【大世界史2015】(13) ナポレオンが皇帝に即位(1804年)――ナポレオンは何故強かったのか?

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ナポレオン率いるフランス大陸軍(グラン・ダルメ)は何故、あんなに強かったのか? 或いは、ナポレオン帝国はなぜあれほどに広大なものとなり得たのか?――その謎は、多くの歴史家の興味を刺激したらしく、これまでに様々な仮説が披露されてきた。それらを纏めると、大きく2つの説に分かれる。1つは、ナポレオンの軍事的天才を強調する“帝政史観的”なタイプで、ナポレオンが編み出した砲兵中心の中央突破戦術、戦力集中に依る各個撃破戦術が戦場の勝利を決定したとするもの。軍事オタクには、これを支持する者が多い。もう1つは、フランス大陸軍を構成した兵士の質に注目する“共和国史観”タイプで、志願兵と徴集兵は国民国家(ネイションステイツ)の申し子で愛国心に燃えていた為、ナショナリズムの点で他国を圧倒していたとするもの。勿論、折衷タイプも存在し、ナポレオン戦役直近の分析者であるクラウゼヴィッツは、「ナポレオンの軍事的天才が、大陸軍に漲るナショナリズムを巧く利用した」と考えている。ただ、其々立場の違いはあるものの、何れも大革命に依る断絶を強調している点では一致している。 これに対し近年、優勢になりつつあるのが、アンシャンレジームとの“連続性”を重視する見方である。例えば、ウイリアム・H・マクニールは『戦争の世界史』(翻訳は高橋均・刀水書房)で、「ナポレオン軍の勝利は、フランスが7年戦争(1756-1763)でプロイセンに敗れたことに遠因がある」とし、「プロイセンに大敗した原因を分析したフランス陸軍は、フランス革命勃発までの26年の間に、ピエール・ブルーセ将軍の指導の下、構造的な改革を成し遂げており、全く別の軍隊になっていた」として、その分析と対策を大きく4つに分けている。

①指揮・命令・軍政系統
従来、戦場を見下ろす高地から、将軍が望遠鏡で敵味方の配置を観察しながら、副官たちを使って命令を伝達したり、戦況報告を受けていた。しかし、会戦が兵員5万人を超える規模となると、全体の把握が困難になり、戦況が掴めなくなってしまった。また、伝令との口頭コミュニケーションも戦場の轟音に妨げられて不可能となった。この反省から生まれたのが参謀本部システムで、特殊な訓練を受けた参謀たちが精確な地図を見ながら作戦を立て、命令を文書に依って下達させる方法が取られるようになる。その為、フランス陸軍では1750年から、参謀本部での使用に耐え得るような精確な地図が作成されたが、この時に大きな貢献をしたのが、1777年にフランス軍工兵中尉のムニエが提案した“等高線”である。これに依り、戦場での高低差が精確に把握できるようになり、参謀本部の作戦もより緻密なものになったからである。同時に、伝令将校に対しても、口頭ではなく必ず書面を用いて命令を伝えることが義務付けられ、地図読解と命令伝達システムを訓練する為の参謀教育学校も設けられた。ナポレオンの伝令書が古文書として大量に残っているのは、この為である。しかし、指揮・命令・軍政系統の改革の中で最大のものは、“師団”の発明であった。師団とは、歩兵・騎兵・砲兵の主力“3兵”に工兵・衛生兵・通信兵等の支援要員等を加えた総合的な戦闘ユニットで、上限は1万2000人とされ、全体を師団長の将軍が指揮した。この師団の発明が画期的だったのは、単一師団でも連合師団でも、敵軍と遭遇次第直ちに戦闘が開始できるように工夫されていることで、予定の戦場に向かって各師団が別のルートで進撃する場合にも、途中で戦端を開くことが可能になったのである。「地図の作製、特殊技能を身につけた参謀将校、事前に用意された書面による命令、師団単位の編成原理、これら4つの要素を備えたフランス陸軍は、すでに革命前夜の1788年時点で、野戦軍の実効的規模についてのそれまでの上限をとびこえるための十分な準備ができていたのである。そうでなかったならば、1793年の国民総動員(ルヴェ・アン・マス)は空振りにおわったであろう。すなわち、ただ数でまさるばかりで戦場での実効的な統制を欠いていたならば、革命軍は実際にかちとったような勝利をおさめることは不可能だったであろう」(ウィリアム・H・マクニール、前掲書:以下、引用は同書)




②戦術マニュアルの柔軟化
主としてドイツが戦場となった7年戦争では、フリードリッヒ大王の好む横隊戦術が大きな戦果を挙げた為、ヨーロッパでは以後、これが主流となったが、実証主義が取り入れられたフランス陸軍では、野外演習テストの結果、横隊戦術は三圃農業の為の開放耕地(オープンフィールド)が多いドイツ領内でこそ威力を発揮するものの、耕地の囲い込みが行われたフランスでは不適切と判定された。その結果、横隊の他に縦隊・散兵の何れかを、状況に応じて採用するフレキシビリティーを持たせた戦術が採用されたのである。これが、ナポレオン軍の快進撃を支えることとなる。

③戦争に不可欠な輜重(補給)の進化
19世紀までの戦争で最重要課題だったのは、「食糧と飼い葉を軍団に遅れずにどうやって運ぶか?」という問題だったが、フランスでは1764年以後、ピエール・トレザゲという技師の考案した三層砕石舗装道路が採用され、更に、財務総監であるチュルゴーの改革で“チュルゴチーヌ”という快速乗合馬車が登場したことから、これを運行させる為の全国道路網が整備された。これが、輜重(補給)に大きなプラス材料となったのである。但し、フランス以外の戦場では道路網が整備されていないので、補給は現地調達が主流だったが、ナポレオン軍の進撃においては、これが謂わば“略奪の許可”となり、将兵の征服意欲を掻き立てることになる。

④大砲の改良
18世紀後半のフランス陸軍改革で、ナポレオン戦術に最大の恩恵を齎したのは、何と言っても大砲の改良だろう。それまでの大砲は殆どが青銅で、鋳型の中央に砲腔を決める中子を差し込み、その隙間に溶かした青銅を注ぎ込むという方法で作られていたのだが、この中子を精確に円の中心に持ってくるのは容易なことではなかった。その為、弾道は定まらず、大砲1門1門に腕のあったベテラン砲兵でも扱いは難しかったのである。おまけに、青銅砲は非常に重かったから、野戦砲として戦場に運んでいくには多大な困難が伴った。18世紀の中頃まで、要塞の攻防用の据え付け型か、或いは軍艦の艦載砲だけしか大砲が使われなかったのは、この為である。この傾向を一変させたのが、スイスの大砲鋳造業者で技師でもあったジャン・マリッツである。マリッツは、中子差し込みで鋳造するよりも、金属塊を鋳造した後から砲腔を刳り抜く大砲穿孔機を発明したが、これに依り、大砲の精度が格段に向上したのである。砲腔が規格化されているので“癖”が無く、弾道も一定している。また、砲腔と砲弾の隙間を少なくして“あそび”を減らした結果、これまでよりも少ない装薬で、砲弾をより遠くに飛ばすことができるようになる。また、装薬が少ないので、砲身を細く短くできる。つまり、大砲穿孔機の発明に依り、初めて野戦砲というものが戦場に登場し、砲兵戦術そのものを変えたのである。

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この野戦砲の改良に与かって力あったのが、フランス陸軍の砲兵技師であるジャン=バチスト・ヴァケット・ド・グリボーヴァルだった。「グリボーヴァルは、砲身の仰角を正確に定めるためのねじ式装置と、照準器の位置を動かせるようにした新しい照準装置を採用したので、大砲を発射する前に、砲弾がどこに落ちるかが正確に予測できるようになった。さらにそれに加えて、砲弾と火薬をひとつのパッケージに組み合わせたので、それまでのように火薬と砲弾を順々に砲口から押し込まなければならない場合に比べて、発射速度がほぼ倍になった。最後に、グリボーヴァルはいろいろな標的にうちこむための別種の砲弾を開発した」。グリボーヴァルは更に、砲兵というものを完全なプロフェッショナルとする為に、整備から発射準備までの過程をマニュアル化した上で、砲兵将校育成の為の専門士官学校を設立し、マニュアルを数学的合理性に基づいて生徒たちに叩き込んだ。ここまで言えば、ナポレオンの軍事的天才なる神話が、フランス陸軍が行ってきた構造改革というレールの上を走る高速列車だったことが理解されるだろう。即ち、ヴァランス駐屯砲兵連隊に士官候補生として着任したナポレオン・ボナパルトは、連隊付属の砲兵学校でグリボーヴァルが編纂した砲兵マニュアルで学び、全く新しい砲兵戦術を身につけたのである。以上で、ナポレオンの軍事的天才を強調する“帝政史観”が、アンシャンレジームとの連続性の観点の導入でかなり相対化されたかと思うが、では、もう一方のナショナリズムを特権化する“共和国史観”はどうだろう? 実は、これもまたアンシャンレジームからの連続性の観点で、同じように相対化され得るのである。

先ず、近年有力になりつつある人口統計学の教えるところでは、革命や暴動といった大きな社会変動は全てこれ人口増加圧力、とりわけ30歳以下の若年人口の急激な増大(ユース・バルジ現象)に依るものとされるが、これを大革命期のフランスに当て嵌めてみると、明らかにユース・バルジ現象が確認される。おまけに、これらのユース・バルジ世代は、18世紀後半から向上してきた識字率の上昇にジャストフィットする世代であった為、読み書きを知らない父親世代とは断絶を示していた。これに、貨幣経済の浸透と都市化という要因が加わるから、人口移動は容易になり、都市がユース・バルジ世代に依って膨れ上がるという社会状況が出現した。しかも、これらの都市新住民の多くは低賃金労働者や失業者となって社会の底辺に組み込まれ、不平不満を溜め込んでいったのである。これが大革命の間接的原因だが、この同じ原因がフランス陸軍の内部でも観察されていた。というのも、ユース・バルジ現象の為、職を求めて陸軍に入隊する兵士・下士官が増えたが、1781年の陸軍省令に依り、「将校となるには貴族でなければならない」とされ、下士官たちは将校へ昇進する道を閉ざされていたからである。その一方で、先述のような文書に依る命令下達の徹底で、下士官にも読み書き能力が求められるようになった結果、革命が軍隊内にも伝わるや否や革命派下士官が誕生し、軈て彼らが多数派となるに及んで、貴族出身の将校たちは亡命の道を歩まざるを得なくなったのである。では、貴族出身将校の脱落でフランス陸軍が弱体化したかと言えば、そうはならなかった。空隙はベテランの職業軍人である下士官たちが埋めたが、1792年に始まった祖国防衛戦争で若い志願兵(義勇兵)や徴集兵が入隊してくると、これら下士官上がりの将校たちは、彼らに手際よく旧陸軍のマニュアルを教え、短期間で一人前の兵士に仕立てたからである。一言で言うと、ここでも7年戦争以後に陸軍に導入された改革が実を結び、王国陸軍は直ちに共和国陸軍へと転換されたのである。革命の情熱とナショナリズムに燃える兵士が強かったのではなく、アンシャンレジームに準備された兵隊作りシステムが巧く作動して、革命の軍隊を速成することに成功したのである。

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「公平に見るならば、この合体した新軍隊において優勢であったのは旧正規軍であった。旧正規軍の方が義勇軍より兵員の数が多かったせいではなく、実際にこの新軍隊の新兵たちが実戦経験を経てみると、旧軍隊の体験知が現場において実用的であったのに対し、革命の平等主義的理想が実際の役にたつ形で表現される機会はほとんどなかったからである」というように、近年の歴史研究は我々が抱いている“ナポレオンの夢”“革命の夢”を壊す方向にしか向かっていないが、では、ナポレオンが存在しなくても、他の軍事的才能――例えば、カルノー程度の戦略思考があればあの大帝国を築けたかと言えば、決してそんなことはないのである。ナポレオンはやはり、他に置き換えの利かない大英雄だったのだ。では一体、ナポレオンのどこが卓越していたのだろうか? 多くの伝記作者が指摘しているのは、ナポレオンの圧倒的カリスマ性である。ナポレオンは、陰では“チビの伍長(プチ・カポラル)”と渾名されるほど小柄で冴えない外見だったが、一度口を開くと、居並ぶ歴戦の猛将たちが猛獣使いを前にしたライオンのように平伏したと言われている。兎に角、物凄いオーラが放たれていたのだ。然らば、そのオーラの正体とは何だろう? それは、ナポレオンの本名がイタリア風のナポレオーネ・ブオナパルテだったことからも明らかなように、旧ジェノヴァ領コルシカ島の出身だったことに求められる。だが、何故にコルシカ出身であることが、ナポレオンのオーラを生み出していたのか? それは、ナポレオンの登場から粗半世紀後に日本に現れた“強烈オーラの人”西郷隆盛と重ね合わせると、わかり易いかもしれない。思うに、西郷隆盛の内に強いオーラを同時代人が感じたのは、彼らが丸山眞男の言う“日本の古層”――即ち、弥生系の渡来人に抑圧されて消えた筈の縄文系の原日本人の蘇りのようなものを、西郷に見て取ったからに他ならない。謂わば、幕末の志士たちは、集団的無意識の核のような部分を強く刺激されたのである。

ナポレオンの中にも、この“古層”が確実に存在していたのだ。それは、ヨーロッパの超辺境であるコルシカに奇跡的に保存されていた“古代ローマ人”という“古層”に他ならない。謂わば、ナポレオンは、西郷隆盛が“原日本人”であったのと同じように、“原ローマ人”であったのだ。この“コルシカ人=原ローマ人説”は、コルシカに旅してみれば大いに納得がいく。コルシカ人は皆、ナポレオンのような顔をしているのだ。そして、彫りの深いコルシカ人のイメージを辿っていくと、それは古代ローマの神々や英雄たちの彫像に行き着く。恐らく、古代ローマ人とコルシカ人をDNAで調べれば、その相同性は更に明らかになるだろう。これは、人類学や歴史言語学、更には柳田民俗学の言う「同心円の外側により古いものが残る」という定理にも一致している。また、「ヨーロッパ人がナポレオンの中に“原ローマ人”を見た」という説は、近年の家族人類学からも説明できる。コルシカの家族類型は、あまり記録が残っていないので正確なことは言えないが、ナポレオン一族のパターンから類推する限りでは、“外婚制共同体家族”である。これは、親子関係が権威的(複数の成人男子と親が同居)で兄弟間平等(均等遺産相続)のタイプで嫁を一族の外から娶ることから、“外婚制”という限定が加わる。因みに、嫁を一族の内部から娶るタイプは“内婚制共同体家族”と呼ばれ、イスラム圏や南インドがそれである。外婚制共同体家族はロシア・東ヨーロッパ・中国に広く見られるが、西ヨーロッパではフランス中央山塊・地中海沿岸部・イタリアのトスカーナ地方等に僅かに存在するだけの少数派の家族類型である。しかし、古代においてはローマ帝国がこの家族類型だった為、西・南ヨーロッパに広く分布していたのだ。コルシカは大陸の影響を受け難い島国なので、ヨーロッパ中心部でこの家族類型が消えた後も長く保存されたのだろう。因みに、フランスはどうかというと、パリ盆地が平等主義核家族(成人した男子と親は別居。故に親子関係は自由主義的。兄弟関係は均等相続の為、平等)で、北フランスと南フランスが直系家族(成人した長男と親は同居。故に親子関係は権威主義的。兄弟関係は長子相続の為、不平等。因みに、ドイツ・スウェーデン・日本・韓国がこの類型)というように、ローマ型の外婚制共同体家族は少数派である。

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だが、何故にナポレオンがコルシカの外婚制共同体家族出身だったことが、あのヨーロッパ大征服を可能にしたのだろうか? 家族類型は集団的無意識に投影され、集団が作り出す擬制にそのまま持ち込まれるからである。つまり、平等主義核家族は共和政を、直系家族は古代には王政を(近代においてはファシズムと社会民主主義を)生むことが多いのに対し、外婚制共同体家族は帝国原理(近代では共産主義)を生む。ナポレオンは、共和政原理と王政原理しかない18世紀末の時代に突然現れて、古代ローマ人の現代的蘇りとして、帝国原理を強制したのだ。換言すると、ナポレオンは蕃地・ガリアを征服したカエサルのように、フランス人という“蛮族”を文明人“ローマ人”として簡単に屈服させ、当然のように皇帝となったのである。事実、ナポレオンは自らを“カエサルの生まれ変わり”と固く信じ、エジプト征服を試みたのを皮切りに、フランス統一後は風俗習慣・建築・美術を古代ローマ様式(これが帝政古典主義)に統一したし、ヨーロッパ征服後はローマ帝国の再興を目論んだのである。その結果、本来は平等主義核家族の共和政か、或いは直系家族の王政に慣れていた筈のフランス人は、恰も“見たことを忘れてしまっていた夢”の中に再び投げ込まれたように、突如として“ローマ人”となったのだ。時代が変換期にある時に、人々は民族の“古層”から出現する超人にカリスマを見てしまうことが少なくない。ヒトラー然り、スターリン然り、毛沢東然り。果たして、21世紀の“古層”は誰に依って体現されるのだろうか?


鹿島茂(かしま・しげる) フランス文学者・明治大学国際日本学部教授。1949年、神奈川県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。『馬車が買いたい!』(白水社)・『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』(講談社学術文庫)等著書多数。


キャプチャ  2015年夏号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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