【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(16) 瀬島氏と密会、意義力説…「目玉政策になる」、解決案託す

第2次臨時行政調査会(第2臨調)は1981年4月から、各省庁へのヒアリングを始めた。5月上旬、私は妹夫婦の仲人で臨調委員の瀬島龍三さんに密かに接触した。瀬島さんは大戦中は大本営作戦参謀、戦後は伊藤忠商事会長等を歴任し、“昭和の参謀”と評されていた。臨調の担当大臣で、その後首相になる中曽根康弘さんとの関係も深い。第2臨調の作戦参謀もまた、瀬島さんであると見られていた。この時が実質的な初対面だったが、物静かで怜悧な人という印象だった。私は「“最後の再建計画”は作られたばかりだが、既に破綻している」と断言し、こう力説した。「国鉄問題こそが、臨調の最大の成果になる筈です」。臨調から国鉄への“正式”なヒアリングにも対応した。こちらは運輸省の課長補佐が説明する場に同席し、必要な時だけ補足説明をする立場だ。臨調側の担当は、行政管理庁(当時)から拓殖大教授になった田中一昭さん。田中さんが「再建計画は上手くいきますか?」と尋ねる。自分たちの認可した計画だから、運輸省は当然「上手くいきます」と答える。横から発言しようとすると、課長補佐がテーブルの下で私の足を蹴る。この様子は丸見えだったようだ。暫くして田中さんから私に連絡があり、国鉄問題担当の部会長だった加藤寛さん(当時、慶応大教授)と引き合わされた。7月に出た臨調の第1次答申では、国鉄については「経営改善計画の早期且つ着実な実施を図る」と触れる程度に留まっていた。私は引き続き加藤・田中氏らと秘密裏に会い、説得を重ねた。

翌年の本答申に向け、臨調内の議論が本格化する直前の9月、私は『ポスト経営改善計画の戦略について』と題したペーパーを懐に、瀬島さんの事務所を訪ねた。一通り説明を聞いた瀬島さんは、「わかった。これは私が預かろう」と言って受け取った。この青写真のことは、他の臨調メンバーには一切話さないことにした。皆に話せば“瀬島プラン”ではなくなってしまう。瀬島プランであるほうが臨調にとっても、次の首相を窺う中曽根さんにとっても乗り易い筈だ。臨調への働きかけと並行する形で、当時、自民党の交通部会長だった三塚博さんの元へも通った。宮城が地盤の三塚さんとは、仙台勤務時代に既に面識があった。翌1982年2月、自民党の中に国鉄問題を考える『三塚委員会』が立ち上がる。当時はまだ分割民営化に距離を置いていた井手正敬さんや松田昌士さん(後のJR東日本会長)の2人と共に、三塚委員会を支えた。秘密の事務局だから、出勤前に三塚さんが使っている永田町のビルに集まり、打ち合わせをして解散。仕事の後、再び集まって深夜まで作業。そんな日々が続く。職場規律の実態を知る為、三塚委員会は現場の管理者に匿名のアンケート調査をした。集まった回答の余白に書かれた自由記述からは、労組が次々と持ち出す無理難題に翻弄され、プライドも持てず、管理局と現場の板挟みで苦悶する現場幹部の悔しさが滲み出ていた。読み進めるうち、静岡や仙台で一緒に戦った部下たちの顔が浮かんできた。私が涙を流したのは、国鉄改革を通じてこの時一度だけである。


≡日本経済新聞 2015年10月17日付掲載≡


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