【本当の教育を取り戻す!】(06) 教員の“学び合い”が本当の教育を作る

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愛知県犬山市は、2007年から文部科学省(文科省)が実施した『全国学力・学習状況調査』――所謂『全国学力テスト』への不参加を、公立として全国で唯一、選択した自治体として注目されたことがある。国が決めたものを地方が拒否したのだから、“反逆”とさえ言われた。不参加は気紛れではなかった。それまで犬山市として進めてきた教育改革の結果として、同市教育委員会は全国学力テストの不参加を決めたのだ。その教育改革を牽引したのが、1997年に教育長に就任した瀬見井久である。彼のことを“古武士”と表現した人がいた。2009年に教育長を 辞めた時が72歳で、今回の取材で会った時には80に近い年齢の筈だが、2時間近くの間に亘って背筋を伸ばし、正座で取材に応じた。その彼が推し進めた教育改革は何を目指したのか、改めて尋ねてみた。「一番大事なことは、『学ぶことは楽しい』ということ。子供が『学ぶことを楽しい』と思い、教員は教えることに喜びを感じる。それが、教育の原則だね。教育に関わるかどうかは別として、以前からそれが常識として私の頭にはあった」。彼が教育長に就任した翌年には、改訂学習指導要領が告示される。『ゆとり教育』を導入することになる学習指導要領であり、従来の教育の在り方を大きく変えるものだった。「教育長就任の話があった頃も、新学習指導要領について報道されていました。それによると、新学習指導要領では“自ら学ぶ力”が最重点にされるということだった。学ぶことが楽しいと思えてこその“自ら学ぶ力”だから、私の考えと合致している。『これを実践していけばいい』と思った。だから、教育長を引き受けたんです」と瀬見井はいった。更に、彼が教育についての自分の考え方に自信を深めさせたのが『教育基本法』だった。「そこには教育の目的として、『人格の完成をめざす』と明記してある。人格とは、一言で言うなら『子供が自主的な行動ができる』ということなんです。まさに、自ら学ぶことです。それは、学ぶことが楽しいと思えなければ身に付かない」。それを説明する時に瀬見井は、「改正前の教育基本法ですよ」と何度も念を押した。“教育の憲法”とも言うべき教育基本法は、第1次安倍晋三政権の時の2006年に改正された。『安保(安全保障)関連法案』を巡っては何万人もの人たちが国会前に押し寄せ、政治には無関心と言われてきた若者たちまでもが強い抗議の声を上げた。しかし、教育基本法は今考えれば、あまりにも簡単に改正されてしまった。

『教育基本法』第1条(改正前)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

これが改正後は、「人格の完成を目指し」という言葉はあるものの、「個人の価値をたつとび」の文字は完全に削られている。その代わり“前文”に、改正前には無かった「公共の精神を尊び」という言葉が加えられている。これまでの安倍首相の言動からしても、主体は“個人”ではなく“公共”にある。教育基本法の改正でも、“個人”から“公共”へと重きが移った。その中で“人格の形成”の意味も、かなり薄らいでしまっている。「あの状況はおかしいんだ。日本が、どっかおかしい。教育の本質が全くわかっていない」。強い口調で、瀬見井は言った。彼が教育長となり、本格的な教育改革が始まってから後の2001年くらいになって、犬山市の教育の基本的な考えは「人格の完成を目指し、全ての子供の学びを保障する」と決められる。その文言は 瀬見井が教育長の座を去った現在も引き継がれてはいるが、その本質までが引き継がれているかどうかは疑問である。瀬見井を教育長の座に据えたのは、当時の犬山市長だった石田芳弘だ。教育長にした理由を、彼は次のように語る。「県会議員の時に文教委員を長く務め、委員長までやったので、教育には関心がありました。それで犬山市長になって、『教育・文化を中心にした街造りをやろう』と考えたんです。それには、教育長がキーマンになる。しかし、教育長というと名誉職のようなもので、思い切ったことはやらないのが普通でした。抑々が校長経験者が多く、最大の欠点は“上意下達”が身に付いてしまっているところ。つまり、文科省の意向を是とする人たちが就くポストになっていた。それでは、教育を街の特色にできない。だから、瀬見井さんにお願いしたんです」。瀬見井は、愛知県庁の職員として長く企画畑を歩いてきた生粋の行政マンだが、教育行政に携わった経験は無く、謂わば“素人”である。その彼に石田が白羽の矢を立てたのは、「彼なら思い切った改革をやってくれる」と踏んだからだ。“古武士”と呼ばれるほどの瀬見井の頑固さは、県庁でも有名だった。思い切った改革の実行者としては最適であり、そこに石田も期待したのだ。かといって、石田に改革の具体案があった訳ではない。「どうやるか」は瀬見井に任された。その瀬見井の頭にあったのは、前述した“人格形成”という教育の基本である。それが学校現場で実践されているかと言えば、「陰も形も無い」というのが瀬見井の印象だった。「『ただ点数を上げることだけが学力だ』という考えが蔓延していた」とも彼は言った。




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教育長になって初めて知ったことではなく、教育行政に携わっていなくても、教育については素人でも「そういうことになっているだろう」とは感じてはいた。それを、教育に携わってみて改めて実感したのだ。犬山市に限らず、全国の学校に共通した状況だとも言える。いとも簡単に教育基本法が改正され、“人格の形成”の意味合いが軽くなってしまったのも、そうしたところに大きな原因があったのかもしれない。兎も角、人格の形成が当時の教育基本法では重視されてはいるが、そんな状況の中で、人格形成の教育を実践する学校環境の実現は並大抵ではない。まさに“革命”である。先ず着手したのが“人の問題”だった。それまで教育委員会の事務局には、学校現場出身の職員は“指導主事”という肩書きで、1人しかいなかった。それも県教育委員会(県教委)からの指名であり、県の意向を優先する傾向があったのは否めない。そこで、部長・課長・主幹という新しい役職を作って、学校現場出身者を迎えた。指導主事の給与は県と市が折半することになっていたが、市独自のポストは市だけで負担しなければならない。3000万円ほどの予算が必要だったが、改革の主体は学校現場なのだから、そこを知る人材がどうしても必要ということから決断された。指導主事も人を増やして、学校現場出身者が5人という体制を作った。それだけでも、現場重視の姿勢を示したと言える。更に、学校現場の責任者である校長の人事でも主導権を握る。それまで、校長人事は県教委が決め、それを市町村の教育委員会は素直に受け入れるのが“常識”だった。しかし、抑々市町村の教育委員会には“内申権”がある。教職員の人事については市町村教育委員会の意見が優先され、それを受け入れて県教委は人事を決めるというのが内申権だ。それまでは、この内申権が蔑ろにされていたことになる。下は上の言うことを受け入れるだけの上意下達の構造が優先していたことになる。この内申権を盾に瀬見井は、県教委が出してきた校長の人事案を蹴った。そして、数名の校長候補者の名前も示した。それを県教委は受け入れる。慣習的な上意下達の構図を壊されて、県教委としても面白くなかった筈である。

「まさか、やれるとは思わなかった。しかし、県教委も市町村が内申権を持っているのは承知していたから、反論もできなかったんだろうね」と瀬見井。校長人事の主導権を取ることに拘った理由を訊ねると、次の答えが戻ってきた。「こちらの理想を実現してもらうには、こちらの息のかかった校長でなきゃ駄目なの。そんなの当たり前、常識だ。一般の会社でも同じ。社長の意を汲んでやってくれる人物を重役に置かないと、方針は徹底できない。初歩的なこと、当たり前の話だな」。それだけでなく、2001年度の人事で犬山市は“民間人校長”の採用に動く。当時の学校社会では人材を求めるについて、大なり小なり上意下達の文化で育ってきた学校関係者では限界もあると考えたようだ。とは言え、全くの素人では戦力にもならない。教育についての理論も持ち合わせている人材との観点から、学者から選ぶことにした。そして白羽の矢を立てられたのが、教育心理学が専門で現場における授業研究を熱心にやっていた中京大学教授の杉江修治だった。勿論と言うべきか、県教委からは猛反発を受ける。「校長の職は授業だけでなく広範囲に亘るので、教員経験者以外には難しい」という理由が付けられたが、根底にはその“閉鎖性”と、前例が無ければ率先してやりたがらない“前例主義”があったことは間違いない。犬山市は、杉江を校長に採用することを諦めた。それから数年後、全国で民間人校長を採用する動きが始まり、愛知県教委から犬山市に「民間人校長を認める」という連絡があった。しかし、犬山市は「必要ない」との返事を戻す。「県教委に対する当て付けだね」と言って、瀬見井は笑った。校長として採用は見送ったものの、犬山市教育委員会に“客員指導主幹”というポストを設けて杉江を迎えた。校長ではなくても、学者としての杉江の知識と経験を教育改革に活かそうとしたのだ。改革の為に招かれた学者は、杉江だけではない。名古屋大学大学院教授の中嶋哲彦も、その1人だ。彼は制度的な面でのアドバイザーであり、県教委との“交渉役”という重要な役割を果たし、教育委員にも名を連れた。犬山市の教育改革に果たした彼らの役割は、かなり大きい。そして、瀬見井が彼らに指示したのは少人数授業だった。

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「文科省が少人数授業を許可したばかりの頃で、これを瀬見井さんは利用しようとした。従来のものを壊すには新しいものを取り入れるという、行政マンのセンスじゃなかったかと思います。勿論、その少人数授業の内容までは考えていない。そこは、お任せでしたね。とは言え、少人数授業をやるには教える側の数を増やさなければなりません。『教える人数が多ければ、授業改善はやり易くなるだろう』とは思いましたね」と杉江は言った。少人数授業を許可したからといって、文科省が増員の予算を大幅に付けた訳ではない。そこで犬山市は、独自の予算で2001年度から非常勤講師を28名採用した。その数は、どんどん増えていく。教育委員会の増員・講師の増員・改革にはカネがかかる。予算的に潤沢だった訳ではないが、それほど本気だった。それには、市長である石田の存在が重要で、教育改革に理解を示したからこそ予算を配分し、支援したのだ。少人数授業が始まって、それは予想通りの結果を直ぐに出した。少人数を相手にすることで教員は授業をし易くなって、やる気のある授業がやれたのだ。やる気のある教員の授業に子供たちも集中し、落ち着きも出てきた。ただ、少人数にしたからだけでなく、教員たちが試行錯誤した結果でもある。市と教育委員会が授業改善に積極的に取り組む姿勢を見せたことで、教員たちも前向きになったと言える。「しかし、2~3ヵ月が過ぎた頃に、私は『拙いぞ』と思い始めたんです」。一見すると活気のある授業風景。授業改善を進めてきた立場としては喜ばしい筈だが、杉江は不満だった。「少人数授業でも、やっていることは従来と同じで、先生が一方的に喋り、子供たちは聴くだけという“講義スタイル”でした。又は先生が、授業中に生徒の1人ひとりにマメに声をかけて歩く。確かに少人数だからできることでしたが、それは技術でしかない。そんな技術を磨いたところで、本当の授業改善にはならない」

そこで、杉江が学校を周りながら教員に問い続けたのは、「どういう子供を育てるつもりですか?」。杉江の専門は、生徒同士が共に課題に取り組む協同学習で、それを犬山市でも広めたいと考えていた。が、「押しつけるつもりは無かった」と彼は言う。サジェスチョンはしたと思うが、基本的に彼が意識して口にしたのは、前述の問いだけだった。「そうした中で先生たちが考え抜き、試行錯誤の上に選び取っていったのが“学び合い”でした。私が押し付けた訳でもないし、そういうテーマがあった訳でもありません」と杉江は言った。教えてもらうのではなく、犬山市の教員たちは自ら学んでいったのだ。その結果としての“学び合い”は、犬山市の教育の特徴となっていく。グループを造り、子供たちがお互いに教え合うのが学び合いである。「ただ子供たちに任せればいい」というものではない。学び合いのできる環境作り・雰囲気作りが重要になってくる。それは教員の役割であり、ここでも教員たちは考えに考え、試行錯誤し、実践を繰り返していく。それは、子供たちの自ら学ぶ力を鍛え、人格を形成する役割も確実に果たしていく。教育改革が始まった問いに、そこへのルートマップを誰かが確信的に描いた訳ではなかったが、まさに手探りで進められた。教員たちの努力も、ただ個人としての取り組みであれば、いつか行き詰まるだろうし、長続きもしなかった筈である。そこで杉江は、学校が横に繋がる研究会を作ることにした。各学校で学び合いの授業改善を中心的に実践している教員を集め、互いに実践を紹介し合い、意見を述べ合う研究会である。教員たちにとっての学び合いの場と言ってもいい。月1回、午後4時から6時まで研究会は定期的に設けられた。午後4時と言えば、教員たちにとっては未だ勤務時間である。勤務時間内に学校を抜け出すことは簡単ではないし、問題でもある。そこで、この研究会への出席は“公務”として学校にも教育委員会にも認めてもらうことにした。元々、教育改革の言い出しっペは教育委員会なのだから、反対する訳がない。公務だから堂々と出席できるし、熱心に取り組むこともできる。研究会での議論を参加者が各学校に持ち帰り、それを活かした議論と実践を重ねていく。犬山市での学び合いは、どんどん充実していった。研究会は5年目くらいから、若手の出席者が増えるようになり、若手教員を勉強させる場にもなっていった。それに依って、学び合いが継承される体制にもなっていったのだ。

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そんな最中の2006年1月、文科省は翌年からの『全国学力テスト』実施の方針を明らかにする。これに瀬見井は早くから参加しない意志を示し、市長の石田も賛成した。参加しない理由を、瀬見井は次のように説明した。「全国学力テストに反対した訳ではなくて、『犬山では実施する必要は無い』と言ったんだ。文科省は学力向上を実施の理由にしていたけど、そんなものに参加しなくても犬山は学力向上に取り組んで成果を出していたからね。それも、本当の学力だから。『全国学力テストで競争を煽って点数を上げさせよう』というのが文科省の本音だよね。競争で、本当の学力である“自ら学ぶ力”や“人格の形成”ができる訳がない。そんな競争原理の導入に私は大反対だった」。これに慌てたのが文科省である。3月に、文科省から初等中等教育局教育課程課の課長が説得の為に犬山市に乗り込んできた。犬山市教育委員会では、現場の教員たちと話す場を設け、学校での授業も参観してもらい、犬山市の教育が上手くいっていることを示した。「子供たちは活き活きと学んでいる。それなのに、態々競争させる必要は無い。『犬山の教育は犬山に任せてくれ』――そう言った訳です。文科省も納得してくれたと思うよ、二度と来なかったから」と瀬見井。しかし、犬山市への風当たりが収まった訳ではなかった。愛知県内の自民党を中心とする勢力からの批判が相次いだ。それを代表する形だったのが、犬山市出身の県議会議員・田中志典(左写真)である。抗議の電話が来たり、本人が直接乗り込んできたこともある。その応対をしたのが、当時の指導課長・滝誠だった。「血相を変えてやって来て、『何で(全国学力テストを)やらんのですか?』とやられました」。ただ、参加しなければならない理由らしいものを示された訳ではなかったという。これには滝も困ってしまい、「私が決めた訳ではないので…」と答えるしかなかった。その滝は、全国学力テスト不参加を正式に決めることを先送りしていた。「教育委員会が不参加を決めたなら従う」といった空気が、校長たちの間に強いのを感じていたからだ。「上意下達の精神でしかなく、自立を目指してきている犬山市の方針と違う」と考えた。「校長たちが議論する場を作りました。『教育委員は不参加に参加しているけど、校長さんたちが参加の声をあげればひっくり返すこともできる。だから、意見を述べて下さい』――それを1年近くやりました」

不参加の方針を参加に変えたかった訳ではない。上意下達ではなく、校長たちも自分の意見をはっきり述べる空気を作りたかったのだ。そして校長たちも議論を重ね、その結果として教育委員会と同様に不参加の結論を出した。それを踏まえて、教育委員の定例会で犬山市として全国学力テストへの不参加を正式に決めたのが、2006年12月だった。その前に、犬山市の教育改革に重大な影響を及ぼす事態が起きていた。教育改革を全面的に支援してきた石田芳弘が突然、10月に辞任してしまったのだ。愛知県知事選に立候補する為で、その理由を石田は「政治家として上を目指したかった」と言った。犬山市の教育改革は、大きな後ろ盾を失うことになる。そればかりでなく、全国学力テストへの参加を強く迫っていた田中が、石田の後任の市長に当選した。当然、教育委員会への圧力も強まる。「『何で参加せんのか!』と怒鳴られましたね」と滝は苦笑する。それでも、教育委員会が市長に従う必要は無いので、教育委員会は方針を貫く。そして、正式に不参加を決めるのだ。が、市長の田中も簡単には引き下がらない。「犬山の教育改革の経緯を記した本を教育委員会として出版していたのですが、それについての監査請求までやられま した。何でも攻撃の材料にされた訳です」と滝。不参加を決めた教育長の瀬見井への風当たりは、当然ながら激しかった。2008年1月には、市長から教育長が辞任勧告を受けるところまでエスカレートしていく。「『会合に出席しなかった』とか、そういうことが理由でした。『全国学力テストに参加しなかったから』というのが理由ではなかった。理由にもできなかったんでしょう」。瀬見井は苦笑いしながら、当時を振り返った。それでも、瀬見井は教育長を辞めなかった。2015年4月から施行された『改正地方教育行政法』で教育委員会制度も見直され、首長が教育について強い発言権を持ち、教育長の任命・罷免もできるようになった。しかし当時は、未だ教育長は首長からは独立した立場を保っていたのだ。だから、田中市長の意向に左右されず、教育委員会は全国学力テストの不参加を決定することができたのだ。瀬見井も、教育長の座に留まり続けた。教育委員会制度の改正が早ければ、犬山市の不参加は無かったかもしれない。

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その犬山市が、2009年の全国学力テストには参加を決める。田中が奔走し、教育委員を入れ替え、参加意見の教育委員を増員してまで教育委員会を参加に変えてしまったのだ。教育長や事務局が頑張ったところで、教育委員が全国学力テストに賛成となれば従わざるを得ない。その年の10月、瀬見井は辞任を表明する。「圧力に負けた訳じゃない。全国学力テストが悉皆方式から抽出方式になるので、それなら競争導入ではなくなる。私が教育長である必要もないので辞めた」。2009年9月に民主党政権になり、翌年から全国学力テストは、全員参加の悉皆方式からサンプル調査の抽出方式とされることになった。文科省は全国学力テストの目的を学習状況の調査としており、「それなら抽出で十分ではないか」との意見がスタート当初からあった。そういう意見を無視して文科省は、競争を煽ることになる悉皆方式を採用したのだ。民主党政権になって、それが改められた。しかし、文科省が民主党政権の言いなりになった訳ではなかった。抽出と言いながら、その対象に漏れても希望すれば参加できる抜け道を作った。かなりの学校が参加し、悉皆方式と変わらない状態になった。文科省の狡さである。再び自民党政権になると、忽ち悉皆方式に戻る。兎も角、瀬見井が辞任し、犬山市の教育改革は旗振り役を失った。瀬見井の意志を引き継ぐ気は、市長の田中にも、田中の意向を汲む教育委員にも毛頭無い。それどころか、瀬見井色を消すことに躍起になった。端的な例が、教員が自ら学ぶ場であり、若手教員に改革の意味を継承する、教育改革の心臓部と言ってもいい存在だった教員の研究会が廃止されたことだ。教員が自ら学ぶ姿勢を失えば、それは忽ち子供たちに反映されていく。「『いい授業を作りたい』と、今でも教員は思っています。しかし、学び合いも続いてはいますが、当初の本質のようなものが見えなくなっていることは事実です」。現在、犬山市教育委員会で主幹兼指導室長を務める勝村偉公朗は言った。瀬見井が教育長の時に掲げた「人格の完成を目指し、全ての子供の学びを保障する」は、現在でも犬山市における教育の基本的な考えとして掲げられている。しかし、その本質は風化しつつある。同じことが日本全国で進行し、日本の教育は本質を見失いつつある。その本質さえ考えようとしない。その流れを止めなければならないところに、間違いなく来ている。 =おわり


前屋毅(まえや・つよし) フリージャーナリスト。1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒。立花隆氏・田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。経済・社会・教育の問題をテーマに取り組んでいる。著書に『シェア神話の崩壊』『グローバルスタンダードという妖怪』(共に小学館文庫)・『洋上の達人』(マリン企画)・『学校が学習塾にのみこまれる日』(朝日新聞社)・『日本の小さな大企業』(青春出版社)等。


キャプチャ  2016年1月号掲載


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テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育

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