【政治の現場・自民党60年】(04) ハト派の復権、道遠く

20151122 03
先月24日、広島県竹原市の美術館で行われた『没後50年 池田勇人展』開会式に出席した外務大臣の岸田文雄は、自らが率いる岸田派(宏池会)のメンバー16人らを前に、「政治において大切なものは2つと言われている。1つは政策で、もう1つは政局だ。政策を実行する為の力を持たなければならない」と挨拶した。9月の自民党総裁選では、首相の安倍晋三が無投票で再選を果たしたが、総裁任期は連続2期までの為、“ポスト安倍”レースは既に始まっている。岸田の挨拶を聞いた同派議員は、「次への意欲」と受け止めた。1957年に宏池会を創設した池田は、安倍の祖父・岸信介から政権を引き継ぎ、首相の座に就いた。安倍の出身派閥・細田派に明確な安倍後継は見当たらず、安倍を支えて“禅譲”を窺うのが岸田周辺の基本戦略だ。岸田は第2次安倍内閣の発足以来、外務大臣の座にあり、先の通常国会では政権最大の課題である安全保障関連法の成立に尽力した。総裁選でも、前総務会長の野田聖子を担ごうとした前派閥会長の古賀誠の意に反して、宏池会の結束を固めて野田を出馬断念に追い込む等、存在感を発揮した。一方で、“対米自立”“自主憲法制定”を主張した岸の流れを汲む安倍と、宏池会の“軽武装”“対米協調”路線を引き継ぐ岸田とでは、憲法観や安全保障政策といった基本路線に違いがあるのも事実だ。

先月5日、岸田は山梨県富士宮市で開いた派閥研修会で、「当面、憲法9条の改正は考えないのが私たちの立場だ」と表明し、護憲に軸足を置く“ハト派”本来のカラーを打ち出そうとした。岸田の念頭には、額賀派等の党内ハト派勢力の旗頭であることをアピールする狙いもあったようだ。だが、2日後の内閣改造で、岸田は改めて“安倍1強”を思い知らされる。第2次安倍内閣以降2~5だった岸田派の閣僚ポストが、“1”に減っていたのだ。直後の記者会見で岸田は、「(人事の)真意は首相しかわからない」と語るのが精一杯だった。岸内閣での池田は、実際には国務大臣を辞任して“反岸”を鮮明にする等、岸を大胆に揺さぶり、政権を捥ぎ取った。大平正芳は田中角栄との盟友関係を保ち、党総裁選で現職首相だった福田赳夫との激戦を制した。だが、その後の宏池会のリーダーには、党内抗争を勝ち抜くタイプが見当たらない。宮澤喜一は、最大派閥の竹下派の支えで政権の座に就いた。加藤紘一は野党と組んで、当時の首相・森喜朗の退陣を求めたが、失敗して宏池会を分裂させた。“保守本流”を自任しながら、宮澤以降、20年以上も首相を出していない。岸田の肩には、派の復興とハト派の存在回復という課題が伸し掛かっている。 《敬称略》

■清和会・宏池会の因縁
自民党は、自主憲法の制定を重視する鳩山一郎・岸信介らが率いた『日本民主党』と、経済復興を優先する吉田茂の『自由党』が合流して結成された。岸の考えは福田赳夫が創設した清和会(現在の細田派)に、吉田の自由党路線は宏池会に引き継がれた。宏池会が“ハト派”、清和会は“タカ派”と呼ばれている。宏池会は官僚出身者が多く、“公家集団”等と揶揄されることもあるが、同じ流れを汲む田中派-竹下派と連携し、清和会に対抗してきた。1978年の総裁選予備選では、田中派が党員宅に戸別訪問したり、電話で投票を依頼したりする等して大平正芳をトップに押し上げ、福田を本選挙事態に追い込んだ。


≡読売新聞 2015年11月22日付掲載≡


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