【総理の影・菅義偉の正体】(05) 菅義偉本人が語った“安倍晋三との出会い”

菅義偉が自らについてメディアに語ることは、殆ど無い。彼がどのような道筋で今に至り、政権中枢の任にあって何を考えているのか。本誌連載を読んだ彼は、会見で見せる独特の落ち着いた口調で語り出した。

指定された時刻より少し早くホテルに到着した為、喫茶ロビーで待っていると、慶應義塾大学教授の竹中平蔵が傍を通り過ぎた。政府の産業競争力会議の中核メンバーである竹中は、菅義偉の有力ブレーンの1人に数えられている。官房長官として極めて多忙な日々を送っている菅は8月1日、竹中と打ち合わせした後、私のインタビューに応じた。連載を始めて間もない6月に続き、2度目のインタビューである。折しも、安全保障法制の国会審議が佳境を迎え、前日にはアメリカ軍基地問題の為に沖縄県知事の翁長雄志との会談を済ませたばかりのタイミングだった。勢いインタビューの話題は、沖縄の基地問題からとなった。

──普天間飛行場の辺野古移設は進展したか?
「翁長知事は移設反対で知事に当選したのですから、そこは急には、非常に難しいのではないですかね」

連載第1回でも書いたように、菅は沖縄問題に思い入れが深い。2012年12月に第2次安倍晋三政権が発足して以来、官房長官を務めてきた菅は現在、沖縄基地負担軽減担当大臣を兼任している。前知事の仲井真弘多とは、二人三脚でアメリカ軍普天間飛行場の辺野古移設と沖縄振興策を進めてきた。が、基地移設反対の翁長知事になり、大きな誤算が生じている。基地移設交渉は暗礁に乗り上げ、仲井真時代に進めたカジノを中心とするIR(統合型リゾート)計画も白紙撤回された。更にもう1つ、菅自身が沖縄に誘致しようと働きかけてきた『ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)』についても不安が残る。

──カジノやUSJは、アメリカ軍基地移設容認のバーター取引の中で考えられてきたのではないか? カジノ計画が消えれば、集客や採算面からUSJも白紙撤回とならないか?
「(今度の)翁長知事との話し合いでは、USJの話は出ませんでした。ただ、沖縄の振興の為には必要だと思いますので、翁長知事としてもUSJは大歓迎でしょう。そこは、国としても応援しようということです。沖縄振興と基地問題は、リンクしている訳ではありません。沖縄振興では第一に、『狭くて満杯の今の空港を何とかしてほしい。第2滑走路を造ってほしい』と要請がありました。当初は滑走路の完成まで7年ほどかかると言われていたところを、仲井真さんとの信頼関係から5年10ヵ月にまで短縮できた。USJは偶々その後に出てきた話です。元々、大阪の次に進出する地域としてUSJが場所を探していて、九州と沖縄を候補地としていました。それを私たちが聞きつけたのです。で、USJの関係者に官邸に来てもらって、『沖縄であれば様々な支援は可能である』と話をした。それが始まりです」

――USJの誘致に関しては、『サントリーホールディングス』社長で経済財政諮問会議のメンバーでもある新浪剛史から紹介を受け、菅長官が働きかけたという説もある。
「新浪さんはまた別で、新浪さんが今のCEO代表取締役社長のグレン・ガンペルさんと凄い仲がよくて、私が『沖縄の件で会いたい』と言ったらガンペルさんがやって来たんです。USJとしては、(沖縄北西部の海洋博公園にある)美ら海水族館と連携し、観光客を呼び込みたいという発想のようです。『美ら海水族館には年間300万以上の来場者がいる。だから、あそこと連携して相乗効果を高めたい』と言っていました」

新浪も菅の親しいブレーンだが、実際はそうではないという。カジノ構想については菅自身も力を入れてきたが、現状では安保法制の国会審議が優先され、法案成立の目途は立っていない。従って、表向きは未定という他ないが、何れにせよカジノ抜きでもUSJ計画は進めるというのが政府の方針らしい。仲井真時代の菅は、基地移設という“鞭”に対し、カジノやUSJ等の沖縄振興策という“飴”を使って計画を進めてきた。だが、今や政府と地元が相容れず、膠着状態に陥っている。この先、菅に秘策はあるのだろうか。




菅義偉は、世辞にも華のある政治家とは言い難い。だが、安倍政権を支える屋台骨として霞が関の官僚に睨みを利かせ、産業界とも連携してきた。その強みは、先の竹中や新浪等を含めた政官業の幅広い人脈だが、そこは後述する。そんな菅は高校卒業後、郷里の秋田を離れ、東京にやって来た。父親に反発し、家出に近い上京だったという。奇しくも、それが政治家になるきっかけとなる。

──『南満州鉄道』の職員だった父・和三郎は満州から命辛々引き揚げ、秋田でイチゴ農家を成功させた。父親の影響は?
「まあ、男の子は皆、親父の影響を受けているのでしょうね。満鉄では物凄く待遇がよかったらしく、官舎があって、お手伝いさんがいたとか、そういう話はよく聞きました。満鉄でそれまで最高の幸せな家庭を築いてきたのに、戦争で負け、一転して引き揚げてくる時は大変だったらしい。姉2人は向こうで生まれましたから、一緒に帰ってくる時の話とか、それは聞いています。ただ、引揚者は大抵そうでしょうから」

和三郎は終戦後、苺の生産組合を設立し、町会議員にもなった。2人の姉は共に高校教師になっている。菅本人は、巷間伝えられているように集団就職せざるを得なかった訳ではなく、地元に残る選択肢もあった筈だ。

──一部では、教師を志して北海道教育大学を受験して失敗し、上京したという報道もあるが、上京はやはり父親への反発からか?
「北海道教育大学を受けた事実は全くありません。姉だけでなく、叔父や叔母等の親戚が教師だらけだったので、それだけはなりたくなかった。かといって、農業を継ぐのも嫌でした。それで、『東京に行けばいいことがあるんじゃないかな』って感じで、ある意味、逃げるように出てきたのです。私のところでは、同級生の友だち120人のうち、60人が中学校を卒業して東京に集団就職していました。残った60人のうち、30人は農家を継いで、高校に行ったのは30人しかいない。そんな田舎でした。で、高校を卒業すると東京に出る友だちも一杯いたし、それも集団就職。私はそれで、東京に出てきて段ボール会社で働き始めたんです。ただ、『東京で自分の好きなことをやろう』っていう程度でした。そこで初めて、現実が如何に厳しいかに気がついた訳です。私が一番思い出したくない青春です。そうして、『やっぱり、どこかの大学に入らなきゃ拙いな』と思い始めたのです」

――法政大学法学部政治学科に入学したが、そこから直ぐに政治家を志した訳ではない。
「大学は、別に法政大学でなくてもよかったんです。当時は、『いつかは田舎に帰らなきゃ拙いだろうな』と思っていましたから。そうして働きながら大学を卒業した。だけど、まだ直ぐにはうちに帰りたくないし、他の大学生はそこから就職するというし。本を読んでふらふらしながら考えているうち、『この世の中は政治が動かしてるんじゃないか?』と気がついたとでも言えばいいでしょうか」

――どうやって政治の世界に飛び込んだのか?
「それで、『政治家の秘書になろう』と思って、大学の就職課に行って相談したんです。市ヶ谷にある法政大学のOB会に行って、事務局長の方から法政大学OBの中村梅吉さん(元衆議院議長)の秘書を紹介してもらいました。しかし、中村さんが体調を崩してしまい、選挙に出なくなった。で、偶々その秘書が小比木彦三郎さんのことをよく知っていたんですね」


大学の就職課を通じて秘書になるパターンも珍しい。そうして菅は、縁も所縁も無い横浜選出の衆議院議員である小此木彦三郎の書生となる。小比木事務所が、菅の政治家としての出発点だ。事務所に7人いる秘書の内でも、最も若い末端の秘書である。「小此木さんの名前も知らず、私はそんな程度でした。小此木事務所に勤め始めてからも、『最終的には秋田に戻らなければならないもの』と考えていました。私にはそれだけ田舎への思いが強く、30歳前後の時に『事務所を辞めて秋田へ帰る』と切り出したのです。そしたら小此木さんが唐突に、『野呂田芳成(元農林水産大臣)さんの参議院選挙の応援で秋田に行くから、お前もついて来い』と言って、連れて行かれた。で、秋田に着いたら『お前の家に行く』って言い出した。そうして両親に会い、『もう少し鍛えさせてもらえませんか?』と頭を下げるではありませんか。当然、両親は『お願いします』と答える他ない。小此木さんは私のことを可愛がってくれて、鍛えてくれました」。菅にとって、まさしく政界における最初の師が小此木だ。中曽根派の重鎮だった小此木は、1980年に衆議院運輸委員長を務めた後、1983年の第2次中曽根内閣の通商産業大臣として初入閣する。1988年の竹下登改造内閣で建設大臣、その間の1982年には自民党国会対策委員長を務めてきた。運輸族であり、議運・国対族として国鉄の民営化を始めとする行政改革を手掛けてきた。末端の秘書だった菅は、小此木の通産大臣秘書官に抜擢された。小此木の教えが、菅に政治家像を形成させたのだろう。「小此木さんは、国会対策に実力を発揮していました。人間関係の捩れた糸を解き解すのが巧い。気配りが絶妙で、国対委員長としては最高だった。例えば国鉄改革の時、橋本龍太郎さんと三塚博さんが大喧嘩してね。三塚さんは(改革に)賛成、橋本さんは行革担当の役職をやっていた。赤坂の料亭で、大論争で収拾がつかないことがあった。そこで、横浜に帰っていた小此木さんが仲裁に呼ばれた。『これから赤坂に戻るから、お前もついて来い』と引き返したことまでありました。私は(運転手として)車の中で待機しているだけでしたけど、『大変だな』と思っていました」。菅義偉は、小此木の秘書から横浜市議会議員に転身し、1996年に神奈川2区で衆議院初当選を果たした。今や“影の総理”とまで称され、霞が関の官僚を掌握し、文字通り、現在の安倍政権の舵取りをしてきた。そんな菅の強みは、自ら築き上げてきた人的なネットワークに裏打ちされているように感じる。その人脈作りの原点もまた、小此木の秘書時代に遡る。小此木通産大臣時代に秘書官を務めたおかげで、経済産業省のパイプができた。安倍政権は“経産内閣”等と言われるが、その実、そこには菅の経産官僚人脈と組織統制がものを言っているとされる。

――後援会のスポンサー企業や官庁の人脈作りは、どのようにしてきたのか?
「私自身は、取り立てて人脈作りに励んできた感覚はありません。ある意味、秘書はそうした後援会作りを一生懸命やるのが仕事ですからね。だから企業とも、秘書時代からの付き合いが多い。秘書時代から今に至るまで、ずうっと付き合っています。小此木事務所の秘書だった当時は、まだ課長になるかどうかだった企業の人たちがその後皆偉くなって、そのまま続いている感じ。霞が関の役人も同じです」

――運輸族として知られた小此木は、やはり旧国鉄を始め、京浜急行・相模鉄道・東急電鉄といった鉄道との関係が深かった。それを引き継いだということか?
「そうですね。JRで言えば、後に東日本の社長になった松田(昌士相談役)さんなんか、まだ部長にもなっていなかったんじゃないかな。(国鉄民営化3羽ガラスと呼ばれた)葛西(敬之・JR東海名誉会長)さんや井手(正敬・JR西日本元会長)さんも、小此木事務所によく出入りされていました。後のJR東日本の社長たちも課長ぐらいだったと思います。私鉄3社は路線が横浜ですから尚更です」

尤も、政治家と企業という関係にはやはり微妙な話もある。2008年、山口組系のフロント企業に地上げを任せ、そこが弁護士法違反で摘発されて評判になった『スルガコーポレーション』という東証2部の建設業者があった。2001年から2007年までの7年間、菅が代表を務める自民党神奈川県第2選挙区支部が、そのスルガ社から104万円の献金を受けていたと報じられた。

――何故、スルガ社等から献金を受けていたのか?
「あそこは会社が横浜にあった。選挙区にある上場企業なので、付き合いで献金をしてもらっただけ。確か、1年間10万円ほどだったと思います。それが新聞では、(献金が)暴力団と関係あるように報じられた。それ(企業と暴力団の関係)はわからないでしょう」

――また、2004年には横浜で事務所として借りていたビルを地元の土木生コン業者の『吉永商店』が購入し、改めてそこから買い取った一件も、“政治とカネ”問題として報じられた。
「あそこは元々、私が長年借りて事務所として使っていたんです。ある時、持ち主から『買ってくれ。買われなければ、このままだと競売になってしまう』と言われたのです。私はその時偶々(経済産業大臣)政務官だったから、買えない。そこで、吉永商店に頼んで買ってもらい、政務官を降りた時に改めて買い戻したのです」

――つまるところ、後援者に助けてもらったという話のようだが、その吉永商店は今もずっと後援企業として政治献金し、支援している。
「吉永商店の社長は嘗て青年会議所の専務理事をしていて、私の最初の選挙から応援してくれた古い付き合いです。青年会議所の人たちには、私が市議会から衆議院に鞍替えする時から応援してもらってきましたから。真剣勝負で仕事をやれば応援してくれたり、仲間の輪が広がる。そういう感覚で付き合っています」


菅は政策毎に関係者と付き合い、親交を深めてきたという。小泉純一郎政権時代には竹中平蔵総務大臣とタッグを組んで、副大臣として郵政民営化を手掛け、そこから総務大臣としてNHK問題にも取り組んできた。道路行政で言えば、先頃亡くなった前財務次官の香川俊介と共に、『東京湾アクアライン』の高速利用料金を引き下げたという。

──現首相の安倍晋三との付き合いはどこからか?
「私がまだ当選2回の時、自民党総務会で『北朝鮮に対する制裁法を作るべきだ』と発言し、それを耳にした当時の安倍官房副長官から会いたいという話があって、『菅さんの発言は正しい。私も実現できるよう応援する』っていう話になったんです。その時、(安倍の)政治家としての懐の深さには感服しました」

──他に政界で期待する人物はいないか? 『維新の党』の橋下徹を随分買っているようだが?
「橋下徹と松井一郎という政治家は、捨て身で政治を行っていますから、2人を信頼しています。抑々、橋下さんを紹介されたのは大阪の国会・市会議員の人たちからなんです。当時、選対副委員長であった私から『橋下さんの市長選挙への出馬を説得してほしい』ということだったんです(後に府知事選に出馬)。私自身も総務副大臣時代から、『横浜市のほうが大阪市より人口が100万人も多いのに、(逆に大阪市の職員が2万人も多かったので)大阪の職員は多過ぎる。改革は必要だ』と問題にしてきました。その意味でも、大阪都構想の住民投票否決には感慨深いものがありました」

元はと言えば、橋下徹を政界の舞台に担ぎ上げようとした張本人が菅義偉だという。菅はインタビューを通じ、常に言葉を選び、慎重に答えた。この9月には安保法制の国会審議が大詰めを迎え、沖縄のアメリカ軍基地移設問題という難題に取り組まなければならない。そんな菅の視線は、既に“ポスト安倍”を睨んでいるようにも思えた。 《敬称略》


森功(もり・いさお) ノンフィクション作家。1961年、福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。『週刊新潮』記者等を経て、2003年にフリーに。政治・経済・事件等の分野で数多くの作品を発表する一方、航空問題にも造詣が深く、『血税空港 本日も遠く高く不便な空の便』『腐った翼 JAL消滅への60年』(共に幻冬舎)等の著作がある。近著に『紛争解決人 世界の果てでテロリストと闘う』(幻冬舎)。


キャプチャ  2015年10月号掲載


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