【嘗て天皇は仏教に帰依していた】(01) 皇室の宗教信仰を改めて知る為に

今年は“戦後70年”の歴史の節目で、昭和史を巡る“反省”“謝罪”に内外の注目が集まっている。折しも、今上陛下は年頭所感で、「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び」と述べられた。春に公刊が開始された『昭和天皇実録』は、予想を上回る大きな反響を呼んでいる。第124代昭和天皇(在位1926-1989)は、戦前は“現人神”と神聖視され、“国家神道”の時代に君臨された。それが戦後は、“信教の自由”“政教分離”の時代の“象徴”となられたが、ご自身はどのような信仰をお持ちだったのだろうか? また、皇室の宗教観とは如何なるものなのか? 歴代天皇にとって、仏教とは何だったのか? 今回より3回に亘り考えてみたい。先ずは、江戸時代までを振り返る。70年前の昭和20年元旦、警戒警報のサイレンが闇を引き裂き、サーチライトが幾筋も空を射る非常事態の中、昭和天皇は御文庫の庭に急造された祭場で四方拝をお務めになった(藤田尚徳『侍従長の回想』)。日本にとっても皇室にとっても、大波乱を予感せざるを得ない1年の幕開けであった。当時は一般に国家神道の時代とされるが、国家的な仏事も同時に行われている。真言宗総本山教王護国寺(東寺)では、この1週間後、天皇と国家の守護を目的に、真言宗最高の秘儀とされる“後七日御修法”が執行された。同年1月15日付の『朝日新聞』に数行の記事が載っている。「真言宗最高の厳儀、京都東寺の宮中後七日御修法は14日結願となり、日下大僧正は御衣を捧持して随員一行とともに同日午後8時52分京都発列車で上京した(京都)」。だが、これと相並ぶ、天台宗総本山比叡山延暦寺の御修法(御衣加持御修法)についての記事は、僅か2面しかない当時の紙面には見当たらない。

延暦寺では古来、毎年4月4日から7日間、御修法と呼ばれる大法要が営まれてきた。根本中堂の内陣に天皇の御衣を案置し、国家安泰・玉体安穏・万民豊楽等を、天台座主他高僧たちが1週間籠もり切りで加持祈禱する。天台密教最高の秘法とされる。その始まりは、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山(日枝山)に伝教大師最澄が堂塔を建て、天台宗を開いてから35年後の弘仁14(823)年と言われる。第50代恒武天皇(在位781-806)の招請に依り、宮中の紫宸殿で最澄の弟子・円澄が五仏頂法を修念したのが起源とされる(渡邉守順ら『比叡山』)。宮中では承和元(834)年、元日から7日まで神事として行われる宮中前七日節会に対応して、8日から14日まで後七日御修法が勤修された。これは、第54代仁明天皇(在位833-850)の勅を奉じて、弘法大師空海が大内裏で勤めたのが最初とされ、翌年には空海の奏請に依って宮中に真言院が造立され、大極殿で護国経典の金光明最勝王経を転読講讃する宮中御斎会と並行し、顕密相対して営まれることとなった。導師は東寺の長者が勤めた。世尊は『金光明最勝王経』の“王法正論品第二十”で、「先の善業の力によって天に生まれ、王となった」「諸天の護持によって天子と名づけられた」とし、「国を治むるに正法をもってすべし」と教えている。「悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎える」と警告している。皇祖天照大神からこの国の統治を委任され、公正且つ無私なるお立場で「国中平らかに安らけく」と只管祈り、「国と民の統合を第一のお勤めとする祭祀王が天皇である」という考えと共通するものがある。天皇自ら宮中で神道儀式を斎行される一方で、皇室所縁の名刹では勅命に依って国家的な大法要が営まれる。皇室或いは天皇の信仰・宗教観は、国民の多様なる価値観を同等に認める、日本古来の価値多元主義に支えられていることがわかる。歴史を振り返れば、歴代天皇の宗教的お立場は更に明らかになる。




北インドで生まれ、西域・中国南朝・百済を経由してきた大乗仏教は、一切衆生の救済を図る教えだった。中国南朝の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなく仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家建設の理念として機能したと言われる。百済から日本に伝えられたのは第29代欽明天皇(在位539-571)の時代で、『日本書紀』には聖明王(聖王)が使者を遣わし、釈迦仏金銅像1体の他、幡蓋・経論を献上したとある。公伝後、神道儀式に関わる物部・中臣両氏と渡来人との関わりの深い蘇我氏との間で、廃仏か崇仏か、激論が交わされた。「西蕃の諸国は礼拝している」「天地社稷を祀るのが天皇だ」。天皇は蘇我稲目に仏像を授けられ、礼拝を許されたが、軈て疫病流行の責任を負わされ、仏像は廃棄された。すると、風も無いのに大殿に火災が発生したという(書紀)。仏教が国家的に受容されたのは、最初の女帝、第33代推古天皇(在位592-628)の時代である。蘇我馬子の姪に当たられる天皇は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とされ、仏教を興隆された。天皇は仏教の外護者となられた。太子は四天王像を彫られ、崇仏派の戦勝を誓願し、勝利の後に四天王寺を建立された。他方、物部氏は没落した。天皇は氏姓制からの脱皮を図られ、中央集権化を推進され、仏教思想に基づく『十七条憲法』を制定され、官人や貴族の道徳的規範が示された。しかし、第1条には「和を以て貴しと為し」と、儒教若しくは日本古来の“和”の思想が宣言されていた。中国・朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。冒頭に取り上げた宮中祭祀の四方拝は、第35代皇極天皇(在位642-645)の時代に始まった。『書紀』では雨乞いとされている。道教由来の儀式とも指摘される。皇室第一の重儀とされる新嘗祭(大嘗祭)の儀式は、この時代に定まったと言われる。新嘗祭は、一般に稲作儀礼と理解されるが、宮中では米と粟の新穀が皇祖神他天神地祇に捧げられる。天皇の祭祀は、特定の信仰に偏しない複合儀礼と言える。皇極天皇は、「古の道に従って政治を行った」(書紀)とされる。だが、他方では最初の国家寺院『百済大寺』の建立が命じられた。

壬申の乱後に即位された第40代天武天皇(在位673-686)は、有力豪族を排除した皇親政治を開始され、神道儀礼を整備され、仏教を推進された。天武天皇が皇女の大来皇女を伊勢神宮に捧げられたのが斎宮制度の確立とされ、式年遷宮はこの時代に定められた。また、毎年の新嘗祭と区別して、格別の祭儀として一世一度の大嘗祭が斎行された。他方、川原寺(弘福寺)で写経が初めて行われた。百済大寺が遷立され、『高市大寺』と改称された。皇后(後の持統天皇)の病気平癒の為に薬師寺建立が発願され、100人の僧侶が得度された。第41代持統天皇(在位690-697)は薬師寺を完成させて勅願寺とされ、先帝の為に金光明経斎会を内裏で営まれたとされる。崩御の後に火葬された最初の天皇でもある。息子の第42代文武天皇(在位697-707)の時代には、『大宝律令』が完成した。宮中祭祀と仏教儀礼を宗教的基盤とし、律令に基づく制度が整備されていった。そして、第43代元明天皇(在位707-715)の時代に完成した『日本書紀』は、「天地開闢に始まり、天孫降臨を経て、国つ神の娘たちとの婚姻が重ねられた後、初代神武天皇が生誕された」と説明する一方、欽明天皇以後の仏教伝来と受容・定着を詳述している。各氏族の神々が国家的神として体系化される半面、仏教の国家的地位は揺るぎないものとなった。自ら出家され僧形となられた最初の天皇は、第45代聖武天皇(在位724-749)である。天皇は災害の多発・疫病の流行を前に、諸社に奉幣され、大赦を実施され、また深く仏教に帰依され、大膳職に盂蘭盆供養を行わせ、宮中行事とされたという。国分寺建立、東大寺盧舎那大仏造立の詔を発せられた。更に東大寺に行幸され、大仏に北面され、「三宝の奴と仕え奉る天皇」と奏上された。大僧正行基を請じて受戒・出家され、皇女の孝謙天皇(第46代)に譲位された後に、“太上天皇沙弥満”と称された。

以前の仏教は国家鎮護が目的で、民衆への布教は禁止された。禁を破って各地に寺を建て、社会事業を展開した行基は当初、弾圧されたが、聖武天皇は行基を日本初の大僧正に任じられ、東大寺造立の責任者とされた。東大寺大仏の開眼供養は仏教公伝200年の年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇他万余の要人たちが参列した。また、お三方は唐僧鑑真に依って菩薩戒を授けられた。孝謙天皇(在位749-758)は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、即位式・大嘗祭と共に御代替わり儀式として位置付けられた。軈て出家の後も、藤原仲麻呂の乱を経て重祚(再任)され、第48代称徳天皇(在位764-770)となられた。注目すべきことに、宣命を見ると、出家の前後で神祇と三宝の順位が逆転している。とりわけ、金光明最勝王経が重んじられた。天皇は、国家第一の仏弟子となられた観がある。称徳天皇は、看病僧の弓削道鏡を太政大臣禅師に、更に法王に任じられた。また、「皇位にある者は菩薩の浄戒を受けよ」と宣言され、仏教は皇位の正統性に最も重要な役割を果たすこととなったのである。皇祖天照大神を祀る皇室の祖廟・伊勢神宮に神宮寺が造立され、仏像が祀られた(続紀)。しかしその一方で、孝謙天皇の治世に施行された『養老律令』は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と、国政を統括する最高機関の太政官が並立する“二官八省”が採用された。令には“神祇令”と“僧尼令”が並んでいるが、神祇令には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と記されている。第50代恒武天皇(在位781-806)に依って平安京が開かれた延暦年間、宮中で天皇の安穏を祈願し、正月の御斎会で読師を務める内供奉十禅師のお役目を賜った最澄は以来、毎日、天下太平・万民豊楽を祈り続けることとなった。長日御修法と呼ばれる。特に、国家の大事や特別の異変が起きた時に宮中で修されたのが『四箇の大法』と称される特別の修法で、青蓮院・三千院・妙法院・延暦寺で執り行われた。これが、現在の御修法の源流とされる。また、第52代嵯峨天皇(在位809-823)は空海に、高野山に加えて東寺を給預された。東寺は国家鎮護の寺院であると共に、真言密教の根本道場と位置付けられた。延暦寺の寺号は、嵯峨天皇の勅に依って許された。

仏の教えは、歴代天皇の内心に深く刻み込まれていくこととなった。第54代仁明天皇・第56代清和天皇(在位858-876)・第57代陽成天皇(在位876-884)は譲位後、出家された。中でも、清和天皇は第1皇子の陽成天皇に譲位の後に出家され、仏門に帰依された。畿内を巡幸され、絶食を伴う苦行を重ねられ、その地を隠棲の地と定められて、寺院建立中に病没された。清和天皇は最澄には“伝教大師”、円仁には“慈覚大師”の諡号を贈られた。空海は、第60代醍醐天皇(在位897-930)から“弘法大師”の諡号を贈られた。法皇と称された先駆けは第59代宇多天皇(在位887-897)で、一旦は臣籍降下されたが、父君の光孝天皇(在位884-887)が病を得られたことから親王に復され、皇位を継承された。朝廷の実権は関白の藤原基経の手にあり、親政開始はその死後である。天皇は先帝の御遺志を受け継がれ、勅願寺として仁和寺を造立された。その一方で、宮中祭祀の四方拝は宇多天皇の時に定着したとされる。毎朝御拝もまた、宇多天皇の時代に始まった。その後、突然、皇太子を元服させ、即日、譲位された天皇は落飾・受戒された後に仁和寺に入られ、更に伝法灌頂を受けられ、法王となられた。“御室門跡”の始まりである。仁和寺は門跡寺院の筆頭として、仏教各派を統括した。法王は、比叡山や熊野三山に度々参詣された。同じく、第65代花山天皇(在位984-986)も突如、宮中を出られて退位され、仏門に入られ、法王となられた。法王は西国33ヵ所の観音霊場を巡礼、修行された。これが、西国三十三所巡礼の歴史の始まりとされる。法王となられた天皇は、第112代霊元天皇(在位1663-1687)まで45代に及ぶ。

時は移り、武家が支配する時代を迎える。第81代安徳天皇(在位1180-1185)が“三種の神器”と共に都落ちされた後、仏教を篤く信仰され、平清盛と共に東大寺で受戒された後白河法皇(第77代天皇・在位1155-1158)の院宣を受け、第82代後鳥羽天皇(在位1183-1198)が践祚された。神器無き即位で、日本史上初めてお二方の天皇が並立される事態となった。安徳天皇は伊勢神宮を遥拝され、念仏を唱えられて入水されたと言われる。第84代順徳天皇(在位1210-1221)は宮中の仕来たりに通じ、『禁秘抄』を著された。その冒頭には、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とある。父君の後鳥羽上皇に依る承久の乱の前夜、皇室存亡の危機の真っ只中にあって、「天皇第一のお務めは敬神・崇祖であり、神祭りである」と明言されたのである。倒幕失敗後は、後鳥羽上皇や兄君の土御門上皇と共に配流の身となられた。後鳥羽上皇は隠岐で、『法華経』の功徳を詠まれた。「わが頼む 御法の花の 光あらば 暗きに入らぬ 道しるべせよ」。南北朝時代になると、三種の神器を持たない北朝では真言宗の秘法に依って皇位の継承が執り行われた。軈て、即位大嘗祭に即位灌頂と呼ばれる仏教儀礼が付け加えられ、江戸末期まで行われた。大嘗祭が中絶した時代には、皇位継承の唯一の儀式だった。天皇は印相と真言を伝授され、即位式で実修され、高御座に登られたのである。

元亀2(1571)年、信長は比叡山を焼き討ちにした。堂塔伽藍は悉く灰燼に帰し、比叡山の地主神で延暦寺の守護神とされた日吉大社も消滅した。時の天台座主は第105代後奈良天皇(在位1526-1557)の第3皇子で、第106代正親町天皇(在位1557-1586)の弟君・覚恕法親王であられた。記録に依れば、正親町天皇は比叡山108社再興の輪旨を出されたが、信長が押さえた。その後、比叡山を再興させたのは秀吉で、造営費用に青銅1万貫を寄進した。応仁の乱後、中絶していた宮中の後七日御修法は元和9(1623)年、第108代後水尾天皇(在位1611-1629)の尽力などに依り、170年ぶりに復興した。後水尾天皇と言えば、前半生において徳川3代との激しい鍔迫り合いを強いられた。下剋上の最終段階において、武断の雄は朝廷をも従えようとしたからだ。『公家衆法度』『勅許紫衣法度』が制定され、『禁中並公家諸法度』が公布された。一方的に立法した上、天皇に法の遵守を強要し、栄誉権を取り上げた。耐えかねた天皇は内親王(第109代明正天皇・在位1629-1643)に譲位され、軈て落飾された。他方、家康公を“釈迦如来の化身”“東照大権現”として祀る『日光東照宮』は、朝廷から神号と正一位の位階、更に宮号が贈られ、法親王が入寺され、日光山輪王寺の貫主となられた。例祭には勅使が参向し、奉幣が好例となった。陽明門等には、後水尾天皇御宸筆の扁額が掲げられた。当時、天台宗の本山は将軍家菩提寺でもある東叡山寛永寺で、法親王が歴代門主となられ、日光山・比叡山をも管轄された。一方で、後水尾院は第4皇子・第110代後光明天皇(在位1643-1654)への宸翰(天皇自筆の文書)に、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。“禁秘抄”の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と認められた。天皇第一のお務めは神事であることが明記されている。

後水尾天皇の時代にはもう1つ、仏教史上特筆すべき大変革が起きた。幕府は『禁教令』を発し、バテレンを国外追放し、更に切支丹奉行を置き、宗門改と寺請・檀家制度を発足させた。隠れキリシタン探索の為の制度が全国化し、身分を問わず、特定の寺院を菩提寺とし、檀家として所属することが義務付けられた。けれども、天皇のお膝元である京都の祇園社(八坂神社)の祇園祭では、フランドル地方で製作され、旧約聖書の物語をテーマとするタピストリーに飾られた山鉾が、都大路を巡行していた。後水尾院は、昭和天皇に次ぐ歴代2位のご長寿で崩御され、御陵は京都・真言宗泉涌寺内に築かれた。ところで、昭和天皇は晩年、後水尾天皇に心を寄せられた。昭和55年はその崩御300年に当たり、式年祭の前日、ご進講が行われた。陸下は後水尾天皇の譲位に甚く関心を寄せられ、資料を集めるよう側近らに指示された(『入江日記』等)。何がそうさせたかは歴史の謎である。昭和40年代、陸下は屡々“退位2を漏らされた。ご高齢を口実に、入江侍従長は宮中祭祀の“簡素化”“工作”を開始した。階下はご不満で、最大限、抵抗されていたらしい。昭和50年以降は憲法の政教分離原則を法的根拠に、祭祀の改変が一段と進んだ。徳川3代に依る積年の非礼に耐えかねて譲位・落飾され、苦難の中で中絶していた宮中祭祀を再興された後水尾天皇に、陛下はご自身を投影されていたのではなかったか。昭和天皇は特に、祭祀に熱心だったと言われる。けれども他方で、仏教を詠み込まれた最晩年の御製が残されている。陛下は、外護者のお立場をお捨てになってはいない。「夏たけて 堀のはちすの 花みつつ 仏のをしへ おもふ朝かな」。それなら、階下ご自身の信仰は如何なるものだったのか? 次回は神仏分離後の近代史を振り返りつつ、考える。

【参考文献】
勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』
『日本仏教編年大鑑』
『大法輪』(2012年10月号)等


斎藤吉久(さいとう・よしひさ) 宗教ジャーナリスト。1956年、福島県生まれ。弘前大学及び学習院大学を卒業後、総合情報誌編集記者等を経てフリーに。メールマガジン『誤解だらけの天皇・皇室』を配信中。著書に『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』(並木書房)等。


キャプチャ  2015年9月号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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