【大世界史2015】(10) 微分積分の完成(17世紀)――人口減がニュートンとライプニッツを生んだ

高校の数学で習う微分積分は、今の世の中に欠かせない。そればかりか、その威力を知れば、近代ヨーロッパの世界制覇も微分積分無しには不可能だったと思うことだろう。本誌は数学ではなく、歴史についての本だから、ここで「微分積分とは何か」を説明するのは控えよう。何に力を発揮するかと言えば、例えば、微分積分は時間と共に刻々と変化する運動を分析するのに、非常に役に立つ。人工衛星も、微分積分が無ければ打ち上げられない。扨て、この微分積分を作ったのは誰かと言えば、17世紀に生まれたニュートンとライプニッツと言われている。しかし、1人や2人の天才だけでは、微分積分のような世の中を変えてしまう理論を築くことはできない。直ぐに思いつくだけでも、次のような人々が微分積分の完成に寄与している。

アルキメデス(紀元前287~紀元前212)
ケプラー(1571~1630)
メルセンヌ(1588~1648)
カヴァリエリ(1598~1647)
ジル・ド・ロベルヴァル(1602~1675)
フェルマー(1607頃~1665)
トリチェリ(1608~1647)
パスカル(1623~1662)
バロー(1630~1677)
ニュートン(1643~1727)
ライプニッツ(1646~1716)

ご覧頂くと、人材が17世紀に集中していることがわかるだろう。何故、この時期に天才が続々と出現したのだろうか? その問いに答える為には先ず、時間を遡らなければならない。1095年1月。ウルバヌス2世はクレルモン公会議で、中世最高と言われる名演説をする。この演説は、キリスト教の聖地・エルサレムをセルジュク=トルコに奪われ、領土を脅かされたビザンティン皇帝の救援の求めに応じてなされた。聖地奪還の為の遠征を唱えたこの演説に依って、十字軍の遠征が始まる。その当時、ローマ教会は知識の中心だった。イスラムの実力を知らない訳ではなく、様々なルートで情報を集めていた。例えば、イスラムの大学にアラビア人に変装した僧を潜り込ませ、その講義録を持ち返らせていた。しかし、その情報はローマ教皇庁から外に出されることはなかった。キリスト教信者たちがそれを知れば、ローマ教会の権威が揺らいでしまうからだ。

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だから、ヨーロッパのキリスト教世界に住む人々は、「ローマカトリックが最高の宗教であり、この世に救済と幸福を齎す」と信じた。しかし、200年に亘って幾度もなされた十字軍の遠征に依って、その信仰は揺らいでいった。十字軍に参加した王・諸侯・無名の戦士たちが、イスラム世界と出合ったからだ。敵となったイスラムの軍隊は統率が取れ、よく訓練されていた。武器も、自分たちが持っていたものより優れていた。ヨーロッパに勝るとも劣らない美しい建築や芸術もあった。それは、立っていた地面が揺れるような体験だった。感受性が鋭く、知性を備えた人々は、「ローマ教会がこれまで言ってきたことは可笑しい」と気が付いた。中には、キリスト教を棄てる人まで現れた。ヨーロッパの人々の心に、ローマ教会やキリスト教への疑念が生まれた。「神が創造した自然の摂理は、聖職者からしか学んではいけないのか?」「直接、神や自然と対話してはいけないのか?」「それを禁じることこそ、神に背くことではないのか?」――この疑念の種は軈て、“近代科学”という花を咲かせる。既にある教義に依って自然を解釈するのではなく、自然を注意深く観察し、その内に隠されている法則を発見することこそが自然科学の営みだからである。また、十字軍遠征に依って、ヨーロッパ世界は「イスラム世界から学ぶべきものは多い」と悟った。アリストテレスやユークリッド等、古代ギリシアの哲学や数学、イスラムの科学や技芸についてのアラビア語文献が大量に翻訳され、ヨーロッパの知的水準を高めていった。このような動きは、“12世紀ルネサンス”と呼ばれることもある。科学史を考える上で特に注目すべき地域はフランス南西部、ワインで有名なボルドーがあるガスコーニュ地方である。この地方からは、多くの人々が十字軍に参加した。近代哲学の祖と言われるデカルトや、『最終定理』で有名な数学者のフェルマー等、ガスコーニュ地方から影響を受け易い地方が天才を数多く輩出したのは、そこに源があるのではないだろうか。イスラムとの出合いから、近代科学の成果の1つである微分積分が生み出されるまでには、凡そ500年がかかった。しかし、その衝撃は間違いなく、微分積分の土台の一部になっている。




微分積分が完成に向かう17世紀のヨーロッパは、混乱と荒廃の極みにあり、嘗てない不安に覆われていた。それを齎したのは、飢饉と戦争と疫病だった。この時代のヨーロッパは、“小氷期”と言われる14世紀半ばから19世紀半ばまで続く寒冷期にあり、平均気温が低下していた。1645年から1715年は“マウンダー極小期”と言われ、太陽の黒点活動が極めて低調な時期だった。これが、17世紀の寒冷期の遠因とも考えられている。元々、ヨーロッパの土地は肥沃ではない。当時の農業技術を考えれば、平均気温が少し下がっただけで収穫量が減少したことは想像に難くない。凶作は当然、飢饉に直結した。また、16世紀から始まったローマカトリックとプロテスタントに依る宗教戦争は、17世紀に入っても収束せず、フランスでは『ユグノー戦争』(1562~1598)、ドイツでは『30年戦争』(1618~1648)という2つの大きな戦争が起き、ヨーロッパに深い傷跡を残した。そして、疫病も多くの命を奪った。ヨーロッパの人口の3分の1から3分の2が犠牲となった14世紀のペスト大流行が有名だが、17世紀も各地でペストが頻発した。地域に依って減少率は異なるが、飢饉・戦争・疫病に依って、ヨーロッパ各地で深刻な人口減少が引き起こされた。30年戦争を経て、ドイツの人口は約1600万人から1000万人と、約4割も減ったと言われている。全体で見ても、17世紀のヨーロッパの人口は停滞若しくは減少していた。このような厳しい状況の到来に依って、ヨーロッパでは社会不安が高まり、戦争・飢饉・疫病を解決する新しい知恵が求められていた。30年戦争を終結させた近代国際法の祖と言われる『ウェストファリア条約』は、その1つである。

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「人間が生きるか死ぬかに関わる社会現象を、人間自身が何とか解決しなければならない」という自覚が生まれた時、天才が目覚める。社会が彼らを必要とするのである。16~17世紀のヨーロッパには、神に祈るだけでは解決できない現実があった。“12世紀ルネサンス”に依って、ヨーロッパ各地で芽生え、育ちつつあった合理的で科学的な精神が、急速に深まる時が訪れた。具体的には、ローマ教会の聖職者に神との対話を独占させず、神が創造した自然と直接、対話をすることが始められ、自然に隠された秩序や法則を発見し、理解しようとする限りない探究が進められていった。16~17世紀の数学者・物理学者は、敬虔なキリスト教徒である。その代表例はケプラーである。彼は、ティコ・ブラーエに依る火星の精密な観測結果を精査した。しかし、ケプラーは自分の得た結果にどうしても納得がいかなかった。地球や火星の公転軌道は真円ではなく、楕円だったからだ。「神よ、何故真円を使わなかったのですか?」と、ケプラーは神に間い尋ねたかったに違いない。しかし、ケプラーは目の前の現実を説明できない、既成のキリスト教の論理に盲従しなかった。惑星の楕円軌道を受け容れ、「何故、そうなるか?」を考えた。そして、惑星の公転速度や周期についての法則を発見した。地動説を唱えたことで有名なコペルニクスは天才修道士だったが、惑星の公転軌道が楕円であることは発見できず、真円で考えていた。コペルニクスは、ケプラーほどの精度で惑星の軌道を観測できなかったからである。このことは、目の前の現実を精緻に観察することが、科学にとって如何に重要かを物語っている。ローマ教会は、地動説を唱えたガリレオを異端審問にかけたことから、科学的精神の敵のように思われているが、実は科学の研究をかなり進めていた。神が創った自然を恣意的に解釈し、理解するのではなく、現実にしっかり向き合い、誰もが納得する形で現実を説明することが求められていたからだ。その最大の原因は改暦である。

ローマ教会は、325年の第1ニカイア公会議で、春分をユリウス暦のカレンダーで3月21日と決定してしまった。昼と夜の長さが同じになる春分は天体現象だから、ユリウス暦が如何に優れた暦でも、1000年以上経てばずれてしまう。春分を基準にして、キリスト教で最も重要な祭日である『復活祭』は決められる。しかし、16世紀後半には、ユリウス暦の3月21日は本当の春分日と10日ものずれが生じていた。このことが周知の事実となってしまったら、ローマ教会の威信は失われてしまう。正確な暦を作れることが、教会の権威を支えていたからだ。暦は、キリスト教の儀式を執り行う日を定めていただけではない。正確な暦に依って種を蒔かなければ、農作物の収穫量が減ってしまう。また、この暦のずれは当時、ヨーロッパに勝る科学力を持っていたイスラム世界からも笑いものにされてしまった。そこで、プロテスタントへの対抗策と、ローマ教会の改革を主要な議題とした『トリエント公会議』(1545~1563)において、ローマ教皇のパウルス3世に暦法改正が委託され、改暦委員会が発足した。その時のメンバーには、イエズス会の数学者であるクラヴィウスも加わっていた。クラヴィウスは、“16世紀のユークリッド”と言われるほどの数学者だった。改暦は、そのような優れた人材を結集させて進められ、1582年、グレゴリウス13世が新しい暦法を制定した。これこそが『グレゴリオ暦』として、日本だけでなく世界中で使われている太陽暦である。今も使える暦法を作れたことは、ローマ教会の優れた科学力を示している。

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「真円だと思い込んでいた公転軌道が、楕円だった」「正しい筈の暦が間違っていた」「理論と現実を対照した時、理論のほうが誤っていた」――このような問題が相次いで浮上した時、「最早、ローマ教会の内部だけでは科学的な問題を解決できないのではないか?」「ローマ教会の外にいる人材も集めて教育を施し、優れた科学者を育てなければならないのではないか?」と考える人々が現れても不思議ではない。恐らく、そのような危機感から、1534年に創立されたイエズス会は、フランスやイタリアに学校を創立した。そこでは、貧しい家庭の子供でも、素質があれば勉強をすることができた。そこで育ったのがメルセンヌ、デカルト、トリチェリである。メルセンヌは、当時の天才たちの手紙を興味を持ちそうな人々に回覧して、自分のサロンを形成していった。当時の手紙は今で言えば科学雑誌のようなもので、研究の成果を発表する媒体だった。メルセンヌのサロンは、『フランス科学アカデミー』の母体となった。 ローマ教会も、科学の教育に力を注いだ。それは、ローマ教会がイタリア各地に持っていた大学で行われた。ローマ教会の内部から生まれた優秀な研究者・教育者に、カステリ神父(1578~1643)がいる。彼はガリレオの弟子で、ローマ教会の運営する大学に派遣され、講義をしていた。実は、ガリレオと教皇のパウルス5世はかなり親密だった。カステリ神父は、カヴァリエリとトリチェリという優れた弟子を育てた。カヴァリエリは、現代の高校数学の教科書にも出て来る積分の面積公式『カヴァリエリの定理』に名を残している。トリチェリは、カステリ神父の推薦でガリレオの助手となった。トリチェリはガリレオの『新科学対話』の第3章を手伝い、そこで扱われている落体の放物線運動についての記述を整理した。その過程で、トリチェリは微分と積分が逆の計算であることに気付く。この発見の重要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。この発見に依って、それまで非常に難しかった積分の計算が、天才でなくてもできるものになっていったからだ。トリチェリからバトンを渡されたニュートンやライプニッツが、その方法を確立させた。微分積分の発展に大きく貢献した2人は、ローマ教会が育てていたことになる。

「神の創造物についての研究は、聖職者しかできない」とするローマ教会の中に、天才を育てる仕組みができていたことに、17世紀ヨーロッパの危機感が如実に現れている。人間は、直面した問題を自分自身で解決しようとする努力ができる内は滅びない。マヤ文明のように、「生贄を捧げれば問題が解決する」と思い始めると、滅亡への道を歩む。微分積分は、運動を解析するのに役立っただけではない。ペストのような疫病の感染がどのように広がるのかを予測し、流行を予防するのに直ぐに応用された。「天才が必要だ」という社会の要請と、「その成果を直ぐに活用しなければ、立ち行かなくなる」という切迫感が、その後のヨーロッパの繁栄を築いた。10人に1人が微分積分を使える国と、100人に1人しか微分積分を使えない国では、問題解決能力・武器の性能・科学力に格段の差がつくのは、火を見るよりも明らかだ。「自分たちの力で解決しよう」とする意志が天才を育てる。「誰かがやってくれるだろう」では、天才がいても育たない。天才は、いつの時代でも存在している。その力を育てるのは、その時代の人々の意志である。今の日本にそれがあるだろうか?


柳谷晃(やなぎや・あきら) 作家・数学者。1953年、東京都生まれ。早稲田大学高等学院数学科教諭。早稲田大学大学院理工学研究科博士課程修了。『世の中の罠を見抜く数学』(セブン&アイ出版)・『ぼくらは“数学”のおかげで生きている』(実務教育出版)等著書多数。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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