【震災5年・証言】(01) 地獄の寒さで使命感に火、経験と教訓を次世代に――宮城県南三陸町長 佐藤仁氏

東日本大震災は、3月11日で発生から5年となる。想像を絶する津波の威力・夥しい数の犠牲者・前代未聞の原発事故――。誰も経験したことがない混乱の現場に身を置いた指揮官らが、当時の判断や教訓を語る。

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震度6弱の揺れが収まった後、南三陸町役場の本庁舎を出て、隣の防災対策庁舎2階の危機管理室に駆け込みました。しかし、波が川を遡上しているのが窓から見え、高さ12mの屋上に避難しました。海岸線が土煙で黄色くなり、建物はドミノ倒しのように崩れていきます。映画の特撮を見ているようでした。津波に呑まれたのは間もなくです。波は、本庁舎をバリバリと音を立てて壊し、こちらに襲ってきました。私は偶々、非常階段の手すりに足が引っ掛かり、流されずに済みました。しかし、50人ほどいた職員や町の人たちは、私を含めて10人になっていました。皆、ずぶ濡れで茫然自失でした。周辺の建物も殆ど消えていました。その後も続く津波を警戒しているうち、日が沈み、雪が降ってきました。庁舎の中でおしくらまんじゅうまでしましたが、歯がカチカチ音を立て、震えが止まらない。地獄のような寒さでした。助かったのは、煙草を吸う職員のライターでした。「何とか火が付いた。朝まで生きていられる」。そう思いました。ネクタイや流木等を燃やし、流れ着いたネット入りのミカン5個を10人で分け合いました。美味かったです。火を見ながら考えました。「恐らく町は流され、亡くなった職員もいるだろう。しかし、町を復興させるのが俺の使命だ。犠牲になった仲間たちの為にできることはそれだけだ」と。暗闇に包まれた防災対策庁舎で眺めたその火が、私の原点になりました。防災対策庁舎で一夜を明かしました。日が昇り、瓦礫と化した町が照らし出されました。職員たちと一緒に、町の指定避難所のうち、比較的近い志津川小学校へ向かいました。「長い戦いになるぞ」。無残な街の様子に打ちのめされながら、そんなことを考えていました。午前10時頃だったでしょうか。学校に辿り着くと、町民から「あんだ、生ぎでだのが」と声をかけられました。ラジオで「町長が安否不明」と流れていたそうです。その後、約1000人が身を寄せる町総合体育館に入り、災害対策本部を設置します。そこは軈て、天国と地獄が同居したような場所になります。何日かぶりに再会できて感激の涙を流す人。遺体安置所になったエリアで泣き崩れている人。避難所だから近くでご飯を食べている人もいる。悲惨でした。

先ずやらないといけなかったのは、被災状況の把握と食料の確保です。震災翌日、記者会見を開きました。「津波が引くと、50人いた職員や町民らが10人になっていたんだ」「うちの情報流してけろ」。ありのままを泣きながら話しました。「役場も流され、金も無い。兎も角、惨状を伝え、支援物資を届けてもらうしかない」。そんな思いでした。記者会見はその後も、粗毎日2回開くようにしました。“証明書 このものは南三陸町職員であることを証明する 南三陸町長・佐藤仁”と書いた紙を職員に持たせ、内陸側の宮城県登米市や岩手県一関市に向かわせました。店頭では「南三陸だけ優遇できません」と対応し、店の裏で「必要なものを持っていって」と言ってくれた店主もいたといいます。「非常時には機転が大切だ」と痛感しました。反省もあります。モノとヒトの交通整理です。届いた物資を無駄にしないよう注意していましたが、どんどん積むので、食料だと古いものが下になって傷む。思い切って物流のプロに任せることが必要でした。238人いた職員のうち36人が犠牲になり、役場も失った。しかし、避難所の運営要員もいる。「街作りに関わる人を日頃から育てておくことも大きな課題だ」と気付かされました。小学生の時、1960年のチリ地震津波で旧志津川町(現在の南三陸町)の自宅を流され、今回の地震でまた流された。南三陸は、約120年の間に4度も津波に襲われている。この経験と教訓を次世代に生かさないといけない。高台移転を復興の基本にしました。ただ、国とのやり取りでは苦労しました。土地の嵩上げや集団移転をしようにも、規制や制限等がある為、仕事が一々止まる。「制度を復興に当て嵌めるのではなく、復興に制度を合わせて下さい」と復興庁に何度も言いました。災害はいつ、どこで起きるかわかりません。迅速に対応するべきです。高台には、総合病院や小学校が再建されました。住宅の整備も、これから本格化します。ただ、どうしても長い時間がかかりました。人口流出も顕著です。復興した後、人が戻ってきてくれるかどうか不安です。亡くなった職員の遺族から刑事告訴される等、批判も受けました。それでも、「町長の職を辞そう」と考えたことはありません。防災対策庁舎の屋上で津波に呑まれ、偶々頑丈な手すりに足が引っ掛かり、生かされた命。あの夜、「町を復興させることが使命だ」と誓ったのですから。 (聞き手/安田龍郎)




■“その前”が問われた  岩手県大槌町長・平野公三氏
岩手県大槌町は、役場機能と職員に加え、司令塔の加藤宏暉町長(当時69)まで失い、深刻な事態に追い込まれた。現町長の平野公三氏は当時、総務課主幹だった。

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役場が被災し、1kmほど離れた高台にある中央公民館の一室に災害対策本部が設けられました。震災翌日、公民館には1000人近い住民が避難していました。夕方、職員がおにぎりを作り、「先ずはお年寄りと子供に」という話になっていました。生涯学習課の課長たちが仕切っていました。私は主幹の分際で、「消防団員らを優先するべきだ」と反対しました。それが、この人生の始まりです。副町長が、その場にいた職員たちの前で命じました。「本部の指揮はお前が執れ」と。3ヵ月後、私は町長の職務代理者になります。地震が起きた時は役場にいました。正面玄関前で間もなく、職員たちが机を出し、図面等も用意して災害対策本部の開設準備を始めました。訓練はされていたのです。『昭和三陸津波』(1933年)が起きた3月3日にも避難訓練をしました。ただ、想定はいつも、軈て警報が解除され、「ご苦労様」で終わり。その後のことを考えない。「“あの日”ではなく“その前”が問われた」。そう思っています。海のほうに真っ黒な壁が見えました。総務課長に「やばいです」と声をかけ、屋上に駆け上がりました。次々に職員が避難してきました。一面黒い海で、船に乗っているようでした。山側へ流されていた本庁舎裏の木造庁舎が、引き波で役場の前を横切っていきました。その中に人が動いているのが見えました。屋上に、町長や、正面玄関前にいた筈の総務課長の姿がありませんでした。指揮を任された災害対策本部の仕事は全て手探りでしたが、今なら大切な“境目”がわかります。職員40人を失い、課長12人のうち7人が犠牲になった。103人が生き残った。100人“も”か、100人“しか”か――その境目で私は間違いました。家族を失った職員もいました。それでも、町民から怒りをぶつけられても弱音は吐けない。心がぼろぼろになっていきます。しかし、私は彼らをちゃんと休ませてあげられなかった。公務員の妙な正義感が出てしまったのです。職員向けに“心のケア”の専門家が県から派遣されてきたのは、その年の夏です。支援する側の支援が必要でした。「これは県に任せよう」「あれはボランティアセンターに頼もう」と思い切った決断をするべきでした。人は壊れる。忘れてはならない教訓です。復興で示したいのは、身の丈にあった街の姿です。厳しい現実を受け止め、地域にとって本当に必要なものが何かを見極めたいと考えています。 (聞き手/柿沼衣里)


≡読売新聞 2016年1月25日付掲載≡


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テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 政治・経済

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