【友だちのいない男たちへの処方箋】(05) “つながり”から遠く離れて

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「友人がいなければ、人生は空しいか?」――この問いに対する答えは、大抵の場合、肯定的であるに違いない。しかし、次の問いに即座に答えることのできる人は少ないであろう。「人生を豊かにしてきた、或いは豊かにする筈の友人とは何か?」。そればかりではない。右の問いに与えるべき答えを求め、悪戦苦闘する内に、私たちは「友人が人生を豊かなものにする」という文が間違いではないとしても、全面的には正しくないことに気付く。「友人がいない人生は空しい」等と断定することの不可能がわかる筈である。寧ろ、明らかになるのは次の点である。「人生の豊かさを実感する時に、友人がこれに与っている場合が少なくないとしても、友人がいない人生が無価値である訳ではない」。普通には、「淋しさを紛らわせてくれたり、自分の姿を映す鏡を差し出してくれたりする存在が“友人”である」と信じられている。しかし、友人の役割がこれに尽きるなら、その役割は犬でも担うことができる筈である。寧ろ、淋しさを紛らわせてくれることや、自分の姿を映す鏡となることを期待して友人と“繋がる”ことは、私たちを幸福にせず、人生から本当の意味における充実を奪うものであるように思われる。この数年の間、若者を中心として、日常的な対人関係におけるソーシャルメディア上のコミュニケーションの比重が大きくなり、所謂“友人”が人生に与える否定的な作用が、否応なく私たちの注意を惹くようになった。

3月上旬のある休日の午後、私は自由が丘にある1軒の雑貨屋に行った。この店が独特の風合いの食器や生活雑貨を販売していることをインターネットで知り、使えるものがないか、見てみたくなったのである。とは言え、目当ての店に辿り着いた時、先ず私の注意を惹いたのは、入口を塞ぐように店内に立つ数人の男性であった。彼らは、入口に近い棚の前に黙って佇み、しかし、不思議なことに商品には目もくれず、スマートフォンを無心に弄っていたからである。私は、これらの男性の1人の傍らにべビーカーを見つけた。そして、「彼らが配偶者に連れられてこの店に入り、配偶者が買い物を済ませるのを待っているのであろう」と推測した。「店まで一緒に来たのなら、一緒に店内を見て回ればいいのに」等という、実にお節介な感想を心に浮かべながら、しかし、私は稍混雑した広い店内をそのまま奥に進んだ。すると、そこには新しい光景が広がっていた。商品を眺めながら棚の間を歩く客は粗全て女性であったが、配偶者と思われる女性の後ろをノロノロとついて行く何人かの男性の姿もあった。そして、彼らもまた、店の入口に佇む男性たちと同じように、商品には見向きもせず、歩きながらスマートフォンを眺めているのであった…。店内にいた人々には申し訳ないが、その時、私は『ゾンビーノ』というカナダ映画を思い出した。ゾンビに特殊な首輪を装着することで、これをペット兼召使いとして飼い慣らす架空の社会を舞台とするコメディである。雑貨屋にいた男性たちの姿は、この映画に登場するゾンビによく似ていたのである。スマートフォンの操作に注意を奪われると視界が狭くなり、動作が緩慢になる。このような状態に陥った者は、一般に“スマホゾンビ(smartphone zombies)”と呼ばれる。その動きや仕草が、ホラー映画に登場するゾンビを想起させるからである。実際、スマホゾンビは電柱や壁に衝突したり、階段や駅のホームから落ちたり、赤信号に気付かずに横断歩道を渡ったりして事故に遭うことが多い。スマホゾンビは、どこにでも棲息する。電車に乗れば、そこには必ずスマホゾンビの姿がある。7人がけのシートが、全てスマホゾンビに占領されていることもある。休日の繁華街でも、目につくのはスマホゾンビの歩く姿である。住宅街では、ベビーカーを押して歩く女性のスマホゾンビをよく見かける。自由が丘の雑貨屋を占領していた“生命体”も、スマホゾンビであったことになる。現在では、スマートフォンを弄る人々の姿は、誰の注意を惹くこともないもの――街頭の風景の平凡な要素である。しかし、冷静に考えるなら、これが異常な事態であることがわかる。周囲の環境からの視覚的な刺戟を遮断し、小さな画面をいつまでも眺め続ける人々の犯濫など、スマートフォンが登場するまでの生活ではあり得ぬことであった。




スマートフォンが実際に何に使われているのか、詳しいことはわからない。ただ、スマートフォンが短期間に急速に普及したのは事実である。スマートフォンの世帯別保有率は、2010年には10%以下であったのに、僅か3年後の2013年には約60%にまで増加した(総務省『平成25年 通信利用動向調査の結果』)。スマートフォンが普及した原因は1つではなく、単純なものでもないであろう。ただ、最も重要なのが次の2点であることは、自ずから明らかであるように思われる。

①ツイッター・LINE・フェイスブックに代表されるソーシャルメディア上のカジュアルな“繋がり”が、対人関係に占める比重が大きくなった点。
②人々が“繋がり”を強く求めるようになったことが、比重のこの変化の原因である点。

スマートフォンの普及は、そしてスマホゾンビの誕生は、これら2点に基づいて理解することが相応しいように思われる。ソーシャルメディアが産み出す“繋がり”が留保無く善と見做される限り、私たちはスマートフォンの画面を絶えず眺めていなければならない。スマートフォンを手放すなど、問題にもならない。スマートフォンを手放すことは、“繋がり”を放棄することだからであり、“繋がり”を放棄することは、日常生活における対人関係の重要な部分を失うことだからである。とは言え、“繋がり”に対する強い欲求は、スマートフォンやソーシャルメディアを侯って初めて姿を現したのではない。この欲求は、新しい小道具やサービスの誕生に先立ち、社会の広い範囲において用意されていたものである。スマートフォンやソーシャルメディアは、この欲求を実現する為の手段として利用されたに過ぎないのである。

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何故、“繋がり”を維持することが最優先事項なのか? “繋がり”なるものは、折角の休日の午後、混雑した雑貨屋の店内にいる時、家族との時間を犠牲にするに値するものなのか? 最近、LINEを媒介とする対人関係に由来する事件が少なくない。これらの事件では、被害者たちは、危険が及ぶ可能性のあることを予測し得た筈であるにも拘らず、“繋がり”を維持する為にスマートフォンを手に取り、ソーシャルメディア上のコミュニケーションを全てに優先させたのであり、これが被害者たちを危険に曝すきっかけになった場合が多い。しかし、スマートフォンを持たず、ソーシャルメディアとは無縁の生活を送る者には、“繋がり”にそれほど高い優先順位が与えられた理由がよくわからないに違いない。私たちは誰でも、年齢に関係無くソーシャルメディアに溺れる危険に曝されている。「他人の目に映る自分の姿が、自己確認にとって不可欠のものである」という思い込みが、社会の隅々に行き渡っているからである。これは、「労働の成果は、他人からの評価を侯って初めて意味を持つ」等という常識的な話ではない。ソーシャルメディア上でメッセージを交換しながら、“繋がり”の内に不知不識に読み取ろうとしているのは、「私は何者か?」「私には何の価値があるのか?」のような途方もなく大きな、人生論的な問いに対する答えなのである。勿論、「私は何者か?」という問いに対する明確な答えが、“繋がり”に依って与えられる筈はない。表面的には他愛ないメッセージの交換の中から、「好き」「嫌い」等の色を帯びた“空気”が朧な形で立ち上ってくるだけである。“空気”の色合いとその微妙な変化を必死に追い、これを手がかりとして「私は何者か?」を探り、また、周囲から嫌われたり無視されたりすることなく“繋がり”を維持することが、ソーシャルメディア上のコミュニケーションの目標となる。ただ、「私は何者か?」を探り続けるこの試み、自分の“立ち位置”(ああ、嫌な言葉だ)を“空気”から読み取る、この謂わば“強迫神経症的”な際限の無い努力は、サイバースペースに起源を持つものではなく、サイバースペースの内部で完結するものでもない。これは、本質的には、社会全体に認められる傾向の反映に過ぎないのである。

嫌われる・無視される・忌避される…。このようなことを望む者はいない。誰もが斉しく願うのは、敵意や悪意に曝されることなく穏やかに暮らすことである。それどころか、大抵の場合、私たちは敵意や悪意を避けるよう努めるばかりではなく、寧ろ、他人から評価され愛されることを積極的に期待して、毎日を生きている。例えば、私の仕事の成果が周囲から高く評価されるなら、この評価は更なる仕事への快い刺戟となるであろう。私が苦境にある時には、家族・友人・恋人等の適切な思いやりが私を元気付けてくれる。肯定的な、そして友好的な人間関係が生活を豊かなものにするのは間違いない。ただ、ここには1つの問題がある。確かに、敵意や悪意を避け、好意や評価を求める努力は、人間の自然に属する。実際、“幸福”の具体的な姿を心に描く時、そこには家族の団欒・友人や恋人との交際・仲間との共同作業等の快い人間関係を必ず見出すことができる。けれども、他人から評価され愛される人が幸福であるとしても、他人から評価され愛されさえすれば、それだけで直ちに幸福になる訳ではない。私の“人気”は、私の幸福を保証するものとはならないのである。好意や評価を直接の標的とするような行動は、私の生活を豊かな幸せなものにしないばかりではなく、反対に、これは不幸と束縛と地獄へと向かう確実な一歩と見做されねばならぬ。人気が幸福の条件であるなら、幸福になる為には他人から評価され愛されることが必要であり、また、他人から評価され愛される為に、私は、なすべきことを決める権利を他人に委ね、“何でも”しなければならないことになる。しかし、誰でも直ぐにわかるように、この“何でも”には自ずから限度がある。どれほど周囲から期待されても、決して引き受けたくない仕事は誰にもある筈である。

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例えば、芸能人は人気が凋落すると、プライバシーを切り売りしなければならなくなったり、テレビドラマの端役を押し付けられたりするようになるかもしれない。普通の企業に勤めている者なら、配置転換に依って、許容の範囲を超える不本意な仕事を引き受けなければならなくなる可能性がある。しかし、「引き受けなければ生きていけない」という理由のみに依って何かに従事することほど、大きな不幸は無いであろう。ところが、現代では1人ひとりに具わる“何でも”の限度が見失われ、なすべきことと忌避すべきものを直観的に見分ける能力、そして決断する力が全体として損なわれつつある。書物を頼りに、1人で思索しながら経験を拡張する努力の価値が顧みられなくなったせいなのであろうか、或いは反対に、アクセス可能な情報が多過ぎて何も決めることができなくなっているのであろうか。原因は明らかではない。しかし、「何をなすべきであるのか?」がわからないとしても、勿論、何もせずにただ寝転がっている訳にはいかない。そこで私たちは、「何をなすべきであるのか?」という問いをそのまま引き受ける努力を放棄し、代わりに、これを「何をすれば周囲から嫌われないか?」「何をすれば人気者になれるか?」という新たな問いにすり替えてしまう。そして、この新たな問いに対する答えを、私たちは“繋がり”の内に求める。“繋がり”から離れられず、ソーシャルメディアに溺れるのは、「自己喪失の泥沼から引き揚げてくれる手がかりが、そこにしかない」と思い込んでいるからである。勿論、私を自己喪失の泥沼から引き揚げ、「何をなすべきであるのか?」を自ら決めることができない限り、本当の意味において幸福であるとは言えない。これは、ソーシャルメディアに溺れている限り、決して叶わぬ望みである。けれども、本当は豊かで幸福な、そして自律的な生活を送ることは、少なくとも形式的には大して難しいことではない。いや、抑々、容易であるか困難であるかには関係無く、幸福への道は1つであり、選択の余地など最初から無いと言うべきであろう。

古代から現代まで、「幸福とは何か?」という問いの前で立ち止まり、これに答えを与えた哲学者は少なくない。ソクラテス以来、幸福は哲学の中心問題の1つであった。しかし、アリストテレスに始まり、中世・近世を経て、20世紀のアランやラッセルに至るまで、「幸福 とは何か?」という問いに対して哲学者たちが与えた最終的な答えは(表現は哲学者に依り区々であるけれども)基本的に全て同じである。即ち、「それに従事している時に、世界が貴方を中心に回っていると感じられるような活動や、寝食を忘れて夢中になることができるような活動を何でも構わないから見つけ、その活動に専念すること」。これが、哲学者たちの説く幸福の捷径である。プラトンからハイデガーまで、哲学者たちは“繋がり”を「人生の充実を邪魔するものである」と主張してきた。何故なら、これも哲学者たちの一致した見解であるが、自分を愛し、自分を尊敬する者のみが、他人から愛され、他人から尊敬され得る者になり得るからである(決して逆ではない)。これもまた、十分に考慮されるべき点であるように思われる。レゴで何か面白いものを組み立てることでもよい。チベット難民を支援する活動でもよい。危険なスポーツでもよい。ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』で描かれるフォン・フォルバックのように、古い書物の句読点を蒐集してもよい。勿論、俳句を詠んでも構わないし、薔薇の新しい品種を作っても構わない(陶芸・蕎麦打ち・盆栽のような“定年後”の為のダラけた“趣味”等ではなく)。1日中、いや1年中続けても飽きない活動を死に物狂いで探し、他人の目にどのように映るか等気にせず、“繋がり”から遠く離れてこれに専念することこそ、幸福への道なのである。スマホゾンビの下に本当の幸福が訪れる可能性が無いことは明らかであろう。 =おわり


清水真木(しみず・まき) 明治大学教授。1968年、東京都生まれ。東京大学文学部西洋古典学科卒、同大学哲学科卒、同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。広島大学助教授等を経て現職。著書に『岐路に立つニーチェ 2つのペシミズムの間で』(法政大学出版局)・『感情とは何か プラトンからアーレントまで』(ちくま新書)等。


キャプチャ  2015年10月号掲載
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