【震災5年・証言】(02) 全村避難指示「まさか」、“帰還後”を胸に前へ――福島県飯舘村長 菅野典雄氏

20160207 01
先ず、避難者の受け入れから始まりました。震災翌日の2011年3月12日、約40km離れた東京電力福島第1原発1号機が水素爆発を起こし、周辺の人たちが続々と逃げ込んできたからです。その数は1200人にも膨らみます。村民総出でおにぎりを握りました。「精一杯支援します。大変でしょうが、頑張って下さい」。避難所を回って声をかけました。当時の避難指示は原発の20km圏内でした。村は一番近いところでも30kmほど離れています。強い危機感はありませんでした。ところが、震災4日後、役場近くにある放射線量測定装置の数値が急上昇します。放出された高濃度の放射性物質が村の上空に流れ、雨や雪と共に降り注いだ。そんなイメージが掴めたのは随分後のことです。西の福島市方面に通じる県道は夜、村を通過して逃げていく車のライトが連なり、線のように見えるようになっていました。村外からの避難者や村民のうち、妊婦さんら希望者500人余りを栃木県側へ避難させました。19日と20日でした。それでも、強制的な全村避難は考えませんでした。「留まったせいで被曝したじゃないか」という批判は甘んじて受けます。ただ、村民6000人には其々事情があるのです。何の準備も無く放り出せば、村の将来も、村民の生活も、全て崩壊する。それは避けたかったのです。福山哲郎官房副長官(当時)から「話がある」と電話が入り、会ったのは4月10日でした。「只事ではない」と思い、人目を避ける為に福島市の県知事公館を借りました。「概ね1ヵ月の間に全村民に避難してもらいます」。屋内避難という可能性は頭にありましたが、まさかの全村避難の指示です。血の気が引きました。1時間の予定だった福山副長官との面会は、2時間半になっていました。「村をゴーストタウンにしたくない」。その一心で、こちらが粘ったからです。渡された紙には、3つの要点が大きな文字で書かれていました。“計画的避難区域”“年間被曝線量20mSv”“概ね1ヵ月の間に避難”――。「頭のいい人たちが考えた言葉だな」と思いました。1ヵ月かけて計画的に村民全員を避難させるエリアという訳です。私は何度も食い下がりました。避難するにしても、再生への足がかりを残す具体的な方法を示してもらいたかったのです。しかし福山さんは、「住民の健康を守るのが大切」「避難してもらいたい」と言うばかりです。政府が原子力災害対策特別措置法に基づく避難指示を出したのは4月11日。この日付は生涯忘れません。

その直後、政府から避難先の候補リストを示されたことがあります。丁重にお断りしました。長野県や岐阜県等、何れも遠いところばかりだったのです。避難先が近ければ、親は仕事を続けられ、子供も転校しなくて済むかもしれない。家族がバラバラになったとしても、祖父母が孫の顔を直ぐに見に行ける。車で1時間半以内の避難先を探すよう、村の職員チームに指示を出しました。「後で仮設住宅もできる。兎も角、探せ」と。そうして猪苗代町のスキー場等を確保しました。村役場は、比較的近い福島市に移しました。20mSv以上は避難、計画的避難区域では事業も認めないというのが原則です。ただ、「ちゃんとした建物の中なら、毎日8時間仕事して1年間積算しても20mSvにならないのではないか」。そんな発想が浮かびました。村にある精密機械工場等が操業を続けることができれば、避難指示が解除された後の足がかりになる。彼方此方測って換算すると、やはり年間20mSvに満たない。室内勤務の会社に声をかけました。8事業所が操業継続に前向きでした。村の特別養護老人ホームも20mSv未満でした。福島県内では当時、病院や福祉施設にいた高齢者が避難後に亡くなるケースが相次ぎました。県内の病院にいた妻の母親も、転院1ヵ月後に亡くなりました。特養は、やはり残したほうがいい。特養と8事業所の事業継続を国に要望し、何度も激しいやり取りをした末、全村避難中の特例として認められました。「ゴーストタウン化を極力抑えられる」。踊らんばかりの喜びでした。通いの約550人の雇用も確保できました。大半の住民が1時間半以内で帰還できる場所に避難し、元の地域の集まりも保てている。判断は間違っていなかったと思います。「避難が遅い」と抗議も受けましたが、後にこんなメールも届きました。「『避難しろ』とか『命は大事だ』と言うのは簡単。でも、仕事・学校・村の今後、ずっと先のことを考えていたのですね」と。嬉しかったです。避難指示解除の目標は遅くとも来春です。但し、それは再び生活が変わること、謂わば“再避難”を意味します。そこで現在、村の村営住宅を大急ぎでリフォームしています。「年寄り1人で暮らすのは不安だが、集まって暮らしたらどうか」。そんな帰還後の姿が、村民へのアンケートから浮かんできたからです。「解除されればいい」「何%の住民が戻ったか」だけの話ではないのです。主な産業だった畜産・農業の立て直しが一番難しい。村のブランド『飯舘牛』も同じです。原子力災害はゼロからのスタートではない。マイナスからゼロに向かい、何世代にも亘って不安と闘って進まなければならないからです。人口も減るでしょう。但し、今、村に戻ろうとしている人は、かなり前向きな古里志向の人です。「無いもの強請りより、あるもの探し。道は平坦ではないけれど、丸っきり閉ざされている訳ではない」。そう考えるようにしています。 (聞き手/福元理央)




■住民要望で再移転も
東京電力福島第1原発周辺の自治体は事故後、粗一斉に避難を始めた。より遠くにと行動したものの、「古里の近くに」といった住民の要望を受け、再移転するなどした自治体は少なくない。原発が立地する大熊町。2011年3月12日に第1原発の20km圏内に避難指示が出され、町全域が対象となった。この日、町民らは西隣の田村市の体育館に避難。生活環境が良い場所を求めて、4月に入ると、更に西側に位置する会津若松市に役場の主要機能を移転させた。ただ、同年9月の時点で、全町民の3割強に当たる3723人が会津若松で暮らしたが、現在は約1400人。多くの町民が、大熊町に近いいわき市等に転居した結果だ。葛尾村は、村民の要望を受けて再移転した。村の大半が第1原発から20km以上離れているが、2011年3月14日から自主的に避難を始め、一旦100km以上離れた県西部の会津坂下町に逃げた。仮役場も町内に開いたものの、村民から「村により近い自治体に移りたい」との要望が強まり、7月に県中部の三春町に移った。浪江町は事故直後、町西部の津島支所に役場を移したが、直ぐに二本松市へ再移転した。「路線バスを運行する為の負担金を分担する等、交流があったから」(馬場有町長)だ。楢葉町も、3月12日にいわき市に移した役場を、半月も経たない内に会津美里町に再移転させた。災害時相互応援協定を交わした関係があった。ただ、いわき市に避難した町民が多いことから、翌年1月に役場を同市に移した。双葉町は、約260km離れた埼玉県への避難を選択した。「当時の井戸川克隆町長の判断だった」(双葉町役場秘書広報課の志賀公夫課長)。放射能への不安から県外避難を決め、役場と住民約1200人は3月19日、コンサート会場として知られるさいたま市の『さいたまスーパーアリーナ』へ。月末には、約30km北の埼玉県加須市の旧県立騎西高校に移動した。町長が代わった2013年の6月、いわき市に移った。富岡町は、川内村を経て郡山市に移転し、2011年暮れからは市内の東北自動車道近くのプレハブの建物で業務に当たっている。「高速道路のインターチェンジが近い。全国に避難する町民の利便も考えた」と富岡町役場総務課の滝沢一美参事は話している。


≡読売新聞 2016年1月26日付掲載≡


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