【震災5年・証言】(03) “水素爆発”見通し甘く、“万が一”の備えが遅過ぎた――元原子力安全委員長 班目春樹氏

20160210 01
3月12日午後3時36分、福島第1原子力発電所1号機の原子炉建屋から白煙が上がりました。そのテレビ映像を首相官邸の一室で見た時、直ぐに悟りました。「ああ、水素爆発だ」。津波で電源を失った原子炉は冷却できなくなり、燃料が過熱して水素が発生します。その日の朝、福島第1原発へ視察に向かうヘリコプターの機内で、菅直人首相(当時)に水素の危険性を聞かれたのですが、「格納容器には(燃焼を防ぐ)窒素を入れている。水素に依る爆発はないでしょう」と話したばかりでした。それより私が心配したのは、高温の蒸気に依って格納容器の圧力が限界を超え、容器が壊れて大量の放射性物質が飛散する事態でした。午後2時半、「格納容器から蒸気を排出して圧力を下げる“ベント”が成功した」と聞き、「危機は去った」と喜んでいました。しかし、実は水素が格納容器の中に留まらず、建屋内に漏れ出していたのです。それが爆発を起こしました。「考えてみれば当たり前の話。何故、気付かなかったのだろう」。胸の内で、自分の見通しの甘さを何度も責めました。爆発は、科学者としての信用をも吹き飛ばしてしまいました。原子力安全委員会は、緊急時には政府に助言する専門家集団と位置付けられていました。官邸では、閣僚等の政治家が次々とやって来て、私を質問攻めにしました。そこに私1人しか専門家がいなかったからです。難解な原子力分野の用語から今後の見通しまで、私は只管質問に答え続けました。助言役というよりも解説者のようでした。安全委は事故直後、原子炉や放射線等といった様々な分野の専門家を招集しました。でも、官邸からは中々外に連絡できません。知識を結集できないまま、大事な時間が過ぎていきました。首相官邸に呼び出されたのは、3月11日の夜でした。原発事故対応の拠点は小さな部屋で、私を含めて十数人。そこには、福島第1原発の情報が殆ど届きませんでした。『原子力安全・保安院』は『東京電力』や現地の保安検査官から来る筈の情報を伝えてくれないし、原発の図面さえ持ってきません。限られた情報すら、官邸では共有されませんでした。首相補佐官の細野豪志氏は福島第1原発の吉田昌郎所長と電話で連絡を取っていたのですが、それを私は知りませんでした。後で知って愕然としました。情報が少ないからこそ、様々な角度から検討するべきでした。例えば、水素爆発の可能性も、専門家が数人で議論していたら事前に気付いたかもしれません。「こんな形で判断し続けるのか」。東電の方針が正しいかどうか、私1人の判断を求められ、悩み続けていました。でも、そんな問いかけをできる雰囲気ではありませんでした。

12日朝、菅首相と一緒に福島第1原発まで行った時のことです。何故ベントが中々できないのか、東電の武藤栄副社長の説明はとても参考になりました。電源や弁がどういう状態なのかわかったのです。次の対策を考える為、原発で何が起きているのかをもっと聞き出したかった。ところが、首相はその話を遮ってしまった。大事な機会を逸しました。原子力を知らない政治家との対話には苦労しました。その1つが海水注入問題です。菅首相は、「海水に依って再臨界が起きないか?」と聞いてきました。科学者はデータが無い限り、断定的に言いません。それで私は、「(可能性が)ゼロとは言えない」と答えました。これを、政治家たちは「危険性がある」と受け止めてしまった。科学者が使う言葉を、違う意味に取られてしまったのです。勿論、自分自身に対する反省と後悔も大きいですよ。11日夕方、原子炉を冷やせない緊急状態になったことを伝える報告文が東電から届きましたが、そこに書かれていた「念のために(報告する)」という言葉に引きずられ、「大丈夫だ」と思い込んでしまいました。私は甘かったのです。その結果、(炉内のデータを得るのに必要な)直流電源すら失っていた惨状に思いが至りませんでした。福島第1原発へバッテリーを空輸するように早い段階で提案していたら、その後の相次ぐ爆発を食い止められたかもしれません。1986年、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きても、日本は過酷事故対策に向き合ってきませんでした。1999年のJCO臨界事故の後に誕生した保安院も、万が一に備えた対策の強化には後ろ向きでした。想定を超えた事故を認めると、「原発は安全」という考え方を否定することになるからです。私は、2010年に原子力安全委員長に就き、安全委で過酷事故対策を強化しようとしました。しかし、手始めとなる公開会合の5日前に福島の事故が起きてしまった。多くの被災者を生む事故を招いたことに責任を感じています。何故、もっと全速力で改革に取り組まなかったのでしょう。結局、私は何ができたのか――。今も同じ問いを繰り返す日々です。せめて、「あの事故で何が起きたのかを忘れない内に後世に伝えねば」という思いで、最近は講演や執筆をしています。 (聞き手/高田真之・肩書は当時)




■東電会長が「ヘルプミー」  『アメリカ原子力規制委員会』元地域センター長 チャールズ・カスト氏
原子力発電で高い技術力を持つアメリカは、日本にいるアメリカ人の保護や、事故対応への援助等の為、166人のチームを日本に送り込んだ。『アメリカ原子力規制委具会(NRC)』の技術者だったチャールズ・カスト氏は、そのチームの代表を務めた。

日本行きの指示を受けたのは3月14目でした。福島第1原発と同じタイプの原子炉を電力会社で運転した経験もあり、事故対応には自信がありました。ところが、翌15日午後に東京に着き、想像を超えた多くの難題に直面することになりました。当時の原子力安全・保安院は、原子炉の状況を掴めていませんでした。計器類が動かなくて状況が掴み難かった上、東電や政府の情報伝達も混乱していました。東京に着いて3日後、東電に勝俣恒久会長を訪ねました。彼は毅然とした態度で私の目を見つめ、「へルプミー」と言いました。真剣に助けを求めているようでした。ところが、大使館に一度戻り、チームのメンバーと再び東電に駆け付けると、現場の担当者に協力を断られました。「トップと現場で意思疎通ができていない」と思いました。政府内でも、保安院が十分に機能せず、どこの役所が事故対応の責任者なのか、我々にはわかりませんでした。菅首相に情報が集約されていませんでした。アメリカではNRCが各原子力発電所に職員を配置しており、彼らから情報がホワイトハウスに届くようになっています。更に、大統領が事態を理解して対応できるよう、技術に精通した専門家が補佐する体制になっています。事故から約1ヵ月後、福島第1原発へ行きました。街にはセシウム塗れの車や子供の玩具が捨て置かれていました。住民に起きたことを考えると息苦しくなりました。原子力の専門家として、こうした事故を繰り返してはならないと思いました。水素爆発した建屋の姿は想像を絶するものでした。水素の危険性は私たちも認識していましたが、まさか建屋を吹き飛ばすとは…。こんな状況で、やれる限りのことを尽くした現場の技術者たちには、本当に敬服します。現在の(日本の)原子力規制委員会は、嘗ての保安院と異なり、強い力を持って規制に当たっていると思います。ただ、断層の評価等の技術的な面が中心になっています。避難計画等といった非常時の対応に、もっと国が力を入れるべきです。最悪の事態が起き得ることを常に肝に銘じ、対策を怠らないことが、福島事故の最大の教訓です。 (聞き手/三井誠・肩書は当時)


≡読売新聞 2016年1月27日付掲載≡


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テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 政治・経済

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