ホームページ開設・書籍発売…神戸連続児童殺傷事件、勘違い犯罪者“元少年A”絶賛暴走中!

1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件。戦後日本崩壊の象徴として特別視されてきた“少年A”だが、果たして本当にそうだろうか? 今になって『絶歌』を書いた元少年Aの自尊心と、それに便乗する世間のアホらしさとは――。 (フリージャーナリスト 西田健)

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匿名を現す表現が固有名詞となっている――この異常な状態にこそ、“元少年A”の全てが隠されている。扨て、今年6月10日、32歳となった“元少年A”が太田出版から手記『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』を刊行した。発売後、瞬く間に26万部を売り上げた著書に、世論は「絶版にしろ」と反発する一方で、「表現の自由と殺人者の告白には価値がある」という擁護等、日本中が再び“元少年A”に翻弄されることになった。一定の評価に勢い付いたのだろう。8月下旬には、『存在の耐えられない透明さ』と題した“元少年A公式ホームページ”を開設。その内容は、出版を断念した幻冬舎の見城徹社長への恨み辛みと、自著『絶歌』の自画自賛で埋め尽くされていた。しかし、被害者遺族への謝罪が一切無いという鬼畜ぶりに、やはり世間の不評を買っている。こうした流れから、元少年Aを取材し続けてきたジャーナリストの草薙厚子が『元少年Aの殺意は消えたのか』(イースト・プレス)を緊急刊行、多くの雑誌で特集が組まれる等、相も変わらず“理解不能”な元少年Aの行動にマスコミは振り回され続けている。ここに、大きな勘違いがあったのだ。抑々、“元少年A”など最初から無視しておけばよかったのである。少年Aの精神を理解する必要性も無ければ、この事件自体、特別な意味や意義も無かった。はっきり言えば、大した“事件”ではなかったからだ。勿論、被害者遺族の悲しみに同情は禁じ得ないが、逮捕された後は法律に基づいて粛々と処理をして、被害者遺族以外の日本人は“少年A”という匿名のまま忘れ去る。20年近くも事件を覚えて、「元少年Aがどうしたこうした」など興味を持っていること自体、大きな間違いだったのだ。

そんな主張すれば、反論する人もいよう。しかし、冷静になって考えてほしい。神戸連続児童殺傷事件は、数年に一度は起きるタイプの少年犯罪の1つでしかないのだ。1億2000万人が暮らしていれば、この程度の割合で“頭の可笑しい”“自意識過剰”なキ○ガイが生まれる。そして、この殺人鬼が実際に“殺人”を行うには、肉体的に成長期(第2次性徴)を迎える、少年ならば14歳前後、少女ならば12歳前後を待たねばならない。当然、殺害の対象となるのは、貧弱な自分の肉体よりも脆弱で、確実に殺傷できる児童や幼児となる――それだけの話なのだ。元少年Aは、切断した頭部を校門に掲げた行為を、『絶歌』で何やら神聖な儀式のように述べていたが、これも考える必要はない。抑々、人間の頭部は哺乳類の中で極めて切断し易い。構造的に、手足よりも簡単に切断できる(骨の柔らかい児童は特に)。つまり、肉体的に貧弱な少年Aが“殺害証明”として切断して、非力な自分でも持ち運べたのが“頭部”だけなのだ。『ISIS(別名:イスラム国)』のゲリラが切断した頭部を晒すように、自意識過剰な殺人鬼の実に類型的なメンタリティーと行為であって、何ら珍しくもないのである。繰り返すが、1億2000万人が暮らす社会では、数年に一度の割合で少年少女に依る殺人事件が起こる。だからこそ、日本以外の先進国では詳細な報道は控えている。騒ぎを起こしたくて殺人事件を起こしている以上、犯人の狙い通りに騒ぎを大きくすれば、より一層の事件拡大に繋がるだけでなく、模倣犯を生み出すリスクが出てくる。それを懸念して、報道は控えるのだ。事件のファクトだけを伝え、後は粛々と処理をする。精神科医が出しゃばって殺人鬼を理解しようと努力したり、識者が偉そうに事件の背景を解説したり、事件が起きないよう国会で大騒ぎしたりすることもしない。貧困といった社会的要因でなければ、この手のキ○ガイは一定の率で発生する以上、無視する以外何もする必要がないのである。もう、おわかりだろう。日本の社会は、“少年A”に対して最悪の対応をし続けた。少年犯罪においてやってはならないことを、この18年間やりまくったのだ。こうして、自我肥大した狂気のゴミモンスターが誕生する。それが、“元少年A”の正体なのである。




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「少年Aを“元少年A”へと進化させてしまった」――1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件(通称“酒鬼薔薇事件”)で考えるべき点は、この過程だけである。どうして世間は、この酒鬼薔薇事件に過剰に反応したのか? その理由は、事件の2年前にある。そう、阪神淡路大震災とオウム真理教事件である。この2つの事件は、“戦後の日本”が崩壊しつつある現実を日本人に突きつけた。戦後の日本は、米ソ冷戦の中で平和国家として経済発展し、建国史上最も豊かな時代を謳歌してきた。しかし、その時代的背景である冷戦が終結し、その余波でバブル経済が崩壊、金融破綻と続き、そんな最中で大地震と信じられないテロ事件が立て続けに起こったことで、社会不安が急速に高まっていた。言うなれば、1997年当時の日本社会は、ぐらぐら揺れているジェンガのようなものだった。その止めとなる最後の1本を抜いたのが酒鬼薔薇事件だったのだ。当初、メディアが盛んに「犯人は大人」と必死で騒ぎ立ていたのは、「自分たちでも理解できる事件であってほしい」という願望からであろう。こうして、大衆は酒鬼薔薇事件の犯人像を“自分たちに理解可能な範囲”で勝手に作り上げた挙げ句、逮捕された14歳の少年Aを見て、勝手に木っ端微塵となってパニックを起こした。要するに自爆であって、少年Aに打ちのめされた訳ではないのだが、あまりにも盛大に自爆したが故に、恰も「少年Aは、“戦後日本”崩壊のシンボル(幻想)ではないのか…」と、これまた盛大に勘違いしていく。この勘違い傾向は、戦後の文化人に強く見受けられた。その代表が、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズで一大ブームを引き起こした庵野秀明であろう。アニメ自体は1995年の作品だが、偶々主人公が14歳だったことで事件直後に一気にブレイク、庵野自身も「14歳に特別な意義がある」と煽ってしまう。また、総計1000万部という異例の大ヒットを記録した児童小説『バッテリー』(角川文庫)の作者・あさのあつこも、後書きで「『少年Aがどうして生まれたのか』という疑問から主人公をイメージした」と記し、以後、多くのアニメ・漫画・小説で“少年A”を意識した作品が登場するきっかけとなった。

フォロワーを生み出したのは文化人だけではない。犯罪者までもが“少年A”を崇拝し、続々と模倣犯が登場する。先ずは、2000年の『西鉄バスジャック事件』。インターネットで“ネオむぎ茶”と名乗って殺害予告した17歳の少年は、事件前から“酒鬼薔薇聖斗”と署名した犯行予告を各所に送り付けていたフォロワーであった。2008年、7人を殺害した『秋葉原通り魔事件』の加藤智大も、少年Aに強いシンパシーを持っていたことがわかっている。最近では、2014年の『佐世保女子校生殺人事件』で、殺害した同級生をバラバラにした15歳少女、更に今年1月の『名古屋女子大生老女殺人事件』の19歳少女は、「少年Aのように人を殺してみたかった」と供述している。勿論、これらの事件以外にも殺人事件にまで発展しないだけで、驚くほど沢山の模倣犯(=フォロワー)を生み出している。当たり前であろう。本来の酒鬼薔薇事件は、思春期特有の肥大した自我の自己満足の為に、自分より弱い弱者を狙って殺すという、世の中で最も卑劣な事件なのだ。当然ながら正しい対応は、唾棄すべき犯罪者として一生、社会の片隅で“異物”として隔離すること。そうした対応をきちんと行っていれば、少年Aを崇拝した模倣犯が出る筈はないのだ。ところが、日本の社会は思いっ切りパニックを起こし、有名作家が挙って少年Aをモチーフにした作品を次々と発表し、社会学者たちが興味津々で分析、単なる殺人事件を“日本犯罪史上最大の衝撃”と持て囃した挙げ句、“ダークヒーロー”として扱ってきたのだ。自我肥大型のシリアルキラー(快楽殺人者)にすれば、心の底から憧れ、崇拝したとして何ら不思議はあるまい。

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どれほど、日本社会が“少年A”に間違った対応をしてきたのか。少年犯罪史上最も凶悪な事件である『足立区綾瀬女子校生コンクリート詰め殺人事件』(1988年)と比較すれば、わかり易いだろう。この事件は、少年4人が40日間に亘って女子校生を拉致・監禁した挙げ句、コンクリートに詰めて捨てたという史上最悪の凶悪事件で、メディアでも何度も取り上げられてきた。この犯罪に対して、当時の日本社会は衝撃を受けたにせよ、社会がパニックを起こすことはなかった。実際、この事件に対する一般大衆の認識は、「あいつらは人間じゃない」という極自然の反応だった。この事件が日本社会の欠陥に由来している訳でなく、犯人の少年たちを“異物”としてあっさり切り捨てた。時代はバブル真っ盛り、日本社会は自信に満ち溢れていた。故に、事件に対しても揺らぐことがなかった。その結果、この事件に対する社会の反応は「絶対に許さない」である。当然、犯人たちを「崇拝している」と言えば異常者扱いされ、社会的に抹殺される。模倣犯が生まれることはない。この時期は、ちゃんと正しい対処をしていたのだ。ここで重要なのは、この綾瀬女子校生コンクリート詰め殺人事件が酒鬼薔薇事件の時期に起こっていれば、この事件の犯人たちが少年Aに代わって“ダークヒーロー”となっていた可能性であろう。その意味で、酒鬼薔薇聖斗に犯罪史における“価値”は無く、偶々時代にマッチしてブレイクした“一発屋芸人”みたいなものであったのだ。しつこいようだが、それを日本の社会は“不出世の天才芸人”と盛大に勘違いした。しかも、その幻想は時代を経る毎に一層肥大化していく。それを如実に示した事件があった。2009年の島根女子大生バラバラ殺人事件である。

行方不明であった島根県浜田市の女子短大生が、中国山地の山中でバラバラの遺体となって発見。その後、全く犯人が特定できず、2015年現在も未解決のままだ。問題は、捜査員の間で「犯人は酒鬼薔薇ではないのか?」という噂が流れたことであろう。その噂の出所は、応援に駆けつけていた広島県警の捜査員。この時期、少年Aが祖母の実家のある広島県呉市で暮らしていたらしく、遺体の女性器だけが切断され、遺留品が態と自宅の近所に放置されるといった異常性から、酒鬼薔薇の関与が捜査員の中で疑われていたのだ。その噂を証明するかのように、事件発生から2ヵ月後に警察庁の安藤隆春長官(当時)自らが現地入りし、異例の檄を飛ばしており、週刊新潮も「捜査当局が酒鬼薔薇の所在地を確認したようだ」と報じている。事件から12年が経過しても、“酒鬼薔薇”の幻影は警察庁長官さえ動かす程に巨大化している。この事実を当人が知ったら狂喜乱舞するのは間違いあるまい。前述したように、2014年・2015年には立て続けに自分を崇拝するフォロワーが殺人事件を起こし、その発言がメディアに乗って駆け巡っていったのだ。「一発、本でも書いてやれ」というのは、容易に想像がつく。しかし、現実として少年A(=酒鬼薔薇)に存在価値は無く、犯罪史的にも分析する意味も無い。何度でも断言しておこう。こいつはただの“ゴミ”なのだ。ゴミはゴミらしく、社会の片隅で静かにしていればいい。それを、「自分には価値がある」「自分の犯罪は芸術である」と壮大に勘違いして、読みたくもないゴミのような本を出版し、ゴミを見せられた大衆が「とっとと消えろ!」と怒り狂っているというのが、今現在の成り行きなのだ。

その意味で、“元少年A”という幻想に最も踊らされているのが酒鬼薔薇自身であり、彼も被害者とも言えなくもない。だからと言って、同情する必要は無い。どうやら元少年Aさんは、日本犯罪史上最高の芸術小説『絶歌』の売れ行きが良くないことに、かなりご立腹の様子だからである。とりわけ、「(同時期に発売した)又吉直樹の“火花”が芥川賞を受賞して爆発的なブームとなったことが、“絶歌”の売れ行きに悪影響を与えている」と信じ込んでおり、このまま本が売れないようだと、逆恨みで芥川賞作家の首が『吉本興業』の会社に掲げられるということも…。このくらいクズのゴミなのだ。何れにせよ、この“ゴミ”をきちんと処理処分することが、ゴミを作った日本社会の責任と言えそうだ。


キャプチャ  2015年12月号掲載


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