍寺の平田精耕老師もよく仰っていた。「現実生活での悟りなんて、そんなもんありゃせんわ」。そう、特殊状況におけるある種の禅定体験を、現実に通用する“悟り”と思ってはいけない。拈提すべき問題は、次から次へ脈絡も無く起こり続けるのである。
中峰明本の禅の特徴は、幾つかある。これは私の印象とも言うべきかもしれないが、挙げてみよう。1つは、お節介とも思えるほど“言葉を尽くして説く”ということ。換言すれば、それは詩文に優れているのだが、多言とも受け取られ易い側面を持つ。大蔵経に入った『中峰広録』30巻を見れば明らかだろう。2つ目は、彼方此方を遍歴し、決して権力に近寄らないこと。これは“不住持”という言い方もされるが、彼方此方の庵を巡るだけでなく、時には船中での禅定も楽しみ、“船居禅”とも言われる。これらの生き方は、確実に寂室禅師や復庵禅師の生き方に繋がっている。寂室は帰国後、足利将軍家から鎌倉長勝寺住持への要請があったのを断り、更に豊後の万寿寺への入寺も断る。六角氏頼との出逢いにより、永源寺に落ち着いてからも、天龍寺や建長寺への入寺を断り、主に備後・備前・美作・摂津・近江・美濃、更には甲斐まで彼方此方遍歴し続ける人生だったと言えよう。我が復庵禅師も同様で、故郷に近い常陸の国に庵を築き(揚阜庵)、小田氏建立になる法雲寺を中心に、常陸・上総・磐城・岩代、そして武蔵等に庇護者を得て8ヵ所道場を開き、そこを経巡っている。寂室禅師同樣、足利尊氏や後光厳帝から上洛を促す拝請を再三受け取るが、これも悉く断っている。3つ目の特徴は、中峰明本が常々“未悟”を標榜していたことの影響である。今回の遠諱を前に、思文閣出版から児玉修氏の労作『死して厳根にあらば骨も也た清からん 寂室元光の生涯』が刊行されているが、その小説中の言葉がわかり易いからお借りして、ここに示そう。寂室が中国から帰朝した後、両親の法要の為、久しぶりに美作の故郷に戻った場面である。寂室は兄の頼兼に向かって、こう言う。「修行は一生です。私も、まだ修行中の身です」。或いは、こんな台詞もある。「長い修行の果てに辿り着いたのは、悟りなどという境地はないということでした。ただひたすら、歩み続けているだけです」。これは、中峰明本の“未悟の禅”にまっすぐ繋がっている。中峰は「余は固より実悟する者にあらず」(『山房夜話』中)、或いは「余は仏祖の道に於て悟証を欠く」(『山房夜話』下)等と繰り返し述べている。当時の中国禅界では大慧宗杲の看話禅が隆盛であった訳だが、そうした流れの中で、未証を以て“証せり”とする輩が続出したとも言われる。それは、仏陀の生存中から最大の罪とされた。恐らく中峰は、こうした風潮に一石を投ずべく、自ら“未悟”を標傍したのではないか。“未悟”を標傍する師匠の許でいくら修行しても、“悟り”を表明できる筈がない。そういえば、私が入門した当時、天龍寺の平田精耕老師もよく仰っていた。「現実生活での悟りなんて、そんなもんありゃせんわ」。そう、特殊状況におけるある種の禅定体験を、現実に通用する“悟り”と思ってはいけない。拈提すべき問題は、次から次へ脈絡も無く起こり続けるのである。
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