「高齢者は“適当な時に死ぬ義務”を忘れてしまっていませんか?」――作家・曽野綾子が高齢化社会の歪みを斬る

先月24日付の産経新聞1面に掲載された『利己的な年寄りが増えた』というタイトルを見て、大きく頷き、或いは反発を覚えた読者は多かったのではないか。コラムの執筆者は、本誌でエッセイを連載する曽野綾子氏。84歳の現役作家である曽野氏が語る“高齢化社会の歪み”は、日本人に“美しい老い方とは何か”を深く考えさせる。

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産経のコラムで曽野氏は、知人から聞かされた「90代の高齢者がドクターヘリを要請した」というエピソードを切り口に、「何が何でも生き延びようとする利己的な年寄りが増えた」と指摘する。その上で、“年寄りでも若者と同じような医療を要求する権利”を認めながらも、「(それが)できなければ生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」と綴り、「こうしたことは若い世代は言い出せないらしいので、私が代わって言っておくことにした」と結んだ。曽野氏がコラムで指摘するように、“誰もが平等に権利を要求し享受できる世の中”は理想ではあるが、非現実だ。そうした現実の中で、“~し倒す”という言葉の流行に曽野氏は強い嫌悪感を覚えると話す。「私は、こんな日本語を知らなかったんですけど、聞いてみたら『権利を徹底して(その制度が倒れるまで)使い尽くす』という意味なんですってね。何だか浅ましいというか、薄汚い表現ですね。誰か1人がガード下の暗闇でオシッコをすると、皆が平気でするようになるのと似たような心理じゃないんですか。誰もしなければ、ガード下も綺麗なままなんですけどね。結局、自分の美学が無いからそうなるんでしょうね」。特に、高齢者の間に「“~し倒す”ことが当然だ」という風潮が広がっていることを危惧する。「年寄りが社会のお世話になるというのは致し方のないことです。そして、世間の人々も年寄りには手を差し伸べてくれるのです。でも、『世話になって当たり前』ということはないんですね。それは“有難い幸せ”なんです」。一方で、頼ることを全否定する訳ではない。自らの体験を踏まえて語る。「私は足を骨折して2年半ほど後に、カンボジアの地雷処理をするボランティアのお仕事を見学に行ったことがあります。地雷処理をした後ですから、地面は掘り返され、場所に依っては水溜まりができて泥濘んでいる訳です。そうすると、誰かが手を差し伸べてくれます。その“人間ステッキ”に縋って歩くのは、怪我の後では何より楽なんですね。しかし、それに頼ればその方に迷惑ですし、その方の仕事にも支障が出ます。そこで私は、『足元の悪い場所だけ掴まらせて頂く』というルールを作りました。悪路を脱した地点から自分の力で歩く。つまり、道に私の行動を決めてもらうことにしたんです。それならば好意のお世話になることもできて、自立の心も失わずに済むんですね。どちらかに決めると依頼心の塊になったり、逆に人の親切がわからない人になったりしますから。“頼り倒す”のも、あらゆることを拒絶するのもよくない。それらを現世で全部味わうのがいいと思いますね」




“利己的な年寄りが増えた”背景には「日本人の死生観の貧困が関係しているのではないか」と曽野氏は考える。「若しも人間が平等であるとするならば、それを果たしているのは“死”です。誰もが1回ずつ間違いなく死ぬんですから。しかし、日本の教育は死を教えなさ過ぎました。私は1984年から何度か政府の教育に関する会議に出ましたが、その度に『死の準備教育を』と提案しました。でも、一度も取り上げられなかった。そのことを残念だとまでは思いませんし、カリキュラムに入れるべきかどうか扨て置き、『死だけは教える必要がある』とずっと思ってきました。火災の避難訓練や、沈没した大型船からボートで脱出する訓練は、嫌ならしなくてもいいんです。多分、私たちは一生涯ビル火災にも遭わず、沈没船に乗り合わせることもないのですから。でも、死だけは確実なんですね。(戦争を体験した)私は小学生のうちから、否が応でも毎日、死について考える癖を付けられました。何かを悟った訳ではありませんけど、死を1つのゴールとして受け入れる心の態勢ができているんです」。だが、戦後教育では死を考えることはタブーとなった。人が何歳までも生き続けることを医学的に目指すようになり、人が死ぬかもしれない状況を作る政治は“悪政”と見做されて批判される。「アフリカの途上国では、『人は病気に罹ったら死ぬしかない』と多くの人が言っていますよ。医者にかかるお金が無い。幸いお金があったとしても、医療機関は何十kmも離れていて、路線バスも無い。診療所があったとしても、治療できる医者がいない。薬が無い。手術室も無い。手術室があっても電気が無いから、麻酔も滅菌もできない。それが当たり前の世界がある訳です。私が『アフリカから多くを学んだ』というのは、そういうことです。『この日本でそんな状況を考えなくてもいいじゃないか』という意見はあるでしょう。でも、それはやはり“有難い幸せ”なんです。日本だろうとアフリカの途上国だろうと、人は生と同時に死を約束されているんです。だから、常日頃から死を考えて、それに備えてもいいのです。時々は忘れてもいいと思いますけどね(笑)。今は『死を覚悟しましょう』と言うだけで、『戦争を連想させる』とか『貧困を肯定している』とか、或いは『人の命を粗末に考えている』といった批判が出ますが、それが寧ろおかしな状態なのではないかと思いますよ。死は人間の運命であり、人間の生き方なんですから」

「人間には、適当な時に死ぬ義務がある」――。曽野氏は折に触れてそう書いてきた。「義務なんて果たさなくても、人はいつか死ぬんですけどね(笑)。でも、こうも考えるんです。間もなく団塊の世代が老人になって、それでも死なないでいると、どんなに国にお金があっても介護する人手が無くなる。そうすると、老人世代を人為的に始末しなければならなくなる…私は今、そんなテーマの小説を書いているところです。しかし、その小説の中でも、死ぬ義務を全うする“人間”であり続ける人はいるでしょうね。だからといって、私は自殺しようと思っている訳ではありません。それどころか、健康的な粗食を自分で作って、病気をしないで生きていようと思っています。それに、今は未だ少しは人の為にも働ける。そうしたことができなくなった時に、寿命が来て死ぬ。それが一番美しいんじゃないですか」。寿命は長ければ長いほどいい、“下流老人”にはなりたくない――。誰しもそう考えるだろう。だが、だからといって権利を“求め倒し”、医療を“使い倒し”、他人を“頼り倒す”ことは肯定されない。「“寿命”というのはギリシャ語で“ヘリキア”と言いますが、文字通りの寿命の他に2つの意味があります。1つは“身長”、もう1つが“その職業に適した年齢”という意味なんですね。実に興味深いと思いますよ。人は『もっと背が高く生まれれば格好よかったのに』とか、『もうちょっと小柄だったら可愛くてモテたのに』とか考えるものですが、自分で身長の高さは決められません。今は、プロの野球選手も長く現役で活躍できるようになったそうですが、それでも80歳まで現役というのは無理でしょうし、お金を払ってそのプレーを見たいと思う人はいません。しかし、絵描きや物書きなら80歳でも平気です。その職業に適した年齢も、人為的に変更できません。ヘリキア(寿命)とはそういうものであって、そこに人間としての謙虚さが生まれると思うんです。ところが、今は『科学的な操作が可能になればいくらでも生きて、したいことができる』と思っている人がいます。それは傲慢というものです」。その意味で、「“一億総活躍社会”は当然だ」と曽野氏は考える。「年寄りが『いつまでも生きたい』というのであれば、それは『最期の日まで誰かの為に生きたい』という意味の為でありたいですね。嘗ては『途上国の労働人口を移民として受け入れ、その人たちのサービスに頼ればいい』という考えがありましたし、それは実際に可能でした。しかし、今は途上国の生活水準も上がってきているし、子供の数も減っているから、高齢者の面倒は自国内で見なければならない。となれば、国民全員が死ぬまで働かなければならないとなるのは自然で、人道というものでしょう。“下流老人”を苛めているなんてとんでもない。『人は動ける限り働く』というのが健全なんです。『お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に』という“桃太郎”の始まりの部分が、それを示しているじゃないですか。それが人間の暮らしというものですし、“下流”なんてことはありません。生きている者の義務だと思いますよ」


キャプチャ  2016年2月12日号掲載
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