【“疑似科学”と科学の間】(01) 魅力的な“ストーリー”にご用心! “疑似科学”が人々を惹き付ける理由――中谷内一也×武田徹×竹内薫

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竹内「先ず、抑々『科学的である』とはどういうことかというと、科学・哲学では反証主義の立場を取るのが普通です。その仮説が誤りだという証拠が出てきた場合、潔くその仮説が誤りだと認めるのが科学的な態度だということです。ただ、実際には完全に反証できるものは少ないのも事実です。STAP細胞だって、『絶対に存在しない』と反証することは結局できなかったんです。それが、あの騒動が長引いた理由です。その意味で、科学的か科学的でないかを断言することは、非常に難しいことなんですよ」
中谷内「STAP細胞は“疑似科学”だと考えていいんですか?」
竹内「今はそう言えると思います。科学と“疑似科学”の両極の間には広大なグレーゾーンが広がっていて、あらゆる仮説がその間で揺れ動いているんです。当初、STAP細胞は、論文が“ネイチャー”という世界的に有名で権威のある雑誌に掲載されたこともあって、“科学的な仮説”として受け止められましたが、論文の査読をした人たちは実験をして確かめた訳ではありません。ですから、この時点では飽く迄も仮説に過ぎない訳です。その仮説が様々な第三者に追試されることで、仮説の確からしさが証明されていく訳ですが、STAP細胞の場合は誰も再現できなかった。だから、時間が経つに従って『どうやら、この仮説は誤りだな』とわかってきた訳です」
武田「ただ、無いものの証明は難しいですからね。“完全に誤り=黒い仮説”だと言い切るのは難しくて、限りなく黒い仮説でも、その中の正しそうな部分に注目して研究してしまうのが科学者の性なんです。アプローチを変えることで、“科学的に正い=白い仮説”になる可能性を追究する人はいますから」
竹内「そのグレーゾーンの幅広さが、中々一般の人には理解してもらえない。『で、正しいのか間違いなのか、どっちなんだ?』と二分法で問われると、科学者としては困ってしまう。グレーの中にも白寄りのグレーと黒寄りのグレーがありますから。『100%正しい』とも『100%間違い』とも断言し難いんです。例えば、精神病の治療法として、頭蓋骨に穴を開けて脳の一部を切り取るロボトミー手術を考案したアントニオ・エガス・モニスはノーべル賞を取っていますが、今ではとんでもない治療法だとわかっていますよね。ある時代に白い仮説だと言われていたものが、後に黒い仮説だと判明することはあるんです」
武田「白が黒になる場合もあるし、黒が白になる場合もある。そうした事情を思うと、科学と“疑似科学”は質的にそう明確には隔てられない。更に言えば、疑似科学的なものも科学的な解決を求めたがる気分が作っているのであって、科学を求めれば求めるはど“疑似科学”も出てきてしまうという矛盾があります。

――人に害を及ぼすような危険なグレーの仮説はありますか?
竹内「医療関係、特に民間療法には怪しいものが多いです」
中谷内「ホメオパシー(植物や鉱物等の成分を限りなく薄めた水を砂糖玉に染み込ませ、飲み薬のようにして使う民間療法)はどうですか? あれは素人目にも胡散臭いですが…」
竹内「“疑似科学”と言っていいと思います。ただ、“治療”を受けている患者が『効果がある』と信じている時に、“プラセボ効果”――つまり、薬物そのものの効能ではなく心理作用に依って症状が改善することはあるのかもしれない。科学的効果は実証されていないことや、リスクがあることを承知の上で、それでも本人が選択するというのなら、それを無理に止めるのは難しいです」
武田「嫌味な言葉だけど、“愚行権”という概念もある。何を“愚”と思うかも人其々だし。ただ、それを認めた上で尚、言えることは言っておきたい」
竹内「こういうことを言って『“疑似科学”擁護者だ』と誤解されてしまうと困るんですが(笑)。科学者としては、正確には『現時点ではグレー度80%くらいだから粗怪しい』『現時点ではグレー度10%くらいだから粗正しい』という言い方になりますね」
武田「例えば、放射線の話にしても、誠実な科学者なら、たとえ危険度が低くても『絶対に安全だ』という表現はできない訳です。ただ、そうすると、一般には『危険だ』と言っていることと同義だと受け止められてしまう。科学者と一般の人々との間で認識の齟齬が生まれてしまうのが難しいところです」
中谷内「専門家でない立場からすれば、それも仕方ないと思う部分もあります。僕は、人々がリスクをどのように捉えるのかを研究しているんですが、例えば、専門家は被曝に依って、『100人のうち10人が癌になるよりは、100人のうち1人が癌になるほうがマシだ』という確率的な判断を行う訳ですが、個人の立場からすると『危険か安全か』の2択になってしまう。確率が10%であろうと1%であろうと、自分がそのうちの1人になってしまっては意味が無い。そう考えると、専門家の考え方をそのまま押し付けるのも上手なコミュニケーションとは言えないと思います」




武田「ただ、10%と1%ではやはり大違いですし、その差が何を意味するのかは理解してほしいです。それができれば、“白か黒か”の極端な思考を中和できるのではないかと思うんですけどね」
中谷内「恐らく、普段は多くの人が冷静に確率的な判断をしていると思うんです。ただ、災害や病気といった非常事態に陥った時に、極論に走ってしまうのかもしれません。人間は直感的・感情的モードと理性的・分析的モードの2つで思考しています。理性的・分析的に考えることができるからこそ、論理的なコミュニケーションができるんです。例えば、地震学の専門家が言葉を尽くして地震のリスクの説明を行い、備えの必要性を説いたとします。人々は理性的・分析的モードでその話を理解する。確かに、言葉の意味は伝わっている。しかし、それで人々が地震に対する備えをするかというと殆どしない。何故かというと、人間の行動の多くを支配しているのは直感的・感情的モードだからです。福島で放射線に関するリスクコミュニケーションをしている方も、ここが大変だと思うんです。専門家の仕事は数字や論理で説明することですから。人々は専門家の話を頭で理解はしても、思わず『本当に安全なんでしょうか?』と聞いてしまう。これは仕方のないことなんです」
武田「個人としては、『自分の身に万が一でも不幸が及んだら困る』という直感的・感情的な不安が前景に出てきてしまうということですね」
中谷内「今は情報が溢れているので、自分の気持ちを肯定してくれる情報が必ずどこかにありますから。すると、『あの人も同じことを言っている』と直感・感情に基づいた判断が補強されていくんです」

――「リスクはありません」と言われると安心するし、惹かれますよね。
中谷内「“ゼロリスク症候群”と池田正行氏が命名していますが、過剰にゼロリスクを求め過ぎると人間は冷静な判断ができなくなるんです。20%より10%のほうがマシという風に、定量的に思考するのは認知的な負荷が高いんですよ。でも、ゼロと言われると何も考えなくて済みますから」
武田「交通事故を絶対に起こさない方法は自動車を走らせないことです。ただ、動かない自動車には何の意味も無い。そう考えると、ゼロリスクを求めることのある種の滑稽さが見えてくるんではないかと思います」
中谷内「確率に対して我々がどう判断するかというと、低い確率は過大視し、高い確率は過小視するんです。宝くじを買う人は、『当たらないと思うけど、買わなければ確率はゼロだから』という言い方をします。極めてゼロに近くても、ゼロでなければ高く見てしまう。逆に、『100%大丈夫だ』と言われると安心するんですけど、『99.9%大丈夫だ』と言われると、残り0.1%のほうが気になってくるんです。リスクが限りなくゼロに近くても、ゼロでない以上は怖いと感じてしまう」
竹内「日本人には、どこか科学に対する不信感が根強くある気がしていて、これは宗教が関係していると思うんです。欧米の場合は一神教文化が根強く定着していますから、『神様が作ったこの世界の原理を解き明かしたい』という気持ちがどこかにある。それが様々な科学的法則の発見と信頼に繋がっていく訳です。一方で日本の場合は、八百万の神がいて、自然と調和することが非常に尊ばれる傾向があります。『科学で人工的なものを作っていくよりは、自然のままのほうがいい』という思いですね。自然に手を入れる科学というものに対する根本的な不信。これがゼロリスクでなければいけないというような、科学に対する厳しい態度に繋がっている気がするんです」
武田「キリスト教では、宗教と科学の関係は相当に深いと思います。“ノアの方舟”の話は、洪水という自然現象を方舟の製造という科学技術に依って乗り越えていくことができるという信念が基礎にありますよね。対して、日本の場合は桃太郎ですから(笑)」
竹内「桃から人間が生まれる…。自然と人間の垣根が曖昧ですよね」
武田「『有機農法や漢方薬のほうが安全である』という思い込みは、『自然に近ければ近いほどいい』という価値観の現れですが、必ずしも科学的な態度ではありません」

――民間療法の流行も、こうした自然信仰が背景にあるんでしようか?
竹内「体にメスを入れたり、不自然なことをすることに日本人は抵抗が強い気がします。先日、癌で亡くなった女優の川島なお美さんもそうですが、それが先端的な医療よりも、民間療法を選ぶような気持ちに繋がっていくんだと思います。僕の伯母は乳癌になった時に、手術をせずに丸山ワクチンを使っていたんです。やはり、自分の体にメスを入れることに対する抵抗感があって、そうでない方法があるならそちらを信じたいという心理はある。結果的に伯母は命を落としたので、未だに悔やまれるんですが」
中谷内「我々が医療や科学的な技術を採用するか選択を迫られた時に、その技術のリスクとメリットを冷静に比較衡量するだけではなくて、誰がそれを勧めてくれるのかということも大きいと思うんです。リスクの研究でも、ハザードそのものも怖いんですが、それを管理する人間を信頼できない時が一番怖いということがわかっています」
武田「西洋医療は、基本的にエビデンスの数字に基づいたものですよね。でも、いざ自分が病気になった時に、いくら数字を並べられてもそれで自分の全てが示されたとはどうしても思えない。存在のかけがえのなさが数字で一般化されてしまうことへの違和感。この辺りも、西洋医療不信の原因なのかなと思いますね」
中谷内「それは先に申し上げた、統計的な情報の影響力はそれほどないんだということと関わってくると思います。科学的であるということは、人の命や健康を数字に置き換える訳ですよね。そこに個人の人格は無い訳です。でも日常生活では、『この人だから信頼する』とか、顔と名前がある関係性の中で生きている。いくら数字を出されても、実際に影響力があるのは自分が信頼する顔と名前なんです」

竹内「僕は、ストーリー性も関係していると思うんです。科学的な裏付けが無くても、“奇跡の薬”とか“画期的治療法”と謳って、そこに『実際に治りました』なんて例が幾つかあれば、思わず惹かれてしまう」
武田「ただ、意地悪く見ると、『結局は、その時点で楽なほうを選んでいるのでは?』と思う面もあります。所謂“民間療法”的な世界には効果を謳う情熱的な語り口とかもあるけれど、それは痛みの少ない、副作用がしんどくなさそうなほうを選びたがる人間の弱さというか、性の背中を押しているだけなのかも」
竹内「やはり、『リスクはありません』というのは眉唾なんですよ。どんな治療にもメリットとデメリットが必ずありますから」
中谷内「医者のようなリスク管理者に対する信頼は何に依って決まるのかというと、科学者としては、専門家としての業績や能力を見ますよね。しかし、一般的には、能力よりも『価値を共有しているかどうか』のほうが影響が大きいという調査結果が出ているんです。3.11の後、東京電力や旧原子力安全・保安院等、専門機関に対する人々の信頼を測定し、どんな要因が信頼を決めているのかを調べました。『能力因子が最も高い』と予想していたのですが、一番大きかったのは『価値を共有しているかどうか』だったんです。自分たちと同じ目線でものを見て、喜んだり悲しんだりするかどうかということです。科学者は逆ですよね。感情は捨てて、エビデンスを優先する訳です。しかし、その態度を一般の人たちにも当て嵌めるのは難しい。科学的に説明するだけでは納得してもらえないんです。それよりは、自分の気持ちをわかってくれる人に診てもらいたいということになる。更に、その治療法で治ったという人の話を聞けば、科学的でなくとも、当人にとっては立派な“エビデンス”になってしまうんだと思います」
竹内「ストーリーをエビデンスだと錯覚してしまう。治療者との信頼関係のほうが、科学的根拠よりも優先されるということですね」
中谷内「それが医学的にいいのかどうかは別問題ですけどね。科学的説明よりも、感情に訴えるエピソードの影響力のほうが大きいんでしょう」

竹内「『水は人の言葉がわかる』なんて珍説も流行しましたけど、『そんなことはあり得ない』と常識的にわかるじゃないですか。にも拘らず、“いい話”がくっついていると共感する人が出てきてしまう。必ずしも科学的な説明でなくとも、そこにストーリー性があれば、人々に与えるインパクトは大きくなる。ストーリー性を利用するのが“疑似科学”のテクニックなのかもしれません」
谷内「科学者のように、論理で勝負している人間でさえ、根っこにあるのは直感や感情ですから」
武田「加えて、やはり宗教も関係していると思います。西洋では未だに創造説と進化論が対立しているじゃないですか。この緊張関係が、科学と科学的でないものの区別に対する人々の関心を集めるんだと思います」
竹内「緊張感があるから、常に公の議論になる訳です。日本はそれが無いですからね。抑々、科学に対する関心が低い。だから、怪しげなものが出てきても放置されてしまう。科学者が緊張感を持って『あれは“疑似科学”だ』と指摘するようになればいいんですけどね」
谷内「『人間は直感や感情に流されてしまう生き物なんだ』ということを自覚しておくことも必要です」
武田「科学と“疑似科学”の線引きは確かに難しいんですけれども、明らかにおかしいものにひっかかるのは悲しい。本人にしてみれば切迫した状況なのでしょうが、それでも一歩引いて冷静に考えてみればわかることもある。長い目で見て得な選択、自分の望む結果に近づくことができる選択をしてほしいですね」
竹内「聞こえのいい話が出てきたら、最初は『眉唾だな』と構えておくくらいが丁度いいでしょうね」
武田「どんな仮説も初めはグレーですが、その仮説が疑いを持たれずに定着する為には、科学者の実証的な説明の積み重ねも然ることながら、結局は時間・歴史が必要なのだと思います。新しい仮説は時の洗礼を経ていないので、どうしても疑いの余地が残ってしまいます」
中谷内「情報との距離の取り方ですよね。『これで癌が治る』といった広告はよく見かけますけど、それが本当ならとっくにきちんとした医療で採用されている筈ですから」
竹内「科学者は“疑似科学”を放置せず、もっと積極的に発言し、一般の人々は健全な懐疑主義を持つことが必要だと思います」


中谷内一也(なかやち・かずや) 同志社大学心理学部教授。1962年、大阪府生まれ。同志社大学文学部卒。同大学大学院心理学専攻博士課程単位取得退学。博士(心理学)。『日本学術振興会』特別研究員・静岡県立大学・帝塚山大学を経て現職。専門は社会心理学。著書に『安全。でも、安心できない… 信頼をめぐる心理学』(ちくま新書)・『リスクの社会心理学 人間の理解と信頼の構築に向けて』(有斐閣)等。近著に『信頼学の教室』(講談社現代新書)。

武田徹(たけだ・とおる) ジャーナリスト・評論家・恵泉女学園大学人間社会学部教授。1958年、東京都生まれ。国際基督教大学教養学部人文科学科卒。同大学大学院比較文化研究科博士課程修了(一般意味論・比較言語思想史専攻)。法政大学・東京都立大学・東京大学等でメディアやジャーナリズム教育に携わる。著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社)・『暴力的風景論』(新潮選書)等。

竹内薫(たけうち・かおる) サイエンス作家。1960年、東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史・科学哲学専攻)、同大学理学部物理学科卒。マギル大学大学院博士課程修了(高エネルギー物理学専攻)。博士(理学)。『サイエンスZERO』(Eテレ)ナビゲーター。『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)・『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書)等著書多数。


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