【大世界史2015】(04) 西ローマ帝国滅亡(476年)――ローマ帝国滅亡の真犯人

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紀元前146年、ローマ軍を率いる統領・スキピオ(小)の前で海洋帝国『カルタゴ』の都が燃え盛っていた。それを眺めながら、スキピオの目には涙が溢れるのだった。トロイヤ王国の滅亡を詠った詩聖・ホメロスの悲歌と共に、「我がローマにも、いつかその日が来るに違いない…兵どもも滅び去る日が」という思いが胸に去来する。それから600年後に、ローマ帝国(西ローマ帝国)は滅亡する。そこには、スキピオが予見したようなドラマティックな情景はなかった。476年夏、ゲルマン人の傭兵隊長に依って若い皇帝が退位を迫られる。密やかで音も無い幕切れだった。ローマ帝国の没落には、トロイヤ落城・ニネヴェ陥落・ペルセポリス炎上・カルタゴ壊滅に漂うような派手さは全く無い。形あるものはいつか壊れるのであり、かの空前絶後の世界帝国も軈て姿を消した。永遠なるものは何も無い。わかっていても、その謎はやはり残る。だからこそ、また、史上稀な世界帝国の終焉は“衰亡史”として人の目を惹く題材にもなる。抑々、ローマ帝国の時代は空前のグローバル化が進んでいる。アレクサンドロス大王の東征以後のへレニズム期に、東地中海世界を超える規模で交流が盛んになり、この地域で“コイネー”と呼ばれる共通ギリシア語が拡がっていた。軈て、西地中海の覇権を握ったローマは地中海世界全体を呑み込む世界帝国となった。舗装道路が整備され、各地の港が結ばれ、“全ての道はローマに通じる”ネットワークが生まれる。山賊や海賊も出没しなくなり、人や物の往来が益々盛んになった。地中海を“我らが海”とする広大な世界に、長期に亘る平和と繁栄が訪れる。この紀元前1世紀後半から数世紀の期間は“パックスロマーナ(ローマの平和)”と呼ばれ、名著『ローマ帝国衰亡史』を著した18世紀の啓蒙史家であるギボンは、「人類史のなかの至福の時代」と讃えた。ところで、ギボンの名著は衰亡の歴史を書き出すに当たって、この平和と繁栄の絶頂期から筆を起こしている。勃興から成長と発展を続け、栄華を極めながら、軈てそこに翳りが見え始める。偉大な世界帝国であっても、死滅の運命を免れなかったのである。ローマ帝国の死因は一体どこにあったのか? そう問いかけることは、専門家に限らず歴史を振り返ることの好きな人々にやはり、気になるところであるだろう。古来、多くの人々がそれについて語ってきた。そのシナリオは多種多様であり、詳細に分類すれば、その数たるや210種にもなるという。主なものだけでも、衰退の原因にはゲルマン民族・キリスト教徒・人口減少・気候変動・インフラ劣化・鉛中毒等が挙げられ、数え切れない。しかも、何れもそれなりの根拠を持つから、目移りするばかり。流石に、大帝国の衰退となると数多の旋律が底に流れる。それらを参考にしながら、現代世界から見たローマ帝国の衰退の歴史に思いを巡らしてみよう。

古くから様々な議論がなされる中でも、最もわかり易いのがゲルマン人の侵入である。ローマ帝国は天寿を全うしたのではなく、殺されたという。これは“ローマ帝国他殺説”とも言えるが、その犯人としてゲルマン民族が浮かび上がる。ゲルマン人は、大挙してローマ帝国領土内に侵入したり移住したりしている。それが没落の原因だったと考えるのである。この他殺説の中でも死に至る経過については、1つの診断書がある訳ではない。先ずは、広く知られる見解を挙げておこう。4世紀末のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂した。中でも西ローマ帝国は5世紀半ば、最早風前の灯だった。前世紀後半以来、ゲルマン人の侵入や移住に悩まされながら、東方から恐ろしく不気味なフン族の脅威が迫っていた。嘗ての大帝国も、勢いのあるゲルマン人に頼るより他に道は無かったのである。正しく、“毒を以て毒を制す”である。しかし、それは西ローマ帝国の落日の輝きに過ぎなかった。455年には、北アフリカに渡って王国を築いていたヴァンダル族のゲルマン人がローマを略奪する。この時の被害は大きく、皇帝権力は辛うじて形をなすに過ぎなかった。しかも、皇帝を支えるローマ軍の中枢部はゲルマン人傭兵だらけだった。476年夏、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが国家転覆を企て、少年のロムルス帝を退位させてしまう。失意の少年はナポリ湾沿岸に退き、ひっそりと暮らすしかなかった。だが、彼がいつ亡くなったのか、それすら記録されていない。確かなのは、西ローマ帝国から“皇帝”という地位が永遠に失われたことであった。斯くして、ローマ帝国他殺劇は呆気無く幕を閉じる。また、それよりも早い時期に注目する見方もある。パックスロマーナに危機が訪れた3世紀。その混乱も収拾され、4世紀になるとコンスタンティヌス帝が登場する。だが、この大帝と呼ばれた改革者の時代に、既に衰退の影が潜んでいたという。何よりも、帝国領内に移住した外部族出身者を特に軍人として公然と登用したことである。だが、それらの参入者は“ゲルマン人”と一括りにされ、敵意を持って見られていた訳ではない。更に、強力な機動軍の創設の為に辺境の兵力が削減されると、国境地帯は曖昧になり、人の往来がし易く流動的になる。大帝の死後、帝位を巡る争いが繰り返されたが、それでも帝国には衰退の兆しは殆ど無い。だが、半世紀を経ると、帝国は完全な崩壊状態に陥る。というのも、4世紀後半には帝国西半の防備が手薄になっている。その隙に在地の有力者が強勢になり、軍団中枢部にはゲルマン人の登用が目についてくる。その背景には、ゲルマン人の帝国内移住の荒波が打ち寄せていた。だが、必ずしも“大侵入”ではなかったという。寧ろ、ゲルマン人を差別・排除する“排他的ローマ主義”の芽生えが注目される。「ローマ人である」というアイデンティティーが危機に瀕し、変化したのだ。それは、410年のゲルマン人に依るローマ略奪に至る、僅か30年間に起こった。帝国内の他者を排除する意識が強まったとすれば、寧ろ自壊したと診断してもよい。




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ローマ帝国の衰亡を、人間の病死に擬える考え方もある。病死であれば、病因がある。癌に依る死亡説が最も有力である。その場合、がん細胞はキリスト教ということになる。「3世紀以降、キリスト教徒が増え続けている。その頃から、ローマ帝国に異民族の侵攻やら内乱やら災難がふりかかったのだ」と異教徒たちは非難する。確かに、多神教社会である地中海世界にとって、唯一神を崇めるキリスト教は異質であり、その拡大はローマ帝国を根底から揺さぶるものであった。だから勿論、古代末期の同時代にも、「ローマ帝国が衰退していくのはキリスト教徒のせいだ」とする人々がいた。これに対して、アウグスティヌスのようなキリスト教の指導者たちは、再三に亘ってそれらの非難を論駁しなければならなかった。しかしながら、何故異質な人々が出現すると衰退するのだろうか? 例えば、ある学者のように潔く説明することもできる。問題は、キリスト教が普及し、優秀な人材が教会に吸収されたことだという。それと共に、国家そのものに優秀な人材が集まらなくなる。そこに、ローマ帝国が没落していく主因の1つがあったということになる。癌に依る死亡説に擬えれば、癌細胞が人体の良質な部分を食い尽くしたということだろう。更に別の病因を考えれば、例えば脳卒中もあり得ることである。脳卒中を起こして半身不随になってしまったとしたら、それはどんな病状であるのだろうか? 4世紀末に東西に分裂した後、東のローマ帝国はビザンツ帝国として、その後の数世紀は繁栄を続けていく。しかし、西のローマ帝国は5世紀の後半には消滅してしまうのである。そこに、半身不随の病状を見て取る訳である。抑々、軍事力を国家の支柱とする限り、それは絶えず増強されなければならない。こういう考え方からすれば、ローマ帝国が専制国家になればなるほど、益々軍隊が重視されることになる。その為に、国家は莫大な財政を負担させられるのである。

当時の為政者にとって、軍事力の増強は帝国の延命策として殊更重要であっただろう。寧ろ、「それより他の道は無い」というほど差し迫るところがあった。例えてみれば、体力の衰えを自覚しながら滋養強壮剤を飲み続けたようなものである。本来ならば、もっと老化して衰弱する筈なのに、特効薬で暫し強壮になっていたということである。元々、ローマ帝国が地中海世界全体を包み込んでいたということに、肥満体のような無理があったのかもしれない。東西分裂の段階で、右半身と左半身との動きがちぐはぐになるのが誰の目にもはっきりする。最早、東西のバランスが取れなくなってしまったのだ。つまり、東と西との発展の差異が著しくなり、そのストレスに依って生じた動脈硬化が半身不随を引き起こしたと言える。その他にも色々と考えられる。例えばカロリー不足とでも言えるが、人的資源が枯渇するという症状になる。ある学者が指摘したように、全体として人口が減少していたということは明らかである。この点は気候変動とも関連しており、気候史学の示唆も等閑にできない。それに依れば、400年頃を境にユーラシア大陸規模で寒冷化が起こっているという。そうすれば、人口減少の背景に気候変動があっても可笑しくはない。また、社会経済の構造そのものに目を向ければ、ローマ帝国の骨格に大きな歪みが生じたことも考えられる。その場合にも、様々な原因が取り沙汰される。古代地中海世界は奴隷制社会であり、そこに平和が続き、軈て奴隷が枯渇してしまったという。奴隷の大半が戦争捕虜等に依って補給されていたとすれば、大規模な戦争の少ない時代には早晩そうなるより他になかったのだ。奴隷供給源の枯渇は、大きな社会問題として捉えられている訳である。更に、農耕地が減少したり痩せたりという面も無い訳ではない。奴隷や土地のように、社会を成り立たせている生産力の骨格が身体に比べて細くなってしまったのである。更にまた、各地に属州が設置され、それらの属州地が其々に活発に生産することにも、問題が潜んでいる。帝国の中心にあるイタリアが生産地としての主力の地位を失っていくことになり、そこに没落の原因が見出されることになる。

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ここで取り上げたのは、ローマ帝国没落原因論のほんの一部にしか過ぎない。ローマ帝国没落の真因を探るとなると、その解釈は百花繚乱の観があり、多種多様な診断が下されることになる。21世紀はグローバル世界とも言われるほど、地球規模での一体化が起こっている。異民族・異宗教・異言語・異文化が錯綜する中で、グローバル化の荒波が怒濤の勢いで迫ってくる。ある高名な政治学者は、「ローマ史には、人類の経験の殆ど全てが詰まっている」と指摘する。その顰に倣えば、現代のグローバル化世界もまた、ローマ帝国から学べることがあるのではないだろうか? そのような視点からローマ帝国衰亡史に思いを馳せるなら、以下の3つの論点で整理しておきたい。1つは、“経済の衰退”が挙げられる。帝国の拡充とは、ローマ化・都市化の進展であった。都市の内外で道路や水道が整備されていったが、数百年の間にそれらのインフラは老朽化していたに違いない。その維持・保全の為の経済力があったかどうか。その点を考える上で、古代世界に経済成長はあったかどうかを尋ねてみよう。前近代史の中で最も高度な生活水準にあったローマ帝国には、主要な労働力として奴隷がいた。生産力の基礎となる重労働は奴隷が担っていた。だから、社会の指導的立場にある人々には凡そ革新のインセンティブ(誘因)が希薄だった。そのような状態が当然の如く長期間続けば、安定した経済力を維持できたかどうか、それさえ疑わしく思えてくる。次に、“帝国の衰退”を挙げてみよう。国家という組織の中心には、財政力と軍事力がある。財政の基盤をなす徴税が円滑に進むには、国家が求心力を持たなければならない。だが、3世紀に軍人皇帝が乱立し、地域の利害が目立つようになると、帝国の権勢が失われつつあったことは疑えない。それを補う意味でも軍事力の強化が必要であったが、逆に、それは軍隊――とりわけ、国境防衛軍の横暴を許すことにもなりかねなかった。

最後に、“文明の衰退”という脈絡を見てみよう。その様相は、古典古代以来の“ポリス市民の多神教文明”から、キリスト教の普及に伴う“世界公民の一神教文明”への移行という形で整理できる。最早、嘗ての神々を奉じた古代人にとって、唯一の神しか崇めないキリスト教徒は全く異質の、理解に苦しむ人間に見えてくるのである。弱者・慈愛・禁欲等が強調されるなら、そこでは行動規範或いはエートスが全く異なるものに変化したと感じられる。それは現代風に言えば、正しく文明の衝突であった。こうしてみると、

①ある程度の経済成長は経済の安定に欠かせない。
②異民族の流入に伴う国家・公民意識の低減への対処。
③宗教で鮮明になる異文化・他者への理解度。

といったことが自覚できる。元々、ローマ人は自由人と奴隷の差別はあっても、人種差別の意識は希薄だったという。更に、言語・法慣習・宗教においても、パンテオン(万神殿)に象徴されるように、寛容な精神を身につけていたともいう。ローマ帝国に翳りが差した頃から、ローマ人が差別意識を強め、寛容な心を失っていくように見える。否応なくグローバル化が浸透する中で、其々の伝統・文化を身に帯びた人間や社会がどこに向かって行くのだろうか? その点についても、ローマ史の示唆するところは少なくないのだ。


本村凌二(もとむら・りょうじ) 早稲田大学特任教授・東京大学名誉教授。1947年、熊本県生まれ。一橋大学社会学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。『薄闇のローマ世界』(東京大学出版会)・『世界史の叡智』(中公新書)・『はじめて読む人のローマ史1200年』(祥伝社新書)等著書多数。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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