【大世界史2015】(02) カエサル暗殺(紀元前44年)――カエサルはなぜ殺された?

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ロムルスを最初の王として建国したローマは紀元前509年、第7代のタルクィニウス王を追放して共和政に移行した。この立役者がルキウス・ユニウス・ブルートゥスであり、王に代わって市民集会で選ばれた任期1年・2名の執政官が政治を担当することになった。同時に、元老院は300名に増員され、政治・軍事人材の供給源として期待された。ローマは、貴族と平民という2大グループからなる国家であり、後に平民の保護を名目に“護民官”という官職が設けられた。都市国家としてのローマを指す言葉が“レースプーブリカ(res publica)であり、この“res publica”に互いに競争しながら奉仕・貢献するのが、特に有力貴族たちの最大の関心になった。それを支えたのが、有力貴族と平民との保護・被保護のネットワークであった。執政官の任期が1年に限られ、他の官職にも多くの同僚がいたことからもわかるように、権力の抑制均衡に細心の注意を払った体制(“混合政体”と呼ばれた)であった。また、政治的な決定が軍事力に依って左右されないように、政治に依る軍事力のコントロールにも綿密な仕組みを案出していた。ローマでは、宗教心と伝統への服従に裏打ちされた勇気が最も重要な徳目とされた。共和政ローマは多くの軍事的成功を収め、地中海世界全体を支配するようになるが、それと共に古来の美徳が失われ、金銭欲と権力欲の横行と内部対立の激化が始まった。画期をなしたのはグラックス兄弟に依る土地改革の試みであり、名門出身の2人の悲惨な最期は、それから始まる“内乱の1世紀”の血腥い前途を示唆するものであった。

ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年7月13日、ローマに生まれた。当時のローマにおいて、生まれは将来の経歴にとって重要であった。ユリウス一門は、第3代ローマ王のトゥルス・ホスティリウスに征服されたアルバロンガの有力者の家系であり、長らく元老院に座を連ねてきたローマ貴族の一員であった。しかし、共和政期に華々しく活躍した一群の名門貴族たちとは異なり、執政官のリストにもユリウス家門は殆ど登場しない。父親は執政官の次に高い公職である法務官になったが、そこで生涯を終えたらしい。政務官終了後に就任する属州総督の地位が、財産を蓄積する大きな機会を提供していた当時の事情からすれば、政務官と無縁な家門であるということは、その財力が自ずから慎ましく目立った政治的影響力とも無縁であったことを窺わせる。カエサルの幼年時代は同盟市戦争の時代であると共に、マリウスとスッラの両巨頭の対決の時代であった。伯父のルキウス・ユリウス・カエサルは紀元前1世紀に執政官を務め、北はルビコン川から南はメッシナに至るイタリア半島の全自由人にローマ市民権取得を認めた『ユリウス市民権法』にその名を残している。カエサルの運命にとってより重大であったのは、伯母がマリウスの妻であったことである。そして、マリウスとスッラの対立は、個人的な対立から党派的な対立(元老院派・閥族派対平民派)へと転化していく。スッラが執政官とミトリダテス戦の軍司令官に選ばれると、マリウスは護民官と謀ってその決定を ひっくり返す。元老院の支持を得たスッラは軍隊を率いてローマに進軍したが、執政官が自ら軍を率いてローマに進軍するのは前代未聞であった。そして、マリウスを国賊と宣言し、平民派の弾圧を行った。スッラが東征に出発すると、今度は執政官のキンナがマリウスと謀って軍事力でローマを支配し、元老院議員50名を含む大量虐殺を行った。その際、現職の執政官も初めて殺害された。こうして、建国以来のルールは、この2人に依って相次いで破られた。マリウスとキンナの死後、執政官に率いられたローマ正規軍は、ミトリダテス戦から帰国したスッラの軍に敗れ、今度はスッラが徹底した平民派の弾圧・抹殺を行った。




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マリウスとスッラの時代以降、武装を自弁できる市民団の軍だったローマ軍は、土地を持たない無産市民からなる志願兵制に変化し、更には有力な将軍の私兵的な性格を帯びるようになった。この間、若きカエサルがキンナの娘と結婚したことは、平民派としての旗幟を鮮明にする意味を持った。若いカエサルも処罰対象リストに載り、関係者は漸くのことでスッラの許しを得ることに漕ぎ着けたが、スッラの条件は平民派の巨頭であるキンナの娘との離婚であった。スエトニウスは、この時スッラが「あなた方がこんなに熱心にその無事息災を願っておられるあの男が、いつかは、私やあなた方が結束して守っている門閥派を滅ぼすであろう。【中略】カエサルの中にはたくさんのマリウスがいるのだから」(『ローマ皇帝伝』、国原訳)と言ったという。ところがカエサルは、このスッラの出した条件を拒否した。その為、カエサルはスッラに追われる身となり、全イタリア中を逃げ回っただけでは安心できず、ギリシアから小アジアへと逃亡生活を送ることになった。そして、軍団に身を投じながら、彼はスッラの死を待ったのである。しかし、スッラ亡き後も平民派を取り巻く環境は厳しく、カエサルはロードス島での海外留学に出かける。その途中で、海賊に捕まるという事件に遭遇した。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「お前たちはわしが誰か知らないのだ」とばかりに、自分のほうから50タレントに身代金を引き上げ、従者を金策に送り出すと自らは海賊の中に残り、思い切り高慢に振る舞った。その際、海賊たちに向って「何れ縛り首にしてやる」と言って脅した。50タレントを支払って解放されるや否や、海賊退治に出かけ、同じ海賊たちを捕え、軈て縛り首にしたという。これは、後年のカエサルの大胆不敵なイメージを彷備させるエピソードとして有名である。

スッラの目的は元老院を強化し、グラックス兄弟以前の状態にローマの政治体制を戻すことにあった。護民官の権限を削減し、元老院議員を600名に増やしたのは、その一環であった。元老院中心体制というのは一種の集団指導体制であり、政務官への就任や軍事的指揮権には厳格な年齢条件がついていた。このスッラの陣営の中から台頭したのが、後にカエサルと共に三頭政治を結成するポンペイウスとクラッススの2人であり、犬猿の2人は共に執政官選挙への立候補を望んでいた。元老院は、従来のルールから彼らの立候補に消極的であったが、2人は事実上の同盟の力に依って、その企図を実現した。これは、スッラ派がスッラ体制を崩していく過程の始まりであった。同じ頃、カエサルは30歳を過ぎ、漸く20人の会計検査官の1人に選ばれたところであり、それを務めた後は元老院に議席を得ることになった。当時からカエサルは政治的名声には程遠かったが、借金の多さでは有名であったと言われている。これは基本的に、影響力の蓄積・拡大を積極的に行ったことに伴う対価と考えられる。次に、カエサルは按察官に就任し、公営物の修理・改修・建設に従事した。更に、37歳にして終身職の最高神祇官に当選し、翌年には法務官に選出される。この頃、カエサルには借金と女性関係の噂ばかりが増えたという。スッラが再建した元老院体制は、ローマ軍団の司令官は北から帰国する場合にはルビコン川、南から帰国する場合にはブリンディシで軍団を解散させることとした。そして、司令官は少数の従者と共に凱旋式に備えローマに赴くが、「凱旋式までは城壁内に入ってはならない」と定めた。これは、政治を軍事力から分離する為の仕組みであった。執政官への立候補は本人が直接、カピトリーノの丘でしなければならないが、先の凱旋式を巡るルールと合わせると、武勲赫々たる軍司令官が直ちに執政官に立候補することは、凱旋式の時期に依っては事実上、不可能になる。軍事力を背景にした独裁政権こそ元老院体制の最も警戒するところであり、ルビコン川とブリンデイシで軍団を解散するかどうかを元老院は何よりも注視していた。

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ポンペイウスは紀元前62年、海賊退治と東方制覇という成果を挙げてブリンディシに帰ってきた。彼は早速、軍団を解散し、執政官への立候補等の要望を伝えたが、元老院の反応は芳しくなかった。前法務官として属州総督も務めたカエサルにも、「凱旋式か執政官立候補の届け出か」という選択肢が突き付けられたが、彼は凱旋式よりも執政官への立候補の届け出をあっさりと選択した。元老院も、立候補は認めざるを得なかった。カエサルが40歳の時のことであった。そこで成立したのが三頭政治であった(紀元前60年)。提案者はカエサルという説が多い。即ち、閥族派に不満な2人の有力者――ポンペイウスとクラッスス(カエサルの最大の債権者と言われる)が、その影響力を行使してカエサルの執政官当選を後押しし、カエサルは執政官としてその権限をフル活用して、2人の宿願を実現するという約束が結ばれたのである。これは、政治決定の舞台が元老院から3人の密室での交渉に変わっていくことであり、元老院体制の事実上の骨抜きを意味した。元老院の政治軍事人材の払底が、この背後にあった。興味深いことに、元老院派は三頭政治の存在そのものに半年も気がつかなかったという。執政官になったカエサルは、ポンペイウスやクラッススの要望を念頭に置いた立法を、元老院の抵抗を排して次々と実現した。カエサルは、自分の娘とポンペイウスとの結婚に依って権力の地固めをし、最後に、執政官任期後に自ら就任する属州についての、元老院の既存の決定を見直す新しい立法を設定して、南仏ガリア等の3つの属州で任期5年・4個軍団付きの総督の地位を獲得した。三頭政治の誼でその後の人事を決めた後、カエサルはガリアに向って旅立った(紀元前58年)。『ガリア戦記』に描かれたように、ガリアでのカエサルは輝かしい成果を挙げ、その軍事的能力に対する評価を著しく高めた。しかし、気になるのはローマの政治状況である。そこで、紀元前56年にルッカで三頭会談が行われる。ここで、紀元前55年の執政官選挙へのポンペイウスとクラッススの立候補を決め、併せて、執政官終了後に2人が赴任する属州を予め決定すると共に(任期5年)、カエサルのガリア総督の地位を更に4年間延長し、各人の軍事力を各々10個軍団とする決定を行った。

このように、三頭政治は新しい立法に依って元老院のコントロールを弱体化させたが、元老院勢力はカエサルとポンペイウスとの離間策に依って対抗しようとした。クラッススの戦死に依って三頭政治は終わりを告げ、ローマでは元老院派と平民派とが暴力衝突を繰り返していた。事態収拾の為、紀元前52年の執政官は1人ということに決まり(独裁官に事実上接近)、ポンペイウスが就任したことで、彼と元老院派との結び付きが深まった。紀元前49年1月、元老院は非常事態宣言に依って、護民官を中心としたカエサル派の抵抗を排除すると、カエサルの総督解任と後任人事の決定を発令した。併せて、ポンペイウスと元老院の決定に従わない者は国賊となるという。この元老院の決定を無視して内戦に賭けるか、それとも元老院に屈するか――。カエサルがルビコン川に達し、「今からでも引き返せるのだ。しかし一旦、この小さな橋を渡ってしまうと、全てが武力で決められることになろう」と逡巡していると、その時、奇跡が起こったという。大柄な男が忽然として現れ、兵士からラッパを取り上げるとラッパを吹き始め、そのまま川の向う岸へ渡った。この時、カエサルは「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいるほうへ。賽は投げられた」と言い、ルビコン川を渡ったという(『ローマ皇帝伝』)。紀元前49年1月12日のことであった。「ルビコンを渡ったカエサル軍が、猛スピードでローマに向っている」という情報に接して、元老院派は大混乱に陥った。元々、イタリアは非軍事化されており、ポンペイウスにも打つ手が無かった。1月17日、ポンペイウスはローマを捨て、2人の執政官とかなりの数の元老院議員もローマを離れた。カエサル軍に対する軍事的な抵抗は、腰の据わらないものでしかなかった。ポンペイウス・執政官・元老院議員たちはブリンディシに向かい、ギリシアへと出帆した。カエサルもブリンディシに向かうが、イタリアで決着をつけることはできず、ローマ帝国全体を巻き込んだポンペイウスとの対決が繰り広げられる。先ず、ポンペイウスが属州総督を務めるスペインを征し、ローマで10日余り独裁官を務め、執政官に選出された後にギリシアに向かい、『ファルサロスの戦い』でポンペイウス軍を破った(紀元前48年8月9日)。敗れたポンペイウスはエジプトで殺害され、内戦の様相は大きく変わった。その後、カエサルはエジプト・近東地域・アフリカに転戦し、旧ポンペイウス派を制圧した。初めての凱旋式は4度に分けて行われた(紀元前46年8月)。但し、ファルサロスの勝利の凱旋式は無かった。この内戦を通して、カエサルはローマ人に対しては寛容を旨として対応し、ポンペイウスに加担した多くの人々の帰順を許した。この点で徹底的な弾圧を行った、嘗てのスッラの内戦処理とは大きく違っていた。

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紀元前45~44年にかけて、カエサルは元老院や市民集会から数々の権力や権威を与えられた。代表的なものとしては、終身独裁官という事実上新しい官職、同時に執政官に就任する権利、インペラトールの称号、“国家の父”の称号、終身の風紀取締官、元老院やその他の公的な式典・会場における特別席、官職任命権、身休不可侵権、“カエサルの寛容”と命名された神殿の建立等がそれである。元老院は900人に増員され、属州に住む市民権所有者が新たにメンバーに加わった。元老院のメンバーは統治の担い手になることが期待されていたが、権力の重心は終身独裁官で執政官を兼ねるカエサル個人に明確に移動し、帝政への道ははっきりと敷かれたのであった。執政官人事もカエサルの一存で決まり、選挙の無い年もあった。終身独裁官となったカエサルは傲岸不遜であったとか、人前で「共和国は白日夢だ。実体も外観も無い。ただ名称のみ」「世の人は、私にむかって今や慎重に話かけねばならぬ。私の発言は法律と見なされるべきだ」とか語ったと伝えられている(『ローマ皇帝伝』)。こうして、「カエサルは“王”の称号を熱望している」という噂が絶えなくなった。カエサルの像の下には「(ルキウス)ブルートゥスは王を追放して、初めて執政官になった。こいつは執政官を追放して王になった」という落書きがあったという。そして紀元前44年3月15日、カエサルはポンペイウス回廊で開かれた元老院の会合で暗殺されることになる。

これについても古来、多くの前兆が伝えられているが、その一端はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』等にまで及んでいる。この日の会合は、目前に迫ったパルティア遠征を議する目的で開かれたが、「パルティア人は王に依ってしか征服され得ない。それ故、我々はカエサルを“王”と呼ぶべきだ」という発言が出されることも警戒されていた。実際、「パルティア遠征が成功すれば、カエサルの王位は最早、妨げられない」という観測が広がっていた。暗殺は、会議が正式に始まる前に一瞬の内に決行された。暗殺者のメンバーはマルクス・ブルートぅス、カッシウス、デキムス・ブルートゥス、スルピキウス・ガルバ等である。カエサルの死後に明らかになった彼のその後の人事案に依れば、彼らの何人かにはカエサルに依って枢要なポストが用意されていた。暗殺は決行したものの、彼らには大きな戦略は無く、民衆の熱狂的な支持も無く、自らの身を守ることに汲々とする有様であった。実現したのは、終身独裁官職の廃止くらいであった。更に、カエサルの遺言状に依り、遠縁で若輩のオクタウィアヌスが第1相続人に指名され(因みに、第2相続人は暗殺グループのデキムス・ブルートゥスであった)、自他共にカエサル側近を自負するマルクス・アントニウスとの関係が焦点になった。暗殺派は、アントニウスとオクタウイアヌスとの対立を利用することに期待するまでに追い詰められた。紀元前43年11月に、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスに依る三頭政治が始まると、カエサル暗殺に対する復讐と反対勢力の壊滅を正面から謳い、カエサルの寛容政策を放棄した。スッラの時代を思わせる復讐が始まり、ローマ第一の知識人で共和制に最後まで望みを託し、暗殺者たちにも少なからず影響を与えたキケロもこの中で落命した。紀元前42年元日、カエサルは元老院決議で“神”とされた(神君カエサル)。同年、マルクス・ブルートゥスとカッシウスがオクタウィアヌスやアントニウスと戦い、敗死し、政治体制を巡る抗争に終止符が打たれた。

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カエサルはスッラの再建した元老院体制の限界を指摘し、これに対してキケロは尚その可能性に賭けた。しかし、ローマが今や膨大な属州を抱え、巨大な軍事力を日常的に動員しない限り自らを維持できなくなっているという現実について、両者の認識に大きな違いは無かった。カエサルは、金銭欲と権力欲に依って共和政の基盤が崩壊したことを踏まえ、1つの巨大なる権力(終身独裁官といった名称の下での)に依って“平和”への将来展望を切り開こうとしたが、共和政の伝統からすれば、それは嘗て抹殺した筈の王政への復帰であり、“自由の喪失”と映ったのである。キケロは、リーダーの倫理的覚醒と権力欲からの解放に依って、共和政が尚現実性を持ち得ると考えた。これは政治的には、有力な軍人政治家を元老院が“飼い慣らす”ことを意味した。ポンペイウスについて元老院はこれに成功したが、カエサルについては成功しなかった。カエサルとキケロの関係は単純ではないが、晩年になるに連れて、キケロのカエサルへの評価は厳しいものとなった。「自分の名誉と権力を追求し、正義を無視して行動する人々の代表」と見做したのである。カエサル暗殺は、その意味で老キケロを興奮させた。「共和国は白日夢だ」というカエサルの指摘は、暗殺者たちの末路を予言したものであろうが、カエサルの後に続く皇帝支配にも、権力の独占に伴う深刻な病理が付き纏うことになる。「権力問題に絶対的な解は無い」ということを、ローマ史は教えてくれる。


佐々木毅(ささき・たけし) 東京大学名誉教授。1942年、秋田県生まれ。東京大学法学部卒。東京大学総長・学習院大学教授等を歴任。『プラトンの呪縛』『よみがえる古代思想 “哲学と政治”講義1』(共に講談社学術文庫)等著書多数。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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