日本と相撲が新しい人生をくれた――大島勝(元関脇・旭天鵬)インタビュー

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9月13日から、両国国技館で大相撲秋場所が始まっています。7月の名古屋場所まで土俵に上がって相撲を取っていた僕としては、今、相撲協会のジャンパーを着て花道の奥から相撲を見つめているという自分自身が、ちょっと信じられない感じがします。とは言え、秋場所が始まるまでは「現役を引退した」という実感がそれほど湧かなかったんですよね。というのも、(所属する友綱)部屋では今も現役時代と同しように朝、まわしを締めて土俵に降りて、若い衆に胸を出していたからです。ただ、場所前には本場所に向けての体作りをしていたのをしなくなったことと、周囲の人たちから「(旭)天鵬関」じゃなくて「親方」と呼ばれるようになったのは、変化だったと思う。秋場所が始まって、協会の業務の為、国技館にはこれまでよりも早い時間に入っていますが、もう支度部屋には行かないし、化粧まわしを巻いて土俵入りをすることもない。勿論、相撲を取ることもない。こうした現実と向き合った時、「ああ、本当にお相撲さんじゃなくなったんだなあ」と寂しさを感じましたね。

モンゴル人力士のパイオニアとして、40歳10ヵ月まで幕内の土俵に上がり続けてきた旭天鵬が、名古屋場所千秋楽を最後に現役を引退した。後の小結・旭鷲山ら、総勢6人のモンゴル人と来日して、大島部屋(当時)から初土俵を踏んだのが1992年春場所のこと。当初は日本での環境や相撲部屋独特の風習に馴染めず、その年の8月には相撲を辞める覚悟でモンゴルへ帰国したこともあった。師匠の大島親方の説得で、もう一度相撲に取り組むことになった旭天鵬は、同期の旭鷲山に続いて、1996年春場所で十両に昇進、1998年初場所では新入幕を果たす。2人のモンゴル人幕内力士の相撲は、母国のモンゴルでもリアルタイムでテレビ中継された。日本での活躍ぶりをテレビで見て、強い憧れを持って日本にやって来たのが、朝青龍・白鵬・日馬富士・鶴竜の横綱や、大関の照ノ富士といったモンゴル人力士たちである。多くのモンゴル人が入門してくる中で、モンゴル人力士第1期生の旭天鵬は、旭鷲山・旭天山と共に後輩たちの支柱になり続けていた。近年は、旭天鵬を「アニキ」と呼んで慕う白鵬の横綱土俵入りの露払いを務め、7月の名古屋場所で白鵬が35回目の優勝を遂げた際の優勝パレードでは、旗手としてオープンカーから沿道のファンに笑顔を振り撒いた。

「思い出に残る相撲は?」と聞かれると、沢山あるんですが、最近の相撲だと、やはり2012年夏場所千秋楽、栃煌山との優勝決定戦の一番ということになりますね。あの時は、本当に感動しました。2011年3月に東日本大震災が起こり、八百長問題等の余波で春場所は中止。5月の夏場所は、“技量審査場所”という特殊な場所になりました。そして、迎えた7月の名古屋場所で、僕は僅か2勝しか挙げられなかったのです。「引退の潮時なのかもしれない…」。悩み抜いた僕は親しい人たちに、「もう相撲を辞めたいと思うんだけど、いいかな?」と相談してみたのですが、誰も「OK」とは言ってくれなかったんです。“勝てない”というジレンマに加えて、師匠の大島親方が翌年4月に定年退職するという事情も重なっていました。その際、大島部屋の後継者として名前が挙がっていたのが僕だったからです。現役続行か、引退か――揺れ動く気持ちの中で僕を勇気づけてくれたのが、名古屋場所後の8月に生まれた長男・蓮の存在でした。「この子に相撲を取っている姿を見せたい! 大きくなるまで相撲を取りたい!」。そう強く思うことで、僕の心はリセットされました。そして翌年4月、大島部屋の閉鎖に伴い、僕を含めた力士たちが友綱部屋に所属することとなりました。元々、友綱部屋に所属していた力士に、僕たち旧大島部屋の力士が加わって20人近くとなって、稽古場は活気付いています。僕には決意がありました。「転属したこの場所、新旧の師匠の為にも無様な成績を残せない」ということです。だから、旧大島部屋からの弟弟子の旭秀鵬・旭日松と「絶対、勝ち越そう!」と誓い合ったのでした。




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とは言え、僕は前半の5日目を終えて2勝3敗と、調子が上がりません。ところが、6日目の天鎧鵬戦から、どういう訳かずっと白星が続いていくことになります。場所の後半戦になると、大関陣が星を落とし始めて、13日目を終えた時点で、大関・稀勢の里、平幕・栃煌山と僕の3人が、3敗で優勝を争うという展開になったのです。14日目も勝ち、迎えた千秋楽は、3人での優勝決定戦とか、4敗の力士を含めた決定戦等のケースが想定されました。すると昼前に、3敗の栃煌山の対戦相手、大関・琴欧洲が休場するという情報が入ったのです。つまり、栃煌山は不戦勝で3敗をキープできる為、この時点で、白鵬関ら4敗力士の優勝の目は消えてしまったのです。つまり、本割で3敗の僕と稀勢の里が共に勝てば、3人に依る優勝決定戦。どちらかが勝てば栃煌山との決定戦、2人とも負ければ栃煌山の優勝という状況です。本割の対戦相手・豪栄道は決して分のいい相手ではなかったのですが、何とか勝った僕は決定戦進出が決まり、その後、稀勢の里が大関・把瑠都に負けたことで、僕と栃煌山との優勝決定戦となりました。内心、「大変なことになった!」と思いましたが、気持ちを落ち着かせて相撲を取るしかありません。作戦は至ってシンプル。「立合い、(相手に)当たれるだけ当たっていこう。まわしを取られないようにしよう」。これだけです。僕は本来、四つ相撲を得意としていますが、栃煌山も組んだら強い力士ですからね。決定戦は、2秒ほどの短い相撲でした。内容がいいとは言えなかったけれど、勝った瞬間、館内は大騒ぎとなりました。勝ち名乗りを受けて花道を下がっていくと、通路には付け人や後輩が涙を流して僕を待っていてくれました。そして、優勝パレードのオープンカーには、横綱(白鵬)が旗手として乗ってくれることになりました。繰り返すようですが、優勝決定戦は決していい相撲じゃなかった。だけど、この優勝を後輩・先代の大島親方・友綱親方たちが、自分のことのように喜んでくれた。それが僕にとっては一番の宝物になりましたし、心が折れかけた時もあったけれど、「ここまで現役を続けてきてよかったなあ」と心から感じたのでした。

37歳8ヵ月。幕内最高齢での旭天鵬の初優勝は、多くの人々の胸に刻まれた。20代の頃は、一歩先に出世街道を走っていた旭鷲山に次ぐナンバー2のポジション。20代後半は大関を目指して、猛橋古をした頃もあった。手を煩わせることも多かった朝青龍は、瞬く間に横綱に駆け上がり、入門当時はヒョロヒョロの体付きだった白鵬も横綱に昇進。時代は朝青龍時代・青白時代から、白鵬時代へと変わっていった。

今考えてみても、「僕の初優勝は奇跡みたいなものだった」と思っているんです。年齢も年齢なので、「この優勝を機にキッパリと引退しよう」という気持ちもありました。ところが、優勝したことがキッカケになって、観客の方からの声援や拍手が多くなって、「40歳まで頑張れ!」という声までかけて頂くようにもなりました。それなのに、優勝の翌場所は初日から13連敗と負けが込み、結果的に2勝とファンの方たちをガッカリさせてしまいました。38歳を迎えた翌秋場所・九州場所では、連続10勝を挙げることができたのですが、この頃の僕は毎場所が綱渡りといった感じでしたね。30代後半まで現役でいて、しかも優勝まですることができた。「40歳まで」という無数の励ましの声は嬉しかったけれど、正直、40歳の自分自身を想像することはできませんでしたから…。相撲は体と体をぶつけ合うスポーツなので、いつ、どんなタイミングで怪我をするかはわかりません。怪我を負っての休場が、引退に繋がることも考えられます。ですから、僕の場合は1場所1場所が勝負。毎場所の目標は、勝ち越すことに設定していました。そうすることで、様々な記録等も付いてくるようになりました。通算出場・通算勝星・幕内出場回数等の記録がそうなのですが、長く相撲を取っていると、記録は自分自身を奮い立たせるものになっていくんですね。だから僕は、今場所中に達成できそうな記録の一覧を、支度部屋に置く明け荷の中のティッシュボックスの裏に貼って、気合いを入れるということもやっていました。

2014年秋場所初日の前日(9月13日)、旭天鵬は40歳の誕生日を迎えた。「幕内力士として40歳を迎える」という大きな目標が、遂に現実のものとなったのだ。直前の名古屋場所は、東前頭12枚目。2ケタの黒星なら十両陥落もあり得る地位だったが、後半戦から調子が上がり6勝を挙げた旭天鵬は、幕内に踏み留まり、秋場所を東前頭14枚目で臨むこととなった。

誕生日の日は、部屋の力士や後援会の人たちから、40歳のバースデーパーティーを開いてもらったんですよ。ケーキに蝋燭を立てて「ハッピーバースデー♪」だなんて、かなり照れ臭かったなあ(笑)。翌日は秋場所初日。記者の人たちからは「“40歳の幕内力士”の気分はどうですか?」等と質問が飛びましたが、実際のところ、40歳になっても風景は何も変わらなかったですね(笑)。ただ、40歳で幕内の土俵に上がったのは、名寄岩関(元大関)以来60年ぶりの出来事で、現在のように年6場所制になってからは、初めてのこととか。更に、勝ち越しともなると73年ぶりの記録達成になると知り、「それなら、勝ち越しを狙おう!」と密かに燃えていたことは事実です。初日から4連勝と感触がよかったのですが、場所の途中で疲れが出てしまったのか、足踏みもありました。結果的に13日目に勝ち越しを決められたことは、本当に嬉しかったですね! この場所に爆発的な力を発揮して、「モンスター登場!」と騒がれたのが逸ノ城です。200kg近い巨体で、上位陣を次々と薙ぎ倒して、まさに怖いもの知らず。番付的には僕と逸ノ城の対戦があっても可笑しくはなかったんですが、後半戦、逸ノ城は横綱・大関戦が組まれた為に、対戦することは免れました。マジで当たりたくなかったので、ホッとしましたよ(笑)。ともあれ、40歳で迎えた秋場所で勝ち越して、73年ぶりに記録を更新したことは、僕のモチベーションを上げてくれました。10月に行われた巡業も、久しぶりに多くの土地を回り、若手時代に出ていた巡業の雰囲気を彷彿とさせるものがありました。僕が入門した1992年は“若貴ブーム”と言われ、相撲界がとても盛り上がっている時期でした。ですから、同期生はモンゴル人6人を含めて160人もいて、力士自体の人数が多かった時代でした。本場所はいつも満員、地方巡業もファンの人たちでごった返していましたからね。暫くはそういう時代が続きましたが、2000年代前半くらいからは相撲界に元気が無くなってきました。更に、不祥事等も重なって、2010年頃はこれまで経験したことのないような不入りとなったりと、「相撲が世間から忘れられてしまうのではないか?」と不安になったこともありました。けれども、この2年ほどは遠藤・逸ノ城・照ノ富士ら若手力士の台頭もあって、相撲人気が復活。僕のようなおっさんの部類に入る力士にも黄色い声援を送って頂く等、ファンの方たちから元気を貰う機会が増えてきました。そうして迎えた11月の九州場所で、僕は2年ぶりに2ケタ・10勝を挙げて、敢闘賞まで戴くことができました。体と気持ちが上手く連動できた結果でした。

2015年初場所を東前頭7枚目で迎えた旭天鵬は5勝、翌春場所も6勝で、夏場所は西14枚目まで番付を落としたものの、何とか8勝を挙げて勝ち越し。そんな旭天鵬は、以前から心に決めていることがあった。それは、「(幕内から)十両に落ちたら引退する」というもの。前頭10枚目台での大敗は十両陥落(=引退)に繋がるとあって、旭天鵬は常に引退と隣り合わせの状態での土俵となっていた。

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丁度、名古屋場所前に膝に水が溜まって、蹲踞もできないような状況になったので、注射器で水を抜いたんです。それと、尿路結石も見つかって、こっちのほうは内視鏡を入れて破砕しなければならないから、「現役で相撲を取っている内は治療は無理」という診断になりました。体の不調を言い訳にするつもりはありません。でも、初日から4連敗、その後も波に乗れなかったのは辛かったですね。西前頭11枚目ですから、5勝すれば幕内残留の可能性はありましたが、14日目の安美錦戦で(5勝が不可能となる)11敗目を喫した時には“引退”を覚悟しました。対戦相手の安美錦も泣き出しそうな顔をしていたらしいですね。その夜、東京にいる妻に電話をして、「明日で最後になると思うよ」と伝えました。以前も不振に陥った時、何度か「もう辞めようかな?」と妻や母に伝えたことがありましたが、その時は「もう少し頑張って!」と励まされたんです。でも、今回はそういう言葉は一切返ってこなかった。最後の一番となった栃ノ心戦は、幕内後半戦に組まれました。名古屋場所が行われている愛知県体育館は、白鵬-鶴竜の結びの決戦への期待が高まっています。呼び出しさんの声を受けて僕が土俵に上がると、館内の物凄い声援に包まれました。その声援で、もう僕はウルウルしてきて、涙が零れてきそうでした。最後の相撲には負けてしまったけれど、悔いは無かったですね。支度部屋に戻った僕は、横綱同士の決戦に集中しました。何故なら、「アニキ、僕が優勝したら(優勝パレードの)オープンカーに乗って下さい」と白鵬関から言われていたからです。そして、その約束は果たされました。千秋楽の2日後、故郷のモンゴルに帰った僕は、妻と3人の子供と一緒にモンゴル式の結婚式に臨みました。結婚して10年近くが経ちますが、「いつかモンゴルで式を挙げたい」という僕の希望が漸く叶ったのです。記録の面では、夏場所で魁皇関の記録(1444回)を抜いて、幕内出場でトップ(1470回)に立つことができました。若し、この秋場所でも幕内の土俵に立てていたなら、幕内100場所、そして41歳の幕内力士となることができました。けれども、41歳になる直前に、しかも99場所で引退というところも、「僕らしいのかな?」と思っています。

日本にやって来て、いつの間にか23年という歳月が流れました。その間、色々な人に出会い、その人たちから様々なことを教わり、ここまで相撲を取り続けてきました。相撲があったから今の自分がいる。正しく、「相撲は僕の全てだ」と言っていいでしょう。日本で相撲を取ってきて本当によかった。奇しくも、160人いた同期生の1人だった十両・若の里も、名古屋場所を最後に現役を引退。年寄・西岩を襲名しました。これからはお互い親方1年生として、「もっと相撲を勉強していこう」と話しているところなんですよ。 (取材・構成/武田葉月)


大島勝(おおしま・まさる) 本名はニャムジャウィーン・ツェウェグニャム。1974年、モンゴル国ウランバートル市生まれ。1992年に来日、1998年1月新入幕。最高位は関脇。2005年に日本に帰化。2012年5月場所で初優勝を飾る。2015年7月場所後に引退。友綱部屋所属(入門時は大島部屋)。


キャプチャ  2015年10月号掲載


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