【新幹線50年・零戦とロケットの夢を乗せた高速鉄道】(前編) 新幹線には“幻の雛形”があった

新幹線が開通したのは1964年10月1日、東京オリンピックに合わせてのことだった。東京から大阪まで550kmの巨大プロジェクトだったが、わずか5年半で完成したことはあまり知られていない。いったいなぜこれほどの短期間で実現したのか。じつは土地買収もトンネル工事も、戦前から動き始めていたのだ――。 (取材・文 前間孝則)

今年の10月、東海道新幹線は開業50年を迎える。計画段階では「鉄道は時代遅れの斜陽だ。これからは自動車や航空機が主役だ」と言われたものだった。「技術的にも事業的にも失敗する」との批判も多く、国鉄内でさえも反対意見のほうがはるかに上回っていた。ところが、実際に開業すると、JR東海の営業利益の90%を稼ぎ出すドル箱路線となり、大成功となった。やがて「世界の鉄道に革命をもたらした」とさえ言われ、フランスやドイツなどがこれに続くのである。

新幹線の開業で、世界の鉄道関係者が驚いたことがある。東京オリンピックに間に合わせるためとはいえ、全長550kmもあるまったく未経験の超高速鉄道が、たった5年半で実現したことだ。この驚異的な早さは、当時奇跡とも呼ばれた。「新幹線は戦前の“弾丸列車”計画があったから、あれだけスムーズにいったのです。やはり元の計画がよくできていた証拠です。そうでなければ新幹線の実現はかなり遅れていたかもしれませんね」。いまや伝説と化している“新幹線をつくった男”と呼ばれる元国鉄の技師長・島秀雄の言葉である。島は、新幹線でエンジニアのノーベル賞といわれるジェイムズ・ワット賞や世界的に権威のあるスペリー賞を受賞した。その名が世界の鉄道界に知られる大物だが、幸いにも私は最晩年の90歳前後に、何度もインタビューすることができた。






じつは、日中戦争下の1938年ごろから、鉄道省内に精鋭が集められ、東京-下関間に、世界でも類を見ない最高時速200kmの超高速鉄道の建設計画が進められていた。名づけて『弾丸列車』と呼ばれた極秘プロジェクトである。戦後の新幹線は弾丸列車の生き写しといわれ、東京-大阪間の駅はほとんどそっくり同じである。路線は下関からさらに延びて大陸へと向かう。朝鮮海峡に海底トンネルを掘り、北京に向かう予定だった。これほど重要な歴史的意味合いをもつ計画にもかかわらず、かつて弾丸列車についての本は1冊も刊行されていなかった。それは具体的な資料がまったく残っておらず、詳細がよくわからなかったからだ。鉄道関係者によると「戦前の中国侵攻あるいは大陸進出という忌まわしいイメージがあるので、敗戦後、占領軍の追及を恐れて資料は焼却された」とのことだ。

私は国会図書館や旧国鉄(JR各社)関係の組織など手当たり次第に調査を続けたが、資料は発見できなかった。ある日、鉄道関係の歴史資料に詳しい古老が見かねて声をかけてくれた。「政府のとある外郭団体の地下倉庫に眠っているかもしれないという話を、以前に聞いたことがある」。そこに赴くと、当初は「部外者は閲覧できません」とにべもなく断られた。「そこをなんとか」と頼み込んでOKをもらい、地下室にあるスチールキャビネットを引き出すと、そこには封をしたままの状態のマイクロフィルムが何本もあった。コピーは禁止されていたが、これまた懇願すると、出所はオープンにしないという条件で複写の許可を得ることができた。私はマイクロフィルムを見るため、1週間以上もレンズを覗きつづけ、数千枚近い資料を入手した。さらに資料に登場する関係者6人にインタビューし、初めて弾丸列車の全貌が明らかになった。では“幻の東京発北京行き超特急”とは、どんな計画だったのか。

当初の計画では、朝鮮海峡に、世界最長となる200kmを超す海底トンネルを掘る予定だった。鉄道省大臣官房研究所の地質探査班の長である渡辺貢博士は自信のほどを示していた。「日本の土木技術をもってすれば絶対に掘れる」。ちょうど、世界初ともいえる本格的な関門海底鉄道トンネルの工事が進められていたからだ。ところが調査すると、海底の地盤に細かい目の砂地があり、掘っても崩れてくる恐れがあるため、先送りせざるをえなくなった。そこで、下関に到着した車両を、そのまま連絡船に乗せて朝鮮の釜山に入港させることにした。その先は日本の植民地下にある朝鮮鉄道、そして南満州鉄道(満鉄)に乗り入れる。

満州帝国の首都・新京(現在の長春)、奉天(現在の瀋陽)を経て、北京まで3日間で結ぶ。総延長3692kmに及ぶ世紀の一大事業計画だった。実際の着工は1940年からで、完成は15年後と見込まれた。当時から『新幹線』という言葉はあり、帝国議会で総予算5億5000万円が認められた。日米開戦後も建設工事は順調に進む。それは、通常ならば難航する用地買収が、非常時ゆえ「お国のため」とか「お上の命令である」として、事実上の強制収容をしたからだ。戦後の新幹線に使われることになる日本坂や東山のトンネルはこのときすでに完成している。難工事が予想されていた新丹那トンネルも途中まで掘り進んでいた。こうした下地があったからこそ、戦後の新幹線がたった5年半で完成できたのである。

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新丹那トンネルの工事着工を伝える雑誌記事(内閣情報部刊行の『写真週報』242号=1942年10月14日号より)。「一歩一歩着実な進行だ」「労務者の闘魂は疲れることを知らない」などの煽り文句が書かれている。

こんな壮大な計画だったにもかかわらず、たった2年余の短期間で着工にこぎつけている。計画づくりを進めた鉄道省内の『鉄道幹線調査分科会』の中心メンバーである権田良彦事務官は、当時のことをこう語った。「90年近い私の生涯において、後にも先にもこれほど忙しく、また食事の時間も惜しんで集中して仕事をしたことはなかった」。やはり同分科会のメンバーだった鉄道省運輸局の竹内外茂技師も次のように話す。「当時、国鉄の最高速度だった“燕”が100kmに満たないのに、南満州鉄道の国産機関車“あじあ”号が最高時速120kmで営業運転を始めていた。われわれとしては『やりやがったな』ということですよ。だから、東海道線の(輸送量の)行きづまり、さらには大陸進出という話も出てくるなかで、われわれは弾丸列車計画を推し進めるため、相当裏で画策していた」。それもそのはずだ。「満州は日本の生命線」と叫ぶ関東軍(陸軍)は、1931年9月18日未明、満州事変を起こした。翌年には満州国が建国され、1937年7月7日、盧溝橋事件によって日中戦争が勃発。大陸(満州)への人や物資・軍需品の輸送が急増していたのだ。

その1ヵ月前、国民・政財界・陸海軍などから嘱望された“皇族のプリンス”近衛文麿内閣が誕生している。このとき、鉄道大臣に就任したばかりの中島知久平は、鉄道省の局長会議で威勢のいい演説を一席ぶった。「日本の鉄道も揚子江の岸あたりを目標に整備し、計画を立てるべきだ。島国根性の鉄道観の放棄が先決だ」。中島は一代で航空機メーカー・中島飛行機を築き上げ、後に“日本の飛行機王”と呼ばれる人物だ。『隼』『疾風』などの戦闘機を作り、1940年以降は零戦も製造した。中島の大演説を聞かされた局長たちの受け止め方は、醒めたものだったという。「あまりにも話が大きすぎて非現実的、できるにしても、はるか先のことだ。鉄道もろくに知らない新任の大臣が、勇ましい話で発破をかけて、大法螺を吹いている」(竹内技師)。ところが、そうではなかった。素人大臣のひと言を追い風にして、まもなく弾丸列車計画となって実現化するのである。まさしく“瓢箪から駒が出た”のだった。

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下関までの駅想定図。その先、北京まで結ぶ計画だった。東京を朝6時20分に出ると、翌々日の朝7時30分に北京到着。

弾丸列車計画の実現には、立ちはだかる大きな壁や課題がいくつもあった。具体的には①狭軌か広軌か、②電気機関車か蒸気機関車か、③陸海軍をどう説得するか、④朝鮮海峡の輸送方法の4つである。明治以来、日本(国鉄)の鉄道はすべて、レール間隔が1067mmの狭軌で、広く世界で使われている国際標準軌の1435mmではなかった。鉄道の導入時、明治政府の実力者である大隈重信が全権委任したお雇い外国人のサゼスチョンに従ったからだ。「極東の貧乏国・日本はさして発展しそうにもないので、英国の植民地で普及している軽便な狭軌で十分だ」と判断したのだ。ところが、狭軌は広軌より車両の走行が不安定になるため、スピードが出せない。しかも車輌幅が狭いので、輸送量も制限される。後に大隈はそのことに気づき、「狭軌にしたことは吾輩の一世一代の失策だった」(『日本鉄道創設史話』)と漏らした。実際、この判断は“国家的損失”といえた。

問題の解消に執念を燃やしたのが、島秀雄の父親である鉄道院鉄道作業局の島安次郎だ。安次郎は明治・大正の時代に、広軌への改造に3度挑んだが、「建設費が安くすむ狭軌のまま日本全国に広く鉄道網を敷設するのが先決だ」とする政治勢力(政友会など)の抵抗で、その都度潰された。世界の鉄道界で“車両の神様”と呼ばれた安次郎だが、3度めは我慢がならず、狭軌の計画書への捺印を拒否し、辞表を提出。その後、広軌鉄道の満鉄に招聘され、副総裁格で満州に渡った。その安次郎が69歳のとき、弾丸列車計画の概要を決める『特別委員会』の委員長に指名され、20年ぶりの檜舞台に登場することになった。そして悲願の広軌実現に向けて先導する。

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世界最高の時速210kmを目指した旅客用の電気機関車。“弾丸列車”には電車・電気機関車・蒸気機関車の3種類が考えられたが、軍部の判断で蒸気機関車が主力として採用された。

当時、大きな決定権を持っていた軍部も、「狭軌と広軌が入りまじると相互の乗り入れができない」として反対意見が多かった。委員らは「ならば、朝鮮鉄道および満鉄が広軌なのだから、東京-下関間も広軌を採用すべきだ」と説得し、長年の反対姿勢を覆した。上に掲載したように、電車や電気機関車の設計案も提出されたが、こちらは軍の強力な反対によって蒸気機関車が採用された。理由は「電化すると、発電所や架線が爆撃されたら、すべてがストップしてしまう。その点、蒸気機関車は自律運転だから問題はない」という決めつけだった。島は、日本国内では実験できない広軌路線での高速走行試験をおこなうため、満州に何度も赴いた。満鉄の大連鉄道研究所において、満鉄の巨大機関車『あじあ』号を使い、150km走行に挑戦した。だが、140kmになると、激しいねじれ振動が起こり、速度アップは難しいことがわかった。レールの基盤をしっかりさせることで解決できると思っていたが、問題を残したまま工事は始まる。そして、着工から4年後の1944年半ば、戦局が極度に悪化し、本土が空襲に見舞われるなか、工事は中止となった。安次郎は敗戦の翌年、76歳の生涯を閉じた。広軌への夢は4度めも潰えたのである。

息子の秀雄は、父親と同様、東京帝国大学機械工学科を卒業し、傑作といわれるD51(デゴイチ)など、戦前のおもな国産蒸気機関車の設計責任者となった。秀雄にも鉄道の将来は広軌の電車という信念があった。そのため、弾丸列車計画が挫折した後も、「優秀な技術者たちが兵隊にとられることを防ぐ意味も含めて、爆撃下の東京で、後の新幹線に繋がる電車の研究に集中させた」と話す。「よく『新幹線の研究はいつごろから始めたのですか』と聞かれますが、その質問には大戦末期の爆撃されていたころですと答えます」。1955年、島は国鉄技師長に復帰し、“父親の弔い合戦”の意味も秘めながら、5度めとなる広軌新幹線の実現に向けて指揮を執ることになる。 【次号に続く】

               ◇

さらにその先まで! 幻の『中央アジア横断鉄道』計画も!
日中戦争で日本軍が破竹の勢いで中国の都市を占領していくと、日本国内に大陸ブームが起こった。この勢いを受け、かつて鉄道省のベルリン事務所長だった湯本昇が奇想天外な『中央アジア横断鉄道』の構想を打ち出した。「その昔の絹の道であり、玄奘三蔵の通った道であり、マルコポーロの歩いたところ(シルクロード)に鉄道を走らせる」として計画を発表するや、湯本は「お前は夢を食って生きている」と冷笑された。だが、ひるまなかった。やがて、賛同した帝国鉄道協会内に路線実現のための調査部が設置され、政府が掲げる『大東亜共栄圏』と連動して盛んに宣伝されるようになった。背景には、1936年11月に『日独防共協定』が結ばれ、東京-ベルリン間の行き来が頻繁になってきたことがある。この線路があれば、連合国の支配地域であるシベリア鉄道や、インド洋経由の船便あるいは航空便を使わなくてすむ。しかも何日も早く到達できるのだ。だが島秀雄は醒めた口調で語った。「このころ、鉄道省内には気宇壮大で、こういう大きいことを考える人がいたし、そうした雰囲気もあった。でも実際に運ぶ荷物や旅客がたくさんあるなんて誰も思っていない。これは夢のような話です…」

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湯本昇の『中央アジア横断鉄道』構想図。湯本はシンガポールまでの『大東亜縦断鉄道』も打ち出している。


まえま・たかのり 1946年、佐賀県生まれ。法政大学中退後、石川島播磨重工業でジェットエンジンの設計に従事。同社退職後、執筆活動に入り、多くのノンフィクションを発表。近著に『新幹線を航空機に変えた男たち』(さくら舎)。


キャプチャ  2014年9月16日号掲載
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