【神社が改憲運動をしていいのか】(上) “宗教の公共性”に照らして考える

20160207 03
安倍首相は新年の施政方針演説で、改憲への意欲を示した。これに呼応するかのように、お正月の境内に署名用紙を置き、改憲への署名を募っている神社があった。初詣に来た一般の人々の中には驚いた人も少なくなかったのではないだろうか。一部の神社だけがこれを行っているのではなく、宗教法人『神社本庁』に依ると、「“美しい日本の憲法をつくる国民の会”の運動の一環として、各神社が実情に合わせて署名集めをしている」のだという。この会は、憲法改正の実現を目指して2014年10月に発足し、神社本庁の総長が国民の会の代表発起人の1人である(『東京新聞』2016年1月23日付)。神社本庁の政治団体『神道議員政治連盟』には衆参合わせて303人の議員が属し、安倍首相を始め、内閣の中で5分の4以上もの閣僚が加わっているという。このような状況を見ると、「多くの神社が安倍内閣と連動して改憲運動をしている」と見られても仕方ないだろう。その改憲を求める署名用紙の表現は、「憲法の良い所は守り、相応しくなくなったところは改め…」というようにソフトな表現になっている。けれども、自民党の改憲草案等も合わせて考えると、神社界のこのような動きは「戦前のような“国家神道”の復活を狙っているのではないか」という批判が現れている。改憲草案第20条では、「政教分離から神社を例外にしようとしているのではないか」という疑いが出されているからである。この署名運動をどう考えるべきだろうか。

先ず、署名の文言では“天皇の元首化”という点を取り敢えず除いて考えれば、戦前のような国家神道を目指すことは謳われていない。ここでは、「そこへの回帰を目指すわけではない」と仮定しておこう。この場合、神社に依る今回の改憲署名は政教分離には違反しない。だから、政教分離という観点からこの署名運動を批判するのは正しくない。政教分離というと、「宗教が政治や国家権力と関わってはいけない」という意味だと考えている人が少なくないが、これは誤解である。政教分離が定められたのは、ヨーロッパでカトリックとプロテスタントの間で起こった宗教戦争のような悲惨な出来事が繰り返されることを避ける為である。だからそれは、特定の宗教・宗派と国家権力が公式に結び付くことを禁止しているのである。日本では戦後、国家神道は廃止され、神社本庁は1つの宗教法人となって多くの神社はその傘下に入った。それ以外の神社や神道も存在するが、神社本庁傘下の神道を以下では“神社神道”と呼ぶことにする。今では、このような神社は数多くある宗教団体の1つである。1つの民間宗教団体が政権を支持して政権の目指す改憲運動を行っても、それ自体は政教分離とは抵触しない。この改憲運動は、神社が境内で自発的に行っていることであって、国家権力の助けを借りて行っている訳ではないからである。他宗教の場合を考えてみれば、これはわかり易いだろう。例えば、原発再稼働や昨年の安保法“制定”に対して、キリスト教や仏教の様々な団体が反対声明を出したりして運動を行った。キリスト教の教会や仏教の寺院で行っても、それを「政教分離に反している」と咎める人はいないだろう。同じように、神道が神社の境内で政治的運動を行っても政教分離には反しないのである。尤も、その運動の目標に関して議論はあり得る。若し、その推進する憲法改定の内容が政教分離を崩すものならば、その内容についての批判は十分にあり得るだろう。それでも、そういう改憲運動を行う権利が神社にはある。原則として、内容の如何に拘らず、それを主張する権利を認めるのが政治的自由が意味するところだからである。如何なる宗教であれ、その観点からの政治的主張を運動として行うことは認められなければならない。




それどころか、このような政治的主張を神社が行うことには公共的な意義もあり得る。歴史的に長い間、日本の伝統的宗教は政治権力に従属させられてきた為に、公共的な問題に対する発言を控えがちだった。信仰を内心の問題に留めて、公共的・社会的問題を関心から遠ざけることが多かったのである。公共性という観点から見ると、必ずしもこれは好ましくない。政治においては、多くの主体が政治経済において利害関係を持っているので、その観点からの議論になり易い。原発問題や安保法問題といった大問題ですら、実際は経済的利害から賛成している人も少なくないだろう。でも、本当は大問題であればあるほど、現実の利害から離れて考えることが大事である。宗教には、このような意見を提起することが期待される。抑々、信仰は超越的な世界へと向けられるものだから、現実の世界(俗世)から離れた世界観から考えることが可能な筈である。そのような意見が公共的に発信されることは、利害関係に捉われがちな娑婆の世界に対して別の観点からの意見を提起することになる。そのような議論もあってこそ、現実の世界における政治的議論も豊かになるだろう。ここに、宗教は公共的な役割を担い得るのである。日本の伝統宗教が公共的問題を避けて通りがちであるのは、“宗教の公共性”という観点から嘆かわしいことである。そこで、この問題を意識して正面から取り組もうとする伝統的宗教に私も協力してきた。このような観点から見ると、神道という伝統宗教が改憲という大問題に対して公共的に行動し始めたのは、“宗教の公共性”を発揮することであるとも考え得る。これまでは、多くの神社が政治的問題に対して積極的に発言してきたとは思えない。例えば、原発問題・安保法問題・TPP等に対して、神道を信じる人々はどのように考えているのだろうか。初詣に行く人々の多くは、そのようなことは全く知らずに参拝していることだろう。その中には、改憲には反対の人も数多くいるだろう。そのような人は、境内に改憲推進の署名用紙が置かれているのを見ると、心理的に違和感を覚えるかもしれない。「もう神社に初詣には行きたくない」と思って神道に距離を置く人も増えるかもしれない。若し、そのような違和感が人々にあっても、「改憲運動をすることに意義がある」と神社が思うのならば、その政治的主張への賛否とは別に、神社がこのような公共的行動を始めたことには意義があり得るのである。

しかし、以上のような議論は「飽く迄も、神社本庁は多数の宗教法人の中の1つであり、この署名運動はその政治的運動である」という前提の下になされている。抑々、今では神道は法的には民間の一特定宗教なのだから、国家権力と公的に結託することは正に政教分離に反し、憲法上、許されないからである。しかし、初詣に行く多くの日本人にとっては、神社が民間の一特定宗教という感覚はあまり無いかもしれない。初詣という行為自体が宗教的行為という自覚も少なく、習慣や習俗だと思っている人も多々いるだろう。人々がそう思うのには歴史的背景がある。改憲署名に関して、神社に問われるべき問題がここにある。それを次に考えてみよう。


小林正弥(こばやし・まさや) 千葉大学大学院人文社会科学研究科教授(政治学)。1963年、東京都生まれ。東京大学法学部卒。慶應義塾大学大学院システムデザインマネジメント研究科特別招聘教授・日本ポジティブサイコロジー医学会理事等を兼任。専門は政治哲学・公共哲学・比較政治。『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)・『サンデルの政治哲学 “正義”とは何か』(平凡社新書)・『人生も仕事も変える“対話力” 日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)等著書多数。共訳書に『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』(ハヤカワ文庫)等。


キャプチャ  2016年2月5日付掲載


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テーマ : 憲法改正論議
ジャンル : 政治・経済

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