【思想としての朝鮮籍】第2部・朴鐘鳴(下) 生皮を剥ぐ痛み

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阪神教育闘争から67年目の2005年4月22日、当時のデモコースを朴鐘鳴と歩いた。大手前交差点から上町筋を南進すると、右手に大阪府庁が見えてくる。左側に広がる緑地では、木々の合間から降り注ぐ日差しの中で女性がベビーカーを押し、若い男女が木陰で憩う。朴は笑みを浮かべて言った。「皆さん、のんびりされていますねぇ」。1948年4月23日、付近は学校閉鎖令撤回を求める朝鮮人らで埋め尽くされた。“あの時”の光景が脳裏に蘇ったのか、暫し沈黙し、朴は呟いた。「忌々しい記憶ですねぇ…」。昼からの交渉は、夕刻で一方的に打ち切られた。副知事は庁舎から逃げ出し、府庁と周辺には抗議者ばかりが残った。一方で、官憲が排除に乗り出す。武装した警察官が上町筋の南北に集まり、デモ隊を挟み、押し込んでいく。たまらず誰かが警察官に詰め寄ると、彼らは胸の高さで水平に構えた警棒を顔目がけて突き出した。シュプレヒコールと怒号が飛び交い、あちこちで武装警察官との採み合いが起きた。留まる同胞に朝連幹部が訴えた。「子供の為に皆、静かに撤収せよ。一旦引き揚げた後、改めて交渉しよう」。多くは府庁前を離れたが、拒む者もいた。最後の一群が解散したのは午後10時過ぎ。デモ参加者179名が騒擾罪で逮捕され、負傷者は、病院に運ばれただけでも16名に達した。警察官側も30人以上が怪我をしたという。「朝鮮人を朝鮮人として育てる権利を求めただけなのに…暴徒として鎮圧される。指導者は、痛恨の思いで解散を指示したと思いますよ…」。その3日後、26日の交渉ではデモ隊に消防車が放水し、警察官の水平射撃で16歳の少年が射殺された。当時の体験は、今も時折夢に見る。「ちょっと調子の悪い時とかにね。相当魘されているみたいで、女房に起こされるんです」。奪われた民族性を取り返す――換言すれば脱植民地主義・反レイシズムの文脈で生まれた朝鮮人学校への弾圧は、“戦後”日本における朝鮮人差別の再編だった。この流れは、今日の朝鮮学校の高校無償化排除へと通じる。尊厳を求める闘いを“暴動”の2文字に落とし込み、その“想い”を隠蔽したのはメディアだった。「朝鮮人暴徒」「共産党の扇動」「日本の法律に従え」…。占領軍見解に依拠した見出しの数々は、出来事の“過激さ”ばかりを印象付けていく。まるで、9.11の後に“テロ”の言葉で、ブッシュ大統領の言う“我々の側”に身を置き、抑圧される者たちの“真実”を隠蔽したように。朝日新聞は号外で“非常事態”を煽り立て、読売新聞は『朝鮮人諸君に反省を望む』との社説を掲載した。広範な反対運動でこの時の弾圧は凌いだが、翌1949年9月、朝連が団体等規制令で強制解散させられ、朝鮮人学校は粗全て閉鎖に追い込まれた。

大きな挫折だったが、直ぐに小さな運動体が動き始め、軈てそれらは連合体となった。『在日朝鮮統一民主戦線(民戦)』である。朝鮮半島では、南北対立が遂に戦火へと至り、在日朝鮮人への監視・管理はより苛烈になった。この頃、朴は逮捕された。朝鮮戦争に反対するビラ配布が占領政策違反に問われたのだ。取調室に入ると、机の向こうに係官が座っていた。その右手には通訳がいる。「占領政策違反を認めろ!」。居丈高に怒鳴る係官に、朴は声を荒らげた。「平和憲法のある日本から爆撃機が朝鮮に行くのは矛盾と言っているだけ。占領政策が悪いとは言っていない!」。押し問答が続くと、係官は立ち上がり、唐突に部屋を出て行った。2人のアメリカ兵が替わりに入室した。「『四つん這いになれ!』と命令される訳です。こちらも『犬じゃあるまいし!』と拒絶する。そうすると、1人が私を小脇に抱き抱えるように押さえつけてね、四つん這いの状態です」。もう1人が背後に回り、軍靴の爪先で朴の肛門を蹴り始めた。蹴られる度に突き抜けるような激痛が走り、全身が痺れる。血が流れ出すのがわかった。気が付くとベッドの上だった。「真っ白なベッドです。尻の傷も治療されている。横には、血だらけだった筈の私の衣服が洗濯済みになっていた」。1週間もすると傷は塞がる。そうすると、また同じ係官に呼び出される。取り調べではない。“占領政策違反”の罪状を認めるか否か。拒めば、また蹴りを入れられた。「3~4回は繰り返されました」。今でも立って講演をすると、1時間半もすれば腸が肛門から飛び出してくる。「物凄く痛いんですねぇ。講演終わると、トイレに入って収めんとあかんのです」。拷問だけではない。再三に亘って言われたのは、韓国への強制送還である。「あの頃は“強制送還”が脅し文句でした。当時の韓国に戻されるのは、事実上の死刑でした」。実際、それで“転向”した者もいた。飽く迄も拒んだ朴を待っていたのは軍事裁判だった。弁護士もついたが、軍事裁判で“被告”の権利など皆無に等しい。判決は占領政策違反で、重労働1年だった。といっても、実際は何も課されず、1日凡そ30分の運動以外は独房に閉じ込められる“監禁刑”である。




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「しょうもない体験でした。でもね、学びは多かったですよ」。2畳半の独房で読書に没頭した。聖書・哲学書・歴史書…。心を震わせたのは、ナチ占領下のフランスで命を賭して闘ったレジスタンスたちの姿だった。「捕まれば死刑、強制収容所。家族にも難が及ぶ。その中でも抵抗を続ける。私なりに言えば、“信念”とは整合的論理に支えられた強靭な自己主張です。何故そう言えるかについて論理的な整合性を持ち、人間が尊厳性あるものならばこうあるべきだと強くアピールする。それが信念なんだと。私はそこまで言えるかわからないけど、その生き方に近付くくらいはできるんじゃないかと思った」。政治犯たちに見たのも“信念”だった。「1日数枚支給されるトイレ用の紙を取っておいてですね、それに細かい文字でびっしりニュースを書いて、“刑務所支部ニュース”を作って情報を回す。やはりね、強い意志に支えられながら、あることを実現する方法論を丁寧に考えるならば、制約性は沢山あっても一定部分は実現できるんだなって」。約1年後、刑務所の門を出た。迎えの兄と一緒に帰宅すると、待っていた母が朴を抱きしめ、涙で声を詰まらせながら言った。「…無事で良かった」。韓国への強制送還もあり得た。永の別れをも覚悟した息子との再会だった。「母の涙は、不良から足を洗って以来でした。母を泣かせたのは、あれが最後です」。直ぐに運動の第一線に復帰した。『日本共産党』は武装闘争を打ち出し、その最前線を朝鮮人が担っていた。「私、後悔はしていません。でも、歴史的な目で見ればね、あまり意味のあることだったとは思えないですね。暗い時代でした」。朴が語ったのは、1952年6月の『枚方事件』だ。『小松製作所』に払い下げられる予定だった旧大阪砲兵工廠の枚方製造所で、アメリカ軍向け砲弾の製造再開が目論まれていたことへの抗議行動だ。現在の枚方公園近くで反対集会が企画されたが、それは表向き。集会とその後のデモに官憲を誘き寄せ、工場に忍び込んだ行動隊が砲弾製造ポンプを爆破する。極一部だけが知る“真の目的”だった。朴は計画を知らなかったが、支部青年の動員要請に来た活動家に不穏な空気を察し、青年たちに徹底していたという。「『絶対にシュプレヒコール以外はしない。よもや、火炎瓶等を投げてはいけない』と」

計画も杜撰だった。何故か、集会の前日に行動隊が工場に侵入(当局に計画が漏れたので強行したとの説がある)。爆弾2発を仕掛けたが、メーターのガラス1枚を割っただけ。もう1発は不発だった。デモでは、払下げに関わった地元有力者宅にデモ隊の誰かが火炎瓶を投げてボヤとなり、刑事事件化。計98人が逮捕され、65人が起訴された。この時期の“騒擾事件”で入獄した朝鮮人の中には、韓国籍に切り替えて出獄した者も少なくなかった。強制送還回避の為の“転向”だったが、公判記録を検証した朴は怒りを露わにする。「言わなくてもいいことまで喋り散らし、全く無関係だった10代の少年・少女が逮捕されるような供述をした人物もいた。そんな馬鹿が殆どだった」。朴は、「戦中から今に至るまで、政策的に一貫しているのは日本共産党ですよ」と前置きしてから言った。「でも、一番危険なとこ、一番大変なとこは朝鮮人が担当しましたね。何か不文律みたいに。日本人は後方で指示するの。私たちは、顔のない数に過ぎなかった。植民地時代から変わらないですね。例えば、中野重治を見て下さい」。中野の詩『雨の降る品川駅』のことだ。“祖国”に帰る辛や金・李に呼びかけた別れの詩は、次の言葉で結ばれる。

日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾
さようなら
報復の歓喜に泣きわらう日まで

「中野重治ほど感性豊かな人でさえ、詩での朝鮮人党員へのこのような呼びかけは何だろうと思うのです。彼は、私の中では日本共産党の良心の頂点です。その人ですらこれなんです」。常に、日本人は“呼びかける側”だった。「日本の民主化こそが在日の状況を改善する道であり、それがなければ在日の力は結集できないし、祖国支援もできない。だから、最優先は日本の民主革命である」――それが日本共産党の基本方針だった。日本人と朝鮮人の歴史的な非対称性を見つめることなく唱道される“民主革命”は、朴には空しいものだった。「日本の皆さんはね、端的に言えば、民族なんてまるっきりわかってないですよ。日本の皆さんはありのままで民族です。もう問い直す必要すらない訳です。でも、朝鮮人はそういう訳にはいかない。『何で俺は朝鮮民族なんだ? 朝鮮民族って何か? その朝鮮民族が日本共産党員であるっていうのはどういうことか?』…。日本の皆さんは違う。『日本民族であるとは何か?』を考えること自体が可笑しいくらい日本民族なんです」。日本共産党は1955年、武装闘争路線を批判し、転換を表明した。だが、朝鮮人の犠牲は取り返しがつかなかった。「公式的には何も語りませんね。戦前から1955年までは在日朝鮮人を党員として受け入れ、指示・命令し、ある行動を取らせ、膨大な犠牲を出した。方針を変えたならば誤りを深く反省し、責任を取らないといけないと思うのですが…」

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一方、その少し前、朴に転機が訪れていた。ある会合で演説を終えた後、じっと聞いていた年配の同胞が呟いた。「ウリマル(朝鮮語)も話せないで“指導”か? 民族運動のリーダーがそれでいいのか?」と。「ショックでしたね。日常会話はできましたけど、自分の考えを詳しく述べる段になると日本語が飛び出す。気にはしていたんですけどね」。朴は、父の親友が校長をしていた朝鮮小学校に何度も足を運び、「教員にして欲しい」と頼み込んだ。「『朝鮮語もできない者が、どうやって子供を教えるのか?』って何度も門前払い。でも、こちらも必死でした」。校長が根負けしたのは暫く後のこと。採用条件は、「朝鮮語をしっかり学ぶこと」。朴は言う。「このような動機で、自分の教師生活は始まったんです」。仕事にも慣れた頃、韓徳銖(総連議長)に初めて会った。“党”に振り回された痛恨と、『朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)』の威光で進められた、日本共産党指導下からDPRK直結への路線転換である。納得しない活動家も多かった。「(韓は)全国を宣伝に回ってたんですな。その場は民対(日本共産党民族対策部)派が多くて、1人でぽつーんと座っている訳です。私は路線転換賛成だったから、近くに行って幾つか質問してね。丁寧に答えてくれましたよ」。捻れは、その後も尾を引いた。朴が大阪総連の教育部署にいた時のこと。韓が大阪に来た。当時の教育部長は、元民対の幹部だった。「運動会があって、校長先生がお昼に挨拶したんですけど、数日前にあった共和国の最高人民会議に触れなかった。議長さんは怒りましてね。責任者の教育部長を呼ぶ訳ですけど、昼飯なのか行方がわからない。これで、余計に議長が激怒した。演壇に上がってカーッと演説して、最高人民会議の内容を説明した後、『祖国が信頼して就けた役職なのに、君は何か!』とか校長を猛烈に批判してね。『運動会終了後、直ちに大阪府本部の活動家会議を招集する。これは議長命令である!』って」。総連府本部に、支部の部長以上が招集された。面目を失った教育部長は、そこにも出て来なかった。「議長が活動家たちに言うんです。『教育部長は、校長を事前指導して最高人民会議のことを話すようにもせず、肝心な時におらず、この場にもいない!』って。それから、『抑々、大阪は!』って」。後は、ここぞとばかりに攻撃だった。「『反祖国的・反総連的・反民族的である』とまでやる訳。会場はシラーッとしてね。そうなると、もう路線転換反対派は窒息して、大阪も変わっちゃう訳です。ヘゲモニー争いですね。悲しいと言うか何と言うか」

総連結成の翌年、朴は大阪へと呼び戻されていた。路線転換反対派が多数を占めていた大阪市立西今里中学校への赴任だった。朝鮮学校一斉閉鎖の代替に開設された、謂わば“公立民族学校”である。「教師の6割くらいは民対派です。明言はしませんが、組織は火中の栗を拾わせたんですな。『あそこは民対派が強いから、気を付けて頑張りなさい』って」。最大級の警戒度で迎えられた。「年配の方が大半です。『君は議長の回し者だろう』と露骨に言う人もいました。程無く教務主任になったんですけど、『主任の前では本音は言えない』みたいな空気だった。議論は成り立たない。私は兎に角、教員に対して『民族主義でいきたい。偏狭に凝り固まるのではなく、我が民族はどう歩んできたか。民族の一員としてどうあるべきかを、柔らかく教えましょう』と訴えました」。帰国熱が高まり、生徒数も膨れ上がっていく。最盛期は1600人以上。校庭にプレハブを建てて授業した。総連全盛期へと向かう時期、「より民族教育を徹底したい」との思いも強まり、1961年に自主学校化へと舵を切った。そこに区切りをつけた後、朴は教壇を離れて本部の専従となった。その後、『在日朝鮮人社会科学者協会』大阪支部の専従となり、歴史学に取り組んだ。「教壇から学問の道へ」。そういうと、言下に否定した。「いや私、学問なんて思ったこと一度もないです。教員時代にね、修学旅行でお伊勢さんとか清水寺とかに行くのを見て、『民族教育なのに、これではアカンやろ』と。朝鮮と関わりのあるところを回る。その為には、研究して確定しないといけない。寧ろ実践的な要請です」。近畿地方を中心に、渡来人の遺跡を訪ね歩いた。「おかげで、日本列島の渡来人関係の遺跡は、もう殆どここ(頭)に入っています」。その成果が、『朝鮮からの移住民遺跡』『古代大阪を旅する』『奈良の中の朝鮮』等の多数の著書に結実した。1970年代からは、大学で教鞭も執るようになった。講座は、縦軸の歴史に在日の現状を絡めた。それも教員時代の経験だった。「人間というのは非常に悲しくて弱くて、目の前の現実は直ぐ見えるのに、『何故そうなんだろうか?』という経過がわからない。例えば朝鮮部落です。大体が、めーっちゃくちゃ交通の便が悪い場所のバラックです。失業状態の人や日雇も多い。昼日向に若者たちがゴロゴロしている姿を見ると、『あいつら怠け者だから、あんな汚いとこに住むしかない』と思っちゃう。これでは駄目ですね。歴史と現在を踏まえた上で、差別が不当である根拠を理論化し、変えていこうという努力の広がりを作る。それが大切と思ったんです」

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本格的に歴史学に取り組み始めた朴は、大きな葛藤を抱え込む。「朝鮮での1950年代までの歴史で見れば、朴憲永の粛清とか間違いもありますが、金日成は極めて優れた政治指導者だと思いますよ。1つは、我が民族に付き纏っていた事大主義に否と言ったこと。自主性・民族自決です。それに解放後、親日派の追放や農地改革等といったことを数年でやりましたからね。でも1960年代以降、歴史を勉強する者としてはついていけない部分が出てくるんです」。若者を教える立場であった朴自身、時に嘗ての教え子から批判された。「私は率直に、『その時はこういう立場でこういう主張をしたことは申し訳ない』と。『今は、こういう風に考えている。これが是なら、これからも忌憚無く話し合おう』と言います。やはり、慚愧の念を示して謝罪して、許してくれるか否かを訊かないと」。故に、1960年代以降の変化と自分の思いとの乖離も率直に語ってきた。そうして自らを総括し、表現する姿勢を「世渡り下手だ」と言う若者もいるが、朴は言う。「駄目なものは駄目ですよ」。その信念は、民族運動に飛び込んで以来、“それ”を蔑ろにする者たちを幾人も見てきたが故だ。「人間には弱い部分があって、どうしても自己を正当化しようとする。特に、思想は目に見えないから尚更。…であればあるほど私は思う。『思想を変える』というのはね、衣服を着替えるのとは訳が違う。それは、生皮を剥ぐ痛みを伴う行為であるべきだと思う。よくよく決心して、変わる前の自分を冷徹に見つめるべきで、きちっと表現するべきである。私自分がそんな清冽で立派な人間ではないけど、せめて考えるべきことはきちっと考える自分でありたい。その幅が揺らいだり膨らんだり縮んだりしても、ね」。母は日本で死去。父はDPRKに“帰国”した。実は朴は、朝鮮にある2つの主権国家の何れにも足を踏み入れたことがない。「今でも行く気ないですねえ。韓国は、『死ぬ前に一遍、先祖のお墓参りせなアカンな』とは思っていますけどね」。だが、朝鮮籍でそれは叶わない。そして続けた。

「私、北に対しては色んな思いがある。見たら爆発してしまうんじゃないかという予感が強い。移動したり仕事を選んだり、主張したりする。人間にとって、日常の在り方が完璧に近い形で保障されていればいるほど、私の中ではそれが社会主義に近いようだ。文字として表された理念が崇高であるほど、現実との落差は私には耐え難い」

――朴さんにとって祖国とは?
「私は第一に民族です。『“南か北か”“総連か民団か”とかではなくて、民族としてどうあるべきかを考えてほしい』と若い人にも言ってきた。その民族がよりよい在り方を生きる為に、国を形成する。その理念を現に運営・展開する為に、政府がある。例えば、大韓民国という国がある。未だに反共が国是で、理念として表現されている部分は問題がある。実際、軍事独裁政権が続きましたが、青年たちが膨大な血潮を流し、その何万の犠牲の上に民衆の力が、韓国を民主主義の国として基本的に定着させた。つまり、韓国にいる我が民族の相当部分の人が『韓国とはどういう国であるべきか?』の一点で、民衆の思いを実現できる国に押し上げていった。これは素晴らしい。今の政府は徹底的に批判しますがね」

――今も朝鮮籍なのは?
「朝鮮籍か韓国籍か選択を迫られる局面があると、そこで考える訳ですね。例えば、韓日条約が発効して、協定永住権問題があって、『韓国籍に変えれば永住権が貰えて安定的に在留できます』と――3分の2くらいは嘘ですけどね。その時、朝鮮半島全体の南だけの範囲での韓国を選びますか? 北半分だけの共和国としてそこを選ぶかと。私が生きてきた朝鮮とは何だ? 古朝鮮から現在に至る統一体としての朝鮮。地域の統一性・言語の統一性・経済の統一性・文化の統一性…。その一体としての存在。そのような存在としての“朝鮮”こそが、朝鮮半島全体を歴史的に表現し、高麗時代からでも1000年近くを統一的な地域として存続してきた。その意味での朝鮮があり、私は朝鮮人として生まれ、朝鮮人として生き、朝鮮人としての自己表現のまま死んでいきたい。中身が変わる形で生きたいとは思わない。若い人は、『先生、頑なに考えたらアカン』等と言いますがね。『私は、それが自分の一番柔軟な生き方だと思う』と言うんです」



中村一成(なかむら・いるそん) フリージャーナリスト・元毎日新聞記者・在日コリアン3世。1969年、大阪府生まれ。立命館大学文学部卒業後、1995年に毎日新聞社入社。高松支局・京都支局・大阪本社を経て現職。著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)等。共著として『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)。


キャプチャ  2015年11月号掲載


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