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【異論のススメ】(45) 道徳観と切り離された報酬額…“常識”あっての市場競争

『日産自動車』会長のカルロス・ゴーン氏の突然の逮捕という衝撃的ニュースが流れてから2週間余り。様々な事実が明るみに出されており、ほとんど日産を私物化したといってもよいようなワンマンぶりも報じられている。報道をみる限り、急激な業績回復の陰で、日産はそこまで彼のやりたい放題を許していたのか、という暗澹たる気持ちになる。はたして、ゴーン氏は、相手が日産つまり日本の企業でなく、かりにアメリカやフランスの企業であれば同様のことをしたのだろうか、などと邪推もしてしまう。この逮捕の背景には、事実上ルノーの傘下に置かれてしまうという日産側の危機感もあったであろうし、日仏の国家間の関係もあろう。とはいえ、これはまずは、自身の報酬額の虚偽記載という金融商品取引法違反に関わる法的問題である。だから、あくまで“ゴーンの犯罪”という法的問題として論じるべきだ、という意見もでてくるし、報道の主要な関心もその方向で進展している。

しかし、法的対応はそれでよいとしても、より根本的な問題は、倫理的で道徳的なものだと私には思われる。そして、ゴーン氏自身が、なかばそれを告白している。なぜなら、報道によると、彼は、虚偽記載の理由を、あまりに多額の報酬を公表することが、社員を刺激するのではないかと危惧した、というようなことを述べたそうだからだ。ゴーン氏の日産社長就任によって、日産の多くの工場が閉鎖され、2万人を超す従業員が解雇され、その上で日産は奇跡の業績回復を果たした。その功績によって彼は“コストカッター”の異名をとって日産の大功績者となった。“コストカッター”などといえば聞こえはよいが、へたをすればこれは“ヒューマンカッター(人間切り)”である。2万人を超す従業員の犠牲の上に、5年で100億円の報酬を受け取るということは、法的問題はなくとも倫理的な問題ではないのだろうか。これが常識的な感覚であろう。もしも、虚偽記載の理由が社員の批判を恐れたというものであるなら、彼が恐れたのはこの常識である。仮に、彼がこの常識を恐れずに報酬を正確に記載し、さほど日産を食い物にしなければ、それで問題はないのだろうか。クビになる従業員とクビにする経営者の間にこれほどの格差がつき、短期的成果を達成した無慈悲な“コストカッター”が、すっかり英雄扱いをされ、神格化されてしまうことは倫理的な問題ではないのだろうか。多くの人は、何かおかしいと思うであろう。常識とはそういうものである。ところが、常識が何とささやこうが、この格差は今日の市場競争主義の帰結であり、そこに法的問題は何もない。年に数えるほどしか会社にやってこない最高経営責任者が年間20億円の報酬を得ようが、それが正当な契約に基づく限り、倫理的・道徳的に問うことも難しい。

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テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

【日日是薩婆訶】(34) 「自衛隊を違憲にしたくない」という思いは震災後、大きくなりつつあるけれど…

先月はお彼岸で“腰が据わる”という話を書いたが、4月のこの状況は何と申し上げたらいいのだろう? 兎に角、お葬式が続き、如何ともしようがないのである。お葬式ができる場合、先ず当家か葬儀屋さんから電話が入る。朝7時前の電話は、もう必ずそういう電話だと思ってどきっとする。当家か葬儀屋か、どちらが寄越すかは然程問題ではないが、兎に角、その電話で葬儀の日程を決めるのだが、これが結構難しい。最近は通夜も含めた儀式そのものが葬祭場で行なわれることが多い為、寺の都合も然ることながら、日程は葬儀屋さんの都合にも左右される。時には火葬場が混んでいて遅れることもあるが、東日本大震災直後のようなことはもうない。あの時は、火葬待ちで葬儀が10日後とか2週間後ということもザラにあった。数年前にも冬に10日待ちということはあったが、今は寧ろ葬祭場の都合とすり合わせ、大抵は数日の内に葬儀になる。日程が決まるのとほぼ同時に、お知らせの日時を決める。これは、故人のことを詳しく聴く為に親族にお寺に来てもらうのだが、話を聴きながらその内容によって戒名を考えるのである。4月8日の花祭りまでは平穏だったのだが、その後は毎日のようにご逝去を告げる電話が続いた。知らせを受けたら暫くは戒名を考え、心が決まったら直ぐに位牌と法号札を書き、五尺塔婆を1本書く。4日続けて葬儀になり、偶々その場所が三春町だけでなく、福島市や小野町だったりした。すると、午前中の法事を済ませて葬儀に出向き、戻って別な方の枕経に行き、それから風呂に入ってもう一方のお通夜ということになる。その合間に新たな知らせを受けるようなことになるから、頭の中で故人のイメージが混じらないようにするのが大変である。しかも、こんな時にはまたいつ出来るかわからないから、兎に角、知らせを聴いたら塔婆書きまで一気呵成に仕上げなくてはならない。

4月末には90代の女性ばかり、3人が続けて亡くなった。車椅子に10年も乗っていたのは誰だったか、花が好きで常に庭を花一杯にしていたのは誰だったのか、イメージが混じらないようにしなくてはならない。お知らせでは、何人の兄弟姉妹で何番目だったのか、子供は何人いてどんな名前をつけたのか、必ず訊くのだが、これも重なってくると記憶が入り混じってくる。兎に角、海馬をフル活用しながら、次々に別な人の一生に思いを馳せていくのだが、他のことが一切考えられなくなるのは当然である。全ての記憶がするすると演繹的に甦るような、そんな戒名が付けられるかどうかが最も重要である。それが一番の問題なのだが、中には全てを取り結ぶような名前だと自分で思えない場合もある。それは後々尾を曳くので、納得がいくまで何時間でも考えるが、こんな風にお葬式が続くと、そんな心の余裕がなくなることもあり、それが怖ろしい。ともあれ、3度の食事とお通夜前の風呂、剃髪、そして法事や葬儀ばかりで毎日が埋め尽くされる。火葬場は僧堂の後輩であるSさんに頼むものの、漸くその間に引導香語を書くような具合だ。それにしても、4月にこんな状態だったことは、これまで経験がなかったように思える。滝桜も観測史上最も開花が早く(※4月2日)、満開になるまでも早かったが、まさか何かの異変の前触れではないかと気にかかる。4月にはその他に、2月26日に遷化された先輩和尚の津送が27日にあった。小野町の普賢寺さんというお寺の牧山全一師だが、我々夫婦の仲人の一人であると同時に、青年僧の頃から色んなことを教わった。教区の様々な大会では、副司(※会計)等同じ部署で直接指導を受けることも多く、厳しい指導が気持ちよく感じられる、徳のある先輩の一人だった。茶封筒を兎に角、沢山用意し、面倒でも項目毎にお金を分けておくことを教わったのも普賢寺さんからだった。同じ部内ではあるが、奠湯導師を仰せつかっていた為、余計に色々憶い出したのかもしれない。世壽70はあまりに若いが、3度の脳梗塞のダメージが命を縮めてしまった気がする。あくまで倒れる前の、玲瓏なイメージで香語は書いた。ご参考までに、恥ずかしい拙作を示すが、一緒にその人柄を偲んで頂ければ嬉しい。「潜行密用、俊にして敏なり(潜行密用俊而敏)」「髣髴たり白虎の真面目(髣髴白虎真面目)」「身を虚空に翻し何れの所にか跳ぶ(翻身虚空何所跳)」「湯を献ずれども応えず笑いて黙す(献湯不応笑而黙)」――。寡黙だが、話す言葉は一々重い、長身の格好いい和尚さんだった。まさか周囲もこんなに突然遷化されるとは思っていなかった為、在家出身の若い副住職には未だ住職になれる充分な法階がない。幸い、檀家さんは纏まってその副住職を支持している為、部内でも本山に特別の配慮を願って申請書を出そうということになった。温情溢れる本山の処断を待つばかりである。

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【私のルールブック】(192) 新幹線の車内で私が激怒した酩酊客と車内販売員のやり取り

私は今、とある新幹線に乗って東京に戻っているところなのだが、とんでもない乗客に出食わしてしまい、思わずペンを走らせている。取り敢えず、特定できないように“とある新幹線”としておくが、本音を言えば思いっ切り名指ししてやりたいくらいの気持ちだ。だって、本当にとんでもない酔っ払いのオヤジがいるんですもん。それも、よりによって私の斜め前に。乗って来た時から結構な千鳥足でした。兎に角、声がでかい。で、席に座るなり車内販売の女の子を呼び止め、日本酒と何故か黒烏龍茶を購入。すると、まるで水を飲み干すかのようにあっという間に日本酒を空けてしまい、折り返して来た車内販売の女の子から日本酒を、今度は纏めて2本購入。で、黒烏龍茶は口もつけていないのに、こちらも1本買い足す。すると男は、何故日本酒と黒烏龍茶をセットで買っているか説明をし出す。ただ、呂律が全く回っていないので、何を言っているかわからない。

それでも車内販売の女の子は愛想笑いを交え、「そうなんですか~」と調子を合わせている。まぁ、普通だったら偉いってなるのかもしれません。ですが、相手は酔っ払い。兎に角、声がでかい。誰が見ても酩酊状態なんです。ということは、私を含めた他の乗客に迷惑が掛かっているということなんです。実際、寝ていた方も起きてしまいました。百歩譲って、お酒を売るのは仕方ないとしましょう。でも、お酒を渡す時に「他のお客様もいらっしゃいますから、声のボリュームを少しだけ落して頂けますか?」ぐらいは言えるでしょ? なのに女の子は、まるでキャバクラ嬢が如く、酔っ払いの話し相手を延々と続ける有り様。そして遂に、私の堪忍袋の緒が切れるやり取りが始まります。流石に車内の空気を察したのか、酔っ払いが言いました。「もう、お酒はここまでにしますんで」。すると、車内販売の女の子が信じられない一言を放ったんです。「え~そうなんですか~」と…。正直、耳を疑いました。文字では伝わり辛いかもしれませんが、要するに猫撫で声でそう言ったんです。

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テーマ : 俳優・男優
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【タブー全開!政界斬鉄剣】(169) 外務省は米朝首脳会談を利用して“ステルス世論操作”で権益拡大を狙う

池田「先週は、外務省が日本の国益よりも、省益や役人個々の保身を優先させる組織だというお話をしました。今週は、先日行なわれた2回目の米朝首脳会談が不調に終わったことを利用し、外務省が自らの権益を拡大しようと画策しているという実態を明かしましょう」

――米朝会談の不調を利用って?
池田「今回の米朝会談は、両国による事務レベルの事前協議が纏まらない状態のままトップ会談に突入し、結果的に交渉が不調に終わりました。それに対し、“ドナルド・トランプ大統領の行き当たりばったりで幼稚な外交手法”といったニュアンスを伝える大手メディアが目立ちましたが、これは外務省によるステルス的な世論操作の結果です」

――どういうこと!?
池田「テレビ番組等で、トランプ外交に対して『準備不足』『場当たり的』『もっと事務レベルでの事前協議を重ねるべき』といった趣旨のコメントを発する人たちの殆どは、外務省のOBか外務省に近い御用学者です。大手新聞やテレビニュースも、外務省記者クラブ経由の取材のみを情報源にした記者が作っている。つまり、『トランプ大統領が事務方(=役人)の事前協議が纏まらない状態で首脳会談に踏み切ったことは間違いだ』との印象を国民に浸透させることが、外務省の利益になるということです。ここで言う国民とは、政治家も含まれます」

――政治家も?
池田「外務省の狙いは、『選挙で選ばれた国民の代表である首相や外務大臣といった“素人”が外交を司るのではなく、“プロ”の外務省が主導するべき』との印象を、日本国民に植え付けることです。外務省からすれば、トランプ大統領や金正恩委員長、中国の習近平国家主席やロシアのウラジーミル・プーチン大統領等、国のトップの決断で外交が大きく動く最近の流れが嫌で仕方がない。彼らは、『外交は自分たちが敷いたレールの上を政治家が走ればいい』という思い上がった意識なのです」

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テーマ : 北朝鮮問題
ジャンル : 政治・経済

【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(197) ギスギスする議論から逃げずに考え抜く為のハーバード流“一丁目一番地”

3月初旬に『トヨタ自動車』の公式ツイッターアカウントが、女性ドライバーに向けて「やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?」と投稿し、炎上したというニュースがありました(※同社は投稿を削除・謝罪)。この件に関して、僕も木曜レギュラーとして出演している情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)内でのやり取りが色々と興味深かったので、少し紹介したいと思います。僕は出ていない曜日でしたが、出演者の多くは「これで炎上してしまうのは過剰では?」という論調で、番組が行なった女性100人への街頭調査でも、81%が「(トヨタの設定した質問は)偏見ではない」と回答したことを紹介。それに対し、ひとり反論していたのがコメンテーターのロバート・キャンベルさんでした。“やっぱり”という言葉から始まるこの質問には、女性に対する偏見が含まれているという意見です。

因みに、このやり取りはウェブニュースとしても拡散され、まとめサイトではキャンベルさんではなく、間違って僕の画像が張られるという“事件”も発生しました。同じハーバード大学にいたことのあるアメリカ人ということで、間違える人も多いのですが…(苦笑)。僕は今回の件で、改めてキャンベルさんの議論の誠実さを確認しました。彼のディベートの進め方は、ハーバードで最初に必ず習うというより、まるで新兵訓練のように徹底的に叩き込まれる基本そのもの。ここをクリアしないと、その先に進むことはできないのです。“一丁目一番地”の大原則は、「安易な一般化をするな」。“やっぱり”女性は運転が苦手…という、その前提の歪みを疑えということです。日本の高校を卒業してハーバードに入った僕は、当初、この手のディベートが本当に苦手で、特に性差に関する議論には物凄く違和感がありました。先生は「女性はこういうものという前提を一切排除して、ファクトだけで議論しろ」と言うけれど、現実的に女性と男性では違うとしか思えない部分も多い。ならば、社会的な役割が違っても当然だろう。全てを相対化し、フラットな議論をしても息苦しくなるだけじゃないか…と。

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テーマ : フェミニズム
ジャンル : 政治・経済

【異論のススメ】(44) 伝統的規範が支える民主主義…寛容さ失えば独裁者生む

2年前の11月にアメリカでトランプが大統領に選出された。連邦議会議員を選ぶ中間選挙ももうすぐ行なわれるが、概して大統領の所属政党は分が悪いというのが通例であり、共和党は苦戦を予想されている。それにしてもトランプ大統領の誕生は“大事件”であった。それは、今日のアメリカを知る上でも、また今日の民主政治を論じる上でもそうである。トランプによってアメリカが2つに分断されたという見方があるが、そうではない。すでに分断されていた結果がトランプを大統領に持ち上げたのである。また、トランプは民主主義の敵であり、民主政治を破壊するという見解があるが、これもそうではない。まさに今日の民主主義がトランプを大統領の地位に押し上げたのであった。

最近、翻訳された『民主主義の死に方』(新潮社)という本がある。スティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットというハーバード大学の2人の政治学者の手になる書物で、彼らは、今日のアメリカの民主政治がまさにトランプという“独裁型”の指導者を生み出したと述べ、その背景を分析し、こういうことを書いている。1960年代の公民権運動以来、アメリカは多様な移民を受け入れてきた。非白人の人口比率は1950年代には10%だったのが2014年には38%になり、2044年までには人口の半分以上が非白人になるとみなされる。そしてこの移民のほとんどは民主党を支持した。一方、共和党の投票者は、90%ほどが白人である。つまり巨大な移民の流入というアメリカ社会の大きな変化が、自らを“本来のアメリカ人”だと考える白人プロテスタント層に大きな危機感を生み出し、その結果、共和党と民主党の激しい対立が生み出された。当然ながら、「アメリカが消えてゆく」という危機感を濃厚にもつ共和党のほうが、いっそう過激なアメリカ中心主義(=白人中心主義)へと傾いてゆくことになった。しばしば、トランプ現象の背景には、グローバル競争のなかで、経済的な苦境を強いられるラストベルトの白人労働者層があり、トランプの反移民政策は、彼らの歓心を買うためのポピュリズム(※大衆迎合主義)だといわれる。間違いではないものの、問題の根ははるかに深い。共和党からすれば、民主党は“アメリカの解体”をはかっているように映るのである。今日、両者の対立は、もはやリベラルと保守といったイデオロギー的なものではなく、人種、信仰、そして生活様式という生の根本が分断された結果なのである。この著者たちによると、リベラルと保守という思想的な対立の時代には、共和党にもリベラルな政治家がおり、民主党にも保守的な考えがあった。その結果、両者の間にはまだしも共通の了解が成立しえたし、ともに、国の全体的な利益のために、過度な自己主張を自制し、相手をあまりに断罪しないという“自己抑制”の不文律があった。その上に、両派の均衡が成立していた。礼節や寛容を含む自己抑制という目に見えない規範だけが、アメリカンデモクラシーを支えていたというのである。しかし、さらに彼らはこう指摘する。この目に見えない規範が共有されていたのは、実はアメリカは白人中心の国だという人種の論理が暗黙裡に共有されていたからだというのである。だから、1960年代以降、人種差別撤廃運動が生じ、明らかに民主主義は進展した。ところが、その民主主義の進展こそが、共有された暗黙の規範を失墜させ、アメリカ社会の分断を導き、民主政治を破壊してしまっているという。たいへんに深刻で逆説的な結論であるが、確かに事実というほかあるまい。この著者たちが述べるように、民主主義なら政治はうまくゆくという理由もなければ、アメリカの憲法や文化のなかに民主主義の崩壊から国民を守ってくれるものがあるなどという理由もない。これは勿論、アメリカだけではなく、日本も含めてどこでも同じことだ。

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テーマ : 大衆迎合政治(ポピュリズム)
ジャンル : 政治・経済

【日日是薩婆訶】(33) 春彼岸、腰を据えてお寺にいると色んな人がやって来る…

毎年、お彼岸が近付くと腰が据わってくる。妙な言い方だが、要するにこの時期はあまり講演も引き受けず、お寺にいる時間が増える為、「寺にいよう」という気持ちも強まり、謂わば開き直ってくるのである。実際、年度末だから様々な文書も作らなくてはならないし、その合間に来た客の応対もするわけだが、そんな風に腰が据わってきたのには大きなきっかけがあった。実は結婚後、何かの理由で2人で仲人さんのお寺へ出かけた。それが恰度春彼岸の最中で、「こんな日に2人で出歩くんじゃない」と叱られたのである。法事も葬儀も無い日だったし、先住夫妻(※両親)も元気だったから、叱られても一瞬ピンと来なかった。すると、その和尚さんは「お盆とお彼岸くらいしか来ない檀家さんがいるだろ? そういう人たちを待ち受けるくらいじゃないといかん」と仰ったのである。爾来、春彼岸は特に腰を据えようと思っているのだ。とはいえ、最近でそんな気分になったのは、震災後数年は経ってからだろう。直後は流石にそうはいかず、毎月毎月、震災関係の講演やシンポジウム等が目一杯入っていた。東北地方ならまだしも、関西等は遠くて大変なのだが、それだけにこちらの状況を知ってほしいという気持ちも強くなった。父である先住職は入院していたが、当時は何かに追い立てられるように出かけていた気がする。当初は余所へ出向いても、声高に話せないことが多かった。例えば、「このくらいの線量は…」と放射線が安全圏内であることを言おうとすると、「お前は東電の回し者か!」といった批判が矢のように降った。どうして原発そのものの問題と、そこから既に出てしまった放射能の影響の問題を一緒くたにするのか? そうは思っても、原発反対と言い募る人々の多くは、放射能についてはあまり学ぼうとしていないように見えた。地球上に放射能がなかったことは一度もないのに、存在そのものが許せないとでもいうように、彼らには反射的な拒否感が強く感じられた。当時の県内では他に、賠償の問題も絡んだ。「この程度の放射能は大丈夫ですよ」等と言うことは、賠償に不利に働くから聞きたくないとも思われたようだった。思っても言えないという状況は“腹膨るる心地”等と言うのだろう。それは本当に苦しいものだ。

震災2年目、3年目と、おずおず思うことを話し始めたが、それがテレビ、ラジオ、新聞等で流れると、思わぬ所から辛辣で一方的な批判が起こった。本人に届くならまだしも、大抵はインターネット上に書いてあると知人に教えられた。一時は分断の苦しさとか賠償の不平等とか、寧ろ苦しいほうの話題を出して、盾のように自己防衛のスタンスをとった。そんな自分もあまり好きになれなかった。そんな風だった震災後の春が、しかし漸く“普通の春”になってきたと、今年は思えたのである。被災物故者を悼む一周忌、三回忌があり、そして震災影響が次々現れ、大方出揃った感じの3年目を経て、5年の区切りがあり、7回忌も終えた。今年は7年目としか呼びようのない半端な年であるせいなのか、毎歳法要はあちこちであるものの、あまり大規模で切実な行事には招かれていない。そうした事情に加えて、多分、私自身が『竹林精舎』(朝日新聞出版)を書き上げたせいもあるのだろう。何か体内で蟠っていたものが、一気に抜けたような気がする。僅かに、今年3月にあったシンポジウムといえば、4日目に三春町のコミュタン(※環境創造センター)で開催された『環境創造シンポジウム』くらいだろうか。これは開沼博氏がファシリテーターを務め、シンポジストとしては私の他に、放射能の専門家である塚田祥文氏、福島県に移り住んで有機農業をされている関奈央子さん、フリーアナウンサーの住吉美紀さん等が加わった。食べ物から放射能がほぼ検出されなくなった現状だが、米の全袋検査はいつまで続けるべきか、風評払拭の為にどうしたらいいのか等、真面目なテーマで話していたのだが、私は開沼さんに突然意見を求められ、つい言ってしまった。「2~3年だったら兎も角、7年目になって未だ福島のものは食べないという人々に、食べてもらうことはないでしょう?」「未だ怖いという人も、来なくていいですよ」。序でに申し上げたことは、『国際放射線防護委員会(ICRP)』の方針を変えて、全国各地の放射線量を発表してもらいたいということ。実は、ICRPは差別的な行動を懸念し、「健康影響のない範囲内での放射線量の高低を発表しないように」と告げているのだが、他を知れば福島県民が「なぁんだ」と安心するのは明らか。だから、「この際、発表してはどうか」と申し上げた。それによって、逆に福島差別も薄れようというもの。資料としては、2002年に被曝線量測定企業の『長瀬ランダウア』が、全国14万9000ヵ所で1年に亘って測定したデータを、2005年に学者たちの執念で論文化している。驚くなかれ、全国で11県が年間の累積線量1m㏜を超えているのである。年間1m㏜にあれだけ拘った父兄達の熱意はわかるものの、全国の状況はそういうことだし、その達成の為に設けた毎時0.23μ㏜という制限値も妥当性を欠いていることがわかった。この値を倍、いや3倍に増やしても、実測の年間累積被曝量は1m㏜を超えないことが判明したのである。まるで後の祭のようなシンポジウムだったが、言いたいことが言えて本当に晴れ晴れした。

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テーマ : 仏教の教えと世界観
ジャンル : 心と身体

【私のルールブック】(191) 挑戦者の気持ちで丸5年…バイキングを今後も宜しくお願いします!

そろそろ、『バイキング』(フジテレビ系)が放送されて丸5年を迎える。『笑っていいとも!』(同)というバラエティー番組史に残る長寿番組の後を受け、異常とも思える逆風の中で船出したバイキングだったが、まさかここまで続くとは誰も思っていなかったのではないか。だって、兎に角ボロカス言われていましたから。内からも外からもね。最初の1年は各曜日其々にMCが立ち、日替わりメニュー形式でした。私は役者畑から唯一抜擢され、月曜日を担当。今思えば、この外様感を抱いていたことが、結果的に良かったような気がします。無責任とは少々異なるのですが、外様だからこそ外野の煩わしい中傷も楽しむことができたといいますかね。スタッフさんとの打ち合わせにおける当時の私の口癖は、「どうせ終わるなら、やりたいことを全てやって終わりたい」でしたから。外様だからといって遠慮をしまくって、他人任せで終わることだけは嫌だったのです。

スタッフさんたちも私の想いに応えるように、あの手この手で色々な企画にトライして下さいました。私もロケに積極的に出向き、昼間の番組とは思えない内容のものもちらほら。ですが、現実はやはり厳しかったです。やれどもやれども視聴率は上がらず、答えが見つからないまま、あっという間に年の瀬を迎えようとした頃、突然、お偉いさんたちが私の楽屋を訪れ、「全曜日を担当してくれませんか?」とのオファーが…。正直、びっくらこきました。「えっ、このおじさんたち何言ってんの?」って。で、数秒置いて状況を把握するべく、頭をフル回転させると、怖さ3割、面白味7割ぐらいの感覚でしたかね。怖さというのは、言葉は悪いですが、当時のバイキングは泥船に等しかったですから。誰だって沈没する船の船長になんかなりたくないでしょ。引き受けたはいいものの、打ち切りになったらボロカス言われるのは、演者の責任者たるMCですから。でも、臍曲がりな私は、だからこそ面白味を感じたんだと思います。何より、月曜日のスタッフさんたちとの信頼関係が築けていたので、「あの人たちと更に大きな勝負ができるんだ」って…。

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テーマ : フジテレビ
ジャンル : テレビ・ラジオ

【タブー全開!政界斬鉄剣】(168) 米朝首脳会談の不調に外務省と大手メディアが驚いた理由とは?

池田「今週は、2月27日から開かれた米朝首脳会談の結果について話したいと思います。私は、米朝交渉の不調を“想定外の結果”というニュアンスで報じるメディアが多かったことが、非常に気になりました」

――意外な結果じゃないの?
池田「日本では、首脳会談とは事務方(=外務省)がきっちりと事前交渉をして結論は決まっているもので、実際のトップ会談は単なるセレモニーという考え方が浸透してしまっている。だから、多くの記者や評論家たちは、今回の米朝会談が不調に終わったことを意外に感じてしまったのでしょう。しかし、その感覚は間違っています」

――どうして?
池田「普通のビジネス交渉でも、商談が一度で纏まるとは限りません。それが国家間の交渉ともなれば、高度で複雑な利害が錯綜するわけです。一度や二度の交渉で纏まらないなど、驚くことではありません」

――確かにそうだ。
池田「況してや、米朝はつい最近まで、交渉どころか軍事衝突の可能性が高いとまで思われていた関係です。首脳会談が行なわれたというだけで、お互いを真剣な交渉相手として認めている証だと捉えるべきです。寧ろ、険悪だった関係が信じられないほど急接近したとも解釈できる。それなのに日本の報道では、交渉が決裂したことで米朝関係が敵対関係に戻るかのような伝え方さえされています」

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テーマ : 北朝鮮問題
ジャンル : 政治・経済

【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(196) 芸術は常に正義なのか、それとも時代と向き合うしかないのかという問題

京都造形美術大学主催の公開市民講座に参加した美術モデルの女性が、講師を務めた現代美術家・会田誠氏らの発言や作品から精神的苦痛を受けたとして、講座を運営する大学側に慰謝料の支払いを求める訴訟を起こしました。女性が苦痛に感じたのは、涙を流す少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄している絵、更にデッサンに来たモデルを“ズリネタ”にしたという会田氏自身の発言等だったそうです。前提として、今回の講座はアートに従事している人(※或いは学生)向けのもの。言うなれば、見る側も“リテラシー高め”という設定で開催されたわけです。それなのに、訴えを起こした女性が「会田さんのキャラクターや作風を知らずに参加した」と話していることから、「自己責任だ」との批判も少なくありません。ただ、それでも敢えて問いたい。この一件は、そうしたロジックで一方的にシャッターを下ろせる問題なのでしょうか?

ひとつ思い出したのが、1990年代以降に活躍している現代美術家のダミアン・ハーストです。巨大な鮫を丸ごと、或いは真っ二つに切断した親牛と子牛をホルマリン漬けにした作品等で知られ、残酷な作風、世間を挑発する言動に対しては批判も多いですが、本人は「俺を批判するなら俺の作風・背景を理解しろ」と意に介しません。“文脈”も知らない人間が勝手に傷付いたからといって、何故俺がお詫びしなければいけないのか? そんな抗議を受け入れると、美術そのものが萎縮するぞ――というわけです。そんな彼の“作風”がより色濃く表れたのは、2002年9月のこと。アメリカ同時多発テロから1年という時期に、『BBC』のインタビューで「この事件そのものがアート作品のようだ。確かに最悪なことだったが、視覚的には衝撃を与える方法だった」とコメントしたのです。その後、大炎上に至った顛末は説明するまでもないでしょうが、彼は謂わば、時代や社会の中で芸術にスレスレの“心なさ”を盛り込むことをブランド化してきた。その後味の悪さや炎上までも含めてファンはついていますが、「抗議してみろ」と言わんばかりのことをしておいて、いざとなれば“表現の自由”という名の要塞へと逃げ込むという表現上の選択は、いつまで成立し続けることができるでしょうか?

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テーマ : 表現規制問題
ジャンル : 政治・経済

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