【総理の影・菅義偉の正体】(06) 菅が築いた“最強の人脈”

“影の総理”と呼ばれる官房長官の知られざる実像を追ってきた本連載の最終回は、彼の人脈に迫る。長年に亘り築き上げてきたその人脈こそが、常に“誰かの影”として物事を動かしてきた男にとって、最強の武器だったのだ。

『大阪維新の会』の橋下徹と気脈を通じ、安保法制を始め、安倍晋三内閣の政策を推し進めてきた官房長官の菅義偉は、戦後最長の通常国会を乗り切って尚、難しい政権の舵取りを担う。前回では、ここまで権勢を振るう官房長官について、政治力の原点を紐解くべく、本人のインタビューを紹介した。それを含めた一連の取材の中で特に気になったのが、これまで培ってきた後援者やそのネットワークである。最終回は、最強の官房長官の人脈を解剖し、その実像に迫った。

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言うまでもなく、政治家としての出発点は横浜にある。菅は1975年4月、神奈川県選出の衆議院議員である小此木彦三郎の秘書となり、政界に足を踏み入れた。「私がまだ小学3~4年生くらいの時だったと思います。秘書というより書生。私には2人の兄がいるので、3人目のお兄ちゃんができたような感じでした。近くのアパートに住んで、毎朝、家にやって来ては一緒に食事をしていました。秘書は皆家族同然でしたけど、中でも菅さんは一番若い秘書だった。一緒にご飯を食べていたのは菅さんだけでしたから、余計に親しみが湧いたのかもしれない」。小此木家の三男で、後継として衆議院議員になった小此木八郎が、当時をそう振り返る。当人は、菅が横浜市会議員に転出した翌1988年、入れ替わるように小此木事務所に入り、父親の秘書として働き出したが、その時の師匠が菅だったという。「秘書というより、僕は親父の鞄持ちです。菅さんからは、選挙における挨拶回りから“倅”という立場の振る舞い方、頭の下げ方に至るまで基礎を習いました。僕が20代のその頃、菅さんが結婚した。そこで親父の支援者が、『菅さんは直ぐに靴をすり減らすから、靴を買ってやった』と来賓のスピーチをしていたのをよく覚えています。支援者の戸別訪問を熱心に熟し、兎に角歩く歩く。菅さんは『小此木彦三郎を助けてくれ』と、政策を成立させる為に根回しをやり、親父の支援者じゃない人までこっちに傾かせるとか、そういうことをずっとやってきた。それが、菅さんの政治家としての原点じゃないかな。今の安倍総理を支えているのも、感覚的には同じことだと思います。私の目から見ると、秘書として親父を支えた姿とあんまり違わない」。横浜の政界関係者も、「小此木の秘書から横浜市会議員に転身した延長線上に、今の菅があるのだ」と口を揃える。その横浜で殊更、菅のことを古くから知っている地元の実力者がいる。横浜港の荷役業務を取り仕切ってきた『藤木企業』会長の藤木幸夫(85)だ。藤木の父親である幸太郎は嘗て、指定暴力団『山口組』3代目組長の田岡一雄に要請され、『全国港湾荷役振興協議会』会長に就任。藤木会長・田岡副会長というコンビで、日本の荷役業界を取り仕切ってきた。藤木幸夫は、その藤木幸太郎の息子として、社長・会長を務めてきた。「元々、私は(和歌山選出の自民党議員)玉置和郎の後援会長をやっていました。玉置は無闇矢鱈に秘書を置く癖があってね。50人ぐらいいたんです。小此木のところはそれとは比べ物にならないけど、結構いた。菅さんが事務所に入った頃は、上の2~3人の秘書が市会議員になっていなくなったけど、菅さんは一番下(の7番目)だったんだよ。第一印象は、秋田から出てきた地味な人。人前であまり口をきかなかったしね」




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小此木彦三郎は後に通商産業大臣や建設大臣を歴任するが、元は菅と同じ横浜市会議員だった。1963年に市議となった小此木をバックアップしたのが藤木幸夫である。藤木企業の重役の娘が小此木に嫁いでおり、謂わば“親戚”付き合いをしてきた。菅にとって藤木は、そんな因縁のある地元の有力者だ。「菅さんは、小此木事務所で市民生活直結の細かい依頼を受ける窓口になり、飛び回っていた。それで、次第に彼の魅力が発揮されていった。先輩秘書が5~6人いましたけど、菅さんはとても評判が良かった。例えば、全国の旅館業の大会が横浜であり、偶々彦べえ(小此木彦三郎)の手が空いていない時、『藤木社長(当時)、ちょっと顔を出してくれませんか』と頼みに来る。『小此木本人から頼まれたんだ』とね。『何で俺が行かなきゃいけないのか?』とやり返すと、『藤木社長のほうが向こうが喜びますから』なんてことを平気で言うのです」。藤木は今も、神奈川県政や横浜市政に絶大な影響力があると謂われる。それだけにも、神経を使わなければならない相手だったに違いない。藤木は、こうも言った。「私はずっと、神奈川県知事と横浜市長の会の会長をやってきました。古くは長洲一二知事とか飛鳥田一雄市長の時代。長洲は元々藤木企業の顧問で、飛鳥田さんは革新と言われたけど、市長なのだから応援しなければならない。長洲の“長”と飛鳥田の“飛”から“長飛会”と名付けてね。賀詞交換会等もやってきた。だから、歴代の市長や知事は皆知っていますよ」。飛鳥田市長時代に、小此木は横浜市議だった。前述したように菅もまた、1987年4月から1995年4月まで市の中心部である西区選出の横浜市議を2期8年務めた。時を同じくして、1990年から2002年まで3期12年に亘って横浜市長を務めたのが、元建設官僚の高秀秀信である。建設省にいた高秀を担ぎ出したのが小此木と菅だと言われる。高秀は、横浜市政において道路や港湾開発に力を入れ、それを後押ししたのが他でもない菅だった。

2人の蜜月のせいで、菅は“影の市長”とまで呼ばれていたほどだ。小此木八郎が解説する。「親父(彦三郎)が市会議員に初当選した頃の市長が、後に社会党委員長になる飛鳥田さんでした。丁度、(長洲知事に依る)革新県政や革新市政が続いた時期で、そのせいで横浜の開発が20~30年遅れたと言われています。その飛鳥田さんが国会議員になり、次に市長になった自治省出身の細郷道一さんが急逝し、急遽出馬を要請したのが高秀秀信でした」。そうして、高秀は横浜の都市基盤整備事業に着手。みなとみらい21事業を完成させ、横浜港の産業道路の他、横浜市営地下鉄整備に取り組んだ。「みなとみらい構想自体は、親父の頃にできあがりつつあった。また、元々横浜ベイブリッジの構想もあったのですが、その下を走る下層国道(産業道路)が無い。横浜港の本牧埠頭に船の荷を降ろすと、トラックで倉庫のある大黒埠頭まで運ぶ訳ですが、その場合、往復2400円くらい首都高の通行料を支払わなければならなかった。1日で1万円ぐらいかかってしまうのです。だから、『無料の国道(産業道路)を整備しよう』というのが地元の悲願でした。それを、菅さんや高秀さんたちが手掛けていったのです」。菅は国会議員になって以降も、ずっと横浜港の開発に取り組んだ。現在の使い勝手の悪くなった倉庫群のある山下埠頭にIRカジノを誘致しようとする動き等も、その続きに違いない。横浜港の開発は無論、藤木にとっても悪い話ではない。こう、手放しで褒める。「高秀市長がよくここ(藤木企業)に来て、菅さんを立てていましたね。『菅先生が全部やってくれますから』という調子。それなら、自民党の市議団も纏まってやっていける――私も、そう思ってきました。高秀市長は、港湾関係で困ると菅さんに相談していた。菅さんは一般の支持者に対するサービスも三重丸だけど、彼の本当の値打ちはやっぱり、市長のいいアドバイザーとしての役割だったんじゃないかと思います。自分の選挙だけに精力を費やすような男じゃなく、横浜市の市政のコンサルタントみたいな役割を果たしてくれていましたね」

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全国の港湾事業に影響力のある藤木企業会長の藤木は、歴代の国土交通大臣や官僚との知己も多い。国政にも一家言ある。一方の菅は、こうした地元企業は素より、更に自らのネットワークを広げて武器にしてきた。「初出馬した1996年の選挙は大接戦でした。あの時に負けていたら、それこそ今頃は秋田に帰って農業をやっていたんでしょうね。当時は公明党が新進党に合流していた時代で、相手の候補は創価学会保守本流のど真ん中、青年部長までやった方(上田晃弘)でした。その人と民主党の大出彰も立候補していましたが、当時はまだ亀井静香さんが池田大作批判をし、自民党は創価学会を目の敵にしていた時ですから、そことの一騎打ちでした」。小選挙区比例代表制の始まった1996年の衆院選時に菅の秘書を務めた、横浜市議の渋谷健がそう述懐した。初当選した時の菅の得票は7万459票、相手の上田は6万5905票と、僅か4554票の僅差で菅が勝ち抜けた。菅は、決して選挙に強かった訳ではない。次の2000年の総選挙では、菅の9万5960票に対し、次点である民主党の大出は9万3434票と、2526票差にまで迫られている。で、この時に頼りにしたのが創価学会票だ。渋谷が言う。「2回目の選挙の時は掌を返したように、創価学会の支持を戴こうとしました。学会から『一度、挨拶に来い』と言われて、山下公園のところにある創価学会へ出かけると、『菅さん、あんたこの間の選挙の時、池田大作名誉会長のことを何て言った?』とこっ酷くやり込められました。確か最初の時は、“人間の仮面をかぶった狼”と書いたチラシを選挙の公示前に作って配りました。で、『あんなに言っていたのに、貴方の気持ちは変わったのか?』と1時間くらい延々とやられて、本当に凄かった。こちらは敵の本陣にいる訳ですから、突っ張ったってしょうがない。言い訳するのに精一杯でした」

そこから、菅は公明党・創価学会とのパイプ作りに励むようになったという。「その後、毎回選挙の度に創価学会へ挨拶に行くようになりました。3回目・4回目ぐらいになると、全然雰囲気が変わりましたね。自民党の神奈川県連の会長に菅さんが就任し、こちらも逆に、県連として公明党公認で神奈川6区の上田勇さんを徹底して支援するようになりました。それで大変感謝され、3回目ぐらいの時は非常にいいムードで選挙できるようになったのです。菅さんも、『いやあ渋谷よ、学会も最初は怖かったけど、随分変わったよな』と笑っていました。初回・2回目の選挙と今とでは、本当に隔世の感があります。今では、菅さんの学会とのパイプは相当なものでしょう」。本連載でも、「大阪維新の会の橋下徹が提唱する大阪都構想の住民投票を巡り、菅が創価学会に対して働きかけ、賛成に回らせたのではないか」と書いた。実際、池田大作名誉会長が体調不良で公の場に出なくなって以降の創価学会本部では、二階俊博や大島理森といった嘗ての自民党のカウンターパートから、菅にパイプ役をシフトしている節がある。「地元の企業等は、昔からの付き合いの方がそのまま偉くなって縁が続いているケースが多いですが、ここまで来ると東京でのトップクラスとの付き合いなので、僕らに事情はわかりません。ただ、菅さんご自身は、総務副大臣を経て当選4回目で第1次安倍政権で総務大臣を経験した。その頃から神奈川県だけではなく、我々が与り知らないトップの世界の付き合いをされているのだろうと思います」(同前・渋谷)。雪深い秋田県の農村から家出同然で上京し、政界に飛び込んだ菅義偉は、順調にその階段を駆け上がってきたと言える。秘書から市会議員、そして代議士として当選回数を重ねてきた政治家としての歩みは、オーソドックスで然程劇的なものでもない。ポピュリズムに走って大言壮語や軽口を叩いて墓穴を掘るタイプではない代わり、見栄えもしない。外見的には、有り触れた政治家だ。

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しかしその実、菅の周囲にいる個人個人は独自の地位を築き、キャラクターが立っているタイプが多い。父親の和三郎を始め、秘書として仕えた小此木彦三郎や後援者の藤木幸夫、政界で師と仰ぐ梶山静六や理想の官房長官像を抱く野中広務…。スポンサー企業や霞が関の官僚たちとの交友も長く続いている。周囲に張り巡らせたそんな人的なネットワークがあればこそ、地味な政治家が大きく見える。菅と親しい関係者たちに「政治家として優れたところはどこか?」と尋ねると、決まってこう評す。「菅さんは道理を重んじ、正攻法で政策を進める。決めた約束を守り、ぶれない」。尤も、それはある意味、国会議員なら誰もが備えなければならない最低限の資質でもある。また、例えば菅は当選1回生で梶山静六を総裁選に担ぎ上げ、その後は加藤紘一の乱にも参戦した。対北朝鮮政策では万景峰号の往来を規制し、NHKの受信料や放送の在り方に異議を唱えた。それらの行動に対し、永田町では“クーデターの仕掛け人”と呼ぶ向きもある。だが、そこにも政治家としてスケールを感じない。菅は何をしたかったのか――それが今一つ伝わってこないのである。ある財界人が指摘した。「菅さんは常々、『私は1代限りの政治家でいい。だから、息子にも継がせない』と話しています。本人は総理総裁を目指す訳ではない。その意味では、官房長官を天職と考えているのでしょう。そろそろ、安倍さんの次の総理を探しているのではないでしょうか」。菅義偉は、フィレンツェ共和国のマキャベリの「弱体な国家は常に優柔不断である」という名言を好んで使う。優柔不断な国会議員だらけの中、益々存在感が増している。 《敬称略》 =おわり


森功(もり・いさお) ノンフィクション作家。1961年、福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。『週刊新潮』記者等を経て、2003年にフリーに。政治・経済・事件等の分野で数多くの作品を発表する一方、航空問題にも造詣が深く、『血税空港 本日も遠く高く不便な空の便』『腐った翼 JAL消滅への60年』(共に幻冬舎)等の著作がある。近著に『紛争解決人 世界の果てでテロリストと闘う』(幻冬舎)。


キャプチャ  2015年11月号掲載


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テーマ : 安倍政権
ジャンル : 政治・経済

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