【仏教宗派の霊魂観と死後世界観】(下) 「死んだら極楽浄土へ往ける」と日本仏教各宗派は何故説くのか?

「死んだら皆天国、いや極楽浄土に往くものだ」と日本人の多くは考えている。何故、そのような考えを持つようになったのか? 第一、その根拠は何なのか? 宗派に依って“死後”の説き方は如何に違うのか?

20151229 06
後半は、日本の伝統仏教の主な宗派が、死後世界や霊魂をどのように説いているのかを見ていく。ここでは、天台宗・高野山真言宗・真言宗智山派・真言宗豊山派・浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・臨済宗妙心寺派・曹洞宗・日蓮宗を取り上げる。宗派内においても多様な見解がある為、宗派の公式サイトや宗派が発行(監修・編集)した現在刊行中の檀信徒向け出版物を中心に探った。これを補うものとして、寺院向け出版物・過去の出版物・宗派の付属研究機関が発行(編集)した出版物も参考にした。「死んだらどうなるのか?」と問えば、恐らく釈尊は形而上学的質問である為に無記とするだろう。では、日本の伝統仏教の各宗派は、とう答えるだろうか? 真宗大谷派は公式サイトに、『人は死んだらどうなるの?』という題の教化リーフレットを掲載している。そこでは、「自分の“現在”を問わずに死後を考えることは、出口の無い路に迷わせ、神秘的な世界に惑わすこととなるだけ」という答えが示されている。漠然と死後を問うと、釈尊の無記を倣う宗派もある。だが、真宗大谷派を含めて、葬儀の解説では死後を明示している。では、亡くなった人は葬儀でどうなるのだろうか? 浄土系の各宗派と天台宗は、「極楽浄土(浄土)に往く」と答えるだろう。天台宗の死後を公式サイトに見よう。「葬儀で仏弟子となり、必ず成仏することを言い渡され(引導)、阿弥陀仏のお迎えに依って仏の国(浄土)へ向かう。死後49日とされる娑婆世界(この世)と仏の世界との中間に居る期間(中陰)を経て、新霊は往生する(浄土に生まれ直す)。浄土は、娑婆に付き物の苦労から解放され、仏の教えを信じ、実践するのに最適なので、極楽という」。極楽と言っても、飽く迄も仏になる修行をする場所である。浄土で「修行の糧として大切なのは生前に積んだ善行の功徳」で、遺族は功徳を積み、法事の際に死者への供養として回向できるという。天台宗の念仏は、智顗が『摩訶止観』で説いた常行三昧の観心念仏が主流である。日本の浄土教の基礎を築いた天台宗の僧侶・源信も『往生要集』で、「浄土の有り様や阿弥陀仏の姿を観想することが大切」と説いた。

だが、浄土宗の開祖・法然は、『往生要集』に記された唐の浄土教の僧侶・善導の言葉に着目し、その著書『観経疏』に基づき、「念仏を称えるだけで、阿弥陀仏の願い(本願)に依って往生できる」と説いた。浄土宗の公式サイトと、『お葬儀はなんのため? だれのため?』(浄土宗出版)に依る死後は次の通りである。「葬儀では、この世で仏道を極めることは難しい為、先ずは極楽浄土に生まれ、阿弥陀仏の下で悟りへの道を歩むよう導かれる(引導)。仏弟子となって、阿弥陀仏のお迎えに依って、直ぐ極楽浄土へ往生する。そこで菩薩行を積み、悟りを得て成仏を果たす。往生の目的は、倶会一処(先立った人々と再会を果たす)と還相回向(成仏を果たし、この世に還って人々を救う)である」。伝統仏教では、浄土教の極楽往生説を基準に死後を説く宗派が多いので、この死後観を頭に入れておいてほしい。念仏を称えるだけという易しさに加えて、中陰を経ず“直ぐ”往生できる点も、人々には魅力的に映ったであろう。浄土真宗では、阿弥陀仏の本願力(他力)がより強調され、修行が更に易化 した。浄土真宗本願寺派の『浄土真宗必携 み教えと歩む』(本願寺出版社)に依ると、宗祖の親鸞は「阿弥陀仏の本願力に依って、恵まれる“他力の信心が定まる時、往生成仏が定まる(正定聚となる)」と説いた。つまり、念仏を称えずとも信心1つで、また臨終時ではなく現生で、往生が定まるというのである。その死後は直ちに浄土に往生し、本往生と同時に仏となる(往生即成仏)。そして、本願力に依って慈悲の心を起こし、この世界にまた還ってきて人々を救うのである(還相回向)。浄土宗のように浄土で修行をしてから成仏するのではなく、往生と同時に仏になるので、還相回向がより強調される。真宗大谷派の『お内仏のお給仕と心得』(真宗大谷派宗務所出版部)を見ると同様に、現生に信心が定まった時、直ちに浄土に生まれることに定まり(正定聚不退転位)、死後も直ちに仏の国に入るという。生前に往生が定まるので、真宗大谷派も浄土真宗本願寺派も葬儀で引導を行わない。但し、去年にも刷りを重ねた同書や、その新訂版といえる『真宗の仏事』(真宗大谷派宗務所出版部)には、何故か“成仏”という表現が無く、後者には死後の行方も記されていない。真宗大谷派では、精神主義運動を始めた清沢満之を祖と仰ぐ近代教学において、信仰が内面化した(前回参照)。自分のあり方を重視する為、冒頭にも紹介したように死後を説かないのだろうか? 「往生とは死ぬことではなく、浄土を見つけ出すこと」(後述参照)とも説いており、本願寺派とは往生観が異なる。




20151229 07
扨て、「臨済宗妙心寺派の死後も極楽浄土では?」と訝る方がいるかもしれない。死後を説かない禅宗だが、葬儀では人々に死後の安心感を与える為か、『勅修百丈清規』由来の往生呪や山頭念誦で極楽往生を願うのである(前回参照)。だが、その死後を妙心寺派布教研究委員会が纏めた模範解答集『法事のQ&A』(『研究報告№12』・2005年)に見ると、極楽浄土とは説いていない。「Q:葬式をして亡くなった人はどうなるのですか?」には、「大いなる命(何にもないところ)に帰る」「大いなる命の源である4つの元素(4大=地・水・火・風)に帰る」等の答えがある。また、「Q:地獄・極楽はありますか?」には、「実体としては存在しないが、心の在り様にこそ地獄・極楽は存在する」としている。死後の「Q:引導とは何ですか?」の答えでも、故人を導く先とするのは“仏土”や“悟りの世界(彼岸)”である。それでは、前回述べたように、当初は葬儀にあった浄土教の要素を現在では粗払拭した曹洞宗の死後はどうだろうか? 1951年刊『模範布教集第2集』には、死後を極楽浄土と思わせるような“彼岸会法話”が掲載されていた。だが、1999年から曹洞宗総合研究センター(総研)で、葬祭を文化として宗学に位置付ける研究が行われ、2003年には宗義に適った死後の説き方として、“仏国土”や“悟りの世界”が例示された(『シンポジウム“葬祭-現代的意義と課題-”記録』総研・2004年)。この成果か、2007年刊の『曹洞宗壇信徒必携』には、「葬儀では故人を仏弟子とした上で“悟りの世界”へと導く」と記されている。尚、引導法語の説明では、死後世界への言及はない。

一方、極楽浄土を説く宗派の極楽浄土とはどのようなところだろう。浄土宗は、「阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、『命ある者全てを救いたい』と48の本願を立て、その願いが成就されて築かれた世界」であり、「念仏を唱えるならば、命終の後に生まれることができる永遠の安らぎの世界でもある」と説き、「“阿弥陀経”には『西方十万億土の彼方にある国』と記されている」とする(公式サイト)。天台宗は、同じ極楽浄土でも浄土宗とは捉え方が違うという。『天台宗の教義』に依ると、「極楽は娑婆と同様の世界」で、阿弥陀仏を「釈尊と同じように実体を持った応身仏」と見る。しかし浄土宗は、極楽を阿弥陀仏の本願の報いとして現れた世界(報土)と捉える。従って、凡夫は阿弥陀仏の本願力に頼って往生する他なく、その本願力を著しく強調し、「阿弥陀仏は釈尊を超えた報身仏である」と見る。浄土真宗本願寺派の浄土観は、浄土宗と同じようだ。浄土は「確かにある」が、「仏だけが正しく知見できる」という。それは、「限りない光に満ち溢れた“無量光明土”で、西方にあって、清らかな蓮華が咲く美しく飾られた悟りの世界で、必ず再び会える世界(倶会一処)である」と説明する(『み教えと歩む』)。一方で真宗大谷派では、近代教学において“浄土”が内面化したようだ。公式サイト掲載の『いま浄土とは…』では、「“阿弥陀経”に『浄土とは倶会一処(共に一つ世界に生きる)』とあり、決して死後の世界としての“あの世”ではなく、理想郷でもなく、人間を見失ったものに人間を回復させる仏の世界である」として、死後世界と捉えられることを拒絶する。同派の『仏教をめぐる対話』においても、浄土とは我執・自我関心の無いところに展開する生活(在り方)という。世界は私というものの在り方と一体と考えるからだろう。その浄土を見つけ出すことが往生で、死ぬことではないとする。また、「努力がいらないから楽」なのではなく「浄であれば楽」だという。更に、浄土が西方という理由は、「“精神界的な世界図”では人生を東方とするので、精神界の中心地は人生からいうと西に当たる」と述べつつも、「大切なことは浄土が方向を以て示される意味で、西方とは求道心を見出した方向である」と説明する。

20151229 08
では、真言宗ではどうだろうか? 極楽浄土は、浄土思想の流行を見て、大日如来の仏国土を密厳浄土として教学に据えた真言宗中興の祖・覚鑁に依れば、密厳浄土と同じである(前回参照)。真言宗の宗祖・空海は、死後に関して次のように述べている。「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」(『秘蔵宝鑰』)。高野山真言宗の『高野山真言宗檀信徒必携』(高野山出版社)には、「宇宙全体に生きる仏さまの大いなる生命」や「仏の生命より出でてまた仏に還る」等、興味深い表現も見られるが、ここでは生命観と葬儀の記述を見ていく。「葬儀は即身成仏への引導儀式で、故人が弥勒菩薩と空海の来迎を得て、無事に曼荼羅の浄土へ帰ることを願うものである。霊(いのちと心)は空海に導かれて7日ごとに不動明王ら七尊の仏に救われ、そして遺族が供養を施す功徳によって49日の間(中陰・中有)を経て、阿字の世界つまり密厳浄土へ到達して成仏する。ただし、真言宗の信者は密厳浄土の中にあって弥勒菩薩の浄土である都率浄土に迎えられ、そこで永遠の生命を得る(都率上生)」。十三仏(前回参照)の説明も別途にあり、故人は十三仏にも成仏を助けられるようだ。真言宗智山派はどうだろうか? 『智山檀信徒叢書⑥仏事の大切さを知ろう-お仏壇・発心式-』では、「葬儀は故人を成仏させる儀式で、“引導”で故人を仏弟子にして悟りの世界へ導くための法を授け、“読経”の功徳で故人は悟りの世界に永遠に安住できる」という。死後を“悟りの世界”とするが、別項では“密厳浄土”と記している。また、初7日忌に始まる追善供養で、「33回忌まで亡き人の精霊は十三仏に守られ、そして、私たちをしっかりと見守ってくれるご先祖となっていく」という。仏になる時期や密厳浄土に到達する時期、故人がなるのは仏かご先祖か、確認の為に問い合わせたところ、「生きているこの身に即して成仏の境地に到達する、また可能であるという即身成仏の教えであるが、敢えて言えば、引導を授けられれば直ぐ仏になり、密厳浄土に到達する」「仏とご先祖は同じ」との回答を智山伝法院より頂いた。真言宗豊山派の葬儀も『真言宗豊山派檀信徒宝典』に依ると、葬儀は「導師の引導法と読経によって、故人を仏の世界(密厳浄土)に導く儀式」で、葬儀で故人は改めて仏門に入り、潅頂を授かって密厳浄土に導かれて成仏するという。死後7週間に当たる、故人が生と死の狭間にいるとされる中陰を終えることを満中陰といい、「故人は葬儀で成仏されたのですから、その密厳浄土への旅路が無事にすむように、遺族も満中陰までつつしんで生活しましょう」としており、中陰があるようだ。また、十三仏についても、其々の優れた功徳に依り、供養する精霊を密厳浄土に導くよう、忌日毎の守り本尊としたものとして詳述している。

極楽浄土を軸に各宗派の死後を見てきたが、日蓮宗はどう説くのだろう? 宗祖・日蓮は、「現実を離れた世界に浄土を求めるべきではない」と浄土教等を批判し、法華経を所依に即身成仏や娑婆即寂光(娑婆世界を仏国土である寂光浄土にしていくこと)を説いた。また、死後も具体的に示し、『弥源太殿御返事』では、「日蓮宗の信者は、冥土の旅には釈迦・多宝如来・上行等の4菩薩が迎えに来て、久遠実成本師釈迦牟尼仏のいる霊山浄土に行く」と説いた(『日蓮宗の教え-檀信徒版宗義大綱読本』)。同書『日蓮宗の教え』に依ると、霊山とは釈尊が法華経を説いたインドの霊鷲山から出た言葉で、霊山浄土とは法華経の行者が唱題信行に励んで仏と同体になった場所を指す。法華経の行者は、生前は即身成仏で生きながら仏になることを目標に努力し、死後は仏として霊山浄土に往詣して、釈迦牟尼仏らを拝するという。霊山往詣とは、即身成仏の行者が本来からある寂光浄土へ帰っていくことで、浄土教のように成仏する為に極楽へ往生するのとは異なる。また、寂光浄土と霊山浄土は別のものではなく、単なる観念の世界でもないという。日蓮宗公式サイトに依ると、葬儀では霊山浄土にいる仏等を迎え、読経に依り故人は安らかな境地に入り、引導で仏の世界に赴くよう導かれ、題目を唱える内に故人は参列者とともに“仏の大いなる命”と1つになり、その喜びの光に包まれながら、仏と共に霊山浄土に旅立つという。因みに、前回述べた法華系の新宗教のうち、『創価学会』の池田大作名誉会長は日蓮が説いた霊山浄土について、「信心を貫き通して、一生成仏を果たした人が、等しく到達できる大境涯の仏の世界」で、「そこでは、深き生命の次元で、【中略】わが同志たちが出会うことができる」と述べている(聖教新聞社公式サイト)。だが、友人の代表が導師を務める“友人葬”を紹介する公式サイトには、死後世界である霊山浄土の語は無い。創価学会は、「僧侶が引導文を読み上げないと成仏しない」という考えを否定するからだ。日蓮の「題目の光は無間地獄にまで至って(故人を)即身成仏させる」という言葉を紹介しており、題目で故人を即身成仏させるようだ。

20151229 09
このように、禅宗を除く各宗派には、固有名詞で表される死後世界がある(真宗大谷派は微妙であるが)。では、何が死後世界に行くのだろう? 死後の霊魂なのであろうか? 先ず、日蓮宗・真言宗から見ていこう。両宗派の死後世界は、即身成仏の行者が到達する世界でもある。日蓮宗の『宗義大綱読本』(日蓮宗新聞社)には、「たとえ肉体は消滅したとしても、霊魂は永遠に不滅の絶対者たる仏と同体不二の存在として存続されるものと考えられている」とし、「その仏国土を日蓮は“霊山浄土”と称した」と記されている。また、日蓮は身延山を霊山浄土と見做し、『波木井殿御書』で「未来際までも心は身延山に住む可く候(日蓮が魂魄は、未来永劫に身延山に留まるであろう)」と述べた(『信行必携』)。霊山浄土に行くのは霊魂で、霊魂不滅を認めている。日蓮宗は諸法無我を「全ては繋がりの中で変化している」(公式サイト)と説くから霊魂を肯定できるのか、或いは日蓮が体験した法華経を基本とする(『宗徒の信条』)からなのか。次に、真言宗を見よう。空海は『十住心論』で、「鬼業の崇りには呪法をもって能く銷す」等と、物の気の崇りには呪法を以て対治する他ないと述べた(『真言宗の教義と実修 教会教使必携』・高野山真言宗教学部編)。また『弁顕密二教論』で、「釈尊や三世十方の諸仏の教えは顕教で、顕教は浅略、大日如来が説いた密教は深秘の教」と主張した。宗祖の言から、無我説は軽視され、霊魂を認めると推されるが、どうだろう。高野山真言宗は、密厳浄土に導かれるのは“いのちと心”や“霊”とする(『檀信徒必携』)。“霊”は“霊魂”ではないとする宗派があるので注意が必要だが、「魂は永遠に生きている」「寺院は檀信徒各家の祖先の霊魂の安住所」等の文言もあり、霊や魂は霊魂と同義で、霊魂の存在と霊魂不滅を認めると言えるだろう。真言宗智山派は、密厳浄土に旅立った者を“精霊”と呼ぶ(『智山檀信徒叢書⑥』)。『寺庭のしるべ』には「位牌は亡くなった方の霊魂が宿るものといえます」とあるが、習俗として語っているようにも受け取れる。智山派では、1990年度に“霊障”について意識調査をした。結果から、「寺院活動の場において、“霊”“霊魂”の存在が統一的に発言されていない」と分析した智山伝法院の岡野忠正研究員は、紀要(『現代密教 第7号』)で「我々は霊が存在するという前提で宗教行為を行ってきている(傍線原文)」と述べた。また霊は、「時には死者の霊魂であった」とも述べている。宗派内にも多様な霊魂観があるようだが、霊魂の存在を認める方向性が窺える。真言宗豊山派では、十三仏が密厳浄土に導くのは“精霊”で、33回忌に菩薩の道へ入っていくのは先祖の“霊”である(『檀信徒宝典』)。“霊魂”という語は見当たらない。『新仏教綱要』には、霊魂に否定的な無我説が掲載され、非我説への言及は無い。“霊魂”の語を用いないのは、この影響だろうか。

次に、極楽浄土を娑婆と同じ世界と見る天台宗について見よう。天台宗の公式サイトでは、浄土に行くのは“新霊”である。宗祖の最澄は、「土室闇く迮しといえども、しかも貴賤は魂魄を争い宿す(墓の中は暗く且つ狭いけれども、貴い人も賤しい人も皆、死んでしまえば【中略】先を争ってその墓の中で魂を宿そうとしている)」(『開宗千二百年慶讃大法会記念 最澄撰“願文”』・天台宗総合研究センター)等と述べた。この為、『天台宗布教手帳』の“霊魂”の項では、釈尊が無記としたこと等と並べて「宗祖は、霊魂を願文の中で肯定しており」、天台宗が仏像等に入魂しているのは「明らかに霊魂を肯定し、その霊魂に来世があると信じるから」とある。願文で霊魂に当たる“魂魄”は“魂”と訳されており、『檀信徒必携 信仰の手引き』には、「葬儀の意義は死者の“魂”を慰める」等と書かれている。1960年版『檀信徒必携』には、菩提寺は“祖先の霊魂の安住所”等と“霊魂”の語があったが、2006年版には無い。とは言え、宗祖の言葉を尊重して、霊魂に肯定的なのではないか。では、浄土系各宗派は、報土である極楽浄土に何が行くと説くだろうか? 浄土宗の公式サイトでは、極楽へ導かれるのは“御霊”である。「位牌を開眼供養することで故人の“魂”に身近にいてもらえる」(『浄土宗檀信徒宝典』)、「仏壇には先祖代々の“諸霊”も祀ってある」等の表現がある。1961年版『檀信徒宝典』にも、“霊”という表現が多かった。霊魂を認めるように見えるが、何れにも“霊魂”という語は無く、語の使用に慎重にも見える。『浄土宗総合研究所』に依る1993年から約20年に及ぶ葬祭仏教研究では、宗義と霊魂を認める習俗との整合性を取る為に苦慮した様子が窺える。

20151229 10
1995年には、佛教大学の高橋弘次学長が講演で、「浄土往生を目指すということは霊魂否定論でもある」が「現実にはある」と語り、シンポジウムでは「もう宗義として往生する主体を霊魂と表現できるのか?」と問われ、大正大学の藤井正雄教授が根本仏教的には無記で、「宗典にしても宗義にしても、何も語っていない」と答えた(『葬祭仏教』・浄土宗総合研究所)。同研究所が宗義に準拠した“葬儀と年回法要の意味”を纏めた、浄土宗発行の『浄土宗の葬儀と年回法要について』には、極楽浄土へ往生する主体や霊魂観は示されていない。尚、『仏教概論』には、霊魂不滅を否定する無我説が掲載されていた。だが、後継書と見られる『新訂仏教学概論』では、「永遠不滅の本体“我”を認めない」と無我を説きつつも霊魂への言及が消え、“輪廻と業”の項で、輪廻する主体に関して近年有力な説として、非我説も掲載されている。一方、浄土真宗は往生する主体としても存在としても、霊魂を明確に否定する。浄土真宗本願寺派は、往生する主体は曇鸞が著した『往生論証』に“浄土の仮名人”“穢土の仮名人”――つまり、「“仮に人と名づけるもの”とある」と紹介する(『今、浄土を考える』)。また、『釈尊の教えとその展開-インド篇-』には、霊魂否定の無我説を掲載し、『み教えと歩む』では、「弔辞等で“霊前”“御霊”等の表現は浄土真宗の教えに相応しくないので、用いないように」と説く。霊魂を否定するだけでなく、“霊”という語の使用も禁ずる。真宗大谷派は、「往生する主体は魂ではなく、“我という思いを抜き去った本当の意味の主体”である」という(『仏教をめぐる対話』)。そして、蓮如も説いたように、「“無我”の教えが仏教であり、“私の思いで考えられるような霊魂”ならば無い」と霊魂の存在を否定する。

禅宗に、「霊魂はありますか?」と尋ねてみよう。臨済宗妙心寺派は、『法事のQ&A』掲載の「Q:霊魂はありますか?」を見ると、無記に倣う答えや霊魂の存在を否定する答え、「霊魂はある」等様々である。「禅宗は霊魂を否定する」という一般論が念頭にあると戸惑うかもしれない。確かに、河野太通師家(臨済宗妙心寺派前管長)は「仏教は“無霊魂説”」と述べている(『資料集 供養』)。また、『よくわかる妙心寺』には、“新霊”や“祖霊”、臨済宗中興の祖と称される白隠の高弟・東嶺に依る読経の功徳の1つに「故人の霊を慰める」等、“霊”という表現が多い。だが、河野師家はまた、「“霊”とは“いのち”や“人格”という意味で、“霊魂”を意味するのではない」という。霊魂が存在しないのに亡者供養するのは、怨霊の崇りを恐れてきた「人々の心情を頭から否定するのではなく、仏教的な生き方に転化した」からで、「先祖供養を営むことに依り、生きている者の迷いが取り除けるのなら、まさにそれは禅の宗旨」という(『法事のQ&A』)。「霊魂はある」という答えは、この反映であろう。曹洞宗も同様ではないだろうか。葬祭研究を重ねた総研は、2003年に霊の説き方として“死者の人格”“生命の根源”等を提案した(『シンポジウム“葬祭-現代的意義と課題-”記録』)。その後、総研が編集・発行した『僧侶 その役割と課題』には、宗祖の道元が心常相滅論(前回参照)を批判したこと等から、「霊的存在を認めないことが曹洞宗の宗旨の立場であるが、亡き人の霊の存在を信じる人々の思いを受け入れなければならない。人々と共に民俗の世界から宗旨を目指していくべき」とある。この姿勢は、嘗て曹洞宗宗務庁が発行した模範解答集『正信への序章』に見られる記述と符号する。仏教は「“実体的な霊魂は認めない”という立場」としつつ、霊魂の有無についての考え方を本来の考え方に近付ける努力が必要だが、「“現実に生きる人間の心の安らぎ”をこそ求める」という“仏教本来の立場”さえ踏まえていれば「種々の霊魂論があってもよい」とし、亡き人を慕う心情に見られる「“永遠の生命の連り”を霊魂と呼ぶならば」、これを認めなければならないというのである。これはまた、明治期の曹洞宗に見られた態度でもある(前回参照)。

20151229 11
宗派の出版部門に依ると、現在は霊魂観を示す出版物は無い。『檀信徒必携』には、施食会は「全ての亡き精霊の為に営む」とある程度で、『僧堂読本 曹洞宗を知る』では、「釈尊が『神や霊魂のようなものは存在しない(諸法無我)』と断言した」と霊魂の存在を否定する。だが、供養の場で「霊魂はあるか?」と尋ねられたら、『模範布教集第一集』に掲載されていた“死んだ息子の声が聞こえた話”等を紹介した上で、「私は永久不変に存続する各々の一霊の存在を固く信じておる」と述べた『㿻蘭盆会法話』のように、「ある」と答えるかもしれない。これら各宗派の霊魂観は、死後世界と関連がありそうだ。死後世界が即身成仏の世界と同じ宗派は霊魂の存在と霊魂不滅を認め、死後世界を現世と異質な世界とする宗派や、明確な死後世界が無い宗派は霊魂を否定する傾向が見られる。但し、檀信徒向け出版物では“霊”と表記していても、霊魂の存在を肯定しない宗派や、寺院向け出版物にのみ“霊魂”の語を用いる宗派もある。出版物には公開制限もあり、網羅できた訳ではない為、各宗派の霊魂観を判断するのは非常に難しい。“霊魂”が古語になった感もある現在、“霊”“いのち”“こころ” の定義を検証する必要もあるだろう。以上、各宗派の死後世界観と霊魂観を左表に簡単に纏めたが、霊魂観については前述のような事情もあるので参考に留め、本文を必ず参照して戴きたい。


藤山みどり(ふじやま・みどり) 東京大学文学部卒。『宗教情報センター』研究員として、宗教情報の分析と宗教界の動向調査に従事している。


キャプチャ  2015年11月号掲載


スポンサーサイト

テーマ : 仏教の教えと世界観
ジャンル : 心と身体

Categories
Profile

Author:KNDIC
Welcome to my blog.

Latest articles
Archives
Counter
I'm participating in the ranking.

FC2Blog Ranking

information
Search
RSS Links
Link
QR Code
QR