【昭和史大論争】(04) 石橋湛山の“小日本主義”とは何だったのか

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様々な媒体で石橋湛山(1884-1973)の名を目にする。そこでは、多様な政治的立場の人々が彼の言動を紹介している。石橋の言葉には政治的な願望を投影し易いのだろう。石橋のイメージは多面的だからこそ、其々の政治的立場にアピールする要素を持っている。石橋湛山は、戦前・戦時期には経済雑誌『東洋経済新報』(現在の『週刊東洋経済』)のジャーナリストとして活躍し、戦後は政治家として自民党に所属し、1956年には首相に上り詰めた人物として知られている。現代も多くの人々を惹きつけているのが、石橋の主張した“小日本主義”である。第1次世界大戦後のヴェルサイユ・ワシントン体制の成立前後に、石橋は小日本主義を打ち立てた。ワシントン会議(1921年11月~1922年2月)に臨む日本代表に対して石橋は、帝国主義列強に先がけて、日本の既得権益であった植民地を放棄するよう求め、『東洋経済新報』誌上に一連の社説として発表した。石橋は、「朝鮮・台湾・満洲を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリヤもいらない」(1921年7月23日『一切を棄つるの覚悟』。以下、注記の無い場合は『東洋経済新報』掲載。適宜、仮名遣いを改めた)という徹底的な植民地放棄論を展開したのである。拡張主義が優勢だった戦前日本に、こうした斬新な少数意見が存在したこと自体、稀有な発見である。この小日本主義に依って、石橋は独自の存在として歴史に刻まれた。人々が抱く石橋像の中で、“石橋湛山=小日本主義”というイメージは強い。「石橋は生涯、小日本主義を貫いた」と思われがちである。しかし果たして、それは事実と言えるのだろうか? 本稿では、石橋湛山の小日本主義とは何だったのかを検討したい。

先ず、「戦時期(1931~1945年)も石橋の小日本主義は一貫したのか、それとも挫折したのか?」という疑問が湧くのではないだろうか。戦時期の社説で、石橋は次のように述べている。「我が植民地とは何処々々か、あるいは台湾、朝鮮および樺太が挙げられるであろう。けれどもこれらの地方は、実際において今は植民地というよりは、少なくも貿易については我が本土の一部と見るのが適当だ」(1936年9月19日『世界開放主義を提げて』)。ここでは植民地放棄論は消え、更に「経済上は日本の一部だ」と述べている。小日本主義の核心が、冒頭で掲げたように植民地放棄論にあったとするならば、この1936年の言論に小日本主義を見い出すのは最早無理である。「石橋は生涯、小日本主義を貫いた」という見方は、「そうあってほしい」という願望の投影に過ぎないだろう。こうした石橋の主張の変化は、何故起こったのか? 他の言論人の例に漏れず、石橋も戦時期の言論統制の犠牲となり、小日本主義は挫折したと言うべきなのだろうか? この疑問を解く為には、小日本主義がどのような構成要素で成り立っているのかを分析する必要がある。「石橋が発表した小日本主義の言論を解剖すると、“自立主義”と“経済合理主義”という要素に腑分けできる」というのが筆者の見解である。自立主義には、第1次世界大戦末期のウィルソン主義(民族自決の理念等)の影響を色濃く窺うことができる。1919年には朝鮮で3.1独立運動、中国で5.4運動が起こった。石橋は、列強の帝国主義に依ってこれまで抑圧されてきた民族のナショナリズムを正当なものとして評価し、擁護した。石橋がアジアの民族自決主義に共感したのは、社会運動の盛んな“大正デモクラシー”の中で到達した自己の思想的立場があったからである。「幸福は、決して与えられた結果にはない」「自己は自己に依って支配せられぬ限り、真の意味において生活はない」「民族の生活もまた同様」と考える石橋は、支配者に依って与えられる善政を拒否し、民衆に依る政治を望んだ。こうした自己の要求と、抑圧された民族の自立への要求とを重ね合わせ、「彼らの要求も同じように正当だ」と主張したのである(1916年11月1日『哲人政治と多数政治』<『第三帝国』>・1919年5月15日『鮮人暴動に対する理解』)。経済合理主義とは、ここでは植民地領有の経済的合理性の有無――つまり、儲かるか儲からないかについての計量分析である。石橋は、「日本の植民地との貿易額がアメリカ、インド、イギリスとの貿易額に比べて些少であり、移民実績が振るわず、軍事的干渉政策は反感を買う」といった諸事実をデータで示した。「植民地領有は、コストがかかる割に国益にならない」という結論に至ったのである。こうして、自立主義と経済合理主義から導かれた結果が、植民地放棄論を核心とする小日本主義であった。




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「石橋の小日本主義は、当時の言論界の少数意見で非現実的だった」と総括されがちである。しかし注意すべきなのは、1920年代のワシントン体制下の日本外交の方向性に必ずしも逆行するものではなかったことである。この時期の外交を象徴する存在が幣原喜重郎である。彼はワシントン会議全権と、1924~1927年と1929~1931年に亘って外務大臣を務めた。幣原は対中国政策について英米両国と協調的で、ワシントン会議の枠組みに基本的に忠実だった。幣原外交は“経済外交”と呼ばれ、次のような基本方針を持っていた。「産業立国の政策は経済外交の推進、外交の経済化によって初めて完成する。ところで国民生活の前途を国土の膨張とか拡張とかいうようなことで打開することは国際協調を破るおそれがある」(幣原平和財団『幣原喜重郎』)。幣原は、日本が経済外交を円滑に行う為にも、中国統一の早期実現を希望していた。従って、幣原は中国ナショナリズムへの対応も柔軟であった。当時のマスコミや軍部も幣原外交を受けいれていた。陸軍の宇垣一成は、「日本国民の希求は領土ではなく経済的の進展である、しかもそれは排他的でなく、ことに支那とは完全なる共存共栄の基礎の上におけるものなり」(1929年8月23日『宇垣一成日記』)と記している。確かに、石橋の小日本主義は当時、最先端の主張だった。しかし、軍事より経済を重視し、中国ナショナリズムに融和的な外交政策という点で、小日本主義は大局的に幣原外交、延いてはワシントン体制と共通性を持っていたのである。石橋の小日本主義と内外情勢との調和は、ワシントン体制が安定しているかどうかにかかっていたのだが、問題はワシントン体制が不安定だったことである。その脆弱性は、日英米3国の中国ナショナリズムへの対応において露呈した。1920年代は、中国の国権回収運動と日本を含む列強の既得権益との対立が先鋭化した時代である。1925年に上海で起きた5.30事件は、日英に向けられた反帝国主義運動に発展し、中国全土に拡大した。翌1926年7月には、蒋介石の国民革命軍の北伐が開始され、1928年内には国民政府に依る中国統一が完了した。国民政府の承認を巡って日英米3国の足並みが乱れ、ワシントン体制は機能不全に陥り、日本は孤立していく。そして満洲事変が勃発し、日本は戦時体制に入っていった。ワシントン体制の崩壊は、小日本主義を支えていた状況の崩壊を意味したのである。

石橋は満洲事変後、『満洲国』の建国を受けいれて、「ここまで乗りかかった船なれば、今更棄て去るわけには行かぬ」(1932年2月27日『満蒙新国家の成立と我国民の対策』)と従来の満洲放棄論から遠ざかっていった。前述の『世界開放主義を提げて』(1936年9月19日)での植民地領有を前提とした議論は、この延長上にあると言える。こうして、戦時期になると石橋は、植民地放棄論を核心とする小日本主義を主張しなくなったのである。石橋のこの変化は、言論弾圧に依る挫折と捉えるよりは、小日本主義を支えていたワシントン体制の動揺と崩壊が原因と見るべきである。本稿の前半部に、「戦時期に小日本主義は一貫したのか、挫折したのか?」と書いたが、実は、「こうした問いの立て方自体に問題がある」と筆者は考えている。小日本主義はワシントン体制の時代に固有の産物だったのであるから、この体制が崩れた戦時期にまで引き延ばして一貫性を問うのは適切ではないのである。それでは、小日本主義よりも寧ろ、戦時期にも持続したというに相応しい石橋の思想とは何だろうか? それは、小日本主義の構成要素でもあった“自立主義”と“経済合理主義”である。つまり、小日本主義はワシントン体制というある特定の時期に出現した思想であり、石橋の生涯全体に、より普遍的に見い出せるのは、自立主義と経済合理主義であるということになる。では、戦時期に自立主義はどのように展開されたのか? 石橋は中国ナショナリズムと日本の対立激化を前にして、「残念ながら支那人には果して自国を統治する能力あるや」(1931年2月6・13日『支那に対する正しき認識と政策』)と中国側の責任能力に疑念を示すようになっていた。石橋は、中国民衆の抗日感情を過小評価していたのである。それでも、「支那の自主独立を犯して、日支提携などの出来ようわけのない」(1939年10月7日『汪精衛氏の要求』)と述べ、中国の自立主義を理解しようと踏み止まった。

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他方、石橋の経済合理主義は、経済的な国益の追求として戦時期にも続いた。日本が自立を維持する(自立主義)為に、経済合理主義を主張したのである。石橋は「国際分業が経済合理性に優れている」というのが持論だったので、ブロック経済化に反対した。従来から日本にとって重要な貿易相手国であるという見地から、英米協調路線を唱え、中国大陸への列強との共同投資を提案した。石橋は当初、“大東亜共栄圏構想”に否定的だったが、1941年の対米英開戦以降は、米英との貿易関係が途絶したので、大東亜共栄圏内での“次善”の分業で対応しようとした。こうした戦時期の言論は、現状追認の連続に見えるかもしれない。しかし、石橋が日本の軍事的な支配拡大を批判したのは事実である。率先して戦争を扇動した他のメディアとは明確に異なる。例えば、「満支の重要性を忘るるなかれ」(1942年1月10日)、「鮮満支の物的および人的資源を最高度に活用することである」(1944年11月15日『戦局の現状と本誌の使命』<『大陸東洋経済』>)と書いたのは、南方(東南アジア方面)への更なる“軍事的”支配の拡大を批判する意味があった。しかしながら、このような石橋の立案は、朝鮮・満洲・中国といった日本の植民地・占領地への“経済的”支配を当然視するものであった。しかも、戦時下の“経済的”支配は単に経済の範囲に止まらず、“軍事的”支配と分かち難く結び付いていた。石橋はジャーナリストとして、日本の軍事的要請に“経済的”に協力する側面を持っていた。戦時期の経済合理主義は、結果として日本の戦争遂行を下から支えることを意味したのである。戦後の日本は植民地や既得権益を喪失し、文字通りの“小日本”になった。政治家となった石橋が小日本主義を論じることは無くなっても、自立主義と経済合理主義の思想は彼と共にあったのである。石橋は、日本がアメリカに政治的に過度に依存する姿勢を批判し、自民党内で“対米自主”の立場を取った。それは、自立主義の主張であったと言える。また、石橋が鳩山内閣の通商産業大臣時代に提唱した“政経分離”に依る日中貿易は、冷戦下の経済合理主義の政策だった。

本稿では、石橋湛山の小日本主義の構成要素と、背景となった時代状況を検討してきた。近隣諸国との対立が危惧される現在、対立緩和の糸口を探る為に小日本主義を再評価しようという動機が高まるのは、筆者としても理解できる。しかし、小日本主義はワシントン体制という時代の産物である。石橋が終生、小日本主義を掲げて生きたかのような“石橋湛山=小日本主義”というイメージは、石橋の実像を伝えるには部分的であって、正確とは言えないだろう。石橋は、自立主義と経済合理主義に依って日本の国益を増進しようとした。この意味で、彼はナショナリストであったということもできる。かといって、“石橋湛山=ナショナリスト”というイメージだけでは、同じように不十分なのである。石橋は、自己(自国)と同等に、他者(他国)のナショナリズムを理解しようと努力した。1920年代の中国ナショナリズムに自立を求める自己の姿を重ねて擁護したのである。更に、石橋は“ナショナリズムに懐疑的なナショナリスト”という稀有な存在であった。戦後の石橋は、「日本が東西冷戦を終わらせる橋渡し役を担う」という使命感を持ち、行動した。石橋は首相辞任後の1959年、自民党の代議士として戦後初の中国訪問を果たす。以後、冷戦の克服を目指して“日中米ソ平和同盟”構想を掲げ、超党派の共産圏外交に尽力した。晩年の石橋は、「平和共存以外に人類を生かす道はない」(1964年10月24日『フ首相退任後のソ連にのぞむ』<『週刊東洋経済』>)という結論に至る。彼は、「将来には資本主義と共産主義が融合する時代が来る」と予見した。しかし、「未来にもナショナリズムが残って、問題になるだろう」と懸念したのである。石橋は次のように語っている。「僕が一番おそれ心配しているのは、民族主義、ナショナリズムなんです」「ナショナリズムをどういうふうにプラスの方向にむけるかということが問題ですね。これは結局、人間自身の問題です」(『湛山座談』)。自己(自国)のナショナリズムの“正しさ”ばかりを声高に主張する傾向の社会で今、石橋湛山から何かを学ぼうとするならば、寧ろこうした態度にあるのではないだろうか。


上田美和(うえだ・みわ) 早稲田大学講師。1973年、神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程史学(日本史)専攻単位取得。博士(文学)。著書に『石橋湛山論 言論と行動』(吉川弘文館)。共著として『近代日本の対外認識Ⅰ』(彩流社)。


キャプチャ  2015年秋号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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