<画像7枚> 渦中の愛人が引退覚悟で全てを語った! 三枝改メ桂文枝直筆の“愛人誓約書”を公開する!

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「大阪市北区の師匠の個人事務所」(紫艶)でイチャつく2人。口説き文句は「俺にはお前が最後の女や」だったとか。

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釈明会見では「殆ど会ったことは無い」と繰り返していたが、今月のLINEで「会えるから」と…。




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紫艶宛てに師匠が書いたとされる誓約書。他にも数通存在し、約束を違えたら「全身の毛を剃ります」と書かれたものも。

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「ここ1~2年以内にカラオケで撮った」(紫艶)という1枚。2人の最初のデートもカラオケだった。

「家族には一番迷惑をかけた。嫁さんは44年間、私の為に贅沢もせず、一所懸命やってくれたのに…。裏切るようなことになってしまって、『本当にあんたは脇が甘いからや』と言われました…」。今月21日夜、桂文枝(72)は『神保町花月』に集まったスポーツ紙記者ら約30人の前で急遽、釈明会見を開いた。師匠は演歌歌手である紫艶(38)との“20年不倫”を否定した上で、家族に対して涙ながらに謝罪の言葉を述べた…のだが、実はその僅か2時間ほど前には満面の笑みを浮かべていたのだ(一番下写真)。「ああいうことをする人ではないので、非常に心配している」と件の会見で“おかしい人”扱いした紫艶宛てに、師匠は“誓約書”を認めていた。本誌はその現物を入手。その真偽を問うたのだが、目を背けたまま会場入り。あろうことか、その後の会見から本誌を締め出したのだった。本誌が取材した限り、彼は高笑いできる状況ではないのだが。

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特製“三枝”便箋に書かれた激励文。サインの“しずりん”は本名の静也が由来。

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ドライブ旅行の最中、後部座席で民謡コント・社長&秘書コントに興じる2人。盛り上がるうち、思わずブチュ!

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右下、本誌記者が差し出しているのが件の“誓約書”だが、師匠は無視して自らプロデュースする『戀する落語会』の会場へ。

「(本誌)発売の2日前、今月17日夜8時過ぎに師匠のケータイに電話したのですが、留守電でした。翌朝8時前に折り返しがあって、師匠は『大変なことになってるんや』と慌てていました。これが最後の電話になりました」。こう打ち明けるのは、演歌歌手の紫艶だ。“師匠”とは、上方落語界の重鎮である桂文枝である。本誌は先週号で、紫艶が18歳の頃から師匠と不倫関係にあることをスクープした。ところが、文枝師匠は報道陣に対し、「彼女とは、2年前に東京の落語会に来て頂いた時にお会いしたのが最後。それ以前も10年から12年ほど会っていない」「娘のような感じで応援していた」と潔白を主張。スポーツ紙やワイドショー等は連日、2人の“20年不倫”を取り上げつつ、紫艶をこう責めた。「とっくに別れていたのに、カネに困って昔の話を売ったのでは?」「師匠に捨てられそうになって、精神的に追い詰められて暴露したのでは?」「売名?」――と。今回、本誌は再び紫艶に取材を試みた。昼夜を問わない取材攻勢や謂れ無きバッシングに疲れ果てたのだろう。「ノーメイクですいません」と言ったきり、暫し沈黙。暫くして、意を決したように語り始めた。「私の実家は兵庫県にあるのですが、小さな町なので、今回の件を受け、変な噂が忽ち広まってしまって…。母は『売名行為だ』とか、色々言われ過ぎて体調を崩し、倒れてしまいました。師匠が家族を大事にされているように、私にも家族があります。師匠は一度、私の実家にいらっしゃったことがあるから、おわかりになると思います」。紫艶は更に、こう語気を強めた。「誤解を解く為、真実をお話し致します。そして、私は芸能界を引退します――」。

「師匠と最後にお会いしたのは2ヵ月前。東京で仕事をする時の定宿である“ホテルニューオータニ”の部屋に呼ばれました。夕食後だったので、夜9時を回っていたと思います。いつもの、ツーベッドルームの広い部屋でした。翌朝、往復のタクシー代を戴いて帰りました。師匠は会見で『最後に会ったのは2年前の落語会の時』と仰っていましたが、事実と違います。去年も新宿の“ルミネtheよしもと”等、色んな劇場に会いに行っています」

――師匠は「10年乃至12年間、全く会ってなかった」とも言っています。
「師匠はただでさえ忙しい方。一方で私も舞台に出演したり、母が体調を崩して関西の実家に帰ったりしていたので、会えない時もありました。ただ、精々2~3ヵ月空くくらいのもの。少なくとも2ヵ月に1回、お会いしていました」

――師匠との不倫は20年間に及んでおり、少なくとも2ヵ月前まで、お二人は男女の関係にあったということですね?
「…はい」

――芸能リポーターの井上公造氏は、「2人は全く連絡を取っていない」と言っていました。両親の大病等で精神的に追い込まれた紫艶が師匠を頼ったが、「相手にされなかった」とも。
「事実と違います。これを見て下さい」


そう言って、紫艶は記者にLINEのやり取りを見せた(上から2枚目写真)。“ひろりん”とは、紫艶の本名である中江ひろ子から付けられた渾名だ。“bunshi”は説明不要だろう。「付き合い始めの頃は、師匠のことを本名の河村静也をモジって“しずりん”って呼んでいたんですが、暫くして“ぱぱりん”に変えました。理由は何だったかな…忘れましたけど」。確かなのは、2人は今月16日の午前中まで、こんなラブラブLINEを送りあっていたということだ。芸能リポーターは一体、何を取材しているのか? しかし、この日の夕方に本誌が紫艶を直撃したことで、“20年不倫”は終わりを迎えた。謝罪会見に師匠が千利休ヘアで登場したのは皮肉である。紫艶に依れば、1999年の『女性セブン』に『東京妻の逆襲』なる記事が出た際に多数のプライベート写真が掲載されて以降、師匠は写真を撮らなくなったという。「飽く迄も、私はそう感じたというだけですけど…。ただ、少ないですが、最近撮った写真もあります」。上から4枚目の写真は、「1~2年前にカラオケで撮ったもの」だという。下から2枚目の写真は、不倫が始まった初期、紫艶が19~20歳の頃に撮られたもの。師匠の弟子と紫艶の知人の4人でドライブする道中、後部座席に並んで座った2人は、カメラの前で堂々と唇を重ねるのだった――。足首に彫られた“34(さんし)”というタトゥーを撫でながら、紫艶が続ける。「東北とか北海道とか、師匠には色々なところに連れて行ってもらいました。師匠はモテるから、何度か他の女性の気配を感じてスネたことがあります。若かったんです…。でもそんな時、師匠は直筆の誓約書を作ってまで私を宥めてくれました…」。上から3枚目の写真が、その“誓約書”である。「師匠には立場があります。色々な方を守る為、不倫を否定したことは理解できます。でも、私にも守るべき家族がある。だから今回、真実を話させて頂きました。そのケジメとして、芸能界を引退します。これで許されるとは思っていませんが、私にできる精一杯の責任の取り方です。釈明会見で師匠が『歌を頑張って』と言って下さった時は心が痛みましたけど…後悔はありません。師匠と出会えたことが、私の人生の宝物だから」。1971年から続く師匠の代名詞的な番組『新婚さんいらっしゃい!』(朝日放送/テレビ朝日系)には、視聴者から多数のクレームが寄せられており、「厳しいご意見も戴いております」(朝日放送広報部)。大御所の20年不倫は、紫艶の引退で収束するのだろうか――。


キャプチャ  2016年3月11日号掲載


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