【大世界史2015】(03) イエス誕生(紀元前4年頃)――考古学でわかったイエスの正体

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十字架上の死――それは紛れもない刑死である。そこで息絶えた男に民族解放の旗手、約束の“メシア”像を重ね合わせていたユダヤ人たちは、その死に深い絶望を味わったに相違ない。では、この男にそれほどまでの期待が寄せられていたのは何故だったのか? 男の名はイエスといった。出身は、死地であるエルサレムから北に100km離れたガリラヤ地方のナザレという田舎町である。ユダヤ教の壮麗な神殿が聳え、豪華な邸宅が犇めくエルサレムとは極めて対照的な鄙びた町であった。そんな陬遠の地からやって来たイエスという男が、何故そこで死を以て罰せられねばならなかったのか。そして、この男が死してのち3日目に復活したと信ずる者たちが次第にその数を増し、その信仰が軈て、今日数億の信者を擁する『キリスト教』なる宗教に発展していったのである。この男が一体何を言い、何を行ったのか。いや、抑々イエスというのは実在の人物なのか。イエスが生まれた紀元前1世紀末、今日のパレスチナ一帯は事実上、ローマ帝国の支配下にあった。『新約聖書』の2つの福音書は、イエス生誕の地をベツレへムとする。しかし、多くの研究者はこれを否定する。「イエス生誕を物語る新約聖書のエピソードは、基本的に創作である」というのである。このエピソードが創作であるとするならば、それを生み出した背景とは一体どのようなものだったのだろう。『マタイによる福音書』2章は、イエスが生まれた時代のユダヤの王・へロデが、将来ユダヤ人の王となる“メシア”と呼ばれる人物がどこで生まれることになっているのか、学者を集めて問い質す場面を描いている。その時、彼らはそれが「ベツレへムである」と明言する。その根拠として彼らが引用したのが、『旧約聖書』の一節であった。

『旧約聖書』でメシアについて予告されていたことが成就する為には、メシアたるイエスはベツレヘムで生まれていなければならなかったのである。従って、これらのエピソードは、「イエスこそが予告されたメシアである」と周囲のユダヤ人を説得する為に、イエス死後、その信奉者たちが創作して付け加えた部分であると見做してよい。事実、『ヨハネによる福音書』7章は、イエスがガリラヤ地方出身の人物である故に、メシアではないと考える人がいたことを記している。こうした意見に対抗する為に、イエスのベツレへム誕生エピソードが創作されたのだろう。事実に反してまでこうしたエピソ ードを創作せねばならなかったことは、とりもなおさず、イエスと初期の弟子たちが、『旧約聖書』を奉ずるユダヤ教的背景の只中にいたことを指示しているのである。イエスの言動を詳細に記す文献は『新約聖書』、とりわけ福音書である。今日の我々が抱くイエスのイメージは多く、この記述に依っている。しかし、福音書が描くイエス像が実在の人物としてのイエスの姿をどれだけ正確に伝えているのか、前述した生誕の地に関する記述内容に照らして考えても、甚だ疑問である。そこに描かれているのは、“メシア=キリスト”として崇められる対象となった、神格化され理想化されたイエス像なのである。その為、仮令イエス自身の言動にまで遡り得る情報が含まれているにせよ、そこには多くの脚色・誇張といったフィクション性や著者の解釈・主張が認められる。しかしながら、イエスが実在したことに疑念を差し挟む研究者は今日、殆どいない。最大の理由は、『新約聖書』以外の文献史料がイエスについて記していることにある。古代ローマの著名な歴史家の1人であるタキトゥスは、2世紀の初めに著した『年代記』の中で“クリストゥス”なる人物に言及している。彼に依れば、この人物は皇帝ティベリウスの治世下、ポンティウス・ピラトゥス(ピラト)に依って処刑されたという。ここで“クリストゥス”という固有名詞で言及されているのは、文脈から判断すればイエスのことと考えられる。“メシア”に相当する“クリストス”というギリシア語が人名と誤解されているのである。処刑の時と処刑者が『新約聖書』の記述と合致する故に、イエスが実在したことの有力な傍証の1つとされる。




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イエスの思想や言動に関する研究は、前述のような後代の要素の向こう側にあるイエスの姿を炙り出そうと、『新約聖書』や古代ユダヤ教文献を中心とする文献学的方法に依って盛んになされてきた。20世紀前半以降に確立された様式史的・伝承史的研究、加えて古代ユダヤ教文献の発見・解読と、それらと福音書中のイエスの言動との比較の結果、キリスト教という新しい宗教の創始者としての人物像とはまるでかけ離れたイエスの姿が浮かび上がるようになってきている。それは、ユダヤ教の伝統に根差し、当時のユダヤ教を背景として現れたユダヤ人預言者・教師としてのイエスの姿であった。ユダヤ教という枠内にイエスが出現し、彼に期待が寄せられた理由を理解する為には、当時のユダヤ共同体の社会的・思想的状況に触れねばならない。先ずは、イエス誕生から300年ほど遡ってみよう。紀元前333年、マケドニアのアレクサンドロス率いる軍隊は“キリキアの門”を突破した。3000m級の山々を有する南アナトリアの山脈を通る隘路で、アナトリアの高原地帯と地中海沿岸平野とを結ぶ交通の要衝の1つである。ここを突破したアレクサンドロス軍は勢いに乗り、アケメネス朝ペルシアの大王・ダレイオス3世率いる軍勢をイッソスの戦いにおいて大破した。大王自らが率いるペルシア軍が敗北したのは、この時が最初と言われる。これが、アケメネス朝滅亡への序曲であった。その翌年、アレクサンドロスはパレスチナ沿岸の町々を攻囲して陥落させ、続いてエジプトへ侵攻してこれを征服する。こうして、パレスチナは完全にアレクサンドロスの支配するところとなった。アレクサンドロス死後、その後継者たちが広大な領土を分割する。凡そ100年間に亘って、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアが、パレスチナの支配権を巡り干戈を交えた。最終的に、紀元前200年頃、セレウコス朝がプトレマイオス朝を退け、パレスチナをその領土に併合している。

ユダヤ人はアケメネス朝ペルシア時代に、捕囚されていたバビロニアから帰還を果たし、エルサレムに神殿を再建、祭司階級を頂点とする民族共同体を築いていた。プトレマイオス朝もセレウコス朝も、こうしたユダヤ人共同体の自治をある程度許容していたが、紀元前175年にセレウコス朝の王位に就いたアンティオコス4世は、ユダヤ人にギリシアの神・ゼウスの崇拝を強要し、律法の遵守を禁じた。これに抵抗するユダヤ人の多くを、アンティオコスは軍隊を派遣して処刑したのである。このことをきっかけに、ユダヤ人は大規模な反乱を展開する。『マカバイ戦争』と呼ばれるこの闘争は長く続いたが、最終的にユダヤ人たちはエルサレムとその神殿を奪還するに至った。そして、この闘争で中心的役割を果たしたマカバイ一族が紀元前140年頃、『ハスモン王朝』と呼ばれる独立王朝を築いたのである。ハスモン王朝は次第にその勢力を拡大し、紀元前100年頃までに、北部のガリラヤ地方を含めたパレスチナの大部分を勢力下に置いた。この時代のパレスチナでは、ユダヤ教の勢力が大いに増す。しかしその後、ハスモン王朝は急速に衰退する。先述のへロデはハスモン王朝に仕えるイドマヤ人の出身であったが、ローマの後ろ盾の下、その地歩を着実に固めた。そして、ユダヤ教に改宗したへロデは、紀元前37年にローマからユダヤ王として認められたのである。アレクサンドロスに依る征服以後のパレスチナには、ギリシア的文化・思想が怒濤の如く流れ込んできた。また、ユダヤ人が多数暮らしていたエジプトのアレクサンドリアは、プトレマイオス朝の学問保護政策と相俟って、哲学を始めとするギリシアの学問の一大中心地となっていた。このことが、パレスチナにおけるユダヤ教の信仰・思想にも重大な影響を齎した。特に、アレクサンドロスが征服した広大な地域では、民族を超えた世界市民主義的思想が浸透した。これらのギリシア思想と交わる中で、それに感化されるユダヤ人も現れた。ギリシア思想という異質なものとの出会いに依って、ユダヤ人自身が「ユダヤ人とは誰なのか?」という問いに対する回答を生み出す必要に迫られたのである。

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このような思想の1つとして登場したのが、終末待望論であった。ペルシアやギリシア系王朝の相次ぐ支配の下、とりわけプトレマイオス朝とセレウコス朝の係争地と化した時代のパレスチナでは、新しい秩序の到来が世界的な規模で期待されるようになった。しかし、弱小の被征服民であるユダヤ人たちに、世界を転覆する実力などあろう筈がない。そこで期待されたのが、神の介入である。『創世記』の物語に依れば、神は嘗て洪水を地上に送り、暴虐に満ちた世界を一度破滅に導いた後、ノアとその家族に依って再び新しい秩序を立てたという。この物語を「終末近し」と認識された現在と重ね合わせ、神の新たな介入を期待したのである。こうした終末待望論は、ユダヤ教が勢いを得たハスモン王朝下で一時退潮したかに見えたが、軈てローマを後ろ盾にへロデが王位に就くと、再び盛んになっていった。へロデの死後10年ほどして、ローマはへロデの後継者たちを追放し、パレスチナを属州として直接支配下に置いた。ローマは、住民に人頭税を納めさせる目的で人口調査を行ったが、神殿とローマへの二重の税の取り立てに反対し、民衆は大きな反乱活動を組織する。こうした反乱を指揮した人物の中には、自らメシアを以て任ずる者も出現した。このように、メシア到来を待望する気運は当時、最高潮に達していたと言えよう。ヘロデはメシアの出現を恐れて、その誕生すべき場所を訪ねたという。このことの真偽は定かではないが、へロデ王家が『旧約聖書』が正統とするダビデ王朝の出自ではなかったことは事実であろう。その為に、ローマの支配が苛烈を極める中、一般の民衆は、ダビデの血筋を引く正統なメシアの出現をより一層、期待するようになったのである。

終末待望論が夢延したこの時代、ユダヤ人内部に様々な派が現れる。『新約聖書』は“サドカイ派”と“パリサイ派”という派に言及している。サドカイ派は、モーセ五書に記された律法の遵守のみを掲げる、概して保守的な思想を持ち、へロデの時代にはエルサレム神殿での祭儀を担う祭司階級に擦り寄って、体制派を形成していた。一方のパリサイ派は、「トーラーの他に口伝律法にも権威がある」とした。サドカイ派が優勢になると、パリサイ派は民衆にこうした律法の徹底的な遵守を要求し、それができない貧しい人々や、律法で穢れた存在とされる病人・遊女等を罪人として追放した。諸派に分かれたものの、この時代のユダヤ人の思想には共通する特徴も見られる。それは、二元的人間観に依ってユダヤ人を義人と罪人に二分した点であった。終末待望論を前提とし、義人――即ち、「自分たちのみが神との契約に与り、終末を生き残る真のユダヤ人なのだ」と考える思想も現れた。神殿で犠牲を献げることができない貧しい人々を、サドカイ派は罪人と見做し、重い皮膚病等の病気を先祖や本人の罪に対する報いと見做したパリサイ派は、そうした病人を罪人と見做し、共同体の保護から締め出すことを是認していた。こうしたユダヤ教主流派の主張に断固として異を唱えた人物、それがイエスだったのである。例えば、ユダヤ教では禁じられていた安息日の労働について、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、これを断罪するパリサイ派を喝破している(『マルコによる福音書』2章)。福音書のうち、後代のイエス信奉者たちに依る潤色等を除去した部分に垣間見られるイエスの言動は、これら当時のユダヤ教諸派が“罪人”というレッテルを貼った社会階層の人たちに寄り添うものであった。イエスのそのような言動は、神殿での儀式を重視し、その内実や社会的公正に目を向けようとしないサドカイ派にとっても、律法の遵守に終始し、それができない人間を蔑視したパリサイ派にとっても、茨の棘のように突き刺さったに違いない。況してや、終末への期待に満ちた社会において、イエスが一部の民衆にメシアとして担がれかねないとしたら、ユダヤ社会の体制派のみならず、為政者であるローマにとっても静観していてよい筈がなかった。大規模な武装蜂起に発展することを懸念するローマに依って、イエスは処刑されたのだと考えてよかろう。

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扨てここで、「考古学がイエスの活動について何を教えてくれるのか?」と問う読者諸氏もいるかもしれない。確かに、イエスが活動の中心としたガリラヤや、最期を迎えたエルサレムにおいて、既に1世紀以上に及ぶ発掘調査がなされてきた。ユダヤ教唯一の神殿を戴く宗教・政治の中心地として、1000年に及ぶ歴史を誇るエルサレム。ヘロデ大王が建設し、ローマ時代のユダヤ属州の都となったカイサリア。イエスが活動したガリラヤは、これら2大都市に比すればまさに辺境に過ぎない場所であったことが、発掘調査に依って明らかになっている。しかし、イエスが行ったとされる数々の奇跡についての客観的・具体的回答を考古学に求めても、それは無理な話である。考古学が我々に提示してくれるのは寧ろ、イエスが活動していた社会の様子である。物質文化から見えてくる当時の社会が、イエスの思想やその背景を探る上で様々なヒントを与えてくれる。以下にその例を見てみよう。エルサレムにおける長年の発掘は、へロデが築かんとした神殿の様子について多くを物語っている。神殿は、当時のエルサレム市街を一望に見下ろす場所にあった。オレンジ色に輝くエルサレムストーンで組み上げられ、丘の上に悠々と聳え立つ壮大なその姿は、下から見上げる者の目には神の神聖さを視覚的に表象するものとして映ったであろう。また当時、神殿に上る前には、神殿周辺の至るところに配置されていたプールで、身体を水の中に浸す清めの儀礼を行わねばならなかった。この儀礼もまた、神殿の清浄性・聖性を強調すると同時に、人間の穢れをも意識させるものであった。一度神殿に足を踏み入れると、そこには喧噪の市街地とはまるで別世界が待っていた。長い階段を昇り、巨大な柱廊部分を潜り抜けると、眼前に広がるのは東地中海の陽光を燦然と浴びて煌く中庭であった。神殿内外の視覚的対照は、神の神性・聖性を更にドラマチックに演出していたことだろう。

ところが、こうした美しい神殿の姿を支えていたのは貧しい民衆たちであった。へレニズム時代後半、特にハスモン王朝時代になってから、ユダヤ人の間で貧富の差が拡大し、階層の分化が進んだ。それは、へロデの時代にピークに達したと言えよう。贅を尽くした雄麗な神殿は、人々からの重税に依って建てられ、富裕な祭司たちは、人々から徴収した神殿への税で、その豪華な暮らしを維持していた。経済的に圧迫され、貧窮した人々の間では、終末の到来が尚一層待望されたのである。イエスの言動は、当時のこのような社会背景に照らして考慮されねばなるまい。イエスは、体制派であるサドカイ派からも、民衆に影響力を持っていたパリサイ派からも罪人として虐げられた、貧しいユダヤ人の元に自ら出かけて行った。イエスは、こうした体制での権威主義的・律法至上主義的な信仰のあり方とその二元論的な人間観に、その言葉と行動を以て挑戦し、一命を賭してこれを批判し続けたのである。この彼の姿勢が、彼をして当時他にも複数登場したであろう“メシア”たちと、決定的に異ならしめたところであった。これこそが、弟子たちの心を捉えて離さず、死して尚その復活への信仰にまで彼らを至らしめたものであった。福音書が伝えるイエスの像は後代に歪められた、理想化されたイメージには違いないが、それでも尚、その背後の最奥部に、イエスなる男の凄まじいまでの生き様と、彼が当時の社会体制に向けて敢然と放った、妥協すること無き批判的眼差しが反映している気がするのである。弟子たちが後に築き上げた『キリスト教』なる宗教は、イエスのこの批判的眼差しを果たして継承しているのだろうか?


長谷川修一(はせがわ・しゅういち) 立教大学准教授。1971年、埼玉県生まれ。筑波大学大学院歴史・人類学研究家博士課程単位取得退学。テル・アビブ大学大学院ユダヤ史学科博士課程修了。著書に『聖書考古学 遺跡が語る史実』『旧約聖書の謎 隠されたメッセージ』(共に中公新書)等。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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