【大世界史2015】(05) ヒジュラに依るイスラム教拡大(622年)――“預言者”ムハンマドのリーダーシップ

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ムハンマドは、唯一神『アッラー』から啓示を受けた預言者(使徒)である。それは、軈て宗教の開祖者とされるに至ったキリスト教のイエスや、仏教の釈迦とは異なる存在である。違いはそれだけではない。実在した歴史的人物として、3人は何れも傑出した宗教リーダーであったが、ムハンマドだけは信仰や社会や政治が一体となった共同体(ウンマ)の最高指導者でもあった。ムハンマドは、『クルアーン』の啓示の内の粗6割をメッカで受けている。しかし、イスラームと呼ばれることになる信仰が現在のように世界宗教に成長したのは、メッカでなく、西暦622年にヒジュラ(聖遷)で移ったメディナ以降のことである。ムハンマドはメディナにおいて、イスラームで言う最後にして最大の預言者として、単に信仰者の精神を支えるだけでなかった。彼は、膨張した信徒の共同体の経営、メッカのクライシュ族のように外から彼と信仰を脅かす敵、共同体内部で起きる窃盗や姦通や遺産相続を巡る紛争等にも、適切な対応を迫られた。メディナにおけるムハンマドは、宛ら宗教者に留まらない役割を果たすことになる。そしてこの点こそ、彼をイエスや釈迦のような他の宗教リーダーから際立たせる結果にもなった。まさに、「ムハンマドのなかにあった多様な能力が突如として、統治、軍事、立法、司法、行政、調停、外交などの諸分野で、次々と開花していくことになった」(小杉泰『ムハンマド』・山川出版社)

そこで、ムハンマドの多面的な才能と多元的な役割の何れの角度から考えるかに依って、ムハンマドの個性、延いてはイスラームの性格を解釈する道筋が変わってくる。人々は、“宗教者”ムハンマドの人間的な柔軟性から見ると、「イスラームが歴史的に無条件で平和の信仰だった」と考えがちである。他方、素人でありながら先天的感性と努力に依って軍事リーダーともなったムハンマドは、アメリカのリンカーン大統領のように、軍の最高指導者としても卓越した才能を発揮した。この政治的軍人という側面に引きずられると、ムハンマドの言行は異教徒に対する戦争や殺害や処刑といった面だけで説明されがちになる。今の『ISIS(別名:イスラム国)』の極端な議論は、こうしたミリタントな側面を強調し過ぎるのである。しかし、ムハンマドが啓示を受けた7世紀のアラビア半島、中でもメッカやメディナでは商取引や遺産相続や女性の権利侵害といった面で多くの不正が蔓延しており、部族間の不和や武力衝突に依って、寄る辺のない寡婦や孤児が生み出されていた。ムハンマドは、こうした社会的な不正義や不公正に異議を申し立てるだけでなく、その積極的な解決者となるべく神から啓示を受けたのである。その意味では、権威を確立したムハンマドが先ず優先したのは、新しく社会の法を制定し、個別の事件に裁定を下す作業であった。彼は、人間が法を作り出す人定法や実定法と異なり、神の啓示に基づく法という意味で“神定法”や“天啓法”を世に遍く施行する使命感を帯びていたとも言えよう。イスラームが信仰と政治を一体化させた共同体(ウンマ)を成立させ、発展させた最大の功労者は、ムハンマドなのである。遺産相続や窃盗等、民法や刑法の一部手続きについては『クルアーン』も詳しく規定している。しかし、メディナに加えて元来の発生地・メッカからも多数の改宗者が出ると、「個別の問題について法的にどう処理すべきか?」という問題が起こる。それを解決できるのは、神の預言者たるムハンマドの裁定以外にあり得なかった。




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ムハンマドの言行録とも言うべき『ハデイース イスラーム伝承集成』(翻訳は牧野信也・中央公論社)の中には、下巻の『刑罰』の章に彼の下した裁定が重複を交えながら載せられている(以下の数字は章と節を示す)。或る男が預言者のところにやって来て、事もあろうに姦通を告白した時の事例は興味深い。メディナのムハンマドは家族を社会――つまりウンマの基盤と考え、その前提として婚姻を重要と考えた。ムハンマドにとって、神の啓示を受ける前の時代のアラビア半島の性道徳は紊乱しており、婚姻の慣習も男の恣意を赦すものだったようである。幸福な家庭の維持を信仰の理想と考えたムハンマドにとって、姦通ほど忌まわしい罪はなかった。しかし、姦通を自白した件の男に対して、ムハンマドは不思議な態度に出ている。それは、預言者が顔を逸らしたことである。恐らく、「聞きたくない話題だ」と察知して聞かないふりをしたのだろう。ところが、この男は余程自分の罪を告白したかったのか、性格的にしつこかったのか、何れかだったらしい。ムハンマドの前で態々「姦通した」という言葉を4回繰り返し、それが偽りでないことを4回証言した。これで発言が信憑性を帯びるようになると、ムハンマドは最早無視できなくなる。そこで預言者は、「お前は気違いか?」と尋ねると、男は否定した。「では、お前は結婚しているか?」と尋ねると、「はい」と答えた。そこで漸くムハンマドは、「男を連れて行き、石打ちにせよ」と命じたというのだ(刑罰22の1・25の1・29の1)。いざ石打ちになると男は逃げたが、間もなく追い詰められて死んだ。「預言者は彼のために善かれと祈った」という伝承もある。稍ニュアンスの違う伝承も残っている。ムハンマドが顔を逸らすと、尚も男は「そのほうへ回って」、また「姦通した」と言ったので、預言者は更に顔を逸らしたというのだ。この男は、預言者の配慮を無視するかのように、また彼のほうへ回って、「それが本当だ」と4回も繰り返し証言した。そして、ムハンマドは「気違いか?」と問い、結婚の有無を尋ねた上で石打ちにするように命じたというのである(刑罰29の1)。この話でわかるのは、ムハンマドは罪に当たる行為を自分から根ほり葉ほり聞いて、罰を科すといった法罪めいた性格から遠いことである。敢えて言えば、自然体のムハンマドには宗教者として欠かせない慈悲深さと、政治家に必要な前向きで物を考える習性がバランスよく共存していた形跡があるのだ。酒を飲んだ者に対して呪いの言葉をかけようとした信徒にも、「そのようなことを言うな。彼に対してシャイターンをけしかけてはならない」と命じたのも、その一例である(刑罰4の3・5の2)。“シャイターン”とは、神の被造物たる悪魔を意味する。預言者は、「彼を呪ってはならない。彼はアッラーと使徒を愛しているのだから」と述べたともいう(刑罰5の1)。

最愛最年少の妻で、ムハンマドの最期を看取ったアーイシャに依ると、ムハンマドは2つの何れかを選ぶ時、「罪でない限り、易しいほうを選んだが、それが罪である時は、最も遠く離れた」というのだ。これは、係争や諍いの解決に際して、できるだけ常識的で厳しくない解釈を選んだという意味であろう。罪に当たる時も、その告白や発言をできるだけ聞かないふりをし、見ないように心掛けたと思われる。しつこく自分のほうから罪を告白する男の相手になると、預言者自ら自白を聞いたという形になるから、厳しい罰を科さざるを得ない。実際、相応の場合には厳しい罰を科したのである。それ以外の場合には、彼は寛大だったのである。彼には、宗教者らしい振る舞いに関わる逸話が幾つも知られている。或る時、1人の男がやって来て、自分の過失を告白し罰を乞うと、ムハンマドは男に何も尋ねなかった。軈て礼拝の時刻になると、男もムハンマドと一緒に礼拝し、それが終わると過ちについて“神の書”に従って罰するように求めた。神の書とは『クルアーン』のことであろう。ここで面白いのは、男が如何なる罪を犯したのか触れていないことだ。ムハンマドは「お前は我々と一緒に祈ったではないか」と言うと、その男も「はい」と答えた。その時に預言者は、「アッラーは既にお前の過ちを赦された」と述べた。「お前の罰を免除された」という表現の伝承もある(刑罰27の1)。「罰に当たらない軽い過ちを犯した場合、それをイマーム(宗教指導者)に告げ、意見を求める者は、悔い改めるならば罰されない」というのも、ムハンマドの考えであった。果たして、彼はそうした人を罰しなかった。ラマダーン月に妻と交わるのは違法とされるが、そうした男についても罰しなかったという伝承も伝わっている。この男が性交の事実を敢えて告げると、ムハンマドは奴隷所有の有無や、「2ヵ月の断食を決心できるか?」と尋ねた。財産も乏しく、意志力も欠如していることを見てとると、「それでは、60人の貧者に食べ物を与えよ」と命じたという(刑罰26の1)。誰もが豊かな有産者である筈もない。また、意志強固な人物でない場合も多い。そうした人物に可能な償いは何かを、わかり易く示しているのだ。

アーイシャの伝える逸話では稍、ニュアンスは違っている。ムハンマドが男に「喜捨をせよ」と命じると、「自分には何もない」と答えた。するとムハンマドは、「食糧を積んだ驢馬が来たので、これを使って施せ」と述べた。すると男は、「自分の家族には食べるものが何も無い」と語ったところ、「では、これを食べなさい」と命じたというのだ(刑罰26の2)。これは、ムハンマドが食糧を男に喜捨したことを示唆する。彼は自分の財産を少しも失わずに、ムハンマドに縋って罪を償ったのである。それにしても、預言者の寛大さにちゃっかりと便乗して、家族の為に食糧を分け与えてもらったというのは、聊か小狡い感じがしなくもない。しかし、そうした小人の心性を一々詮索しない大きさが、ムハンマドの預言者たる所以であろう。この有り様を近くから具に見ていた人物たちは、この男の所行をありのままに記録したことで、却ってムハンマドの器量の大きさを浮かび上がらせることに成功したと言えよう。“疑わしきは罰せず”という法の大原則がある。ムハンマドの場合も同じである。彼は疑わしい場合でも、敢えて事を荒立てず、幸せな家庭や円満な夫婦の間に波風を立てることを好まなかったようである。「男女間・夫婦間のことは、幸福な状態を維持しようとすれば詮索せずともよい」という寛仁大度ぶりを発揮することもあった。あるベドウィンがムハンマドの元にやって来て、問答を交わした時の様子は誠に興味深い。

「私の妻は黒い子を生みました」
「お前は駱駝を持っているだろう?」
「はい」
「その色は何だ?」
「赤茶色です」
「灰色のもいるか?」
「はい」
「どうしてそうなったのか?」
「灰色の祖先の為と思われます」
「では、恐らくお前の息子も祖先のせいであろう」

(刑罰41の1)

何という機智に富んだ鷹揚な解決策と言うべきであろうか。ムハンマドの有名な発言に、「子供は寝床の主に属す」というものがある。この逸話はまさに、「生まれた子供は、子を産んだ妻の法的に正当な夫に属する」と言いたいのだろう。但し、ここでムハンマドは有名な言葉を付け加えた。「姦通を犯した者には石打ちの刑」と。即ち、「子供は寝床の主に属し、姦通を犯した者は石打ちにされる」というのである(刑罰23の1・2)。このように、概して民法と刑法の双方において寛大且つ温雅であろうとした預言者のムハンマドにも、許せない罪の筆頭に来るのが姦通だったのである。

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イスラームでは、合法的婚姻関係以外で性的交渉を持つのは全て姦通とされる。婚姻をしているムスリムは男女問わずに、石打ちの刑となる。未婚者の場合は、100回の鞭打ちと1年間の追放である。鞭打ちは『クルアーン』に条文があり、他は『ハディース』に根拠があることを以下で触れてみよう。イスラームで禁忌とされる姦通は、偶像崇拝や、生あるものを殺すことに並ぶ重罪であった。『クルアーン』でも、姦通については「これは実に忌まわしいこと、何と悪い道であることか」(17の34)と厳しく窘められている。ムハンマドはもっと具体的に、一番重い罪として偶像崇拝・子殺し・隣人の妻との姦通を挙げたとも伝えられる(刑罰20の4)。彼は、最後の時が来るか、或いはその前触れが来る時、「知識が廃れて無知が蔓延り、人は酒を飲み、姦通を犯し、男が減って女が殖え、1人の男に50人の女が従うようになる」と述べている(刑罰20の1)。「人が真面目な信仰者でなくなるのは、姦通する時・盗む時・酒を飲む時・殺す時だ」と明言もしている(刑罰20の3)のだから、現代の欧米や日本の法感覚からすれば随分と性行為に厳格だったと言えよう。その分だけ姦通罪については、手続きと判断をきちんと厳密に進めようと努めている。『ハディース』は、AとBという2人の男が預言者と相談する為に来た時の逸事について触れている。話はこうだ。Aの息子・Cは、相談に来たもう1人のBに雇われていた。それなのに、Bの妻であるDと姦通してしまった。そこでAは、息子Cの過ちを羊100匹と奴隷1人の譲渡で贖った。しかし、或る学者に相談すると、その言うところでは「Cは鞭打ち100回、Dは石打ちの刑を受けるのが相当だ」と言われた。「どうしたものか」とムハンマドに相談した上で、裁定するように求めたという訳である。ムハンマドの判断は、迷いのないほど果断であった。「羊と奴隷はAに返されるが、Cは鞭打ち100回と1年間の追放が相当である」と。そして、「Dが白状するなら、彼女は石打ちになるべきだ」と裁定した。Dは、自ら姦通を認めたので石打ちになった(刑罰30の1・38の1)。学者の解釈は、預言者の裁定とぴったり合致した訳である。

姦通罪の成立には、動かぬ証拠や真正の証言が必要不可欠となる。結婚している男或いは女は、姦通の証拠が挙げられるか、妊娠の事実が明るみに出るか、又は自白した場合には罰が科せられる(刑罰31の1・34の1)。姦通した未婚の者が鞭打ちと追放の刑を受けたのは上述の通りであるが、姦通した男は、姦通した女か偶像崇拝の女以外娶ってはならない。姦通した女も同じである。ここでは、「姦通した未婚者は、入籍して互いにきちんと責任をとればよい」とも読めるのである。未婚者の性交は命懸けという説明も一部にあるかもしれないが、ムハンマドが2人の結婚を寧ろ認めたのは、ヒューマニティーの発露と言えるかもしれない。勿論、この種の相手との結婚は信仰者には禁止されているにせよ、である(刑罰32)。偶像崇拝に準じる厳しさは、不信仰者と背教者に適用される。この点について、ムハンマドの解釈は容赦なく苛烈極まりない。抑々『クルアーン』には、こう規定されている。「アッラーとその使徒に戦をいどみ、地上に頽廃を播き散らして歩く者どもの受ける罰としては、殺されるか、磔にされるか、手と足を反対側から切り落とされるか、さもなければ国外に追放されるほかはない…」(5の37)。ウクル族が預言者の元にやって来てイスラームに改宗し、メディナのモスクの回廊に住み病気になったとの話は示唆に富んでいる。ムハンマドは、喜捨の駱駝を連れて来させ、その尿や乳を彼らに飲ませるように命じた。しかし彼らは、肥えて健康を回復するとイスラームから棄教し、駱駝買いを殺し、駱駝を奪い去って遁走したのである。そこで、追っ手が遣わされたのは当然であろう。“天網恢恢疎にして漏らさず”と言うべきであり、昼にならないうちに彼らは捕捉されて連れ戻された。その時に預言者は、釘を真っ赤に熱して、それで彼らの目を潰すように命じた。その後で、彼らの手と足を切り落とさせ、血を止める為の焼灼もさせなかった。その後で、彼らは溶岩台地に放り出されて水を求めたが、与えられずに死んだという(刑罰17の1。他に、刑罰15の1・16の1・18の1)。或いは、ウライナ族の事例かとも言われるこの伝承に依れば、失明した彼らが渇きの為に水を求めても与えなかったという苛烈さは、棄教と殺人と窃盗が忘恩と相俟った場合のムハンマドの容赦無い対応ぶりを示している。ここでは、宗教的使命感が革新的政治家の妥協無き判断に乗り移って、怒りが倍加した感もある。

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しかし、こうした苛烈な行為であっても、同時代のムスリムは後世の人間と同様に、「ムハンマドが自分個人の為に復讐した」とは決して考えなかった。アッラーの禁忌が犯された時のみ、神の為に復讐した典型例として、この伝承が生き延びたのであろう(刑罰10の1)。法の解釈や執行に当たって、ムハンマドは“法の前の平等”という重要な原則を曲げなかった。彼が身分の差や貴卑の如何に拘らず、法の前では人を差別せずに同じように接したことは特筆されるべきだろう。クライシュ族という預言者も属する名門に属する女が盗みを働いた時に、彼女の一族は困惑した。嘗て、イスラームが誕生する前のメッカやメディナでは当然だったように、預言者のムハンマドに執り成しを頼んだ。しかし、彼は部族の利益代弁者でもなければ、地域利害の代表者でもなかった。ムハンマドは、「過去の者たちが卑しい者には罰を科し、貴い者を見逃す行為を敢えてした為に亡びた」と断定する。ここで、ムハンマドは決然と断じたのである。「ファーティマがそれを行ったとしても、彼女の手を切るであろうに」(刑罰11の1)と。ファーティマとは愛娘のことであり、4代目カリフ(シーア派では初代イマーム)のアリーに嫁した女性である。窃盗(サリカ)は、イスラームでは罰が重い。刑が固定(ハッド)されているから、初犯では右手首、再犯では左足首、3犯で左手首、4犯で右足首が切断されることになっていた。尤も、2回の自白も刑執行までに撤回することもできるし、裁判官に起訴される前に被害者が犯人を赦すこともできる。この辺りに、示談の余地を残しているのだ。これは、イスラームとムハンマドの柔軟性や弾力性が発揮される根拠にもなっている。ムハンマドが「アッラーの定めた罰のことで執り成すのか?」と有力者たちに説教し、貴卑を差別したから「道を誤った」とする裁定は(刑罰12の1)、流石に宗教から調停、司法から行政に至る全ての領域で、先ずは無理のない裁量権を発揮した人物だけのことはあると言って大過ないだろう。ムハンマドは、現代的な意味でも相当にバランス感覚に富む人物だったと言えないだろうか。


山内昌之(やまうち・まさゆき) 明治大学特任教授・東京大学名誉教授。1947年、北海道生まれ。東京大学学術博士。2012年に東京大学教授を退官し、現職。著書に『世界史 歴史を見る眼を養う』(朝日新聞出版)・『中東国際関係史研究』(岩波書店)等。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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