【大世界史2015】(07) テムジンがチンギス・カンを号する(1206年)――“史上最強の帝国”モンゴル、支配力の秘密

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このところ、矢鱈に煩かった『ISIS(別名:イスラム国)』騒動も粗、峠を越してかなり下火となりつつある。抑々、ISISなるものを尋ねれば、その実力は元々あまり大したものではなかった。最大規模の時でも、精々のところが兵力は1万から2万弱程度の規模で、率直に言って抑々、初めから稍過大評価気味ではあった。銜えて、ISIS側が矢鱈に人類の歴史遺産と言っていい貴重な史蹟や文化財を破壊し、誠に目に余る没義道な悪行の限りを尽くした結果、当然のことながら逆に孤立化する方向に向かった。まあ、“身から出た錆”というか、まさに文字通り“自業自得”という他はない有り様に陥っている。単発的なテロや紛乱はまだあるにせよ、大局的には最早明らかに“ジリ貧”に近い状況であり、次第に下火になっていくのではないか。この間、欧米のみならず、日本においても各種のマスコミを始め、評論家・作家・コメンテーターといった人たちが、幾らか燥ぎ過ぎと言うか、一時期稍“便乗型”めいた書物を濫造し、各書店の入口辺りにそうした書物がずらりと並んだのは壮観と言うか、「今までの日本にとって、中東は余程縁遠かったのかな」と思わざるを得なかった。そして今や、我も我もと無理矢理に急いで出版した書物が“不良在庫”と化するのではないかとさえ、幾らか心配したくもなる。とは言いつつも、素より随分と優れた著作や評論・コメントもあり、中でもとりわけ長らく中東方面で活躍され、特に、2006年から2010年にかけて在シリア特命全権大使を務められた国枝昌樹さんの筆になる『シリア アサド政権の40年史』(平凡社新書)と『イスラム国の正体』(朝日新書)の2冊は、現場を熟知した誠に見事な著作である。翻って、抑々こうした事態を引き起こす“素”となったのは、その淵源を尋ねると、2003年3月に始まり、かのサダム・フセイン政権を倒した所謂『イラク戦争』ではなかったか。周知のように、サダム・フセインは「大量破壊兵器を持っている」と嘯いて、アメリカ軍を威嚇・挑発したが、実のところは大量破壊兵器なぞ無かったのであった。しかしその結果、ブッシュ大統領の命でアメリカは陸・海・空の3軍を以てイラクに大侵攻し、斯くて中東イスラーム世界のど真ん中と言っていいイラクは、一旦はアメリカに制圧されたのであった。尚、聊か余談めくが、イラクの首都であるバグダードはペルシア語で「神が与えた」という意味である。嘗て、在りし日にはアッバース朝の王都であり、イスラーム世界の中心としてアラビア語で“マディーナアッサラーム”――即ち、“平安なる都”と呼ばれた。嘗て、東に日本の平安京があり、西に“神与の地”であるバグダードが存した。だがその後、東西2つの“平安京”の運命は全く異なるものとなった。平和で嫋やかな現在の京都と、これからも恐らくは変転を免れがたいかに見える西のバグダード。そこには、激しい歴史のコントラストがあり、其々の運命と在り方は、あまりにも鮮やか過ぎるという他ない。

モンゴルについては、かなり誤解と幻想が纏わり付いている。曰く“史上最強の軍団”とか、若しくは“嘗てない巨大帝国”とか、または“残忍・非道極まりない野蛮集団・人殺し”等――まあ、あれこれ色々と錯覚や誤解・決めつけ・過大評価に色取られている。しかし、そうしたイメージは大抵後から勝手につけられたものであり、実際とはかけ離れていることが多い。それは、モンゴルが征服の為に意図して恐怖を煽る戦略を取っていた為でもある。「逆らえば、殺戮と破壊を平然とやってのける人間離れした集団である」という噂を流したこともあった。率直に言って、強いとか弱いとかいう話とはかなりズレがある。現実には高々、騎馬を基本とする軍団であったとしか言い様がない。単純に言えば、決して強いとは言い切れないし、素より特別な兵器や銃火器を備えている訳でもなかった。その一方、余程の場合を除いて、モンゴル兵について無理をさせることは殆ど無かった。別の言い方をすれば、モンゴルはモンゴルを大事にした。所詮は“弓矢の民”でしかなかったのだから。そしてもう1つ、カザフや色々な遊牧民たちを、自分たちの騎馬軍団として次々に組織化した。その際、出身や人種で分け隔てをすることはあまりなかった。殆ど全ては、そこにポイントがあった。モンゴルは、在地支配への関心が極めて薄かった。モンゴルはよく、「あらゆる宗教に対して寛容であった」と言われるが、それは“無関心”とも言い換えられる。モンゴルは、軍事・政治・支配・統治だけに関心があった。宗教・技術・思想・情報は、統治の手段に過ぎなかった。1260年にクーデターに依って大カアンとなったクビライ以後は、経済支配が関心の焦点となり、重商主義が採られた。クビライは陸と海の交通を掌握し、専売と通商の商業利潤に依って、国家財政を運営した。




その一方で、優秀な者がいればどんどん抜擢した。要するに、才能主義であったと言ってもいいか。例えば、有名な“耶律楚材”(漢語の発音では“イエリュウチューツァイ”)。チンギス・カンは、捕虜となった彼が実に堂々たる美丈夫であるのを認め、しかも彼がモンゴルたちには無い様々な才能と、軍師たる見識と度量、そして東西に亘る豊富な知識の持ち主であることから、たちどころに自分のブレーンの1人として登用した。そうした例は限り無くある。騎馬の戦闘士たちだけでは、急速に拡大したモンゴル領を統治し、然るべく運用していくことは困難だったからである。例えば、チンギス・カンはキタン人、女真人、ムスリムを幕僚として抱え込んでいた。モンゴルには無い知恵・経験・情報・組織を持っていたからだ。また、後にモンゴル帝国が作り出した商業と流通から利潤を上げ、それに依って国家財政を支える仕組みを作ったのは、イラン系のムスリム商人とそこから選抜された経済官僚たちであった。 これは、人類の歴史を見渡して常によくあるパターンであると言っていい。率直に言えば、チンギス・カンは謂わば当たり前のことを当たり前に行っただけと言ってもいい。そしてもう1つ、自分を頂点とする各集団をよくよく観察し、反逆やクーデターの芽があれば直ちに刈り取った。その辺り、油断は無かった。翻って、モンゴル軍団が展開していた広大なユーラシアの中央域には、中国北部から後にいうロシア大草原、そして牧畜に適したじつに緑色濃いハンガリー平原、更にはアゼルバイジャンに至るまで延々と草原地帯が連なっていた。そうした世界には、顧みてかの古代遊牧民のスキタイたちが、実に古い時代から広やかに展開しており、モンゴルはそうした古くからの蜒々たる歴史の営みを一挙に総括する運命を持っていたと言っても言い過ぎでないだろう。要するに、ユーラシア内奥の東西は広い意味で遊牧民たちの天地であり、彼らの活動に依って、ユーラシアはユーラシア足り得たのであった。まあ、実に単純な話と言っていいかもしれない。要するに、地球規模ではないけれど、ユーラシア世界の世界史は古くから確かにあった。翻って、もうかなり以前のことに遡るが、日本の西洋史学を代表する2人の知り合いが“大航海時代”という新造語を捻り出して、盛んに喧伝した。陸から海へと、世界を繋ぐ担い手が交代し始める幕開きだったと言いたいようであった。だが、果たしてそうか? 抑々、“大航海時代”と言えるような様相になるのは実のところ、ずっと後のことである。率直に言って、18世紀、かのキャプテン・クックの時代以降でしかない。尤も、そうした批判を嘗て幾らか綴ったところ、“グレイト・マリタイム・エイジ”という日本式英語は看板を下ろすことになった。「ヨーロッパ人が進出してこなければ、“旧世界”という纏まりすら成立していなかった」かのように言うのは、あんまりだろう。「壮大な嘘であり、愚かしい所業であった」と言う他はない。

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扨て、モンゴル帝国なるものは、チンギス嫡流家と言っていい“大元ウルス”を宗家とも中心ともしつつ、ロシア大草原一帯を押さえる所謂“キプチャク・ハン国”(正式にはチンギスの長子であるジョチの名を取って“ジョチ・ウルス”と言う)、中央アジア中央域を領域とする“チャガタイ・ウルス”、そしてイラン・中東方面に広がった“フレグ・ウルス”(屡々“イル・ハン国”とも言う)の4大部分から成る。まあ、其々のウルス1つひとつが“帝国”と呼んでいい規模であり、結果として、世界史上で最大の緩やかな連合体であった。そして、この4大ウルスは屡々相互に対立し、時にはウルス毎に抗争・実戦に及ぶことも少なくはなかった。そして、この巨大な連合帝国の西側に、細やかなヨーロッパが其々また中小の王権に分かれて、離合集散していたと言っていい。こうした緩やかなモンゴル連合は、其々の立地条件もあって、例えばイラン方面に根拠するフレグ・ウルスは、中東方面の各国と様々な関わりを持たざるを得なかった。鎌倉日本が2度に亘る“モンゴル襲来”を味わう少しばかり前、1258年のこと。チンギスの孫であるフレグ率いるモンゴル軍は、イランのイスマーイール派教団王国の山城群を簡単に片付けて、怒濤のようにバグダードに到来した。フレグの元には、中東各地のムスリム部隊やアルメニア軍、更にはキリスト教徒勢力も加わってバグダードを攻略、アッバース朝の37代カリフのムスタースィムは投降して、貴人の礼を以て殺害された。要するに、モンゴル側のフレグ・ウルスを以てして、軽々と中東の要たるバグダードは開城・降伏せしめられたのであった。翻って、4つに分かれた巨大帝国たるモンゴルは、其々に内情はそれなりにあるものの、全体として眺めれば比較的に仲は悪くはなかったと言っていい。そして、極めて特徴的なこととして、モンゴルはモンゴルにベタベタに甘かったと言っていい。モンゴルは、基本的に特別のことが無ければ仲間を殺さなかった。殺す場合は、余程の事情があったのである。どちらかと言えば、異常な程の仲間意識であり、ある種の“エリート意識”もあったのだろう。兎も角、この集団に属してさえいれば粗、安泰といったところであった。そうした結果、世代を経るに従ってモンゴルが軟弱になっていくのは避けがたかった。

とはいえ、ジョチ家のバトゥは、まだしも勇武の気性を保っていた。彼はロシア大草原を西進し、一旦は既述のハンガリー平原に入った後、更に進んでハプスブルク領に接近した。そして、ウィーンも間近になった時、モンゴル帝国の統一後継者を選ぶセレモニーに参列すべく、止むなく東へ戻った。バトゥの心境はどのようであったか。兎も角、これ以後のルーシの地は次第に薄明の中に融けていく。但し、その枠組みは近代ロシアという別の姿に変わっていき、今も尚、巨大な北の国として、かのプーチンの下で大いに存在感を発信している。モンゴル帝国は、スキタイや匈奴を始めとする遊牧国家の歴史の頂点にいると言っていい。モンゴル時代を通して、それ以前の歴史もおぼろげながらに見えてくる。とりわけ、ユーラシアの内奥にいたオアシス民や遊牧民の姿は、モンゴル時代の記述に依って蘇ることも屡々ある。素より、モンゴルの支配は場所に依って様々であり、例えば、モンゴル系の国家“クリム・ハン国”がロシアに接収されるのは1783年のことである。因みについ先頃、ロシアのプーチンがクリミア半島を併合し、世界各国が声を上げて非難したが、クリミアとセバストポリ等の帰属は、古くからの懸案事項と言っていい。実のところは、クリミアの地はクリム・タタルというモンゴル系の人々の居住地であり、その海に向かった突端には、かのモンゴルが造営した『バフチェ・サライ』という麗しい宮殿がある。嘗て、筆者がNHKの皆さんと共に製作した『大モンゴル』(Ⅰ~Ⅴ)は、世界レベルで大評判を取ったが、まさにそのバフチェ・サライとクリミアは、共々に其々の理由と背景、そして長い歴史の中にある。少なくともウクライナが、この一帯を領有すること自体が元々ナンセンスであった。翻って、少なくとも筆者にとってモンゴル、クリミア、セバストポリ、そしてバフチェ・サライは、一体のものとして考えるのが素直なように思えてならない。実のところ、そうしたところはこの地上で幾つも存する。世界史を部分と部分の総和としてではなく、1つの全体像として捉えることの意味は誠に大きい。モンゴルとその時代は、世界史を考える上での絶好のテーマと言っていいだろう。


杉山正明(すぎやま・まさあき) 歴史学者・京都大学文学研究科教授。1952年、静岡県生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学。専攻は中央ユーラシア史・モンゴル時代史。著書に『モンゴル帝国の興亡(上)(下)』(講談社現代新書)・『ユーラシアの東西』(日本経済新聞出版社)等。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
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