【昭和史大論争】(05) 戦前日本の石油政策、失敗の本質

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玉音放送を聞きながら、日本国民の大多数が茫然自失となったあの日から数ヵ月後、昭和天皇は「日米戦争は油に始まり油で終わった様なものである」との認識を示された(『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』)。確かに、日米開戦へと進む経緯、そしてその後の戦局において、石油はまさに日本の死活を決する資源だった。開戦直前の日本の石油事情を簡単に確認しておこう。当時、平時の石油需要量が約400万キロリットル/年(約7万バレル/日)であった戦前、国産原油は需要量の1割弱しか供給できず、8割ほどをアメリカからの輸入に頼っていた。そのアメリカからの石油輸入が、昭和15(1940)年の夏には“部分許可制”に、翌16(1941)年6月には“全面許可制”となり、遂に8月1日には“全面禁止”となってしまった。石油を中心とした資源確保を目的とした南方進出(南部仏印進駐)は、却ってアメリカからの経済制裁を強化するばかりだった。しかも、“日蘭会商”と呼ばれたオランダ領インドシナからの石油購入のままでは、保有在庫を食い潰すしか方策がなくなる。何れ行き詰まることは明白だったから、まさに“油に始ま”った戦争だったと言える。では、戦前の日本は、この“石油危機”にどのように対応しようと試みたのか。そして、その失敗の源はどこにあったのか。それを探ることは、現代日本のエネルギー安全保障政策の在り方を考えることにも繋がるだろう。

1914年に始まった第1次世界大戦は、石油の戦略的重要性を世界中に知らしめた。自動車に依る兵員や物資の輸送がロジスティックスに新天地を切り開き、戦車の威力は戦場の勢力図を一変させた。海では、イギリスのチャーチル海軍大臣の予見通り、石炭から石油への転換を図った大英艦隊が圧勝する。そして、極めつけは航空機の活躍だった。航空機だけは、石油でなければ飛ばしようがない。こうして、戦略物資としての石油は、この時点で決定的なものとなったのである。第1次世界大戦後、欧米列強が石油利権を巡って激しい攻防を繰り返すようになったのもその為だった。日本でも、こうした変化に敏感だった人物はいた。『日本風景論』(一穂社)で知られる地理学者の志賀重昂は、『知られざる国々』(日本評論社)の中でこう指摘している。「飛行機も、自動車も、内燃汽船も、ガソリン油即ち石油に依らざれば一寸だに行る能はず、即ち石油無き国家は、空気、陸、水に劣敗し、即ち此の地球の上に存在を容さざるに至るべきである」。従って、「“油断国断”なる語を国民の間に徹底せしめることが日本の石油政策の第一の手段である」と。「『石油が無ければ国家として存立し得ない』というのが、冷徹なる現実なのだ」という志賀の指摘は、現代においても同様である。ところが、日本における石油政策は中々進まなかった。石油問題が帝国議会で初めて論議されたのは、大正9(1920)年6月のこと。八八艦隊を巡る燃料油問題が取り上げられたのである。そして翌年、『石油政策に関する調査会』が関係官庁の高官をメンバーとして設立され、論議が行われたが、確たる結論は出なかった。続いて、大正15(1926)年に『燃料調査委員会設置の件』が閣議決定されたが、政策として具体化するのは、昭和8(1933)年の『石油国策実施要項』の決定まで待たねばならなかった。昭和12(1937)年6月には、“国策としての石油政策”を確立し実行する政府組織として、海軍の肝煎りに依って商工省燃料局が設立される。しかし、形の上では総力体制を取りつつも、その実態は各官庁の寄せ集めの域を出ておらず、其々が所属組織の利益最大化に努めただけだった。




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ここまで対応が遅れた理由の1つは、戦前の日本において石油は未だエネルギーの主役ではなかったことにある。例えば、昭和9(1934)年における1次エネルギーの比率は、石炭が63.7%。石油は水力(17.0%)・薪炭(10.0%)よりも低い9.1%に過ぎない。とは言え、国家安全保障の面から石油の確保は急務だった筈である。肝心の軍事部門、殊に海軍はエネルギー政策について、どう考えていたのだろうか。元々、海軍は明治5(1872)年の建軍当初から燃料問題に真剣に取り組んできた。燃料が無ければ艦隊を動かすことができないからだ。自ら石炭鉱山も所有し、経営していたほどである。艦船のパワーは、燃料に依ってまるで違う。日露戦争の勝利を決定付けた日本海海戦で、連合艦隊を動かしていた石炭は国産のものではなかった。国産炭はカロリーの低い亜瀝青炭だった為、炭素分が多くカロリーの高い無煙炭をイギリスから輸入したのである。ここでも、日英同盟は勝利の鍵となった。では、石油についてはどうだったのか。戦前に試みられた石油対策の主だったものとして、樺太・満州等での石油開発や人造石油の製造が挙げられる。しかし、今になって振り返ると、何れももったいない展開となってしまった。例えば海軍が主導し、日本として初めての“海外石油生産”を実現した『北樺太石油』は、その最たるものだろう。大正14(1925)年に締結した『日ソ基本条約』で獲得した石油利権に基づき、海軍が主導して設立した北樺太石油は、翌15(1926)年に生産を開始した。昭和8(1933)年頃にはピークの年間20万トン近くを生産していた。本土での生産量が年間約35~45万トンだったから、その半分に迫る生産量だった。

しかし、この折角の虎の子の油田を、昭和16(1941)年、時の松岡洋右外務大臣は、日ソ中立条約締結の対価の1つとして秘密裏に安価で返還譲渡することを約してしまう。結局、昭和19(1944)年には全ての権利はソビエト連邦のものとなってしまった。同地区で生産を開始したソ連側の生産量を見ると、昭和5(1930)年に10万トン、昭和10(1935)年に24万トン、昭和15(1940)年には50万トン、終戦の昭和20(1945)年に至ると75万トンと順調に増加している。更に、『サハリン石油のあゆみ 探鉱編』(サハリン石油開発)等に依れば、ピーク時の昭和41(1966)年には250万トンが生産され、約70年の累計では1億トンもの石油を産出しているのだ。これほどの油田を放棄してから、「石油が無い、石油が無い」と戦争を始めたことになる。また、陸軍においても、関東軍が中心となって満州で地質調査・探鉱活動を行ったことが、最近になって判明している。しかし、これが上手くいかなかった理由の1つは、調査作業が不十分だったことにある。当時、地下資源の物理探査技術は急速に進歩し、発展していた。だが、関東軍は「軍事機密が漏れる」として、その先端技術を持つアメリカの専門業者の使用を拒否したのである。また、太平洋戦争開戦に依り南進策が実行されると、満州における探鉱作業は中止され、資機材も人材も全て南方に回されてしまう。斯くて、探鉱作業は中途半端な状態で終了してしまった。それどころか、このような探鉱作業を行ったこと自体、関東軍は「軍事機密だ」として表に出そうとしなかったのである。満州では戦後、『大慶油田』『遼河油田』といった中国でも指折りの大油田が発見されたが、これらは何れも戦前に関東軍が調査した地域だった。

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もう1つ、石油対策の“希望の星”だったのが人造石油製造計画だ。しかし、結論から言えば、これは“絵に描いた餅”でしかなかった。人造石油として本命視されていたのは、石炭を液化することだった。しかし、直接液化法・フィッシャー式合成法・低温乾留法等が研究されたが、製造技術として確立しているとは言えなかった。更に大きな問題は、1トンの人造石油を生産する為には約20倍の石炭を必要とすることだった。若し、年間200万トンの人造石油を作ろうとすると、約4000万トンの石炭を使うことになったが、これは、当時の日本本土における石炭生産量の8割近くに相当する量だった。因みに当時、既に満州・撫順における油母頁岩(オイルシェール)から人造石油を製造する技術は確立していたが、こちらも同様の量のオイルシェールを必要とした。従って、人造石油を計画通りに生産する為には、当時、生産されていたよりも多くの石炭が必要となり、その為には長期に亘って満州・北支を領有することが前提条件となる。つまり、液化石炭が実現化しても、燃料問題の解決は困難だったのである。しかし、政府・大本営の幹部たちは、この実現の目途も立っていない人造石油に本気で期待していた節がある。東京帝国大学(現在の東京大学)工学部を卒業し、陸軍で資源問題を担当した高橋健夫中尉は、戦後に書いた『油断の幻影』(時事通信社)の中で以下のようなエピソードを記している。昭和16(1941)年6月、陸軍省資源課の高橋たちは、「アメリカからの石油の輸入が全面禁止になるのは時間の問題だ」と判断した。こうなっては、蘭印の石油を我がものにするしか生き延びる術が無い。“南進論の即実行”を決断してもらおうと、高橋は上司の中村燃料課長について東条英機陸軍大臣の部屋を訪ねたが、東条は「人造石油があるだろう」と慌てる様子もない。中村から人造石油開発が進んでいない現状を説明されると、東条は初めて事の重要性に気が付いたのか、物凄い怒声で2人を叱った。「『泥棒をせい』と言うのか! お前たちが『何とかなる』と言うから、これまでなけなしの資材を割り振ってきたのに、今更『できません』とは何事だ。その上、『困ったから』と泥棒を勧めに来るとは、日本の技術者たちは何をしているのだ!」。しかし陸軍は、東条が「泥棒だ」と言った“南進論”を早くから構想していた。昭和16(1941)年の3月頃から高橋たちは、南方油田を占領したらどの程度の石油を還送できるのかについても検討していたのである。

その“還送油予測”は、以下のような前提に基づいていた(前出『油断の幻影』に依る)。

①占領したとき油田は全面的に破壊されていると判断し、すべて新規に掘削する。
②日本石油が使用している掘削機の60%と、傘下の工場で製造する30台、合計108台の掘削機を南方に持ち込む。
③スマトラの油田周辺ならどこを掘っても必ず油が見つかる。
④108台の掘削機で3ヵ月ごとに新規の井戸を掘る。
⑤日本では井戸1本あたり0.2トン/日の生産量だが、スマトラでは50倍の10トンを産出する。

③⑤に顕著だが、これらは極めて杜撰な前提と言えた。この薄弱な根拠の下に、開戦1年で30万トン、2年目で100万トン、3年目で250万トンの石油確保が可能だとした。昭和16(1941)年11月1日、陸軍・海軍・商工省燃料局、及び企画院の石油関係者たちが集まって、“初めて”の事務局会議を開いた。対米開戦を最終的に決意する為に、石油需給予測が重要だったからである。書記役として出席していた高橋は、自分たちが作成した“予測値”が何の検討・修正もされず、そのまま“陸軍省の案”として黒板に記されていることにびっくりした。更に驚いたことに、海軍の主張に依り、2年目で100万トン、3年目で200万トンが何の根拠も無く上乗せされてしまったのである。先に開戦ありきの数字作りだった。開戦前に行われた『英米合作経済抗戦力調査』や総力戦研究所のシミュレーション、更には『三井物産』ニューヨーク支店に席を置いて陸軍の新庄健吉大佐が行った調査報告でも、対米英戦で勝ち目の無いことは明らかだったが、上層部はその結果を握り潰し続けたのである。抑々、開戦の1ヵ月前になって漸く、陸海軍を始めとする各省の石油関係者が集まったということ自体、“国策”としての石油対策など無かったことが如実に表れている。陸海軍間で、情報共有は一切なされていなかった。例えば、この会議が開かれるまで、陸海軍は互いが保有する石油在庫量も知らなかったのである。この時、明かされた陸軍の石油在庫は120万キロリットル。それに対し、海軍は650万キロリットルを保有していた。毎年の予算から費用を捻出し、営々と石油在庫の積み増しを図ってきた成果だった。平時の国全体の需要量が400万キロリットル/年だったから、陸軍は3.6ヵ月分、海軍は19.5ヵ月分の在庫を持っていたことになる。

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日米開戦後の“石油政策”を一言で言えば、「政策の名に値しない場当たり的な対策に終始した」と言う他ない。皮肉なことに、判断を大きく狂わせたのは、緒戦の予想以上の勝利だった。事を石油だけに限ると、イギリス領ボルネオを占領し、ミリ油田及びルトン製油所を確保、更に続いて落下傘部隊の急襲に依りパレンバン油田地帯を獲得した(また、予想に反して油田の破壊は軽微なものだった)ことが、大本営の幹部たちに「これで石油問題は解決した」との誤った判断を与えてしまったのだ。先にも述べたように、石油開発の人材や資材等も南方に集中投入された。しかし、戦局が進むに連れ、この安易な方針のツケは膨れ上がっていった。最大の問題は輸送である。いくら南方で石油が産出されても、日本まで運べなければ何の意味も無い。しかし、海軍は「商船の護衛は任務外だ」と考えていた。南方からのタンカーは悉く撃沈されてしまい、遂には石油を日本に持ち込めなくなってしまったのである。それに対して当局が打った手は、南方に送り込んだ石油産業関連の人材や機材を呼び戻し、出る筈もない日本国内での油田開発に当たらせることだった。最後に待っていたのは、“松根油”の開発という愚行だった。通常、新製造技術の開発には、研究室での化学的実験・小規模の連続試験・中規模の工業試験・本設計の試験工場での試験等のプロセスが不可欠である。しかし、海軍の技術者たちは、こうした手順を踏むこと無く「200本の松の根で1時間の飛行が可能だ」として、延べ何千万人という国民を動員して日本中の松の根を掘り起こさせようとした。ここに至っては、戦争を続けられる筈もない。まさに、昭和天皇の言の通り、太平洋戦争は「油で終わった」のである。


岩瀬昇(いわせ・のぼる) エネルギーアナリスト・元『三井石油』開発常務。1948年、埼玉県生まれ。東京大学法学部卒業後、『三井物産』に入社。エネルギー関連業務に従事。著書に『石油の“埋蔵量”は誰が決めるのか? エネルギー情報学入門』『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』(共に文春新書)。


キャプチャ  2015年秋号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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