【震災5年・証言】(04) 即断した“トモダチ作戦”、若者に希望で日米繋ぐ――前駐日アメリカ大使 ジョン・ルース氏

20160211 10
赤坂のアメリカ大使館から外の駐車場に避難した後、私が最初にしたことはワシントンへの連絡でした。9階の自室で感じた激しい揺れは、地震が多いサンフランシスコで生まれ育ち、地震に慣れたつもりでいた私の想像を遥かに超えていました。アメリカは真夜中でしたが、オバマ大統領とクリントン国務長官(当時)は私の説明を真剣に聞いた上で、こう言いました。「危機に直面している日本人を助ける為、必要な全てのことをして下さい」。その直後、「太平洋岸を大津波が襲い、福島県の原子力発電所が危険な状態にある」という情報が届きました。短時間のうちに恐ろしい出来事が次々と起きていく中、私は1本の電話を入れました。相手は在日アメリカ軍の司令官です。アメリカ軍を動員して、日本人と日本政府を支援することが最良の方法と考えました。これが“トモダチ作戦”です。作戦はアメリカ政府の了承の下、直ぐに展開され、兵士ら約2万4000人が被災地での救助・捜索活動等を行い、原発事故にも対応しました。日本のアメリカ大使としては勿論、在留アメリカ人約15万人と日本で勤務する兵士ら約5万人の安否確認が最優先の業務でした。ですが、アメリカの最も重要な、深い絆で結ばれた日本のことを後回しにはできませんでした。いくつもの事案に同時に対処していく――。そればかり考えていました。朝から晩まで、アメリカから来た政府幹部やアメリカ軍関係者、原発の専門家らと被災地での様々な対応について協議を重ねました。忙しい日々でしたが、彼らの話を丁寧に聞くことに時間を割くよう努めました。私は弁護士です。プロの法律家として、問題をきちんと把握して分析した上で、どう動くかを決めるという所作が身についていました。これまでの人生経験が、本当に大事な場面で生かされたと思います。トモダチ作戦で実際にアメリカが果たせた役割は、ほんの一部だったと思います。それでも、援助物資の運搬等も含め、必要に応じてそれなりに展開できたことを誇りに思っています。暫くして、自分で被災地に足を運び、避難所となっていた宮城県石巻市の小学校を訪ねました。そこで経験したことは忘れられません。1人の少年が私に近付いてきました。その表情は、私が彼にとって必要な安らぎを与えられる人間だと言っているように見え、私たちは抱き合いました。他の人たちは冷静で、取り乱すこともありませんでした。少年も含めた被災者の皆さんが、困難を乗り越えて精一杯生きようとしている現実が身に沁みました。その時に頭に浮かんだ言葉は、今もはっきりと覚えています。「自然の脅威は、人間の財産も命までも奪ってしまうことがある。だけど、人間が生きようとする精神までも奪うことなどできない」。人生で、何かに対して完璧に準備して対応できることなどあり得ません。

何かが起きた時は、本能や人生経験に基づいて動くことになる。東北の人たちは、まさにそうしたのでしょう。彼らが震災直後に示した冷静さや、その後の復興への弛まぬ努力を思い返す度に、日本人の強さを称賛せずにはいられません。一方で、原発事故への対応は、今も非常に複雑な問題を抱えていると考えます。私は、原子力の重要性を強く認識しています。地球温暖化への対処を迫られる中、原子力は安全でクリーンなエネルギーです。ただ、事故が引き起こした衝撃については十分理解しています。だから、「日本が原発利用の再開を軌道に乗せていくと考えるか?」と聞かれたら、私は「時間がかかるし、簡単なことではない」と答えるでしょう。2013年8月に日本を離れてアメリカに戻りましたが、日本には年に7~8回訪問する等、日本との関わりを持ち続けています。震災を機に取り組むと決めたことがあるからです。それを私は、トモダチ作戦に続いて“トモダチ構想”と呼んでいます。在任中、被災地の東北地方とアメリカの若者を繋ぐ為の留学支援等を行う非営利組織(NPO)を創設しました。そのきっかけは、岩手県陸前高田市を訪れた時に出会った戸羽太市長の言葉です。「アメリカが継続的に日本でできることは何か?」と彼に尋ねると、こう言ったのです。「アメリカができる最も重要なことは、東北の子供たちに“希望”を与えることですね」。津波で妻を亡くした市長の言葉を重く受け止め、「この言葉をどうやって行動に移そうか」と考えを巡らせました。そうして行き着いたのがトモダチ構想でした。「東北の子供たちの役に立とう」と始めた同構想は、東北以外の子供も含め、これまでに数千人規模が参加するものになっています。一方のアメリカ側は、私の出身のサンフランシスコに近く、アメリカの頭脳が集まるシリコンバレーの子供や若者らが中心です。日本の若者は内向き志向だと言われています。実際、日本からアメリカに留学する人の数が劇的に減っているのは心配ですが、大丈夫ではないかという気もします。在任中、私は47都道府県を全て訪れました。その際、その土地の大学生や高校生と直接会話する機会を持つようにしました。学生らの話に耳を傾けると、興味や関心のあるテーマが明確で、その為に留学等を考えている人が結構いることに気付きました。若者の起業が盛んなシリコンバレーとの関係が強まれば、日本の若者はもっと刺激を受けるのではないでしょうか。特に、東北の若者たちが活気付き、被災地の復興を後押しすることになると願っています。震災後の日米関係は、非常に緊密になってきていると思います。特に、『環太平洋経済連携協定(TPP)』は日米両国にとって戦略的にも経済的にも重要で、両国の距離を縮めていくことになるでしょう。そして、国と国の結び付きが強まるのに合わせ、人と人との関係も強くしていかなければなりません。その役目を、あの震災を体験した私が今後も担っていきたいと思います。 (聞き手/ロサンゼルス支局 田原徳容)




■“トモダチ作戦”とは?
被災地で救援活動を展開したアメリカ軍の“トモダチ作戦”では、陸海空と海兵隊の4軍から最大時約2万4000人が動員された。2011年版の防衛白書に依ると、約140機の航空機や10隻を超す艦船も投入。このうち、空母『ロナルド・レーガン』は、韓国沖での演習参加を取り止めて三陸沖に停泊し、艦載へリコプター等が行方不明者の捜索や救援物資の輸送を担った。揚陸艦『トーテュガ』も活動し、北海道の陸上自衛隊員300人や車両100台を被災地に運ぶ役目を果たした。津波で被災した宮城県東松島市の浜市小学校(2013年に近隣の小学校と統合)では、震災直後から1週間、アメリカ軍兵士約20人が重機を使い、校舎や体育館に流れ込んだ瓦礫を撤去したり、泥を掻き出したりした。教頭だった阿部達哉さん(59・現在の石巻市立大街道小学校教頭)は、「職員は疲れ切っていて、重たい瓦礫を片付けるのは大変。子供たちのケアもしなければならなかったあの状況で、アメリカ軍の支援はとても有難かった」と振り返る。トモダチ作戦は、自衛隊と緊密な連携を図りながら実施された。自衛隊とアメリカ軍は東京と仙台に『日米共同調整所』を設け、部隊の運用計画を立てた。アメリカ軍は初期の救援活動に続き、原発事故の対応等でも協力。原子炉に注水する真水を運ぶ“はしけ船”や防護服等を日本側に提供し、長期に亘る支援を続けた。

               ◇

■アメリカ兵の献身を忘れない  元防衛大臣 北沢俊美氏
民主党の北沢俊美議員(参議院)は、防衛大臣として原子力発電所事故への対応や、アメリカ軍との調整に当たった。

東日本大震災から6日後の3月17日、原発を冷やす為、自衛隊のヘリコプターに依る上空からの放水を行いました。様々なルートでアメリカ側から、原発事故への更なる対応を要望する声が伝わってきていました。放水は、高い放射線に晒される危険な任務です。隊員の人選について、「子育て等を控えた若い人に配慮したらどうか」と幹部に伝えました。しかし、若い隊員から「特別扱いしないでほしい」との声が上がり、感激しました。震災直後、菅首相からアメリカとの調整を指示されました。私とルース駐日大使は以前から親交があり、地元・長野のリンゴとカリフォルニアのワインをお互いに贈り合ったこともありました。そんな縁もあり、通常は外務省が務めるアメリカとの窓口役を防衛省で引き受けました。異例の対応でしたが、3月22日に日米両政府の連絡調整会議が設置されるまで、防衛省内で日米の会議が続きました。放水で、アメリカは日本政府が全力を尽くしていることを理解してくれたのでしょう。アメリカ軍のトモダチ作戦の展開にも繋がったと思います。自衛隊とアメリカ軍は被災地で歓迎されました。被災者からは、「自衛隊員の迷彩服姿を見ると安心する」と言ってもらえました。アメリカ軍の若い兵士らは「手伝えることは何でもやるから言ってくれ」と積極的で、被災者救助に留まらず、生徒と一緒に津波に襲われた学校の清掃もしてくれました。4月には、三陸沖で活動していたアメリカの原子力空母『ロナルド・レーガン』を訪問しました。艦上では約2500人の乗組員が整列して出迎えてくれ、「ニッポンがんばれ」等と寄せ書きされた旗をプレゼントされました。私は、「日米同盟の長い歴史で、これほど成果を上げたのは初めてだろう。日本国民は忘れない」と謝意を伝えました。生涯であれほど感動したことは、そうはありません。寄せ書きは、統合幕僚監部に今も大切に保管されています。 (聞き手/森山雄太)

■風化させないことが使命  前陸上幕僚長 君塚栄治氏
東日本大震災で陸海空自衛隊の統合任務部隊(JTF)指揮官を務めた前陸上幕僚長の君塚栄治さん(63)が昨年12月28日、肺癌で亡くなった。10万人規模の大部隊を率いて生存者の捜索等に当たった指揮官は、死去の直前に本紙の取材に応じ、「大震災は必ずまた来る。あの時の教訓を風化させないことが私の使命だ」と、震災を語り続ける決意を最期まで示していた。君塚さんは震災発生時、陸自の東北方面総監。2011年3月11日は、仙台駐屯地(宮城県仙台市宮城野区)の総監室にいた。椅子から投げ出されるほどの揺れの中、「非常呼集!」と叫んだ。総監室で航空隊のへリコプターからの映像を見た。津波が逃げる車を呑み込んでいた。あの日の津波を上空から捉えた初めての映像。「兎に角、速度重視の人命救助だ」と思ったが、部下らには「慌てるな」と冷静な対応を呼びかけた。JTFの指揮官を任されたのは3日後の14日。災害対応では初の編成で、マニュアルも無かったが、「東北の部隊だけでは人員が圧倒的に足りない」という状況の中、覚悟を決めた。JTFには最大時、10万7000人の自衛隊員が集結。母親が津波に呑まれて動転した隊員は、任務から外した。「私は家族全員を失いました。部隊で役目を果たすしかない」と申し出てきた隊員もいた。「修羅場だった」と振り返る。最も判断が難しかったのは、不明者捜索から避難生活の支援に力点を変更するタイミングだったという。「最後の1人まで見つけることに追われると、避難所で凍えている命を見捨てることになる」。ただ、生存率が大幅に下がる被災後の時間を超えても、家族らの望みを断つ決断は苦しく、実行に移したのは1週間近く後だった。JTFが7月に解散した後、陸自トップの陸幕長に就任。2013年に退任してからは、南海トラフ巨大地震等が想定される静岡県の危機管理担当補佐官に就く等、ノウハウを災害対応の現場に伝える道を選んだ。東京都内の病院に入院していた2015年12月上旬、取材に応じた。時折咳込みながらも手帳に目を落とし、「自衛官生活の最後に直面した国民の危機は、災害だった。自衛隊がその為の準備もしなければならないということを、国民に理解してもらわないといけない」等と語った。大晦日にあった告別式には、中谷防衛大臣や陸幕長経験者らが参列。「何事にも動じない人だった」等と惜しむ声が上がる中、棺は敬礼に見送られて斎場を後にした。


≡読売新聞 2016年1月28日付掲載≡


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テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 政治・経済

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