【言論の不自由】(01) 触らぬフェミに祟りなし

“従軍いやん婦”発言以来、ずっと一部の運動家の監視下に置かれている哀れなオダジマ。ジェンダー関連の発言が“広義で言えばDV”認定される運命、何とかならない?

20160124 01
DV・性暴力・ストーカー行為等、女性を対象とした犯罪は毎日のように起こっている。犯罪として告発されないものでも、セクハラや性的抑圧はあらゆる職場で繰り返されているし、就業に伴う性差別や、女性であることを理由とした解雇等、女性の権益を脅かす社会的な圧力も一向に衰えていない。そんな女性への暴力を告発し、性差別の意識を是正する為に、所謂“女性団体”は大きな役割を果たしてきた。最初に断っておくが、私は所謂“フェミニズム運動”全般を否定しようとは思っていない。思想についても同様。私は、彼女たちの思考と行動の在り方に敬意を抱いている。我が国の社会が未だに女性の権益の為に十分に開かれていないという現状についても、多くの部分で認識を共有している。当稿で私が明らかにしようと考えているのは、一部の女性運動家たちの抗議運動の在り方が、一般の人々に理解され難くなっている現状についてだ。理解されていないだけではない。彼女たちは煙たがられている。一部では、明らかに忌避され始めている。これは、真摯に女性の権益の拡大を願っている人々にとっては不幸ななり行きだと思う。逆に言えば、女性を家庭の中に閉じ込めておきたがる頑迷固陋な人たちにとっては、願ってもない展開だ。なので私としては、この場を借りて一部のフェミニズム運動家に行動パターンを再考するべく、老婆心ながらアドバイスを送りたいと考えている次第だ。老婆心という言葉がお気に召さないのなら、老爺心と言い換えても構わない。

2014年5月。集団的自衛権を巡る議論が白熱する中で、インターネット上に『戦争ラブな男を叱る/Hしない女の会』という組織が設立された。彼女たちは、インターネット上で参加・賛同の署名を求めると共に、同名のツイッターアカウントを通して以下のようなメッセージを告知した。

私たちは戦争ラブな男を叱ります。私たちは戦争ラブな男とはHしません。私たちは、戦争への道を作り、武器輸出を推進する政治家・企業家・ビジネスマン、あるいはその政治家を支持する男性たちに徹底的に抗議します。

私は反発を覚えた。というのも、“戦争ラブな男”と戦争の責任なり原因なりを一方の性別に押し付けるのは、立論の在り方として生産的に思えなかったからだ。『Hしない女の会』という旗の掲げ方もどうかしている。戦争とセックスの双方を甘く見ている。序でに言えば、2つしかない人類の性別を対立点にしてしまっている点で、反戦運動としても筋が良くない。戦争に反対する為の運動に、男女間の対立という無用な要素を持ち込むことで、一体何を実現したいというのだろうか? あまりにも馬鹿げている。「“戦争ラブな男”が戦争を起こす」という前提の粗雑さにも呆れる。我々が住んでいるこの世界は、“戦争ラブ”な男が戦争を起こして、“殺人ラブ”な男が人を殺す…みたいな単純なメカニズムで動いているゲーム画面ではない。私たちは、個々人としては其々に“お金ラブ”だったり“権力ラブ”だったりする人間たちの其々の行動や思惑が、どんな過程を通して戦争という事態を呼び寄せるのかについて、常に熟考しなければならない。“戦争ラブ”みたいなわかり易い悪役を仕立てて問題を単純化する藁人形芝居は、戦争のメカニズムを解明する為には何の貢献も齎さないし、況して、そういう考え方で戦争に反対する運動家が戦争を止められる道理も無い。当たり前の話じゃないか。『Hしない女の会』という問題の立て方も論外だ。何より、セックスを一方的に“女性から男性に与えるもの”と決め付けている点で、初めから人間の存在を馬鹿にしている。「やっぱし俺、セックスしたいし、戦争とか止めようかなあ…」てな調子で男たちが矛を収めることを夢想しているのだとしたら、それはあまりにも男性という性をナメた話だし、セックスを愚弄した想定でもある。




それ以上に問題なのは、“H”(性行為)を、戦争ラブなら「しない」、戦争ラブでなければ「してあげる」という取り引きの材料にしている点だ。セックスに付随するあれこれを、条件闘争の対価としたり、取り引きの為の通貨として利用することは、女性運動に携わる人々が予てから問題視している“性の商品化”そのものだし、女性をモノとして“性的に消費”する振る舞い方以外の何物でもない。別の言い方をするなら、性行為を取引材料にすることで交渉を有利に運ぼうとする態度は、フェミニズムが“虐げられた女性”の象徴として度々例に挙げてきた売春婦の処世と、何ら変わりのないものだ。売春婦が余儀なく選択させられている交渉術を、どうして反戦の為に行動する女性たちが態々好んでコピーするのか、私にはその理由がどうしても理解できない。で、私は以下のようにツイートした。
で、これが炎上した。まあ、当然ではある。“従軍慰安婦”というセンシティブな事柄を語呂合わせのネタに使ったのは、不適切な態度だった。無神経な言語運用でもあったし、不用意な発言でもあった。勿論、擬えること自体、下劣な言及だった。この点について、弁解の余地は無い。よくわかっている。

ただ、このツイートを受けて、私の元に届けられたレスポンスも相応に酷いものだった。「だめだもう絶対に殺す」という殺害予告を含めて、あらゆる種類の罵倒と糾弾と謝罪要求が寄せられた。流れの中でネトウヨ認定を頂載し、「日帝の手先」という古風な称号まで獲得することになった私はそれでも、
等と暫くの間、空しく抵抗を試みたものの多勢に無勢で、結局、
と全面謝罪することになった。仕方のないところだ。寧ろ、翌日になってからの謝罪はタイミングとして遅過ぎた。つまらぬ意地を張ってしまったものだと思っている。

20160124 02
攻撃は、この謝罪以後もずっと続いた。私が過去に書いた原稿の中の問題箇所(女性差別を含むと指摘されている部分)がインターネット上に公開され、過去発言についての検証が始まった。おかげで私は、引用部分だけで批判されることの不当さを回避する為に、インターネット上に公開されたフレーズを含む私の文章の全文を自分のブログに公開して、その原稿を書いた意図とその背景について説明せねばならなくなった。それでも炎上は収まらない。私は、これまでに幾つかの炎上事件に巻き込まれているが、この時のフェミ案件での炎上ほど長引いた(今でも続いている)例は他に無い。元AKB所属のタレントに罵詈雑言を浴びせてしまった時は、兎に角、大変な規模の炎上(新聞記事になりました)が起こった。が、その巨大炎上も1週間後には100分の1に縮小し、1ヵ月後には燃え殻さえ残さず、きれいに鎮火した。ところが、フェミ関連の炎上は決して鎮火しない。一度ターゲットとしてロックオンされた獲物は、一生涯ウォッチされ続ける。現に、私は“男根主義者”“セクシスト”“ミソジニーの権化”“ホモソーシャルの代理人”“マチズモの体現者”“バックラッシュの張本人”“封建道徳の容疑者”としてリストアップされ、今も一部の人々の監視下にある。本人の自覚としては、私は、リベラルな男だと思っている。女性に対しても、自分のつもりとしては、最大限にその権益を尊重し、社会参加を応援したいと考えている。“女三界に家無し”的な考えは言語道断だと判断しているし、選択的夫婦別姓制度法案には明確に支持の意向を表明している。ジェンダーフリー教育を敵視する自民党の女性政策にも、常に苦言を呈する立場から発言している。そのオダジマを「セクシストだ」と、彼女たちは言う訳だ。まあ、リベラルと言っても私が自分でそう思っているだけの話で、もっと左側にいる人たちからすればネトウヨと大差なく見えるのかもしれない。女性についての考え方も、私が自分で女性の味方のつもりでいるだけで、女性の側からすれば色々と足りない部分が見えるものなのだろう。その点は認めても良い。

偏見は、自分では中々気付けないものだ。とすれば、「私の中にも古臭い偏見やら差別観が残っている」と考えるのが自然だ。ただ、「私が幾許かの偏見を残し、尚且つミソジニー(女性嫌悪)を抱いている男なのだ」として、だ。だからといって、私のような男を敵認定して糾弾するのは、やはり得業とは言えないのではなかろうか。「オダジマのような半端リベラルは、大筋においては味方なのだから、欠点は欠点として指摘するにしても、もう少し穏当に扱っておいたほうが自分たちの為にもなる筈だ」と、どうしてそういう風に考えられないのだろうか? 一体に、女性運動に入れ込んでいる人たちは、“誰の目にも明らかな露骨な女性差別”を糾弾することよりも、「自分では進歩的なつもりでいる男のちょっとした言動の中に潜んでいる差別感情”にスポットを当てることに熱中しがちになる。多分、そのほうが“啓蒙”の意味が大きいように感じられるからだろう。が、“女性に対して協力的な人々の中にある軽微な差別”や、“女性を応援しているつもりでいる男の口から出てくる不用意な一言”を槍玉に挙げることは、長い目で見て、女性の利益にはならない。この種の“言いがかり”に見えてしまいかねない“抗議”や“糾弾”は、女性運動そのものの評判を落としてしまう。「ああ、またあの煩いフェミの連中が重箱の隅を突きに来やがった」「はいはい、面倒臭いから謝りますとも。はいはい、めんごめんご」と、性差別は却って温存される。というのも、こうした抗議が「だから女ってやつは…」という最もありがちな差別感情に傍証を与える結果になっているからだ。

扨て、“従軍いやん婦”を巡る炎上騒動から粗1年が経過した2015年4月末に、またしても私は炎上に巻き込まれることになった。今度は主役ではない。火の粉を被った形だ。連休中の新聞の紙面に、『肩すかしの大一番』と題された読者投稿のコラムが掲載されたのが事の発端だ。内容は、「さっきから黙り込んでいる妻の不機嫌にまるで気付かない夫の天真爛漫を嘆く休日の朝」といったほどの500字弱の文章だ。本人が特定されて再度炎上すると気の毒なので、これ以上詳しくは書かない。ともあれ、軽妙な筆致で、休日の朝の夫婦の日常を切り取った酒脱なコラムと私は読んだ。で、このコラムを、ネタにされた当事者であるその“夫”氏が掲載当日に読んだのがまた面白い展開で、“夫”氏はその旨をツイッターに書き込む。
と紙面の写真を添付しつつ、今度は“夫”氏が記事をネタにした訳だ。で、この“夫”氏のツイートに、夫妻を良く知る人々や相互フォローの人々が「笑った」「仲の宜しいことで」「奥さんあっぱれ」「ははは」等と反応を寄せる…。と、ここまではまあ、よくある微笑ましい話だった。

ところが、ツイッター上で、この“夫”氏のツイートが炎上する。
つまり、何というのか、この“妻の不機嫌に気付かない夫”は妻から愛想を尽かされていて、“最後通牒”を出されているにも拘らず、それにすら気付かずに能天気にツイッターをやっている男で、その無神経さは、洗面所を水浸しにすることや服を脱ぎっ放しにする日常の在り方も含めて、「広義でいえばDVに当たる」と認定されてしまった訳なのである。

私は、昨年の“従軍いやん婦”案件以来、「触らぬフェミに崇りなし」と考えて、ジェンダー周辺の話には極力関わらないようにしていたのだが、この時は、つい口を挟んだ。というのも、“夫”氏は私の古い知り合いで、公私共に親しくしている同業者だったからだ。 私は、彼を“DV夫”認定している人々を揶揄しにかかった。

と、当然のことながら、今度は私が標的になる。

これに対して、
と説明を繰り返したのだが、やはりこの時も、私のお話は全く耳を傾けてもらえなかった。

女性運動がその意義と思想を世間に知らしめる為に、当初、抗議と糾弾を運動方針の中核に据えたことは間違いではなかった。というよりも、女性運動というものが人々に知られていなかった当時は、そうやって世間の耳目を集める他に方法が無かったのだと思う。実際に成果もあった。私自身、“ジェンダー”という考え方を知ったのも、学生だった頃に出会った女性国体に依る抗議行動のニュースに触れたことがきっかけだった。“マチズモ”“ホモソーシャル”“性の商品化”“セクシズム”“ミソジニー”といった諸概念についても、その多くは報道された彼女たちの抗議行動を横目で眺めながら学んだものだ。しかし最早、そういう時代は終わっていると思う。女性の権益を拡大する為の運動は、敵を求める抗議よりは、もっと当たり前なPR活動や味方を増やす方向の活動に注力したほうが自然だし、ずっと効果的でもあると思う。少なくとも、オダジマのような温和な男の心を“フェミにじる”のは得策ではない。仲良くして下さい。お願いします。


小田嶋隆(おだじま・たかし) コラムニスト・テクニカルライター。1956年、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒。食品メーカーの営業マンを経てテクニカルライターの草分けに。著書に『地雷を踏む勇気 人生のとるにたらない警句』(技術評論社)・『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)等。近著に『超・反知性主義入門』(日経BP社)。


キャプチャ  2015年12月号掲載


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テーマ : フェミニズム
ジャンル : 政治・経済

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