週刊誌を買い占める学会員、予見されていた自公独裁体制…メディアを攻撃し続けた創価学会が一転してメディアを利用し始めた理由

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一切の批判を受け付けなかった教条主義な創価学会は、これまでも屡々メディアと対立してきた。対立の根底にあるのは、「創価学会をろくに知りもしないで何が批判か。偏見だ」という同会の強固な姿勢が、メディアを敵対視してきたのである。そうした根強い姿勢が、言論の自由の下、たとえ正当な学会報道であっても受け入れを拒否してきた。何年か前、地方に取材に出向いた時、創価学会婦人部の幹部宅を訪ねる機会があった。襖を開けて座布団を出された時、隙間から天井裏まで積み重ねられた真新しい週刊誌の山を見たことがある。創価学会に批判的な報道をする週刊誌類を「買うな、読むな、見るな、触るな」と指導されていた地方の幹部は、『週刊文春』や『週刊新潮』が発売される当日の朝に、駅の売店や書店を回って買い占めていたのだ。また、同じく学会員宅の仏壇には、筆者等の創価学会に批判的なジャーナリスト名が列記された用紙を拝見したことがある。罰を与えようと祈願をしていたのだろうか。それでも、近年になって様変わりというか、寧ろ創価学会側からメディアに急接近してきている傾向が強くなっている。メディアの怖さと裏腹に、宣伝力も無視できなくなったからだろうか。その背景と理由を追ってみよう。

2015年11月18日に創立85周年を迎えた創価学会は草創期時代、信者(現在は“会員”と呼称)を急速に伸ばしていた。同時期、雨後のタケノコと言われるほど多くの新宗教も誕生した。『立正佼成会』『霊友会』『生長の家』『PL教団』等がその代表格だが、一様にこうした新宗教団体は布教の口上に“現世利益”を説いた。別けても、創価学会は「病気が治る」「金持ちになる」「幸せになる」「成仏ができる」とし、草創期時代の2代会長・戸田城聖は、崇拝の対象にした本尊を“幸福製造機”とまで命名していたのである。当時の機関紙『聖教新聞』を捲ると、「癌が治った」「医師も見捨てた難病が回復した」といった信者たちの体験記が紙面を埋め尽くしていた。ところが近年になって、“現世利益”の言葉は衰退の一途にあり、創価学会布教の源にあった“成仏”の言葉さえも粗消滅したのである。同年9月5日、八王子にある創価大学で『日本宗教学会第74回学術大会』が開催された。席上、創価大学の教授で創価学会教学部の顧問を務める宮田幸一氏が、こんな発言をして注目を浴びている(要旨・カッコ内は筆者)。

…(創価学会)は、今までは「日蓮宗各派の寺院にある(日蓮)大聖人が書かれた曼荼羅本尊は全て功徳がないよ」としてきました。今回(2014年11月、創価学会が本尊等の会則を変更)は、「等しく本門の本尊である」ということを認めました。これはどういうことかというと、「大聖人の書かれた本門の本尊だから、それは題目をあげれば皆功徳があるでしょう」という立場です。過去において創価学会は、「学会の信心だけ功徳がある。他の日蓮宗には無いよ」と言ってきましたが、そんなことを言っても「じゃあ、日蓮宗を信仰している人は皆、不幸になっているのか?」というと、これはそう中々言い切れないですね。…それを信仰している人たちが「功徳がある」と思えば「ある」だろうし、「無い」と言えば多分「無い」だろう。(日蓮正宗の本尊を)拝んで「それは功徳が無いよ。罰が当たるよ」ということは、もう言ったりできないということです…。





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今日の創価学会を支えてきた信者の多くは、草創期時代に入信した古参の信者たちである。現在の池田大作名誉会長以下、入信する際に「日蓮正宗を信仰すると絶大な功徳がある。他の宗教を信じると罰が下る」と教えられ、別けても同じ“日蓮宗”各派について創価学会は、凄まじい攻撃を仕掛けてきた。恐らく、古老の日蓮宗僧侶の中で、同会の青年部たちから取り囲まれ、激しい法論を挑まれた経験者は何人もいる筈だ。北海道小樽市で開催された“小樽問答”(1955年3月11日、日蓮宗身延派と創価学会青年部の法論)等は、その一例である。それが今になって、凡そ800年前の鎌倉時代に産声を上げた日蓮聖人の教義が変わった訳ではない。信徒団体である創価学会の都合(“日蓮正宗”との決別)で本尊が改正されると同時に、「日蓮の本尊に功徳があると言えばある。無いと言えば無い」と改正されたら、信者はたまったものではないだろう。教団の屋台骨である“本尊”の存在が揺れ動き、更にもう1本の柱である「池田先生についてきたら間違いない」という、長年に亘って組織の求心力の役割を果たしてきた池田名誉会長も高齢化し、会員の前に顔を見せられないほど衰弱した。“現世利益”はもう古い。核心の本尊も微妙な状況にあり、組織の象徴として神格化されてきた名誉会長の存在も風前の灯である。それでは、創価学会は何を布教の糧にして組織を維持し、拡大していくのか? 前回は“創価学会・聖教新聞テレビCM問題”を取り上げたが、各地方のテレビ局からキー局に至るまで聖教新聞や創価学会のCMが流れている。同じくラジオ放送もそうだが、どのCMにしても「創価学会の信仰が正しい」とか、「聖教新聞を読むと功徳がある」といったCMではない。宗教とは全く関係のないCMで、「人間がいます」といったキャッチコピーが流れている。教団に好感を持たせようというイメージ広告で、会員の増加を図り、公明党の支援者数を伸ばそうという目的であろう。

池田大作名誉会長の著書に、昭和40(1965)年から聖教新聞で連載が続いている『人間革命』(1993年から『新・人間革命』と改名)という著書がある。会員の“バイブルの書”と言われ、世界中で翻訳され、通巻4000万部のベストセラーだという。その第2巻に、次のような記述がある。

…或る人は利口気にいう。布教に、ラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだと。何を浅はかな言であろうか。俗にいうPRなど学会に絶対に必要ないのだ。これこそ、多くの新興宗教の取るべき悪質な企業宗教の手段にほかならない。正法は断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである…。

日本の宗教界でテレビ・ラジオCMの露出度が断トツに多い創価学会。PRは悪質な企業宗教の手段、法を下げるもの――。そう言って放った矢が今、創価学会に突き刺さっている。高額なCM代金まで支払い続けてメディアと迎合する創価学会。振り返って同会は、メディアを弾圧する壮絶な歴史もあった。1970年前後に起こした『言論・出版妨害事件』がそうである。出版界の歴史にも刻まれた同事件の発端は、1969年11月、当時、明治大学法学部教授で政治評論家であった藤原弘達氏が出版した『この日本をどうする2 創価学会を斬る』が発火点になった。出版前から事前に情報を入手した創価学会は、公明党の都議会議員や代議士を使いに出して、「出版を止めろ」「タイトルを変えろ」「出版した本は全部買い取る」等、折衝。藤原氏が拒否すると、公明党は当時の自民党幹事長である田中角栄まで引っ張り出し、藤原氏に圧力をかけた。明らかに、権力を使った言論妨害である。藤原氏の自宅は脅迫電話が鳴り続け、同氏は東京都内のホテルを転々としながら書きあげた。出版元の『日新報道』には、「ぶっ殺す」といった強迫や、抗議の手紙・葉書が段ボールで数箱分届くという出版妨害の連鎖である。取次店・書店にも圧力がかかり、軈て妨害事件は国会にまで飛び火した。1970年5月3日、第33回本部総会で池田大作名誉会長(当時は会長)は言論・出版妨害事件の非を認め、世間に謝罪するという最悪の事態で幕を閉じる。

あれから45年。改めて『創価学会を斬る』を再読してみると、藤原弘達氏は政治的感覚が研ぎ澄まされていたのか、今日の政治状況をこう予言している。一部を紹介してみよう。

もし、自由民主党が過半数の議席を失うというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれと連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないかと思う。

その意味において、自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出たときと形が非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に微妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的な傾向にもっていく起爆剤的な役割として働く可能性も非常に多く持っている。そうなったときは日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階においてあえて言う…。

大半の国民が反対したのに、議員数に物を言わせた自公政権は、強引に『安全保障法案』の改正に踏み切ったこと等も、藤原氏が恐れていた保守独裁体制の現れであろうか。

ところで、あの言論・出版妨害事件から45年が経過したが、創価学会は本当に反省をしたのだろうか? 例えば、それから31年後の2001年9月17日(~20日)、産経新聞が池田大作名誉会長をインタビューした記事を掲載しているが、『言論・出版妨害事件』についてこう語っているのだ。

学会はさんざん悪口を言われた。それはいい。許せなかったのは、学会婦人部に対して、口を極めて侮辱したことだ。この点に怒ったのだ。政治評論家として名を売っている人が、真剣に宗教を持っている人をそこまで誹謗するのは許せなかった。信仰心は純粋なものだ。純粋であればあるほど、侮辱の作り話などに反発し、怒るのは当然だろう…。

これを読んだ学会員はどう思うだろうか? 藤原氏が書いた『創価学会を斬る』には、“婦人部”という言葉が4ヵ所出ている。何れも創価学会組織の形態を紹介した時や、婦人部と池田名誉会長の絆の深さを表現したものである。しかし、“婦人部”を侮辱した文言等は、どこを読んでも書かれていない。この他、『聖教新聞』や池田大作名誉会長の著書『新・人間革命』でも『言論・出版妨害事件』が触れられてい るが、「反省している」といった文言は無く、寧ろ当時、「(創価学会が)言論の被害者だった」という歴史を真逆に塗り替えてしまっているのだ。実際、その後、創価学会に批判的な執筆を続けているジャーナリスト・乙骨正生氏の携帯電話が、創価学会幹部に依って盗聴されていた“NTTドコモ事件”(2002年)もあった。また、池田大作名誉会長の「信仰心は純粋なもの」の発言でつい思い出してしまったが、1996年の暮れに、筆者の小宅が創価学会青年部から数個の生卵をぶつけられ、他に何度かに分けて庭に腐敗した大量の生ゴミも放り込まれた。当時、深夜に「ぶっ殺す」といった電話は引きも切らず、車に依る小宅の監視や尾行も続いていた。それらが全て創価学会員という証拠はない。だが、生卵を投げたり、生ゴミを捨てた犯人は現行犯で、地元の警察に逮捕されている。犯人は地元に住む創価学会青年部員(30歳)で、“器物損壊罪”で罰金刑を科せられたが、警察や検事に依る全調書を読んだ時、こう書かれていたのである。「私が、なぜやったか。週刊誌で池田大作先生を批判することは許せなかったからです」。“純粋な信仰心”を持ち合わせた青年だったのだろう。だが、独善的で純粋な信仰心を、一般社会やメディアで強引に押し付けるようなことがあってはならない。


段勲(だん・いさお) フリージャーナリスト。1947年、宮城県生まれ。東洋大学文学部卒。『週刊ポスト』記者を経てフリーに。宗教・社会問題・人物・健康等について幅広く執筆。著書に『千昌夫の教訓』(小学館文庫)・『創価学会インタナショナルの実像 池田会長が顕彰を求める理由』『反人間革命 創価学会へ入信した男の一生』(共にリム出版新社)・『定ときみ江 “差別の病”を生きる』(九天社)等。


キャプチャ  2015年12月号掲載


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テーマ : 創価学会・公明党
ジャンル : 政治・経済

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