【昭和史大論争】(01) 満洲事変“解決”を妨げたマネー敗戦

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日中戦争は、いつ始まったのか――。こう問われると、多くの日本人は「1931年9月18日に起きた満洲事変から」と答えるでしょう。「満洲事変に依り日本の中国侵略が始まり、日中戦争へと至る中国との対立の火種が作り出された」と考えられているからです。この歴史観を戦争が続いた凡その期間をとって“15年戦争史観”と言い、現在の日本の歴史教育にも採り入れられています。しかし、事実を辿ると、実際に日中戦争が始まったのは1937年7月7日に北平(現在の北京)近郊で起きた盧溝橋事件からでした。果たして、15年戦争史観で言われるように、満洲事変と日中戦争は一連の繋がった戦争であったのか? 若し繋がっていたとしたら、何故満洲事変を終えられなかったのか? 満洲事変が日中戦争へと至る決定的ポイントはどこにあったのか? 本稿では、満洲事変以降、日中両勢力の接触点となった中国の華北地方の情勢に着目しながら、以上の問いを検討していきます。満洲事変と日中戦争が繋がった戦争かどうか考える上で重要な争点となるのが、1933年5月31日に締結された『塘沽停戦協定』をどう評価するかという問題です。同協定は、満洲事変以来続く日中両軍の戦闘を終結させることを目的に、日本の在外派遣部隊である関東軍と中国軍との間で締結されました。満洲事変を起こした関東軍は1933年2月、満洲(現在の中国東北部)の南部に位置する熱河省(現在の河北省北部)を攻略し、『満洲国』の一部としました。その戦いは熱河省だけに止まらず、関東軍は万里の長城を突破し、河北省東部にまで戦線を拡げました。関東軍の進攻に対し、蒋介石率いる『国民政府』は、敵対する『中国共産党』との戦いを優先し、関東軍とは抵抗を続けながら現地交渉で解決を図ろうとしました。この時、中国側で交渉役に立ったのが、知日派で対日外交の経験を持つ黄郛でした。

1933年5月中旬、停戦交渉の為に北平を訪れた黄郛に対し、関東軍は軍事的威圧を加えながら交渉を有利に進めました。その結果、停戦協定は関東軍の要求を全面的に受け入れた内容となりました。協定は全5項からなり、その趣旨は、今後日中両軍が衝突しないよう、河北省蘆台から察哈爾省延慶まで軍事境界線を設置し、同線と長城線に囲まれた河北省東部(略称は冀東)一帯を非武装地帯とするというものでした。これに依り、華北にまで及んだ満洲事変は漸く終わりを告げました。しかし、現在の戦争でもそうですが、停戦合意は破られ易いものです。塘沽停戦協定は、結果から見れば、満洲事変に依って齎された日中の戦火を消すことはできず、日中戦争を招来してしまいました。塘沽停戦協定には如何なる問題があったのでしょうか? 1つは、非武装地帯となった河北省東部からの日中両軍の撤退方法にありました。協定第1項で、中国軍は速やかに軍事境界線の「以西及以南の地区に一律に撤退し爾後同線を越えて前進せず」(『日本外交年表並主要文書』)と定められたのに対し、第3項では、中国軍が第1項を遵守しているかどうか確認した後、関東軍は「自主的に概ね長城の線に帰還す」(同)と規定されていました。つまり、撤退期間や方法について、中国軍には厳しく、関東軍には甘く設定されていました。その結果、関東軍の一部部隊は翌年になっても非武装地帯から撤退せず、中国側から反発を招きました。もう1つは、非武装地帯の治安を維持する中国側警察機関の問題でした。同機関設置の取り決めは、協定第4項に明記されていました。同項では、その警察機関について、「日本軍の感情を刺戟するが如き武力団体を用ふる事なし」(同)とありました。この一文は、停戦協定をできるだけ自分たちの都合のよいものにしようとした関東軍の求めに依って書き加えられました。関東軍は、自らの息のかかった武力団体を警察機関に充てることで、非武装地帯から軍を撤退させた後も同地に影響力を及ぼそうとしました。




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関東軍が警察機関に充てようと選んだのは、李際春率いる丁強軍でした。丁強軍は元々、関東軍が友軍(備軍ともいう)の1つとして育成した部隊で、関東軍が長城線を越えた際、彼らも関東軍を追って河北省東部に攻め込みました。停戦協定成立に当たり、丁強軍の後処理に困った関東軍は、彼らを非武装地帯の警察機関に充てることでそれを解決しようとしました。停戦協定成立から約1ヵ月後の7月3日、関東軍は非武装地帯を管理する中国側組織の政務整理委員会の関係者を大連に招き、同地帯に残された諸問題を話し合う会議を開催しました。この席で、関東軍は委員会に対し、丁強軍のうち、優良な4000人を選抜して『保安警察隊』に改編し、残りは武装解除して解散させることを決めました。その後も関東軍と委員会は会議を重ね、非武装地帯に残留していたその他の関東軍の友軍も統廃合し、警察隊に組み入れました。このように、塘沽停戦協定は確かに満洲事変を終わらせました。しかしその一方で、撤退方法や警察機関の問題等、協定が関東軍に有利な内容であった為、関東軍に非武装地帯に対する新たな“野心”を芽生えさせ、却って日中戦争を引き起こすような不安定要因を生み出しました。この点を15年戦争史観は重視し、満洲事変が塘沽停戦協定成立後も終わっていないと見做しています。満洲事変から日中戦争までは凡そ6年ありました。その間、塘沽停戦協定以外にも、満洲事変を終わらせるチャンスは幾度もありました。例えば1933年9月、外務大臣に就任した広田弘毅が推し進めた対中融和の“和協外交”は、中国側に好意的に受け入れられ、1935年5月、日中両国が以前から希望していた大使交換を実現させるきっかけとなりました。また、同年10月4日には中国側の親日政策を受け、広田外相が日中の親善関係の実現を目的に、その方針を定めた“広田3原則”を発表しました。更に、非武装地帯では満洲事変で中断していた満洲と長城線以南の中国本土との間の列車乗り入れや、郵便の相互取り扱いが順次再開されました。このような日中両国の友好関係がその後も促進されれば、満洲事変後も日中間で燻っていた火種を消せたかもしれません。その一方で、1935年に入ると、日中戦争勃発へと一歩前進するような事態が華北で起こりました。同年夏、関東軍は参謀本部の協力の下、非武装地帯を含む華北の分離独立を目指す、所謂“華北分離工作”を始めました。その主な目的は、対ソ防衛に当たる満洲国の後背地である華北の安定、並びに華北にある資源の獲得でした。

このような華北を巡る混沌とした状況の中、満洲事変が日中戦争へと至る“ポイントオブノーリターン”は、いつであったのか? 筆者は、「整制改革がその分岐点ではなかったか?」と考えます。幣制改革は、1935年11月3日に発表された国民政府の通貨金融政策で、これ以後、中国の通貨制度は従来の銀本位制からイギリスポンドを基準とした管理通貨制度に移行しました。何故、幣制改革が日中戦争を招いたのか? 1930年代に入ると、中国経済は世界恐慌の影響に加え、満洲事変に依り広大な満洲の市場が日本に奪われたり、毎年の天災や戦乱等で諸産業が破壊されたりしたことで、深刻な不況に見舞われました。更に1934年8月、アメリカが物価引き上げ策の一環として『銀買上法』を実施すると、銀本位制であった中国から大量の銀塊が流出しました。その額は、同年中だけで2億5700万元に上りました。これは、前年の銀輸出額の17.8倍で、翌1935年6月末までにアメリカが世界中から買い集めた銀の8割以上に達しました。中国経済の未曾有の不況と金融恐慌、そして華北分離工作に依って再び華北が戦乱に巻き込まれる可能性が出てきたことに、華北に権益を持っていたヨーロッパ列強は強い危機感を抱きました。その中でもイギリスは、炭鉱や海関等の権益に加え、華北が重要な輸出先であったことから、中国の経済と金融の早期回復と華北情勢の安定を特に求めていました。これら中国の問題を解決する為、イギリス政府は1935年6月、政府財政顧問のF・リース=ロスの中国派遣を決定しました。リース=ロスは、ハーグ国際会議代表や国際連盟経済委員会代表等を務めたイギリスきっての財政家で、1930年代イギリスの対外経済政策に強い影響力を持っていました。9月、中国に向かったリース=ロスは、その途中で日本に立ち寄り、大蔵省の高橋是清大臣・外務省の広田弘毅大臣・重光葵外務次官らと会談し、日本側に中国への財政支援と中国幣制の改革に対する協力を要請しました。この時、リース=ロスは中国に満洲国を承認させる代わりに、満洲国に中国の負債の一部を支払わせるという案を提示しました。これに対し、日本側は国民政府への不信感から「幣制改革は容易に成功しない」と判断していました。また、幣制改革を支持すると、華北分離工作を妨害する恐れがあったことから、リース=ロスの提案を認めず、協力も拒否しました。

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既に、満洲国圓と日本円との等価リンクに成功していた日本は、幣制改革失敗後、中国元も日本円とリンクさせて、中国経済にも影響力を及ぼそうと考えていました。日本側との交渉が不調に終わったリース=ロスは、イギリス単独で改革に当たることを決め、中国に渡ると、国民政府関係者や中国財界要人らに幣制改革の実現に向けたアドバイスを行いました。この時、中国では金融恐慌が深刻化し、紙幣の発換停止にまで追い詰められていました。イギリスから1000万ポンドの借款を得る約束を交わした国民政府は、11月3日に幣制緊急令を発し、翌4日から幣制改革を実施することを宣言しました。この幣制改革で何が変わったのか? 1つは、銀本位制から管理通貨制度に改め、その際に対外為替を1元=1シリング2ペンス半に固定したことでした。不安定な銀本位制から脱却し、中国の通貨が当時世界の基軸通貨であったイギリスポンドとリンクしたことで、中国の金融恐慌は未曾有の危機から漸く抜け出すことができました。一方で、ポンドとのリンクは、イギリスが中国経済に決定的な影響力を持つことになったことも意味していました。もう1つは、銀本位制の下、これまで銀塊を保有していた銀行が独自に発行していた銀行券を回収し、今後は国民政府が指定した中央・中国・交通の3銀行(翌年に中国農民銀行も加わる)が発行する法定貨幣(法幣)を統一通貨にしたことでした。この法幣に依る通貨統一には、国民政府のもう1つの思惑がありました。当時の華北では、関東軍が河北省東部に侵攻した際に激しく抵抗した第29軍軍長の宋哲元が軍事実力者として擡頭していました。幣制改革の実施から遡ること3ヵ月の1935年8月、北平市長に就任した宋哲元に対し、華北分離工作を進める関東軍は、宋哲元を工作後に出来上がる華北親日自治政権の指導者にしようと説得を始めました。この時、宋哲元の軍事力を支えていたのが、河北省銀行を始めとする華北に拠点を置く銀行でした。宋哲元は支配下に置いた銀行に紙幣を発行させて、財源に充てていました。国民政府は、華北分離工作をこれ以上進展させない為、幣制改革で通貨発行権を一手に握り、金融を通して華北を繋ぎ止めておく必要がありました。

しかし、幣制改革は却って、関東軍に華北分離工作を急がせる口実を与えました。1935年末、関東軍は知日派で黄郛に代わって非武装地帯を管理していた殷汝耕を説得して、同地帯を領域とする冀東防共自治政府を成立させました。国民政府の支配からの離脱を宣言した冀東政府は、冀東銀行券を発行して法幣に対抗したり、満洲から来た密輸品を中国国内に横流しする等して、日中関係に新たな火種を生み出しました。一方、華北分離工作に依って関東軍が華北に影響力を広げたことを危惧した日本政府は1936年5月、本来は華北を管轄範囲とする支那駐屯軍の兵力を3倍近く増員(約6000人)して、関東軍との軍事バランスを見直しました。増員は日本側にとっては、これ以上中国と紛争を起こさない為の措置でしたが、中国側から見れば明らかな日本側の軍事的威嚇でした。その為、国民政府は外交ルートを通して日本政府に抗議し、中国各地では増兵反対のデモが起きました。増兵を受けた支那駐屯軍は、兵舎に収容し切れなかった一部部隊を北平に程近い豊台に移駐させました。支那駐屯軍は中国側との条約に依って、天津の他、北平と山海関の間を走る鉄道の沿線都市の駐屯が認められていました。しかし、豊台はその中に含まれていませんでした。支那駐屯軍は条約違反であることはわかっていましたが、“臨時措置”という名目で駐屯させました。1937年7月7日、豊台の支那駐屯軍1個中隊が北平の西にある盧溝橋附近で夜間演習をしていたところ、同地を守備していた第29軍と軍事衝突を起こしました。これが『盧溝橋事件』の始まりでした。関東軍の華北への“野心”を抑える筈だった支那駐屯軍の増兵が、皮肉なことに8年に及ぶ日中戦争を引き起こす直接のきっかけとなりました。更に、その元を辿ると、日本が整制改革の対応を結果的に誤ったことが日中関係を決定的に悪化させ、満洲事変を日中戦争へと繋げた“ポイントオブノーリターン”となったと言えます。


広中一成(ひろなか・いっせい) 三重大学共通教育センター非常勤講師。1978年、愛知県生まれ。愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。専攻は中国近現代史。著書に『ニセチャイナ 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社)・『語り継ぐ戦争 中国・シベリア・南方・本土“東三河8人の証言”』(えにし書房)等。


キャプチャ  2015年秋号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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