【特別寄稿】 先代親分の判断ミスが全ての元凶…元ヤクザがズバリ指摘! 『6代目山口組』分裂の大戦犯は渡辺5代目だった!

多くのヤクザジャーナリストたちが、訳知り顔で『山口組』分裂の原因や今後の展望を解説している。だが、40年以上に亘って山口組を中から見てきた元ヤクザで作家の桜井健治氏に言わせれば、彼らの分析は底が浅い。先代組長である渡辺芳則の致命的な舵取りミスこそ、徹底的に批判されなければならないのだ。

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2015年10月18日未明、愛知県名古屋市内の繁華街“今池”で、弘道会系傘下組織組長らと山健組系傘下組織幹部らが乱闘する事件が発生した。6代目山口組の司忍組長と髙山清司若頭の出身母体『弘道会』と、6代目山口組から離脱した組織で結成された『神戸山口組』の中核である『山健組』とが遂に激突したとして、その一報はヤクザ業界を瞬く間に駆け抜けた。「『山健組幹部らが弘道会の傘下組長を暴行した』と聞いた時は、『遂に“6代目山口組vs神戸山口組”の戦争が始まったか』と身構えた」と話す6代目山口組の現役幹部もいた。その後は報復行為等も起きていないようだが、分裂以前から弘道会と山健組との間では対立する場面が何度となくあった。元来、山口組3代目組長・田岡一雄の時代に“日本一の田岡親分の子分”を自称し、山口組若頭として数々の抗争事件の陣頭指揮を執った山本健一が興した組織が山健組だ。山健組を出身母体とする渡辺芳則が山口組5代目に就いたように、長らく山口組の保守本流を担い、「山健に非ずんば山口に非ず」と囁かれた時代もあったほどだ。しかし、2005年に司忍へトップが交代すると大きな変革が起きた。就任早々に懲役へ赴いた司忍から全権を委任された山口組ナンバー2の髙山に依って、各傘下組織はミネラルウォーターや家庭用品を市価の倍ほどの価格で本家から購入するよう義務付けられたのだ。『住吉会』や『稲川会』等の他組織構成員からは「山口組本家は山口組雑貨店か?」と揶揄され、更にはそうして集められた数十億円の行方は不明だという。また、弘道会に依る支配体制に僅かでも異議を唱えた者たちは、過去にどれほど功績があっても、いとも簡単にクビを切られた。直系組長らを力で捻じ伏せる恐怖政治が蔓延したのだ。製造業に支えられて景気が手堅い名古屋を地盤とし、中部国際空港の建設に関わる利権を差配して1000億円を稼いだとも言われる弘道会である。そんな超金満組織が、カネに加えて当代という権力まで持てば、誰も逆らえない。こうした弘道会独裁に対する不満が山口組内に渦巻いていたのが、今回の分裂劇の理由だと巷間語られている。だが、私はもっと前の段階にこそ問題があったと思う。抑々、大正時代に創立されて以来、神戸で歴史を紡いできた山口組が、名古屋の弘道会出身者をトップに載くという決定をした時点で、今日の分裂劇は始まっていたのだ。

司忍が6代目山口組のトップに就くまでの道のりは謎に包まれており、業界中に諸説が溢れている。山健組傘下組織から山口組直参に上がった『盛力会』の盛力健児元会長が書いた『鎮魂』(宝島社)に依れば、宅見勝若頭射殺事件の動かぬ証拠を渡辺の眼前に突きつけ、「親の仇は取らなあかん!」と2代目宅見組の入江禎組長に向かって状えたのが、当時、若頭補佐の司忍だったとされる。一方で、同じく山健組傘下から直参に上がった『太田会』の太田守正元会長は、著書『血別』(サイゾー)の中で、盛力元会長の証言を「あり得ない」と断じて対立している。私は、これら数多くの噂に確信を持って異議を唱えたい。2004年11月、山口組の傘下組織組員に依って誤射殺された警察官の遺族らが、トップの渡辺を相手取って起こした損害賠償請求で、最高裁判所は使用者責任を認めた。これを受けて渡辺は狼狽し、責任を回避する為に“休養”を決めたのが組長交代劇の発端だ。当時、獄中にいた筆者は正直、この“休養”に仰け反って驚いたが、司忍も同様だったろう。組長としての務めを果たせないヤクザは引退するのが当然で、“休養”など意味不明語である。偉大な田岡一雄3代目が全国レベルにまで押し上げ、竹中正久4代目が自身の命を犠牲にしてまで守った山口組を、渡辺5代目は壊そうとしているようにしか見えなかった。山口組を守ろうと考えるヤクザであれば、渡辺に引退を迫るのは当然だ。司忍とは、正しくそういう男だった。1997年8月に当時の宅見勝若頭が射殺されて以来、山口組の若頭の座は長らく空席となっていたが、2005年5月、銃刀法違反の裁判を抱える司忍が就任。勿論、更に座布団を重ねて山口組のトップに就任することが裁判の判決に良い影響を与えないことは、司忍自身は重々承知していた筈だ。また、クーデターや略奪行為と受け取られかねないことから、戸惑いもあったに違いない。それでも、「山口組を再構築しなければならない」という使命感から、司忍は敢えて燃え盛る炎の中に身を投じたのだ。そして大方の予想通り、山口組6代目を継承した直後に、刑務所へ収監されることになった。誰しも唸らざるを得ない見事なヤクザぶりだった。




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司忍が渡辺に引導を渡した1人であることに間違いはない。但し、嘗て中野会に籍を置いていた筆者としては、渡辺を引退に追い込んだもう1人の人物として、山健組から山口組直参に昇格し、一時は5代目山口組若頭補佐の要職にあった中野会会長の中野太郎を挙げたい。宅見勝若頭射殺事件(後述)で中野会の組員らの関与が発覚したことを受け、中野は山口組から絶縁されたが、以来7年間、渡辺の親衛隊長を自認し、渡辺からの“天の声=復帰許可”をずっと待っていた。また、山口組の組員の多くも中野の復帰を願っていたのだ。しかし、渡辺の“休養宣言”に依って、復帰の望みを完全に絶たれてしまった中野は、渡辺を許すことができなかった。司忍からの命を受けた髙山は、関東の独立団体であった『國粹会』を山口組入りさせ、並行して中野会問題の処理に当たった。その過程で引退を迫られた中野は、自身の引退の条件として渡辺の引退を挙げた。そして、仲介役を務めた竹中武(山口組4代目組長・竹中正久の実弟)らの説得を受け入れ、長い我慢の日々を終わらせたのだ。歴史に“たら・れば”は禁句だが、若しも渡辺が早い段階で中野を山口組の中枢に復帰させ、組織運営に参画させていたとしたら、現在のような弘道会政権の誕生は無かっただろう。また、未だに山健組出身者らが最高幹部や直参に数多く名を連ねていた筈である。現在、山口組2次団体は山口組本体のシノギの対象と化し、若し総本部への上納金に遅れが生じれば、それこそ即刻、肩を叩かれて用済みとなる運命にある。山口組の直参と雖も、それほどまでに軽い存在に成り下がってしまっているのだ。中野は、子分からカネを貰うことを何よりも嫌う親分だった。その中野が執行部にいる山口組は、今日の弘道会の支配下にある山口組とは全く様子が違っていたと断言できる。

1997年8月28日、新神戸駅前にあるホテルのラウンジに、真夏だというのに長袖シャツ・手袋・野球帽・サングラス姿という異様な姿の男たちが入ってきた。そして、奥から2番目のテーブルに座る男たちに近付いた。そこにいたのは、宅見勝・総本部長の岸本才三・副本部長の野上哲男の3人だ。真っ先に近付いた男は宅見に声をかけ、胸に目掛けて45口径のピストルの引き金を引いた。乾いた銃声が数発、店内やロビーに響き渡ると、女性客らから悲鳴が一斉に上がった。野球帽の男たちは宅見を狙うヒットマンで、中野会傘下組織の構成員だったのである。この件が基で、中野は山口組を追われることになった。しかし、射殺事件の発生当時、宅見は末期の肝臓癌であった。その病状を知っていた中野が、態々ヒットマンを用意し、身内の人間のタマを取ることで極道人生に汚点を残す理由は全く無かった。渡辺にしても、自分を差し置いて山口組を自由に操る宅見を、中野主導の下で若頭職から解任し、ヤクザ社会からの抹殺を目論んでいたが、その命まで奪うなどとは少しも考えていなかった。実際のところ、渡辺が宅見を牽制する為の対抗馬として中野を執行部入りさせた頃から、宅見は自分の立場に不安を覚えていた。宅見は京都の独立組織を使い、京都の理髪店で散髪中だった中野を襲撃させていることからも、その焦りぶりは明らかだろう。しかも、それが失敗したことで、宅見は更に窮地に追い込まれていた。渡辺の目論見は実現しつつあり、中野がヒットマンを飛ばす道理が無かった。では、誰が宅見の命を狙ったのか? 宅見暗殺の実行部隊は中野会若頭補佐の吉野和利が総指揮を執ったとされているが、筆者の見立ては違う。あれほどの仕掛けを立案し、実行する力を持った上、宅見に積年の恨みを持ち、中野に格別の大恩を感じている人物となれば、中野会広しと雖も1人しかいない。それは、後に天野組系組員に依って沖縄で射殺された中野会副会長の弘田憲二である。この事情は紙幅の関係に依り、本稿では割愛する。興味のある方は拙著『王国の崩壊』(ジーウォーク)を御覧願いたい。

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宅見暗殺事件において、中野会の組員らが手を下したことに依り、山口組から追放されてしまった中野だったが、処分直後に渡辺から「俺が必ず戻してやる」との言葉を秘密裡にかけられていた。だから、いつになるのかはわからないが、復帰できる日を首を長くして待ち侘びていた。ところが、遂に渡辺は「戻ってこい」との言葉を中野に伝えることがないまま、ヤクザ社会からの休養を宣言し、そのまま引退してしまう。渡辺が中野を復帰させなかったのは、宅見の射殺事件に自身が関与していると警察当局に疑われかねないからだ。そう怖れる気持ちはわからないではないが、保身に走ったことに依って、渡辺は山口組百年の計を誤ってしまった。それが今年8月末の分裂劇に繋がっていると思うと、山口組の元組員としては非常に悔やまれてならない。ヤクザはその場限りの損得勘定ではなくて、折り目と筋目が最も大事だとされるが、まさにあの時こそが山口組にとって極めて重要なターニングポイントだったのだ。この渡辺とは対照的に、司忍は銃刀法違反の審理が続いている状況にも拘らず、敢えて山口組のトップに就いて収監された。山口組の将来の為に自分の身を賭した司忍の行動は、まさに侠客の生き様そのものであり、私は大いに評価している。しかし、司忍のそうしたヤクザの鑑のような思いは、今や怪物の如き片腕に依って乱暴に振り回され、侠としての評価は地に落ちてしまっている。圧死しかけているのだ。嘗て、渡辺を思い通りに操った宅見を凌いで、山口組史上最強のナンバー2と言われた髙山。彼のことについては、また稿を改めて書きたい。 《敬称略》


桜井健治(さくらい・けんじ) 本名非公開。作家・指定暴力団『山口組』元組員。1951年生まれ。3代目山口組直参・金田三俊の若衆として渡世入り。2013年、直参の最高幹部としての務めを最後に現役引退。現在は作家の傍ら、出所者を支援するNPO活動に取り組んでいる。


キャプチャ  第10号掲載


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