【人口減時代・何が解決策なのか】(02) 少子・高齢化対策は“官僚主導”を脱却せよ

20151219 04
2000年6月。森内閣の経済企画庁長官だった私は、2つの構造政策を提言した。1つは『70歳まで働くことを選べる社会』、もう1つは『歩いて暮らせるまちづくり』である。この2つは全く異なる行政機構の仕事だが、出発点の問題意識は共通であり、目指す改革の対象も共通である。それは、“人口の少子高齢化”である。日本の人口は、太平洋戦争が終った直後の1945年には7200万人余りだった。ところが、それから5年ほどの間に1200万人も増えた。1947年から1950年にかけて日本人の出生数が急増、後に私が“団塊の世代”と名付ける巨大な人口の塊が生み出されたからである。ここで人口増加は一段落し、次に1200万人が増加するまでには12年もかかる。産児制限の技術と思想が普及し、出産がコントロールされ出したからだ。ところが、『日本万国博覧会』が開かれた1970年頃から再び急増。8年ほどの間に1200万人が増加する。20年前に生まれた“団塊の世代”が出産年齢に達して、多くの子を産んだ。所謂、“団塊ジュニア”の誕生である。私は1976年、団塊ジュニア世代の誕生する最中に予測小説『団塊の世代』を著わし、「日本社会に生じた人口の巨大な膨らみが、将来においても世の需給に巨大な歪みを創るだろう」と警告した。この警告は見事に的中したのだが、当時の人口問題を取り扱う厚生省(現在の厚生労働省)の考えは違っていた。「“団塊の世代”の次は“団塊ジュニア”、今後も20乃至25年毎に人口の急増は生じる。日本の最大の問題は、人口の過剰と土地の狭小である」というのである。実際、1970~1980年代には、政府は総力を挙げて海浜湖沼を埋め立て、山間僻地に道路を造り、農地と可住地の拡大に努めていた。それくらいだから、私の発した「長期的には人口の少子高齢化が問題になる」という警告など、「素人の妄言」と嘲われたものだ。だが、それからも出生数の減少は続き、1993年には合計特殊出生率(一生の間に1人の女性が産む子供の予測値)が史上最低の1.46人にまで低下し、世間に衝撃を与えた。この数値はその後も下がり続け、1999年には1.34に、2005年には1.26になる。一方、日本人の平均寿命は、戦後の医学の進歩や衛生栄養状態の改善で、どんどん延びた。終戦直後には男女共に50歳そこそこだったが、1983年には男74.2歳・女79.7歳となり、“世界一の長寿国”になった。去年の平均寿命は、男80.5歳・女86.8歳だ。長寿は万人の願いであり、長寿を全うできるのは大きな幸せに違いない。だが、それに伴う問題も多い。高齢者の増加に伴う介護医療費の増加や、その為の人手不足、孤独な老人の増加に伴う生き甲斐の喪失や生活の不便等である。「人口の少子高齢化こそ、日本の最大の長期構造問題だ」というのが、2000年当時も2015年の今も変わらぬ私の問題意識である。これに対する解決策として提示したのが、『70歳まで働くことを選べる社会』と『歩いて暮らせるまちづくり』である。

扨て、この2つの提案に対して各官庁は鋭く対応した。特に、『歩いて暮らせるまちづくり』は大きな反響を呼び、時を経ずして経済企画庁長官の下に私的な研究会が作られた。これには関係省庁の審議官クラスの他に、建築家・都市計画学者・地域開発の専門家等も加わった。数度の会合の末にモデル案ができた。「地方都市や大都市近郊の小都市の中心部に2km四方ほどの地域を指定、この地域内に住宅も事務所も加工所も学校も医療施設も娯楽場や飲食店も文化会館や体育館も混在する繁華な中心街を創る」というのである。「ここに住む住人は週に1回程度、自動車か鉄道で“遠出”するだけで済み、普段は専ら徒歩で生活できるようにしよう」というものだ。この“原案”を提示したところ、各省官僚は先ず「素晴らしい」と讃えてくれた。だが、直ぐ“例外扱い”の要望が始まった。文部省(現在の文部科学省)は、「現在の都市計画では、小中学校の周囲には飲食店は許容しないことになっている。この権限だけは“歩いて暮らせるまち”でも維持したい」と言い出した。厚生省の官僚は、「病院等の医療機関の周囲には、遊技場等は開設できないことになっている。この点は、“歩いて暮らせるまち”でも厳守してもらいたい」と言う。更に建設省(現在の国土交通省)は、「我々は、長く用途指定をしてきた。住居専用地域・工業専用地域・商業地域等々である。この“歩いて暮らせるまち”は、どのような用途に入るのか?」と嘯く有り様である。私は、「用途規制を環境規制に変えるべきだ」と考えている。騒音は○○ホーン以下、廃棄物は△△以下と定め、用途は自由にするのである。要するに、各省官僚の発想は、戦後の都市計画の中に“歩いて暮らせるまち”を閉じ込めようというのである。これでは、本当の“歩いて暮らせるまち”にはならない。省庁毎の規制が支え棒になって、都市機能が集約できない。小中学生も、通学の途上では飲食店の前を通る。病院の職員も見舞客も、娯楽施設に立ち寄ることもある。それを只々距離を隔てるのでは意味がない。今日の建設技術ならば、下層が商店街で上層が医療機関でも、下層が劇場で上層が学校でも、十分に分離遮断はできる。だが、各省庁や自治体の抵抗は止まず、『歩いて暮らせるまちづくり』は進まなかった。



20151219 05
日本の都市計画には、戦後の規格大量生産時代の発想と、各省別官僚主導体制の“古い近代体質”が染み付いている。日本に“都市計画”なるものが流入したのは、主に太平洋戦争後。それを学んだのは、工学部出身の建築士たちだ。そのせいか、日本の都市計画は配置図面で始まり、予算見積もりで終わる。そこには、「ここをどんな街にするのか?」「住民がどんな生活をし、どんな人間関係を期待するのか?」といった理念(哲学)は出てこない。人口の都市集中に追われて只々、定型の小住宅を積み上げたのだ。この点は、民間企業の行った住宅地開発も同様だ。郊外の土地を数十坪に区切って、似たような“多部屋主義の小住宅”を大量に販売しただけである。これらの団地や住宅地の多くは“一代限り”で、建設開設当時に入居した人々が高齢化すると、都市そのものが高齢化していく。次の世代が入居しないのである。団地や住宅地だけではない。2015年の今、日本全体が著しく老化している。それを齎したのは、規格大量生産を目指した“戦後官僚主導”である。『歩いて暮らせるまちづくり』は、官僚主導の規格大量生産社会への反乱を目指したものである。太平洋戦争前の日本は、帝国大学出身の官僚と、陸軍大学校・海軍大学校卒業の軍人に依る“官僚専制体制”だった。彼らは強大な権力を握ってはいたが、個人としては“人事で動く勤め人”でしかなく、2~3年で異動し、それ以降は権限も責任も持たない。そんな無責任な人々に国政を委ねたのが、失敗の根本だった。ところが、戦後も同じ道を歩む。特に、石油ショックとロッキード事件で政治の主導性が失われてからは、官僚主導が激しくなり、政治は官僚機構への陳情機関と成り下った。では、その官僚主導は何をしたのか? それは、

①規格大量生産体制
②東京一極集中
③国民の人生の規格化

である。この内②と③とがここでの問題、人口の少子高齢化と地方都市の衰退に深く関わっている。

先ず、官僚たちは『所得倍増計画』の頃から東京一極集中を目指した。特に、『全国総合開発計画』以降は、全国的な頭脳機構は東京一極に集中することにした。即ち、

①産業経済の中枢管理機能
②情報発信機能
③文化創造活動

の3つは東京都に集中することを決めた。それには、官僚主導のやり易さや天下り人事の利便があったことであろう。この為、官僚は各業界別の全国団体を作らせ、その本部事業局を東京都心部に集めた。元々は大阪にあった繊維工業団体も強引に東京に移らせたりもしたし、金融機関の本店も東京に移させた。情報発信機能の東京集中の為には、書籍取次ぎ会社を東京に集め、東京以外での紙媒体を壊滅させた。また、地上波テレビのキー局は東京にのみ許可を与え、地方の情報発信力を削いだ。文化創造活動の東京一極集中の為には、特定目的の文化施設――例えば、歌舞伎専用劇場やリング型体育館は東京にのみ許した。他の地方には、“何でもできる多目的ホール”ばかりを造らせたのである。頭脳機能を失った地方には“手足の機能”――つまり、製造業と建設業と農業の生産現場となることを強いた。このことに依って生じる地方の不満を和らげる為に採られたのが、公共事業のバラマキと農産物価格の高値維持政策である。幸いなことに、1980年代までは製造業現場(工事)は増え続けたし、公共事業に投じる財政も豊かだった。農産物価格を高値に維持する輸入制限も、冷戦構造のおかげで継続できた。だが1980年代末、バブル景気が弾け、冷戦構造が消滅したことで全てが失われた。もう1つの“人生の規格化”では、「日本人は教育・就業・結婚・出産・育児・住宅購入・老後に備えての年金積み立ての順に行え」と指定した。この結果、大学進学者が増えて就業・結婚が遅れると、出産も高齢化・少子化したのである。全てを一方向からしか考えない縦割り官僚機構の害悪である。少子化しても、都市部は必要労働力を集める。搾り取られる地方は過疎化し、地方経済の衰退は急激に進み出した。『歩いて暮らせるまちづくり』は、「危機的状況にある地方を、中核的な商業地の形成で建て直そう」というものである。従って、ここでは官僚主導に頼らぬ規制撤廃こそ第一の要素になる。

『歩いて暮らせるまちづくり』は不発に終わった。だが、その直後から、この発想を継承して富山や青森で『コンパクトシティ構想』が打ち出された。其々の都市の中心市街地に商店や文化施設を集約し、低床路面電車を敷設し貸自転車を広める等して、自動車に頼らずに暮らせる中心市街地を造るという計画だ。コンパクトシティの計画は、「都市機能を集約して中心市街地の繁栄を保とう」とする点でも、「路面電車や貸自転車を拡げて省エネルギー型の街を創ろう」とする点でも、『歩いて暮らせるまちづくり』によく似ている。その意味では、「“歩いて暮らせるまちづくり”を形の上では継承している」と言える。だが、コンパクトシティには“官僚主導からの脱却”という根本思想が欠けているように見える。その為、事業が路面電車の敷設や道路駐輪場の整備等のハード面に偏る嫌いがある。定住する住民の楽しみや、商業活動の活性化に繋がる理念と迫力が乏しい。官僚主導が極めて強い現在の状況では、地方自治体の行い得る限界だろうか? 人口の少子高齢化と地方都市の衰退から日本を救う為には、官僚機構をも巻き込んだ発想の転換が必要である。


堺屋太一(さかいや・たいち) 作家・経済企画庁元長官。1935年、大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業後、通商産業省に入省。大阪万博・沖縄海洋博等を担当。官僚時代に小説『油断!』(日経ビジネス人文庫)・『団塊の世代』(文春文庫)を発表。『大激震 堺屋太一かく語りき』(実業之日本社)・『平成三十年』(朝日新聞社)等著書多数。


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テーマ : 少子化対策
ジャンル : 政治・経済

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