【“疑似科学”と科学の間】(04) 嘗ては地動説も疑似科学だった…科学と一般社会の健全な関係とは?

20160214 07
疑似科学とは、科学の装いを持っているけれども、科学ではないものです。どこからが科学で、どこからが疑似科学なのか。それを識別する方法は、“科学哲学”という分野で検討されてきました。“境界設定問題”といって、中々の難問です。識別は容易ではありませんが、徹底的に科学であるものははっきりわかりますし、徹底的に疑似科学であるものもはっきりわかります。その間にグレーゾーンが存在しますが、ある程度の識別は多くの科学者たちの合意を見ていると言っていいでしょう。グレーゾーンにあるものの典型は“マイナスイオン”です。マイナスイオンという科学用語や学術用語は無く、何を以てマイナスイオンとするかについては、人に依って違いがあります。それらを総合すると、マイナスイオンは家電製品・置物・滝等で発生し、大気中に漂って健康に好影響を与える未知物質ということになります。山中や滝の近くにいると気持ちがいいことの原因を、空気中のマイナス電荷を帯びた微粒子に求めたことが、この言説の発端だと思われます。地面がマイナスに帯電しているという事実から、大気中に浮遊物が多い環境に負の荷電粒子が多いということは理解できます。しかし、それなら滝の近くだけでなく、砂埃が舞う砂漠も同様に気持ちがいいということになります。これでは、体系的な説明に欠けると言わざるを得ません。況してや、ヒトへの健康効果に至っては理論が乱立し、体系性は極めて低い状況です。但し、荷電粒子には集塵効果や除電の効果があると考えられ、そちらの用法であれば科学的に問題はありません。マイナスイオン効果を宣伝するドライヤーといった商品も販売されていますが、ドライヤーから荷電粒子が吹き出ると髪の毛が帯電して反撥し合い、浮き上がりますから、早く乾かすことができます。熱風を当てる時間が短くて済めば、髪のダメージは減ります。商品の宣伝コピーとは違うかもしれませんが、そのくらいの利点はありそうです。

疑似科学の中でも、徹底的に科学ではないものとして“EM菌”が挙げられます。EM菌の幅広い効能の中には、それを撤くと土壌の放射能が減るというものがあります。しかし、これは明らかに物理学の基本から外れます。放射能は放射性物質なので、EM菌なるものがたとえ放射能を食べたとしても、EM菌から放射能が発生してしまいます。EM菌を研究しているのが、提唱者とそのグループだけというのも問題です。科学には、ある理論が提唱されたらそれをオープンな形で議論をして、様々なデータを積み上げ、その理論を改訂していくというサイクルが必要です。理論とデータとが噛み合っていなければ、科学ということはできません。誰かが提唱しただけでは、科学として認めることはできないのです。理論とデータが噛み合っていないものの典型として“コラーゲン”が挙げられます。加齢と共に肌のコラーゲンが失われていくことは、データで示すことができます。しかし、人間の身体は、食べた物質がそのまま体中に行き渡る構造にはなっていません。消化吸収された後に、身体の各部位に必要な各物質に再生成されるのです。コラーゲンを摂取しても、身体の中のコラーゲンは増えないのです。髪の毛が薄くなってきたからと言って、誰も髪の毛そのものを食べたりはしません。それと同じことです。疑似科学かどうかの判定が難しいものとして、“鍼灸”や“漢方”が挙げられます。日本人なら、鍼灸や漢方が全くの出鱈目だと思っている人は少ないでしょう。鍼灸は、「人体に経絡という人間の生命力が流れる道が存在する」ということが前提となります。その道が何らかの障害に依って妨げられると健康状態ではなくなる為、鍼や灸を使って経絡上にあるツボを刺激するのです。しかし、経絡そのものが現代の解剖学的な所見とは相容れず、しかもどのツボがどのような症状に効果があるのかは、歴史的・経験的な主張でしか語られていません。その有効性の高さも、個人に依って大きく異なります。しかし、鍼灸治療についての研究はオープンに行われ、データに依る裏付けが繰り返し取られ、懐疑的な立場を取っている研究者からも、少なくとも腰痛と頭痛の鎮静については効果を認める報告がなされています。鍼灸界も厳密性を求め、理論面を充実させる態勢が作られつつあります。理論が追いついていないとは言え、鍼灸は科学として評価されるべきものだと考えられるのです。私は、これを“発展途上の科学”と分類しています。漢方についても同様のことが言えますが、対象が広い為、理論の普遍化には問題が残ります。




20160214 08
疑似科学が科学の装いを持っているけれども、科学ではないものだとすれば、その逆――つまり、科学の装いをしていないけれど科学かもしれないものはあるでしょうか。例えば、“幽霊”はどうでしょうか。人間の魂が死後も存続し、浮遊して生者の世界と関わった時に幽霊と見做されます。幽霊の存在は、目撃や霊能者に依る霊視、心霊写真、個人的な体外離脱(体脱)体験や臨死体験等に依って主張されます。理論的に見ると、先ず、幽霊或いは霊魂と称するものがどのような性質を持つかが仮説として確定していません。宙を浮遊する幽霊は物理学との整合性が低く、また心理学との関連においても不整合が見られます。体脱体験や臨死体験は度々報告されており、ある程度の再現性はありますが、脳等に生理的な条件が揃った時に体験される現象として説明できる傾向があるので、再現性が寧ろ幽霊仮説の反証になる可能性があります。幽霊研究には歴史があり、19世紀末にケンブリッジで設立された『心霊現象研究協会』にまで遡ることができます。日本でも『心霊科学協会』が設立されましたが、科学としての研究はあまりなされていません。抑々、幽霊は科学的な装いをしていません。それでも、幽霊の存在について吟味する方法は科学しかありません。そして、幽霊の存在を信じている人にとっては残念なことに、世間で報告される幽霊体験の多くは、既に現代の科学に依って十分に説明がついてしまいます。「幽霊は幽霊の世界にいる」という主張もありますが、私たちのいるこの世界と関わりが見出せなければ、それは存在しないのと等しいのです。嘗て、「幽霊は科学になる可能性を持っている」と考えられてきましたが、現時点では「疑似科学だ」と言う他ありません。嘗て、天動説が信じられた時代、地動説は疑似科学であり、神に対する冒涜でした。科学の発展は、時として疑似科学を科学にしてしまうことがあります。ならば、例えば「幽霊が疑似科学から科学に変わる可能性があるか?」と問われれば、「それはゼロとは言い切れないけれども、今のところ、その兆しは無い」と答えるしかありません。ただ、「幽霊ではなく、“超能力(ESP)”ならその兆しがある」と言えます。

ESPには時空間を超えた情報伝達が想定されている訳ですが、これは当然、物理学の諸法則と整合的ではありません。しかし、超心理学者の間ではESP実験が繰り返し成功していて、ESPに相当する現象の存在を示すデータが統計的に得られています。オープンな議論もなされています。その意味で、ESPには将来的に科学になる可能性があります。私は、これを“未科学”と呼んでいます。但し、得られたデータは極小さなものです。様々な電気現象や放射線の現象も、最初は極小さなものでした。それを強めるテクノロジーが発展し、それと共に研究が発展したというプロセスがあったことを考えれば、研究の芽としては小さいけれど、将来性はあると言えます。しかし、現時点では一般社会に応用できる知見は殆どありません。使うことができないし、超能力があると主張する社会的な意味もありません。科学として確実となったものを一般社会で応用し、不確実なものは科学の世界の中で温めていく――。これが、科学と社会の健全な関係性です。癌治療等においては、この関係が崩れて、科学と社会の間のギャップが屡々問題となります。データとして極小さな効果が出たものを確実なものにしていく段階にあるもの、即ち不確実なものであっても、一般社会からは特効薬のように見える場合があります。すると、どうにかして手に入れようとする人が出て来ますし、提供しようという人も出てくる。その結果、隠れた副作用が表れたり、思いもよらない症状が表れたりするのです。科学の進歩に依って、日常生活で起こり得ることにはだいぶ対処できるようになりました。現在でも、「対処できないのは科学が及ばない難しいことなのだ」ということを忘れてはなりません。例えば、「津波に備える」という考え方は今でこそ当たり前ですが、昔の人はそんなことは考えませんでした。「津波は天災であり、普段の生活で頻繁に起こることではない。津波が来てしまったら、生き残った人が力を合わせて“次”へ行かなければならない」――。津波が来る地域に言い伝えられてきたのは、どうやって“次”へ行くかであり、世界とはそういうものだった筈です。難しいことに対処しようとすると、どうしても科学と疑似科学が同居してしまいます。地震や津波のように、日常的とは言えないこと、そして地球全体を巡ることは、我々が対処できない難しいことの1つです。地球温暖化を巡る問題は、科学と疑似科学が同居している状態ですし、そこには政治的な要素も加わっています。

20160214 09
地球温暖化とCO2との関連は、実はそれほど明瞭ではありません。今はだいぶ落ち着いて健全な形になりましたが、当初はかなり極端な意見が報道に依って拡散されました。科学に再現性が不可欠なものだとすれば、地球温暖化は検証ができません。理論がデータを予測し、実験や観測に依ってチェックした上で理論を直していくという循環が不可能なのです。地球全体の環境を考える上で、CO2は増えないほうがいい。しかし、地球環境問題の元凶は人口増です。1960年に30億人だった人口が今、70億人を超えています。また、次の50年で倍以上に増えるとしたら、人類は生活していくことができません。しかし、人口の制限は特に途上国にとって難しい問題を孕んでいます。人口問題を別にすれば、環境破壊を引き起こす森林伐採を止めなければなりませんが、これもまた難しい。先進国が散々伐採しておいて、今何故、途上国にその禁止を強制できるのかということになります。そうすると、CO2対策は政治的に正しいターゲットということになるのです。一般社会が科学と付き合っていくのは実に難しいことです。少しでも健全な関係を作り上げるには、科学リテラシーを高める必要があります。科学リテラシーの最大の意義は、「科学が理論とデータのサイクルをオープンな形で営むものである」というその方法を学ぶことにあります。理論とデータがきちんと噛み合い、検証可能な形で提示するということが科学の営みなのです。科学と言うと、これまではどうしても理科という科目で、自然科学の成果を知識として学ぶということになりがちでした。勿論、知識は大切です。しかし、人文社会系の学問の中にも科学的なことは沢山あります。科学を理解するには、知見よりも寧ろプロセスを学んだほうがいいのです。例えば、誰かが新しい経済理論を唱えた時に、科学は「データはありますか?」と問います。あのトマ・ピケティにしても、これまで何となく言われてきたことを、あれだけ分厚い、そして誰でも検証することができるデータを揃えて言ったからこそ、科学的な成果となったのです。たとえ、どうしてそうなるかが全てわからなくても、理論とデータが噛み合っているかどうかを問う姿勢さえあれば、一般社会と科学の付き合い方は変わります。「水に『有難う』という言葉を掛けたら、美しい結晶ができました」と言われたら、「そこにはどんな理論があるのか? どんなデータがあるのか?」と問うのです。それだけで、いい加減な言説を見分ける力になります。疑似科学について考えるということは、「科学とは何か?」を考えることです。本当の科学を知ってこそ、それが疑似科学かどうかが見えてくるのです。 =おわり


石川幹人(いしかわ・まさと) 明治大学教授。1959年、東京都生まれ。東京工業大学理学部卒。同大学大学院総合理工学研究科修士課程修了。博士(工学)。著書に『心と認知の情報学 ロボットをつくる・人間を知る』(勁草書房)・『“超常現象”を本気で科学する』(新潮新書)等。


キャプチャ  2015年12月号掲載


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