【大世界史2015】(08) ルネサンス(15~16世紀)――ルネサンスは魔術の最盛期

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一般にルネサンスと言えば、15世紀の初めから16世紀半ばを1つの区切りとして、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア等のイタリアの都市国家を中心に始まった文化・社会等の変革・刷新ということになります。具体的に、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ等に代表される絵画や彫刻等を思い浮かべる人も多いでしょう。何故、これまでルネサンスが西洋史の中でもとりわけ重要な画期とされてきたか。その理由は、それが“ヨーロッパのアイデンティティー”と深く結び付いていたからです。それは大きくいうと、3つの側面がありました。1つは、“古代の復活”。この時期に、イタリアの各地で古代の建築物や彫刻等の発掘が相次ぎます。更には、アリストテレスやプラトン等の古代の著作が“発見”される。そこで当時の人々は、「自分たちこそが古代ギリシャやローマの文化的後継者なのだ」と興奮したのです。それは同時に、“中世からの解放”でもありました。それまでのヨーロッパはキリスト教会に依って抑圧され、人間の精神や自然な姿が損なわれていた。そうした神中心主義に異議を唱え、人間中心主義を掲げ、古代の精神に倣って自由を取り戻そうとした時代がルネサンスだったという訳です。そして第3に、“近代の出発点”。「自然科学や“個人”の確立等、近代的科学主義・合理主義の始まりはまさにルネサンスにある」。こう主張したのは、ミシュレやブルクハルトら19世紀の歴史家でした。つまり、近代ヨーロッパ人が自分たちの原点として『ルネサンス』を位置付けたのです。これは、謂わばヨーロッパのサクセスストーリーです。「栄光の古代ギリシャやローマにルーツを置き、宗教に縛られた暗黒の中世を経ながらも、自由で合理的な近代の扉を開く。それを成し遂げたのは、輝かしいルネサンスを経験した我らヨー ロッパ人だけなのだ」と。だから、「近代が生まれ根付いたのはヨーロッパだけで、後の世界は単にそれに追随するだけ」という理屈に繋がった面もあった。しかし、20世紀の後半、殊にこの30~40年の間に随分研究が進み、そんな単純な図式ではルネサンスという歴史事象を説明できないことがわかってきました。そこから見えてきたのは、洋の東西に跨る、時間的にも地理的にもより大規模で、且つダイナミックなルネサンス像だったのです。

先ず、古代ギリシャやローマを“発見”したのは誰か。これは早くから指摘されていたのですが、この時期、イタリアを始めとするヨーロッパ世界に、新たに古代ギリシャやローマの思想・科学等を齎したのはビザンティン帝国であり、イスラム世界でした。古代ローマ帝国が東西に分裂したのは395年。以来、トルコからバルカン半島、イタリアにかけて1453年まで存続したのが東ローマ帝国、又の名をビザンティン帝国です。実は、この帝国の中心となったのはギリシャ人でした。古代ギリシャ語のままではありませんが、ギリシャ語を使い、ヨーロッパでは埋もれてしまったようなギリシャやローマの文化がそのまま生きていたのです。殊に、9世紀半ばから10世紀前半には、戦乱期に散逸してしまった古典を復活させる運動が盛んに行われました。また、同じく9世紀には『ローマ法大全』をギリシャ語に訳し、整理した『バシリカ法典』も完成しています。つまり、イタリア等に先んじて、9世紀のビザンティンでルネサンスが起きていた訳です。また、7世紀に成立したイスラム世界でも、ギリシャやローマ等の古代地中海文化の吸収は始まっていました。哲学だけではなく、天文学・化学・物理学等は、ギリシャ語等からアラビア語に翻訳され、膨大な知のデータベースを作り上げていったのです。1453年にビザンティン帝国を倒したのは、オスマン帝国のメフメト2世ですが、彼はプトレマイオスの『地理学』やホメロスの写本等の他、へブライ語・アラビア語の文献も数多く集め、トプカピ宮殿に所蔵しています。率直に言って、当時の西方のラテン語世界と東方のアラビア語世界を比較したら、知識の量・テキストの数何れで見ても、遥かにアラビア語圏のほうが高い水準にありました。そこには、古代オリエントやインド等の文化的蓄積も含まれていました。例えば、1・2・3・4…というアラビア数字はインドで生まれ、アッバース朝の科学者であるフワーリズミーの著書に依って西方に齎されたものです。また、中世ヨーロッパでは天文学が非常に遅れていましたが、アラビア人は古代ギリシャ等の書物を基に独自の天体観測を重ね、そのデータも含め、自らの知識としていました。勿論、西方ヨーロッパでも中世にラテン語化したギリシャやローマの古典が読まれてきましたが、この時期にイスラムやビザンティンから新たな古典の知識が流れ込んできた訳です。こうして、東方世界の文化的蓄積を西方のラテン語世界が学習した――。ルネサンスを論じる時、そうした側面を見落としてはならないでしょう。




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もう1つの“ルネサンス神話”にも、新たな検討が進められています。即ち、ルネサンスは本当に“近代の始まり”と言えるのか――。実際に科学的思考・合理主義が少しずつ確立していくのは、ルネサンスよりも後、17~18世紀になってからです。実は、ルネサンス期は、近代の目で見れば迷信と言える魔術の最盛期だったのです。その典型が占星術です。彼らは、「太陽・月・星等の天体の配置は、手足等の人体の配置、更には人間社会の構造とも深く結び付いている」と考えました。だから、「天体の配置や動きを知れば、人間社会の森羅万象が解明される筈だ」というのが、占星術の基本的な発想でした。そこで重要なのは、実際に星等がどのように動いているかを知ることです。その為に、ルネサンスの人々は正確な天体観測を追求しました。実は、地動説を唱えたコペルニクス(1473~1543)や、天文物理学の祖とされるケプラー(1571~1630)といった人々も占星術師でもあったのです。錬金術も、当時は最先端の理論でした。今では、錬金術というと“価値の無い材料から黄金を作るインチキ技術”と見做されていますが、元々は錬金術の“金”とは“金属”のこと。これも、基本的な考え方は占星術と同じです。簡単に説明しますと、「この世界には万物の源である“一者”があり、そこから流れ出た“霊魂”が物質という形をとっている。だから、物質が持っている様々な性質は、世界全体の在り方と繋がっていて、そのエッセンスとなるものを抽出できれば物質を自在に操作できる」という訳です。その為には、物質の特性を全て調べ、記述・分析する必要があるというので、ルネサンスの人々は様々な実験や観察を行っていました。こうした知識の蓄積が、後に化学や物理学といった近代科学に繋がるのですが、それは飽く迄も後世の目で見た理解に過ぎません。当時の人々は、「魔術としての占星術や錬金術こそ、世界の秘密を解く最先端の技術だ」と考えていたのです。また、こうした錬金術や占星術等の魔術も、遡ってみると古代オリエントに端を発し、イスラム世界で高度に発達し完成したものでした。それがルネサンス期のヨーロッパに移入され、花開いたのです。

では、何故15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパで、ルネサンスという成果が生まれたのでしょうか? その最大の理由は、コミュニケーション革命にあったと思います。長い中世の歴史の中で東方世界とヨーロッパは、交易や十字軍に代表される激しい軍事的衝突を繰り返してきました。そこで様々な文化等の交流も行われましたが、それは非常にゆっくりとした歩みでもありました。当時の航海技術では、地中海の航行は運が良くて年1回往復できるかどうかだったのです。ところが、ルネサンスに先立つ13世紀後半から14世紀にかけて、“中世商業革命”と呼ばれる大変化が起こります。それは、航海技術の革命でもありました。先ず“竜骨船”といって、堅固な船体を持つ船が作られ、大型化が可能になります。13世紀には200トン級の船が精一杯だったのが、15世紀には1000トン近い船も建造されるようになりました。13世紀中頃からは、帆船の帆の形が変わります。メインの帆は従来通りの大きな四角形ですが、更に船尾に三角形の帆が付け加わった。四角形の帆は後ろからの風を受けて前に進むだけですが、三角帆は向きを変えることで、横風でも進むことができるようになって、航海可能な条件がぐっと広がりました。更にこの時期、羅針盤が普及します。1300年頃には、“ポルトラーノ”と呼ばれる羅針盤に対応した新型の実用海図も生まれます。こうして、地中海の航海は遥かに容易なものとなっていったのです。フィレンツェやローマ等のイタリアの都市国家で始まったルネサンスですが、ドイツやフランスといった西方ヨーロッパ全体に広がったのも、コミュニケーション技術の発達が大きい。その代表例が活版印刷で した。15世紀の中頃にドイツのマインツという町で、グーテンベルクが金属活字を使った印刷術の実用化に成功します。更に、殆ど同じ時期に版画の技術も確立する。意外なことに、この直前までヨーロッパには木版印刷の技術も無かったのです。年代が推定できる限りで現存する最古の木版印刷は、法隆寺等にある『百万塔陀羅尼』で奈良時代のものですが、抑々ヨーロッパには紙が無かった。ルネサンスの直前までは羊皮紙が中心で、その前はパピルス紙。ヨーロッパで紙が作られるのは12世紀の始め、恐らくスペインでイスラム教徒が持ち込んだのでしょう。

ともあれ、活版印刷と版画技術に依って、情報の広がる速度・空間・社会的身分が飛躍的に広がります。それまで書物と言えば、羊皮紙に全て手で筆写したものでしたから、数も希少で、貴族や教会関係の極限られた人しか目にすることはできませんでした。それが活字・版画に依って、受容できる層が一気に拡大した。活版印刷の発明から僅か50年の内に刊行された書物を“インキュナブラ(揺籃期本)”と呼びますが、3万点にも及ぶといいます。こうした変化は、芸術の受容にも影響を与えました。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』や、ミケランジェロやラファエロの壁画等を当時、何人の人が見ることができたか。『モナ・リザ』等はダ・ヴィンチ本人が隠していて、自分でフランスに運んで、死後にフランソワ1世に渡っていますから、国王他の極僅かな人しか見ていない。バチカンのシスティーナ礼拝堂でも当時、入れる人は非常に限られていた。そんな中、ラファエロは「自分の作品を版画にしていい」という許可を与えて、数百という版画が出回ります。それに依って、ラファエロの名声も広がった。ルネサンス期は、万能の天才として知られる突出した個性が咲き乱れた時代ですが、それが広く知られ伝えられたのは、コミュニケーションメディアの発達が大きい。ルネサンスとは“数多くの天才が生まれた時代”である以上に、“天才たちの情報がこれまで以上に伝わるようになった時代”と言えるでしょう。


樺山紘一(かばやま・こういち) 東京大学名誉教授・印刷博物館館長。1941年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学教授・国立西洋美術館館長等を歴任。『歴史の歴史』(千倉書房)・『ルネサンスと地中海』(中公文庫)等著書多数。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
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