国会を開かないのは違憲の“非常事態”だ…臨時国会召集要求は憲政回復の“狼煙火”になるか?

20151025 04
安倍首相は内閣改造を行ったが、次々と新大臣の醜聞や疑惑が報じられている。高木毅復興大臣は過去に女性の下着を盗んだとされ、森山裕農林水産大臣や馳浩文部科学大臣には寄付を巡る問題が浮上し、島尻安伊子沖縄北方担当大臣は名前と顔写真が入った“カレンダー”を支援者に配布したというのである。批判するのも嫌な低劣な問題すら報じられているように、政府を見る限り、日本は“美しい国”どころか品性下劣な国になってしまったと言わざるを得ない。このような内閣を作って平然としているのは、安保法を“成立”させた今、「民意を気にせずに、傍若無人な振る舞いをしてもいい」と政権が考えているとしか思えない。TPPの大筋合意という報道がなされたので、国会で議論すべきテーマは山積している。それなのに、臨時国会を開催しない方針を政権は打ち出した。安保法問題の再燃を避けたいからだろう。しかし、臨時国会は毎年、慣例として屡々2ヵ月くらい開催されており、その代わりとなる特別国会も含めて考えると、現行憲法下で開催されなかったことは殆ど無い。だから、これは極めて異例の事態だ。そこで、野党5党が憲法に基づいて臨時国会の招集を要求した。「衆・参何れかの総議員の4分の1以上が要求すれば、内閣は国会を招集しなければならない」と憲法53条では定められている。ところが、衆議院の議員125人(定数475)、参議院の議員84人(定数242)が要求したにも拘らず、国会を開催しない方針を政権は変えようとしていない。「憲法に招集時期の規定が無いから、先延ばしすることができる」と言うのである。これ自体が勿論違憲であり、“非常事態”である。野党は、この“非常事態”を声を大にして訴えるべきである。そして、この件は今の政権の本質を表している。要するに、専制政権は国会を嫌うのだ。日本でも、明治維新後の藩閥内閣に対して自由民権運動に依る国会開設要求が行われて、憲法制定時に漸く議会の開設が決まった。戦前の憲政擁護運動は、この流れを引き継いだ。第1次憲政擁護運動では、時の首相が強引に5日間の議会停止を命じたので、それに怒った人々が抗議して集会や騒動を起こし、内閣を辞任に追い込んだのである。臨時国会を開かないというのは、国会開設要求以来のこの憲政の伝統に反しており、安保法採決に現れた“憲政破壊”がここにも如実に現れている。つまり、国会を無視しようとする専制政権が本当に成立したのであり、日本政治は戦前の議会軽視へと退行してしまったのである。逆に言えば、野党の臨時国会招集要求は、明治時代における国会開設要求以来の憲政擁護の運動を引き継ぐものである。

安保法案“可決”は、憲法クーデターの“成功”を意味する。衆議院特別委員会の7.15クーデターに続いて、安保法案が参議院でも“可決”されたことに依り、憲法クーデターは“完遂”された。これは、戦前の5.15事件の後で犬養毅首相が殺され、政党内閣が終止符を打たれた時に似ている。参議院は“良識の府”という役割を果たせず、逆に“議場クーデター”の舞台そのものになってしまったのである。これに依って、政権は紛う方無き“専制政権”となった。参議院審議において、各種の世論調査で6割以上がこの国会で成立させることに反対していたので、安倍首相は「残念ながら、まだ支持が広がっていないのは事実だ」と認めながら採決を求め、「法案が成立し、時が経ていく中で間違いなく理解は広がっていく」と述べた(9月14日の特別委員会にて)。つまり、多くの国民の理解と支持が無いことを認めながら、採決を強行した。元々は多数の支持に依って成立した政権が、これに依って“専制政権”乃至“独裁政権”になったのである。安倍政権の“独裁化”を主張する説は正しかった。憲法学者の違憲論で注目を浴びた小林節教授は、日本記者クラブの会見で「憲法を無視した政治を行おうとする以上、独裁の始まりだ」と、安倍政権を痛烈に批判した(6月15日)。ここで言う“独裁”は、古典政治学や近代日本政治の観念を用いれば“専制”に他ならない。古代ギリシャにおいて、初めは民衆の支持を受けて登場しながら、軈て専制化して法を無視するに至るような政治家を“僣主(ティラノス)”と呼んだ。哲学者のプラトンにとって、このような政治こそ最悪の政治体制であった。この言葉が、今日の“専制”乃至“暴政(ティラニー)”の語源となっている。安倍政権は、安保法案の審議に入る前まではアベノミクスをアピールすることに依って高い支持率を維持し、それを誇ってきた。しかし、正義に反する不法な違憲立法を強行し、それに対する人々の反対の高まりと、(当時の)内閣支持率の低下を無視して法を蹂躙したのだから、首相は“僣主”のような“専制政治家”となってしまったのである。




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安保法案を“制定”させたことに依り、この政権は“決定的違憲政権”となった。更に、この“制定”過程も不法だから、この政権は“不法政権”でもある。この二重の意味で、現政権は“専制不法政権”と言わざるを得ない。「議会の多数派が法案を成立させるのは、民主主義的に正当だ」という政権擁護論がある。これは、「議会の代表を通じて主権が行使される」という“間接民主主義”の論理である。しかし、その議会の多数はアベノミクスを中心的論点とした前回の総選挙時で得られたものだから、各種世論調査でわかった安保法案についての“民意”とはズレが存在する。そこで、このズレを埋める為に人々は『全国安保反対デモ』に出て“民意”を表現した。代議制民主主義とこれは背反するものではなく、その限界を埋める為の民意の表現である。これは、人々が直接に政治に関わる可能性と必要性を認める“直接民主主義”の論理である。衆議院可決の段階では安保法案可決は民意に反していたが、間接民主主義の論理からすれば、それは正統な民主主義的決定であった。しかし、参議院“可決”は“民意”に反しているだけではなく、間接民主主義――つまり、議会制民主主義のルールにすら反するものとなった。だから、この決定は内容的に違憲無効であるだけではなく、手続き的にも不法であり無効である。そこで、この政権は如何なる意味でも民主主義的正統性を持たないことになった。専制政権になったということは、言論弾圧等の自由の抑圧が本格的に行われる危険が増大したということでもある。現に自民党は、言論威圧発言で1年間の役職停止処分を受けた木原稔議員に対して、役職停止期間を3ヵ月に軽減して文部科学部会長にすることにした(10月22日)。また、官房副長官になった萩生田光一氏は、前回の衆議院選でテレビ局に対して自民党が“公平中立”な報道を要求した際の筆頭副幹事長である。これらを見れば、言論抑圧の危険が更に増大し、自由主義が脅威に曝されていると言わざるを得ない。

ただ、この専制政権は選挙そのものを廃止することはできない。このような専制政権は“独裁的民主主義的”とか“競争的権威主義”と呼ぶことができる。だから、戦前の専制内閣のように言論抑圧や“選挙干渉”は行われる危険があるものの、2016年の参議院選挙まで止めることはできない。そこで最重要なのは、人々やメディアや野党がこの専制政権の正統性を認めずに、結集して法と憲政の回復を求め続けることだろう。その第一歩になり得るのが、今回の国会召集要求である。世界史を見れば、長らく開かれなくなっていた三部会を招集する要求から、『フランス革命』が始まった。同じように、臨時国会の招集を実現して内閣の不法と専制と失政を批判することは、政治的変革への第一歩である。新内閣やTPPの問題を明らかにすると共に、安保法の違憲無効を指弾すれば、人々のデモが国会の議論に呼応することだろう。若し、野党に依る立憲主義的結集が成功すれば、参議院選挙で野党が勝利し、法秩序を回復させる可能性は存在する。このような“平成政変”が実現すれば、人々が不法なクーデターに対して立ち上がって専制政権を打倒し、法と民主主義を回復する歴史的大事件となるだろう。これは、立憲主義を回復する為の“カウンター市民革命”であり、“立憲主義的革命”ということになろう。日本は市民革命を経験していないので、民主主義が脆弱だとされてきた。だから、このような“市民革命”が生じれば、一度は失われた日本のデモクラシーが回復されるだけではなく、実は初めて本当に確立されるのかもしれない。それは、私たちに残された希望そのものだろう。


小林正弥(こばやし・まさや) 千葉大学大学院人文社会科学研究科教授(政治学)。1963年、東京都生まれ。東京大学法学部卒。2006年より現職。千葉大学公共研究センター共同代表(公共哲学センター長・地球環境福祉研究センター長)。専門は政治哲学・公共哲学・比較政治。マイケル・サンデル教授と交流が深く、『ハーバード白熱教室』では解説も務める。著書に『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう(文春新書)・『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』(平凡社新書)等。共訳書として『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』(ハヤカワ文庫)等。


キャプチャ  2015年10月23日付掲載


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テーマ : 安倍政権
ジャンル : 政治・経済

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