【言論の不自由】(03) パラリンピックとオリンピックが何故同格?

20160207 02
「言って良いことと悪いことがあります。少しは考えなさい」。子供の頃、親はよく小生をそう叱った。「君の言うこともわかるが、そんなことをこんな酒場で公言してはならぬ」。長じてからは、そう窘められることが屡々で、老いては配偶者から「馬鹿みたい」と嘲りの表情で言われ、周囲はただただ苦笑いするばかりである。「構うものか」と勝手に高を括っているが、世の中が公序良俗を旨とする“正論”ばかりでは如何にも詰まらないし、息苦しい。例えば、である。パラリンピックなるものが、ここ最近、オリンピックと前後して開催され、横並びで語られるようになったのが、小生には摩訶不思議である。偏見を承知で言うが、オリンピックは本来、最高レベルの鍛え抜かれた肉体が覇を競うところに妙味が存する。だから、小生は「パラリンピックを観たい」とは努々思わない。

「何で、身障者の競技会をこんなに大々的に喧伝して開催する必要があるのだ? 両足義足と片足義足が一緒に競走して(事実は、トラック競技の種目は障害の程度に依って細分化されているので、一緒に走ることはないのだが)速さを競うなんてナンセンスだろ? 片足といっても、どこから切断したかに依っても運動機能に差は歴然と現れる。しかも、義肢の性能に依ってタイムが左右されるのは自明だから、カネを使える裕福な国の選手が有利に決まっている」。そう疑問を呈すると、旧知のスポーツ評論家が即座に反論する。「君の言い方には偏見がある。君は視力が悪くて眼鏡をかける。それを外すと運動はできなくなるだろ? つまり、君だって一種の障害者なんだぜ。眼鏡がよくて義足が駄目って法はないだろう」。それは如何にも正論である。だが、オスカー・ピストリウスのように、“ブレイドランナー(Blade Runner)”と渾名されるような、まるで刃(Blade)の如く鋭利な炭素繊維製の競技用義足を専門メーカーから無償供給される者と、保険適用で購入できる日常生活用の義肢しか手に入らぬ者が、同じトラックで走ることに如何ほどの意味と価値があるというのだ? 盲目の人間でもサッカーをしたいならすれば宜しいが、“試合”に仕立て上げて観客を募る必要がどこにあるか? 同じことは、例えば車椅子に依る競技にも当てはまる。アーチェリー、ラグビー、テニス、バスケットボール…。このところ、テレビ等でも大きく取り上げられ、我々が存在を知るところとなった代表的な障害者スポーツである。脇道に逸れるが本来、パラリンピックの前身は、車椅子に乗る障害者の為のスポーツ大会であった。1948年7月29日、ロンドンオリンピック開会式と同日に行われたイギリスのストーク・マンデビル病院競技大会がその嚆矢に当たる。これは、第2次世界大戦で負傷した兵士たちのリハビリの一環として開催されたものである。この病院は、脊髄を損傷した軍人のリハビリの為の専門科を設け、ドイツからの亡命医師であるルートヴィッヒ・グットマンの提唱で、車椅子の入院患者(男子14人・女子2人)に依りアーチェリー競技会が行われた。この競技会は当初、入院患者だけで毎年行われたが、1952年に国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技会開催となった。1960年、グットマンを会長とする大会委員会が組織され、この年のローマオリンピックと所を同じくして国際大会が実施された。この大会を現在、第1回パラリンピックと呼んでいる。




閑話休題。問題は、この車椅子にもある。競技用の車椅子は操縦性能・安定性・堅牢性等、使用されるメーカーに依ってアンフェアとも言える圧倒的な差異を生んでいる。恐らく、この点では“技術大国ニッポン”が有利なのは言を俟たない。「健常者のスイムスーツ(水着)とて同じことだ」と言われそうだが、馬鹿を言っちゃいけない。“程度問題”というやつである。実際の競技では、大会主催者が用意する車椅子で試合を戦わなければ不平等であり、スポーツマンシップには著しく反することになるだろう。もっと静かに淡々とやれないものか? 何故、健常者のスポーツの祭典であるオリンピックの向こうを張って、徒に金・銀・銅メダルを争う必要があるのだろう? この点で寧ろ気になるのは、障害者アスリートの射幸心を必要以上に煽っている健常者のほうである。相も変わらず“金を生むイベント”と値踏みさえできれば、世界中の広告代理店は関係企業を総動員して錬金術のシステムを形成する。実際、ロンドンパラリンピックでは史上最高の270万枚のチケットを捌き切り、約56億円の売り上げを記録している。小生は観たくないが、世の趨勢はどうやら違うらしい。その結果、パラリンピックで何としても金メダルを欲しい者が不正に手を染める。ドーピングや偽の障害申告が後を絶たず、健常者が競技に紛れ込んでいた過去もある。大金を手にした南アフリカの英雄アスリートであるピストリウスは、殺人まで(たとえ未必の故意であれ)起こす始末である。障害者が速さや強さを競うことに、誰も何の異存もあろう筈がない。志ある者同士、大いにやればよい。陰で企業がそっとバックアップするのも大変結構なことではないか。願わくば、健常者はこの善きスピリットに“カネ儲け”を持ち込まず、静かに見守られんことを。


樫原米紀(かたぎはら・べいき) 著述家。1927年、オランダ王国スケベニンゲン生まれ。慶應義塾大学卒。商社で主に中東に赴任。独立して生家の海運業を継ぎ、傍らソビエト連邦との貿易に携わる。


キャプチャ  2015年12月号掲載


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