【テレビ、見てますか?】(後編) 大河ドラマ『花燃ゆ』、吉田松陰の激しい生涯

2015年のNHK大河ドラマのタイトルは『花燃ゆ』。吉田松陰の妹で、久坂玄瑞の妻となった文が主人公だそうである。どこか既視感があるのも致しかたない。2013年の大河ドラマ『八重の桜』は、会津藩士・山本覚馬の妹にして、2度目の結婚で新島襄の妻となった八重を主人公としていた。このドラマは会津藩の立場から幕末を描き、巷間に流布する薩長中心のものとは違う歴史像を示してくれた。長州藩はあざとく政略的な存在として描かれた。それからわずか2年、今度は長州藩から見た幕末維新像が語られることになるのだろう。この2作とも、表舞台に立った男たちではなく、妹として妻として、彼らを支えていた女性を主人公に据えるあたり、『男女共同参画社会』を推進する平成の御代の政府方針に忠実で、さすがNHKである。ただ、山本八重が、戊辰戦争ではみずから鉄砲を放って西軍兵士を倒し、夫の死後は同志社の発展に尽くし、また篤志看護婦としても活躍した女傑だったのに対して、杉文のほうは、久坂玄瑞が禁門の変で戦死してからしばらく孤閨を守ったのち、姉の夫であった楫取素彦と再婚して夫を支えたくらいで、青史に遺る偉業を成しとげた人物とは言いがたい。したがって、文の兄・吉田松陰が、大河ドラマ前半の実質的な主人公となることが予想される。

では、松陰とはいかなる人物だったのであろうか?




吉田松陰は幕末のテロリストである。松陰こと杉虎之助は、天保元(1830)年、長州藩士・杉百合之助の次男として萩に生まれた。幼くして親戚筋の吉田家へ養子に出され、吉田大次郎として山鹿流兵法師範となる。本名は矩方。号をいくつか用いたが、そのひとつ“松陰”によって知られている。なお、吉田家の本姓は藤原なので、彼の姓名は公式には『藤原矩方』である。21歳のとき九州に遊学。翌年、今度は江戸に赴き、さらにその翌年、会津・秋田・仙台等を経巡っている。ちなみに、この時に旧知の山本覚馬の家を訪ねて妹の八重とも会ったというのは、『八重の桜』のなかの、よくできたフィクションである。この旅は藩の正式な許可を得ていなかったため、萩に送還のうえ士分を剝奪される。吉田家は家禄を召し上げられたのだから、家名に傷を付けたとんでもない養子ということになる。ただ、藩主・毛利敬親は彼の将来を嘱望していたらしく、実家・杉家にお預けとしながらその年には諸国遊学を許している。

嘉永6(1853)年、通称を寅次郎と改めてふたたび江戸へ。そして、6月3日を迎える。「浦賀沖に黒船4隻現る」の報は、すぐに松陰も知るところとなり、翌日その見物に出向いている。9月には、停泊中のロシア船に乗り込んで密航しようと長崎に赴くも機を逸し、翌年、再来したペリー艦隊の船に伊豆下田で乗り込み、アメリカ行きを頼んだが拒絶される。そのことをわざわざ自首して語って捕縛され、長州で獄に繋がれる。彼が人騒がせなのは、この一件で師の佐久間象山に累を及ぼしていることだ。象山はこのあと長く信州松代に幽閉され、国家の大事に参与できなかった。養子先の吉田家を潰したばかりか、松陰は師匠にまで迷惑をかける莫迦な男なのである。象山はのちに赦されて京に赴き、攘夷派テロリストによって路上で殺害される。象山の如き学識ある人物を充分活用できなかったのは、幕末日本の不幸であった。

さて、ここからが松陰の短い人生で最も華やかな、野山獄・実家の幽閉、および松下村塾で後進を指導した時期である。2015年の大河ドラマで、ぜひぜひ美化された松陰像を堪能していただきたい。いわゆる安政の大獄のさなか、松陰はふたたび野山獄に入牢し、やがて江戸に連行される。その取り調べにおいて、問われてもいない老中・間部詮勝暗殺計画を自白、ついに斬首刑に処された。安政6(1859)年10月27日のことである。享年30。桜田門外にて18名のテロリストたちが大老・井伊直弼を襲ったのは、それからわずか4ヵ月あまり後のことであった。

最後に、吉田松陰という人物の歴史的意義について述べておこう。彼は明治時代になってから陽明学者に分類されるようになる。野山獄と実家の幽室で『講孟余話』(孟子の思想の解説)を著し、中国の思想家・李卓吾に心酔したことは、たしかに彼の陽明学者ぶりを窺わせる。ちなみに、李卓吾という人物は、体制側に危険人物と目されて獄中にあった折に自刃して果てている。ただ、松陰は陽明学を学んだことによって尊皇攘夷の志士になったわけではない。彼の気質がそうであったから陽明学に惹かれただけである。この点については拙著『近代日本の陽明学』に書いた。

松陰が死語遺した最も貴重なものは、弟子たちだった。松下村塾で彼の謦咳に接した長州藩士たちは、師の遺志を継いで体制転覆を志し、松陰がめざした“草莽崛起”を実践した。だが、松陰が大きな期待を寄せていた久坂玄瑞や高杉晋作は、維新の成就を見ることはできなかった。生き残った伊藤博文や山形有朋が、明治政府の中枢で活躍することになる。明治15(1882)年、東京郊外の世田谷に松陰神社が創建される。祭神はもちろん、吉田松陰。同40(1907)年には、伊藤博文らの計らいで、萩にも松陰神社が設けられた。松陰はついに神になったのである。安政の大獄の犠牲者として、彼は国事殉職者に認定され、東京九段の靖国神社に祀られる“英霊”の1人でもある。松陰の伝記は、古くは徳富蘇峰(新島襄の弟子)によるものをはじめ幾つもあるが、そのうち昭和11(1936)年に刊行された玖村敏雄のものが近く文春学藝ライブラリーにて復刊予定である。


小島毅(こじま・つよし) 東京大学大学院人文社会系研究科教授。1962年生まれ。同大文学部卒。同大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国哲学。著書に『中国近世における礼の言説』(東京大学出版会)、『靖国史観 幕末維新という深淵』(ちくま新書)など。


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