【塩野七生が語る世界と日本】(上) 改革し続けた古代ギリシャ、適時に適材の男たち

このほど、『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』(新潮社)を書き上げた作家の塩野七生さんに、最近の国際的な政治・経済情勢への見方や、最新作に込めた思いを聞いた。3回に亘って連載する。 (聞き手/特別編集委員 伊奈久喜)

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――ルネサンスから古代ローマ・中世・十字軍と続いた西洋史の作品歴の中で、今回の『ギリシア人の物語』の位置付けは?
「私は元々、ギリシャから入ったんです。高校時代にホメロスの“オデュッセイア”や“イリアス”を読んで、地中海に憧れたくらいですから。私が学んだ学習院大学の哲学科では、旧制高校に似たやり方でリベラルアーツ(一般教養)を4年間受けました。卒業論文は、ルネサンス時代のフィレンツェの絵画史でした。後に、ある編集者から『“ルネサンスの女たち”というテーマで原稿を書いてみませんか?』と言われて書き始めたのが、作家になるきっかけです」
「では、ローマ史にどうして行ったのかと言うと、ルネサンスものをずっと書いていたら、何となくこっちもルネサンス人らしい考え方になって、『何故、彼らは“古代復興”ということを言い出したのだろう?』と思ったのですね。『まだキリスト教が無かった時代に、ヨーロッパ人はどうやって暮らしていたのか? どんなことを考えていたのか?』ということに興味を持ち、私も古代に復帰してしまったのです。何だか、実に自然な感じで」
「初めからローマ史全体を書くつもりはなかった。本当は、ユリウス・カエサル1人を書く筈だった。ところが、ブルクハルト(スイスの文化史家)が『歴史の不思議』と言うように、歴史では全ての現象があるたった1人の人物の中に入って、以後は、その人物から全て流れていくというようなことが起こるんですね。カエサルは、そうした人物の1人です。そこで、『この男を書く為には、その前の時代も書かなくては』と考えて書き始め、更に『カエサルの後の時代も書かなくては』ということになって、“ローマ人の物語”は何と15巻になってしまった。『これを書き終えたら私は死ぬのかなあ』と思っていたのだけど、死ななかった(笑)。ふと考えたら、中世ものは何1つ書いていなかった。『それでは…』と中世に入っていき、“ローマ亡き後の地中海世界”“十字軍物語”“皇帝フリードリッヒ2世の生涯”等の中世ものを書いていきました。中世を書き終えたら『これでまた死ぬか』と思っていたら、まだ死ななかった。そして、じっくり考えたら、『ローマ史まで書いたのにギリシャを扱わないというのは、ギリシャ人に対して失礼ではないか』と思い、今回、“ギリシア人の物語”を書き始めた訳です」




――塩野さんは「ギリシャ人は短距離走者で、ローマ人は長距離走者」と書かれていますが、両者の相違点と共通点をどう見ますか?
「通常、支配者が代わると、前の支配者が作り上げたものを破壊しようとするのは当然です。しかし、ギリシャ文明とローマ文明の間にそれは起こらなかった。ローマ人はギリシャ人のいいところは残し、継承しようとしましたから」
「両者の共通点は何かと言えば、“市民”という概念をギリシャ人は創設し、ローマ人はギリシャとは違う体制の中でですが、“市民”というものを継承したことです。また、ローマもアテネも都市国家という面では同じです」
「では、違う点はどこか。ローマ人は『自分たちに何ができるか?』を考えて行動し、ギリシャ人は『自分たちが何が得意か?』というところで勝負していた。ローマ人も存在したし、ローマ帝国もあった。しかし、ギリシャ人は存在したが、ギリシャという国は(当時は)存在しなかった。これが両者の大きな違いです。ギリシャ人は民主主義を始め、あらゆる概念を創造したけれども、パクス(平和)という概念は作り上げることができなかったことです。だから、私が書く“ギリシア人の物語”がオリンピックの話から始まるのは、その為なんです。何故、オリンピックが必要だったのか。ギリシャ人は始終戦争ばかりしていたので、休戦が必要だったからです。対して、長期に亘る多民族間の平和は、ローマ人が作り上げた、やはり最高のものだったと思いますね。まさに、パクス・ロマーナ(ローマの平和)。ギリシャ人はパクスは作れなかった。でも、良いじゃないですか。『ギリシャ人は色々なものを作ったのだから、1つぐらい出来なくたって』と私は思いますけれど」

――アテネとスパルタは同じギリシャの都市国家でありながら、両者の違いがわかるように書かれています。
「実は私、書く前にあまりはっきりした結論を持って書こうとは思いません。書き終わった時に一番わかる。今回も書いていきながら、『スパルタというのは、アテネとは違って硬直しているなあ』と思いました。しかし、『スパルタは、防衛には非常に適している』と思います」
「ルネサンスの例で言えば、スパルタというのはちょっとベネチア共和国に似ている。ベネチアの体制というのは、ベネチア内でしか機能できません。この点は、フィレンツェと全く違う。だから、ベネチアが他国に影響を与えることは、ビジネス以外ではない。文化については多少はありますけどね。一方、フィレンツェの場合は他国に影響を与えることができる。影響を与えるということは、その国の体制がオープンだということでもあるんですね。でも、オープンとなると、やはり内部の防衛的なものはちょっと弱くなる」
「学者たちは『スパルタの国家体制を決めたのはリクルゴスの改革だ』とよく言うのですが、私は『これは改革ではない』と思いました。改革というのならば、次にも改革があって然るべきですが、スパルタには次なる改革はない。つまり、“リクルゴスの改革”とは寧ろ“憲法”だと思いました。スパルタは護憲派の極です。憲法だから、ユダヤ人が『モーゼの十戒を絶対に守る』と言うのとちょっと似ているのではないか。スパルタの場合は硬直している。硬直している場合は、強い鉄、素晴らしい鋼鉄製の何かみたいに保たれていて、やはり強い訳です」
「だけど、アテネはそうではなくて、改革をずっと続けている。つまり、柔軟性がある。別の言い方で言うと、適宜適材適所。私が書いた第1巻では、全くと言っていいほど適時に適材の男が出てくるという感じです。だから、こういう体制は世界史的に見ても続く場合には長期に続く。また、アテネは他国への影響力もあった。この2つの側面から考えると、第1巻で登場するテミストクレス(古代アテナイの政治家・軍人)という男は、ある面でカエサルみたいな男です。第2巻で登場するペリクレス(古代アテナイの政治家)は、アウグストゥスみたいな男です。しかし、若し世に登場する順番が違っていたら、アテネの為にもならなかったであろうし、ローマの為にもならなかった。この順番を私はバトンタッチと言いますが、バトンタッチができる柔軟性は、やはり本当の意味で民主政をやったアテネならではなのです」

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――『ギリシア人の物語』には多くの魅力的な政治家が登場しますが、ご指摘のペルシャ帝国を破ったテミストクレスはまさに主人公ですね。
「テミストクレスというのは、全くその通りです。“ギリシア人の物語”に要した執筆期間は、5~8月という4ヵ月間でした。“ローマ人の物語”の時は3ヵ月で第1稿を書けたのですが、今は、やはり体力が衰えて4ヵ月かかってしまった。1日に5時間しか書きませんが、日曜祭日は一切ありません。『全くもう、これでは老人虐待だ』とか『労働基準法違反だ』なーんて独り言を呟きながら、書いていく訳です。それでも何故書けるかと言うと、登場人物が私を引っ張ってくれるからです。第1巻では、テミストクレスがそういう男でした。こういう経験を私は相当していて、皇帝フリードリッヒ2世を書いた時もそうでした。それほど、『よし、じゃあ絶対に貴方を書いてやる』と思わせる男がいる。多分、私が相当にミーハーだからでしょう。こういう男は、きっと部下にも好かれるに違いない。“ギリシア人の物語”の第1巻では、表紙にテミストクレスの像を持ってきましたが、態とテミストクレスの像の正面の顔は止めて、どういう男かを読者にわかってもらう為に『横顔だけにしたい』と希望しました。テミストクレスも2500年も経って、東洋の女にそんな気を起こさせるなんて、まあ彼も幸せってもんですよ、ねえ。いくらなんでも、それは予想しなかったと思う」

――マラトンの会戦・サラミスの海戦・プラタイアの陸戦の何れでも、このペルシャ戦役でギリシャ側は兵力が劣っていたが、優勢なペルシャ帝国を破っています。『ローマ人の物語』でも、同じような例が数多く出てきます。
「ある意味で、ヨーロッパとアジアを分けることになったのは、ペルシャ戦役がきっかけだったと思います。ヨーロッパという言葉もアジアという言葉もメソポタミアという言葉も、何しろギリシャ人が考えたものですからね。ペルシャ戦役に依ってヨーロッパが確立・スタートすることになったのだと思う。ギリシャ側は何しろ都市国家連合だから、人間の数は少ないけど、ペルシャ側は量で押してくる。だから要は、少ない兵力をどう活用するかが勝負どころで、それでギリシャは勝った。後のアレクサンダー大王だってそうでした。ローマ時代に入っても、数が少ないということは必ずしもマイナスではない。少数の兵士たちは、敵の巨大勢力を前にしては“びっくりぽん”だけど、しかしこういう場面でも、優れたリーダーが『ここをこうやれば大丈夫』と明確に言えば、兵士たちは安心するのです」
「このペルシャ戦役について、“ギリシア人の物語”で私が書いたように、数が多いのは却ってマイナス面もあるということです。アジアというのは所詮、数で押すところがある。我が日本も、ついこの間までそうだったじゃないですか。『大量生産だ』とか言って。だが、今はそれがダメと言われて、日本も少し考え直し、ヨーロッパ人の知恵を学ぶようになっている。だから、『もう、アジア的なことは中国にやってもらいましょうよ』という感じです。中国がやってくれると言っているんだから、『じゃあ、我々は別のやり方でいこう』と。私ならばそう考えますね」


≡日本経済新聞 2015年12月20日付掲載≡


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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